永遠には長すぎる今日のこと:02

銀八が、「土方十四郎」と言う人間を始めて意識したのは、一年ほど前のことだ。昨年の夏休みが始まる少し前、銀八は旧校舎の現国研究室で惰眠を貪っていた。各教科の独立した研究室は旧校舎にしかないのだが、もう少し大まかな文系、理系の大部屋は新校舎にあり、またそちらの方が明らかに快適なので、ここに入り浸っているのはよほど研究熱心か、あるいは逆にあまりにもやる気がないか、両極端の教師だけである。もちろん、銀八は後者だった。何より、新校舎では煙草が吸えない。生徒であればどうとでも言いくるめられるが、さすがに同僚と言うか先輩と言うか、そういった面々の前でタバコを吸い続ける勇気は銀八にもなかった。とうわけで、銀八は空き時間のほとんどを旧校舎で過ごし、私物化した研究室の隅には、冷蔵庫と電子レンジまで置いている。電気ポットとコーヒーメーカーは以前から置いてあったものの、銀八はコーヒーを飲まないので、ポットはもっぱらココアとカップ麺用だった。午前中の授業を終え、昼休みと空き時間の五現を目一杯自堕落に過ごす銀八は、控え目とは言い難いノックの音で目を覚ます。眠りは深いものの、寝起きの良い銀八は、外していた眼鏡をひっつかんでソファに座り直すと、「開いてるよ」と、ドアの外に声をかけた。生徒か教師かわからないが、まあどちらにしても銀八の態度はそう変わりはしない。
がらり、と滑りの悪い扉をスライドさせて現れたのは、黒髪の男子生徒で、見覚えのないその姿に銀八は軽く首を捻る。さすがに受け持ちの生徒の顔くらいは覚えているから(名前は適当だ)、この生徒と銀八とは特に関係がない筈だ。「失礼します」と言った生徒は、またきちんと扉を閉めて、銀八に歩み寄ってくる。姿勢が良いな、と思った銀八が、知らずに居住まいを正せば、その生徒は銀八が座るソファに持っていた紙を置いて、「ここにサインをお願いします」と言った。
サイン、とうろんな目付きで紙を取りあげた銀八は、それが野球部の合宿申請であることを見てとって、「なんで俺に」と呟く。銀八は、文化祭での部誌発行以外、ほとんど活動がない文芸部の顧問なのだ。「服部先生が休みで、担任に相談したら坂田先生にお願いしろと言われたので」と、黒髪は言った。「担任?誰?」と、銀八が床からボールペンを拾い上げつつ尋ねると、「月詠先生です」と黒髪は答える。あー、となんとなく理解した銀八は、ガリガリとサインを終えて、「次はテメェで書けって月詠先生に言っといて」と、黒髪に書類を返した。
書類を受け取った黒髪が、なんだか感慨深い顔で銀八を見下ろすので、「なに?」と、早く横になりたい銀八が首を捻れば、「いえ、…意外ときれいな字なんですね」と、黒髪は言って、「これはお礼です」と、銀八に二〇〇mlのいちごオレを差し出す。思わず受取ってしまってから、「くれんの」と銀八が言うと、「先生に断られたらこれを渡せばいいと、徳川が教えてくれました」と、黒髪は返した。徳川。「ああ、そよ姫も月詠のクラスか」と、数少ない文芸部員の名に頷いた銀八は、「じゃ、もらっとくわ」と、言いながら飲み口にストローを差す。
それから、「これ自腹?」と銀八が尋ねれば、「…自腹?」と、黒髪が鸚鵡返しで問い返すので、「部費とかじゃねえの、ってこと。まあそうじゃねえみてぇだし、飲みたかったらココアでも飲んでけ」と、銀八は冷蔵庫脇のワゴンに置いたポットとココアの袋を差した。それまで真面目な顔をしていた黒髪は、そこでふっと唇に笑みを上らせて、「ほんとに甘いもの好きなんだな」と、独り言のように言う。「それもそよ姫情報か?」と、いちごオレを吸いこみながら銀八が尋ねれば、「いえ、有名な話です」と、黒髪は首を振り、「せっかくですけど、俺はいりません」とココアも辞退した。野球部員だから節制してるんだろうか、と、自制からほど遠い生活をする銀八が目を細める間に、「失礼します」と黒髪は研究室を出て行き、「おう、またな」と何の気なく手を振った銀八は、扉が閉まってようやく、名前も聞かなかったことに気付く。別にいいんだけど、と思いつつ、購買の自販機で七十円のいちごオレを飲み干した銀八は、またすぐ眠りに落ちた。
銀八が黒髪の名を知ったのは、週をまたいだ月曜日のことだった。廊下で全蔵に呼び止められた銀八は、「この間は助かった」と言われてもそれが何なのか思い出せなかったのだが、「合宿の書類な、俺も部長も忘れてて、二年のエースが全部やってくれたんだよ。お前もサインしてくれてありがとな」と、続いた言葉に、「あいつエースなんだ」と返す。「まあな。うちにはもったいないくらいの選手なんだよ、土方は」と答えた全蔵に、「土方って言うのか」と、銀八が間の抜けたことを言えば、「お前さあ、たまには壮行会にも顔出せよ。土方、毎回部長と二人で挨拶してんだけど」と、全蔵は呆れ顔を作った。「あー、気が向いたらな」と、適当に答えた銀八は、「夏の大会も頑張れよ」と全蔵の肩を叩いた。

銀八が次に土方を見とめたのは、夏休み明けの旧校舎の入り口だった。夏の間に野球部が敗退したことは銀八も知っていて(全蔵のやけ酒に付き合わされたのだ)、だから放課後のこんな時間に土方が部活に行っていなくてもそう驚きはしないのだが、なぜここにいるかの答えにはならない。窓枠によりかかる土方は、休み前よりも少し痩せているような気がした。もう帰るところだった銀八は、少しばかり考えた挙句、「最終下校時刻になんぞ」と、土方の背中に声をかける。とたんに面白いほど土方の肩が跳ねて、勢い良く振りむいた顔が焦っているので、「まあ、嘘だけど」と、銀八は使われていない下駄箱の上の時計を差した。
「…坂田先生」と、どこか安堵したように息を吐いた土方が、「もう帰ります」と足元の鞄を拾い上げながら行ってしまおうとするので、「お前今日暇?」と銀八はまたその背中にぶつける。「用事はありませんけど」と、振り返らずに言う土方を追い越しながら、「チャリ通?徒歩?電車?」と銀八が重ねれば、「電車です」と、土方は怪訝そうに、それでも素直に答えた。
「ん、じゃ家まで送ってやるから、飯食いに行くぞ」と、勝手に使っている下駄箱につっかけをしまいこみながら銀八が言うと、「いや、意味がわかりません」と、靴下のまま土方は言う。「腹減ってねえの?」と、首を傾げた銀八に、「先生と飯を食いに行く理由がないって言ってるんです、それに送ってもらう義理も無いです」と、土方が眉間に皺を寄せるので、「俺、お前らのおかげで服部先生に結構奢ってもらったんだわ。そのお返し」と、タダ酒だったやけ酒を思い出しつつ銀八は答えた。しん、と静まり返った夕暮れの校舎で、銀八は土方の返事を待つ。やがて、「教師が生徒個人に肩入れしていいんですか?」と聞こえた土方の声に、僅かながら笑いがこもっているので、「お前だっていちご牛乳くれただろ」と、銀八も笑った。七十円のいちごオレだった。
「ただ俺も今そんな手持ちがねーから、ラーメンか牛丼かファミレスな」と、銀八が自宅までの数件を上げれば、「俺魚食いたいです」と、入口に揃えてあった靴を履きながら土方は言う。「じゃ大戸屋で」と頷いた銀八は、「バイク回してくるから、そこにいろよ」と言い置いて、裏の駐車場に急いだ。座席を上げて、予備のヘルメットを出したところで、「良く人を乗せて走るんですか」と、土方の声が聞こえるので、「お前ね、待ってろって言ったじゃん」と、銀八は土方にヘルメットを放る。「こっちの方が出口近いし」と、ヘルメットをかぶった土方が、顎のあたりでもたついているのを、手を伸ばして止めてやりながら、「裏口から出るんだよ、正面からだと目立つから」と、銀八は返した。「坂田先生でもそう言うの気にするんだな」と、意外そうな土方の口調が砕けているので、「俺ってどんなふうに見られてんの?」と、銀八は苦笑する。大戸屋まで、バイクで六分だった。

「へえ、お前剣道してんだ」と、煮込みハンバーグを頬張りながら言った銀八が、「じゃ、なんで剣道部に入らなかったんだ?沖田とか近藤とか、強いぞうちの剣道部」と、続ければ、「知ってる」と、塩麹漬の焼き鮭をほぐしながら土方は返す。
「二人とも同じ道場だから、強いのは知ってるし、誘われもしましたけど、…高校野球をしてみたかったんです」と、軽く目を反らした土方の頬が微妙に赤いので、「ちょっとわかるわ」と、銀八は頷いた。夏の、甲子園球場のイメージは、ほとんど興味の無い銀八にも印象深い。「なら、剣道での試合には出られないんだな」と、銀八が尋ねると、土方は頷いて、「野球部の練習があるから」と答えた。「それでも道場には通うのか」と、味噌汁を啜った銀八に、「剣道は続けて行きたいです」と、土方は言う。試合には出られなくとも、昇段試験は受けることが出来るから、と。「すごいなお前、青春だな」と、嫌味でもなく銀八が告げれば、土方は一瞬虚を突かれたような顔をして、「…いや、先生剣道で国体行ったことあるくせに」と、ごく小さい声で言った。
「なんで知ってんの」と、銀八が額を抑えると、「全蔵先生から聞きました」と、土方が答えるので、「あの切れ痔教師が」と、銀八は毒吐く。「本当だったんですね」と、どこか嬉しそうな土方に、「個人で一回だけな、結局決勝で負けたし、団体ではボロ負けだったし」と、銀八が手を振れば、「日本で二番目に強い男子だったんですか」と、土方がただでさえ三白眼の目をさらに見開くので、失敗した、と銀八は口元を押さえた。「先生こそ、なんで剣道部の顧問じゃないんですか」と、重ねた土方に、「もう止めたから」と、銀八は返す。剣道は嫌いではなかった。恩師もいたし、国体入賞のおかげで条件に合う大学へと特待生扱いで入学する事もできた。でも、それだけだ。大学四年間でそれなりの成績を修めたことで満足し、すっぱり剣道からは足を洗っている。進学の関係で地元から離れた高校に赴任したこともあり、銀八の過去の栄光を知る者も少ない。全蔵にはうっかり銀八が口を滑らせたので、自業自得だったが。
野球部全員が知ってるとしたら少し面倒だな、と死んだ魚の様な眼で小鉢を突いた銀八に、「…嫌な話題なら止めます」と、土方が心なしか肩を落とすので、「別に嫌じゃねーよ、竹刀の感触とか、道着の匂いとか、懐かしいしな。お前らの道場にもファブリーズって置いてある?」と銀八が水を向ければ、「詰め替え用も含めてごっそりあります」と、土方は答えた。それから、「剣道が嫌いで止めたわけじゃないんだな」と、遠慮がちに土方が言うので、「ああ、違う」と、銀八は頷いた。
そこでなぜかひどく嬉しそうな顔をした土方が、思い切りよく味噌汁を飲んでひどく咽るので、「何してんだよ」とおしぼりを手渡した銀八は、通りがかった店員に水を頼む。やがて届いた無色透明な液体をごくりと飲んだ土方は、さらにひどくせき込んで、「先生これ、水じゃねえ」と喘ぐように言った。え、とコップの中身を嗅いだ銀八は、「酒じゃねえか」と顔色を変える。もう一度店員を呼び止め、すったもんだの挙句どうやら二つ後ろの席と注文が錯綜したらしい、と結論が出て、謝罪の上飲食代金がタダになった銀八は、土方を抱えて自宅に帰ることになった。
ぐったりした土方をバイクから下ろしながら、「お前アルコールダメなの?」と銀八が尋ねれば、「知らねえ、初めて飲んだ」と、土方はずいぶん可愛らしいことを言う。ああそう、と頷いた銀八が、「とりあえず今夜は泊ってけ、それで帰せねえから」と言えば、「電話」と、土方は携帯を出した。自宅に電話を掛けさせて、少しばかり呂律の怪しい土方が話を繋いだ後、通話を替わった銀八は、酒のことは伏せて具合が悪くなったので一晩自宅に泊める、と言うことを説明する。迎えに行く、とも言われたが、そこは国語教師としての腕の見せどころで、なんとか煙に巻いた。
途中で、銀八が土方の腕を突き、「お前、名前は?土方、なに?」と尋ねれば、「十四郎」と、返ってくるので、「はい、ええ。ええ、十四郎くんにはいつも助けられていますので。はい、明日の朝また電話させます。はい、失礼します」と、銀八は続けて、二つ折りの携帯をかちんと閉じると、土方に渡す。何か言いたげな目をする土方に、「しょうがねえだろ、俺お前と接点ないし、下の名前まで知らねえよ。お前だってそうだろ」と、なんとなく後ろめたくなった銀八が言い訳のように言えば、「知ってる」と土方は言った。
「知ってる。銀八だろ」と、囁くように言った土方が、そのまま銀八に倒れ込むので、ほとんど上背の変わらない身体を抱きとめた銀八は、また苦労して錆ついたアパートの階段を登る。鍵を開けて、玄関とも呼べない靴脱ぎ場で自分の靴だけ脱いだ銀八は、板張りの台所を抜けて、六畳の和室に踏み込んだ。朝畳み忘れた布団に土方を置いて、両足から靴を抜いた銀八が、「おい、水飲めるか。大丈夫か」と土方の頬を叩けば、「煙草の匂いがしない」と、土方は薄く目を開ける。「ここ木造だからな。ベランダで吸うんだよ」と、答えた銀八に、土方は緩く口を開いて、目を閉じた。なんだよ、と思った銀八は、それこそ何を思ったのか、その薄い唇にそっと唇を重ねてしまった。たっぷり三秒そうしてから、「…あれっ?」と銀八が首を傾げるのと、土方が目を開けるのとは、ほとんど同時だった。
「先生、今何か」と言いかける土方から離れて、「水飲んで、寝ろよ。服脱げるか?脱がしてやろうか」と銀八が手を広げると、「脱げます」と土方はよろよろ起き上がる。土方が脱ぐ間に、銀八は押し入れからよれているものの洗ってはあるTシャツとスウェット素材の短パンを出して、布団に放った。それから、四畳の台所で水を飲んだ銀八は、土方の為にも水を汲んで、ついでにシンク脇の引き出しから二日酔いの薬を出して和室に戻る。着替え終わった土方が、制服を畳んでいるので、「洗濯するし、ズボンも干しとくからほっとけよ。で、水と薬な」と、銀八は言った。
土方を布団に寝かせた銀八は、土方にトイレの場所を教えてから、土方の着ていた物とついでに自分の服も洗濯機に放り込んで、その間にシャワーを浴びる。当然シャワーの方が早いので、すすぎに変わる前の洗濯機に、そう汚れてもいないバスタオルもぶち込んだ。土方に貸したものと代わり映えのしない寝巻を着て、銀八が和室に入ると、土方はまだ目を開けている。「なに、寝らんねえの」と、銀八が屈みこめば、「胸のあたりがぐるぐるして、目の奥が回るような」と、土方は掠れ声で言った。「あれ日本酒だったからな」と、銀八が土方の額に手を当てると、「先生の手は熱いな」と、土方は笑うように眼を閉じる。
そこでまた銀八が唇を落とせば、「…さっきからなんなんだ」と、目を閉じたまま土方は言った。今度は五秒置いて、「具合が悪い時のお呪い」と銀八が答えれば、「だったらさっきの『あれ?』ってなんだよ」と、土方は片肘を付いて身体を起こす。「いや、今まで身内にしかしたこと無かったから」と、銀八が返すと、「…ずいぶん前衛的な家庭で育ったんだな」と、土方がわりと信じているようなので、「嘘に決まってんだろ」と、銀八は首を振った。「はぁ?」と、今度こそ眉間にしわを寄せた土方に、「お前がさんざんキス待ち顔をするからだ」と言い置いた銀八は、家具調こたつの上から煙草を取って、ベランダに出る。ほとんど風もない夜だ。隅に置いてあるライターで火を付けて、灰皿を抱えた銀八の指から、背後に立った土方が煙草を抜いていく。
「酒は飲めねえのに煙草は吸えるんだな」と、面白そうな顔をした銀八に、「関係ねえだろ」と土方は言って、銀八の唇に煙草を返した。「とりあえず、酒の勢いでしとくか?」と、銀八が尋ねれば、「何をだよ」と土方が返すので、「キスを」と、銀八はもう一度土方の唇を塞ぐ。土方は目を閉じなかった。畳に座布団で寝転がった銀八と、布団に戻った土方は、それきり朝まで口を利かなかった。

何がどう転がったかはわからないが、それから土方はたまに銀八の研究室にやって来ては、銀八にいちごオレを手渡すようになった。ときどきは銀八が吸う煙草を奪い取り、ときどきは銀八に教科書の中身を尋ねた。銀八はどれもたいして気にしなかった。そんなことが
五回ばかり続き、五度目にやってきた土方へ、銀八はインスタントコーヒーの瓶を手渡した。三百九十八円のそれは、七十円のいちごオレ五回分の対価のつもりだったが、土方はその場で踵を返して、五分後に戻ってくると、銀八にポッキーを二箱押し付けた。それからは、いちごオレを啜る銀八の隣で、土方もコーヒーを飲むようになった。夏が終わって秋になり、文化祭当日も、銀八は新校舎の喧騒を離れて、旧校舎に引きこもっていた。とはいえ、旧校舎の空き教室も各クラスの準備室や更衣室に使われているので、普段よりはよほど騒がしい。早く終わらねえかな、と教師としては至極まっとうなことを考えた銀八は、今日もやってきた土方に軽く手を上げたものの、土方がいちごオレ以外に持っているものを見て煙草を取り落としかけた。
「お前、それ」と銀八が指したのは文芸部の部誌で、たしか今年は二〇〇円で頒布しているものだ。「先生も書いてるって聞いたから買いました」と、あっさり答えた土方に、「いや、買うなよ。そういうの止めろ」と、銀八が指を伸ばせば、「何か恥ずかしいことでも書いてるんですか?」と土方は首を捻る。書いてんだよ、とは言いづらくて、「…感想とか絶対言うなよ」と銀八が目をそらせば、「いや、もう読んできたから言います」と、あっさり土方は答えた。目を見開いた銀八に一歩近づいて、いちごオレを膝に落とした土方は、ゆるりと口を開いていった。

「俺も好きです、先生」

まあその部誌に寄稿したものが四頁ほどの短編小説で、その中身が片思いの相手にコーヒーを淹れてやり、眠った唇を奪うような恋の話だったので、土方に読まれてわからないわけは無かったのだが、本当に読まれるとは思っていなかったのでその場で死のうかとも思ったことも確かだった。ともかくそういうわけで、ほとんど一目惚れだった銀八の恋は奇跡的に実り、そこから土方とのお付き合いが始まった。土方用の携帯を用意したのも、それからすぐのことだ。
冬まで一応健全だった二人の仲は、大晦日の夜にやってきた土方の顔があまりにも情けなかったことでなし崩しになり、除夜の鐘を聞きながらめでたく煩悩まみれの年越しを迎えることになった。姫初めまでついでに済ませて、初詣と称して家を抜けてきたらしい土方をアパートの入口で見送った銀八は、デリヘルがサンプルで置いて行ったどぎつい色のローションとろくでもない味のコンドームに感謝しながら階段を上り、イカ臭い布団で眠り直した。正直、死ぬほど尻の穴は痛かった。
バレンタインにはいつものいちごオレがココアとチョコレート菓子に代わり、土方よりも少しばかり長く生きて心臓に毛が生えている銀八は、デパートの催事場で女子に囲まれながら銀八の口にも合うような高いビターチョコを買い求め、ラッピングまでしてもらって渡した。どこからどう見ても本命チョコ以外の何物でもないそれに、土方は一瞬固まって、チョコレートを置いたまま出て行き、五分後に紙袋いっぱいのチョコレートを持ち帰って銀八に献上した。「これ全部食っていいから、あとホワイトデーにはちゃんとしたもん返すから」と、開き気味の瞳孔で土方が言うので、「お前モテんのな」と、色とりどりのチョコレートを見下ろしながら銀八は笑った。でもたぶん、銀八のチョコレートが一番高価だった。
そうして二月が終わり、三月に飴細工のバラを贈られた銀八は、春休みに「来年度は良いことがあるぞ」と土方に告げる。四月にクラス分けと担任を確認した土方が、研究室で事に及ぼうとしたので、さすがにそれは殴って止めた。せめて鍵のかかる場所にして欲しい。トイレの個室とか。五月五日、合宿中の土方に「おめでとう」と電話を掛ければ、合宿明けにそのまま土方が泊まりに来て、翌翌日は二人で遅刻しそうになった。何度か銀八の家で酒を飲み、日本酒以外でなら土方もある程度は潰れないことがわかった。ただ、銀八もそれほど強くないので、酒を飲んだ後はお互いうまく勃起できなくてもどかしい思いをした。
梅雨の間はグラウンドが使えないので、会う時間も少しだけ増えた。残念ながら、七月の時点で土方の野球部としての夏は終わり、それからはもっと増えるかと思いきや、今度は土方が剣道に身を入れ始めたので、あまり変らなかった。そして夏休み前、「夏の間は受験勉強と昇段試験の準備に専念したい」と言った土方に、銀八は何も言えなかった。担任になって知った土方の成績は随分良かったものの、この夏が勝負だと言うのは確かで、「適度にガス抜きはしろよ」と辛うじてほほ笑んだ銀八に、「近藤さんと総悟にも同じことを言われた」と、土方も笑った。一緒にするな、と言いたかったが、さすがに銀八も空気は読んだ。長い長い夏休みの始まりだった。


( 3Z / 土方十四郎×坂田銀八 / R-18 / 130826)  ←前の話  続き→