永遠には長すぎる今日のこと:01

暦の上では夏休みのことだった。高校教師、しかも三年生の担任である銀八に、本当の意味での夏休みなどと言うものは無いに等しく、クソ暑い中毎日学校へ通い、同じくうんざりした顔の生徒たちに夏期講習と言う名の地獄を見せ続けて、もう三週間になる。八月の第二週までが銀八の持ち回りなので、週末からはやっと一息つけるのだが、それでも休暇前の進路調査と生徒の成績を照らし合わせたり、各大学や専門学校へ資料請求をしたり、はたまた夏休みに歯目を外した連中を引き取りに行ったり、雑事は果てしない。学生時代は毎年待ち遠しくて短かった筈の夏が、ひたすら長くなってからもう何年になるだろう。今年は特に、秋を待ち望む理由もあるし。
なんとなく感傷的になって、ヤニ臭い現国の研究室でいちごオレのパックに口を付けた銀八は、白衣の胸ポケットからほとんど鳴らない携帯を摘まみあげる。数世代前の、古い二つ折りのものだ。通話とメール以外の機能はアラームくらいしか使えない。普段使っているものは一応スマホなので、これは私用、と言うよりは、対個人用のホットラインである。頻繁に連絡があるから用意したのではなく、むしろその逆だからこそ必要なものだった。メールや通話記録が他に紛れてしまわないように。実際、最後に連絡があったのは五日前の夜である。眠そうな声で、塾が面倒だ、田舎に帰りたくない、早く顔が見たい、などと数分だけ会話して、一方的に通話は途切れた。その数分を銀八がどれだけ噛みしめているかなど、相手には決して伝わりはしないし、また伝わってしまっても困る。何しろ電話の相手は、銀八の教え子なのだから。
そっと携帯をなぞったところで、不意にバイブが作動するので、銀八は思わず携帯を取り落としかけ、どうにか開いて耳に押し当てる。『先生?』と、ごく小さな声が耳朶を伝わって、ぞくりと背筋を震わせた銀八は、「おう、どした」と、何でもない声を作った。ぎしりと古い椅子の背を軋ませて、銀八は少しばかり居住まいを正す。『どうもしねーけど、…毎日暑ィなって』と、電話の向こうの声が絶妙に掠れるので、「ははは、でもそっちはまだマシなんだろ?こっちは三十四度だぞ」と、田舎に帰っている筈の相手に笑いかければ、『知ってる。さすがに受験生だから、もう家だ』と、相手も薄く笑った。そうなんだ、と呟いた声がずいぶん熱を持っていた気がして、銀八はそれを打ち消すように、「ちゃんと勉強してんのか?夏は残念だったけど、お前なら推薦で結構どこでも行けるぞ」と、気の無いことを言う。『せっかくだから、実力で上を目指して見てェ』と返す声はどこまでも伸びやかで、「そっか」と頷いた銀八は、「なら、俺も協力は惜しまねーよ」と、心の底から告げた。
一瞬間を開けて、『それは担任としてか?それとも、恋人として?』と、やけに深刻な声で相手が囁くので、「どっちもだよ」と、辛うじて上擦らなかった声で銀八は答える。よし良くやった俺、帰りにプリン買って帰っていいぞ、と馬鹿みたいなことを思った銀八は、『だったら、今日、行っていいか』と続いた声に、「へっ?」と、やはり馬鹿みたいな声を上げてしまった。「行くって…学校に?」と、まだ明るいものの、少しずつ傾きかけた太陽を見上げた銀八へ、『馬鹿、学校でどうすんだよ。いやそれも悪くねえけど、お前の家だよ』と、呆れを含んだ声で相手が言うので、「えっ…いやでも、お前が言ったんだろ土方、夏休みは会わねえって」と、混乱しながら銀八は返す。『そうだけど』と、ごく軽い声で土方は言った。『でも、やっぱり我慢できなかった』と、土方が囁く音は銀八の耳からあっという間に全身へと回り、銀八はごくりと息をのむ。
「あと、二週間だろ」と、銀八は何でもない調子を作りたかったのだが、二週間を誰よりも長く思っているのは銀八なので、うまくいかなかった。『ダメか?』と畳みこむ土方に、「お前はそんな簡単に自分の意志を曲げるような奴じゃねえだろうが」と、それでもぎりぎりの理性で銀八が首を振れば、『…夏期講習に、成績の上限があるとは思わなかったんだよ…』と、土方は拗ねたように言う。お前それ、と口元を押さえた銀八は、「…だってお前、現国充分得意だろ」と、後ろめたそうに言った。普段はそんなものを設けはしないのだが、銀八の補習は妙な人気があり、今年の夏は成績上位者の申し込みを断っている。その中に、土方の名前があったことも当然覚えている銀八は、「なに、講習で顔を合わせるだろうから、他では会わなくても大丈夫って、そう言う話だったの?」と、少しばかり意地の悪い声で問いかけた。『悪かったな、意志が弱くて』と、沈んだ声を返した土方に、「いや?むしろ、俺ばっかり会いたいんじゃなくて良かったわ」と、銀八はストレートに告げる。
「せっかく最初で最後の夏休みなのによ、一切会わずに終わらせるって、お前すげえなって思ってたから、ほんと良かったよ」と、銀八が重ねれば、『なら、行っていいんだな』と、土方がほっとしたように言うので、「シャワー浴びて待ってる」と、銀八はニヤつきながら答えた。でも、『シャワーは無理じゃねえかな』と、土方が呟くのと同時に、研究室のドアが軽くノックされ、「悪い、一旦切る…」と言いかけた銀八の目の前で、がらりと開いたドアの向こうには土方が立っている。『来ちゃった』と、不遜な顔で笑った土方の声がステレオで聞こえて、「…学校じゃないって言ったじゃん」と、銀八は携帯を閉じた。後ろ手にドアを閉めた土方が大きく腕を開くので、迷わず土方を抱きしめた銀八は、そのまま顔を近づけてくる土方に、「俺、今顔も洗ってないんだけど」と、少しだけ照れて見せたものの、「今さら気にしねえよ」と、土方は男前である。柔らかく重なった唇の感触に、銀八がわずかに唇を開けば、すぐに土方の舌がねじこまれて、銀八は鼻にかかった声を上げた。常日頃からカーテンを閉め切って生活しているのは何もこんなことの為ではないのだが、こんなときばかりは自身の自堕落な生活習慣に感謝したくなる。存分に銀八の咥内をかき混ぜた後で、「相変わらず甘いな」と、土方が言うので、「いつものいちごオレだよ」と、銀八は答えて、唾液で濡れる土方の唇を白衣の袖で拭った。

帰る準備をするから少しだけ待ってろ、と言いながら散らかったソファの上からばらばら物を落とし、そこに土方を座らせた銀八は、飲み終わったいちごオレのパックを溢れそうなゴミ箱に放り込み、今日回収したプリントを乱雑にまとめて引き出しにいれ、財布と携帯とバイクの鍵を掴むと、最後に白衣を脱いで、「お待たせ」と土方に向き直る。「んなに急がなくても、ちゃんと待ってるって」と、肩をすくめた土方に、「俺が待てねえんだよ」と銀八は囁いた。「言ってろ」と軽く笑った土方が、いつものバッグ以外に紙袋を二つ下げているので、「何持って来たんだ」と、銀八は首を捻る。「こっちは土産、こっちは浴衣」と答えた土方に、「…浴衣?」と銀八が眉を潜めれば、「あわよくば、明日の花火大会を見に行きたいと思いまして」と、土方はうたうように言った。「お前ねえ、そういうのはもっと早く言いなさいよ。俺が他に予定立ててたり、誰かと行く気だったりしたらどうすんの」と、銀八は呆れ声を作ってみたが、「他はともかく、花火大会に行く相手が他に居るんなら、先生は俺と付き合ったりしてねえよ」と、返す土方の言葉があまりに的確なので、「俺だって地元に帰りゃツレくらいいる…」と、銀八は負け惜しみを言う。土方は、「でも今年は帰らずにいてくれるんだろ」と、当たり前の様な顔で銀八のシャツを引いた。


( 3Z / 土方十四郎×坂田銀八 / R-18 / 130826)    続き→