終 焉 の 幕 開 け



海馬にとっては随分長い時間が過ぎた後、城之内はようやく海馬から目を反らして眼鏡を外した。用済みになった眼鏡は海馬の手に戻されることなく、城之内がローテーブルに放ってしまった。もちろん海馬が手を伸ばせば届く距離だ。けれどもそのためには膝の上にいる城之内をどうにかしなければならない。払い落とすことも、いっそ抱き上げることも簡単だったか、海馬にはどちらも選べなかった。声を掛けることもできないというのに。現状維持を貫いた海馬の膝の上に、城之内は腕を組んで顎を乗せた。三年前は当たり前だった接触に、けれどもそれが城之内からもたらされているという状況に付いていけそうもない。重ねた海馬の手に指を絡めることすらなかった城之内が。息が止まりそうだと海馬は思う。いっそ止まってしまったっていい。城之内の目の前でならそれはきっと幸せなことだろう。海馬はそこまで行ってしまっている。三年前に、もう。

「なあ」

城之内は薄い唇を開く。そこから覗く、どう考えても成長過程で栄養状態に問題のあった城之内の歯があまりにも整っているので、海馬はそれだけで欲情できたことを思い出す。思い出すまでもない、忘れたことなど一度もなかった。海馬は城之内のことを全て覚えている。いくらでも反芻できる。三年間に意味などなかったことは、薄い色の扉に寄りかかった城之内を一目見た瞬間からもうわかっている。海馬には城之内が必要だった。城之内には必要のない海馬が、だからとても腹立たしかった。しっかり詰まった(と、いつも海馬が思う)城之内の口内はいつまでも赤く艶かしく海馬の視覚を捉えている。

「ここで何してる?」
「普通のことだ。朝起きて、大学に行って、研究をして、天気のいい日は買い物に行く」
「友達いる?」
「いないこともない」
「モクバとはどうしてる」
「向こうも忙しいからな、たまに電話する程度だ」

城之内は他愛ない質問を繰り返した。蜂蜜色の瞳で、薄い唇と整った歯と赤い舌で、細い顎としっかりした首で、金色の髪で、きっと今でも白くも柔らかくもない掌で、海馬の膝の上で。まるで台詞を読み上げているようだ、と全てに答えながら海馬は思う。城之内にとっては何の意味もないはずの質問を、全て城之内に返したかった。海馬が聞きたかった。海馬の知らない三年間を、それより長い18年間を、城之内が何をして生きてきたか全て知りたかった。もちろん海馬は18年を知っている。最初に全部調べたからだ。誰も知らない城之内を海馬は知っている。けれども、海馬は城之内が知る城之内だけはひとかけらも知らなかった。海馬が聞かなかった。聞けなかった。一言も。嘘でも、綺麗事でも、隠し事でも、海馬にはそれが城之内の真実だった。城之内の語りたい城之内を知りたかった。そうして海馬の中の城之内を塗り替えてしまいたかった。だって愛していた。愛している。何者にも換えがたいものだった。

「なあ」

いつの間にか海馬への、矢継ぎ早だった城之内の質問は止まっていた。組んだ指を解いて背筋を伸ばした城の内は、膝を立てて海馬と目線を揃えた。三年間の間に少しだけ縮んだ海馬と城之内の身長差は、短くなった城之内の襟足は、柔らかくなった城之内の線は、海馬と城之内の距離をどうしたいのかわからなかった。繋がってもひとつにはなれなかった三年前の海馬と城之内を、三年後の城之内はどうするのだろうか。城之内がいなくても生きていた海馬を、生きているだけでは意味がないといった城之内が、どうにかしてくれるのだろうか。緩やかに動く城之内の指が海馬の目尻に触れる。城之内の指は海馬の目尻から米神を伝って、そのまま顎までゆっくりなぞった。それは三年前に海馬が城之内に好んで施した仕草だった。そのまま「なあ」と城之内はもう一度言った。

「お前は、俺に、聞きたいことはないの」

城之内は緩やかな動きに合わせるようにことさら丁寧に言葉を紡いだ。まるで緊張しているようだ、と海馬は初めての感想を城之内に覚えた。初めて身体を重ねたときも、同居をはじめたときも、暴力を続けたときも、一度も感じたことがなかったのに。

「お前はどうしてここに来たんだ」

海馬の口をついた言葉はそれだけだった。海馬が一番聞きたいことはこんなことではなかった。そんなことを知りたくなかった。突きつけられるものが希望でも絶望でも、城之内自身から齎されるのでない限り海馬には何の意味もなかった。けれども海馬の言葉はもうずっと前から海馬の為に機能していなかった。海馬も城之内も裏切っている。蜂蜜色の城之内の目が海馬の碧い目をまっすぐ捉えている。取り消すことは出来なかった。海馬はもうはじめてしまった。今度こそ、終わりが来るのだろう。
三年前にできなかった終わりが。









終わりにしよう、とも言えなかった。海馬がすこしばかり仕事で城之内を放っておいたら、いつの間にか城之内は住み込みで就職を決め、海馬のマンションから出て行っていた。海馬が渡した携帯も、好きに使っていいといったクレジットも、家電も海馬も置き去りだった。居場所はすぐに知れた。調べるまでもなく、モクバが知っていた。新しい職場も、住所も、携帯のアドレスも、全部。呆然としていたら携帯が鳴った。メールだった。登録はされていない、けれども海馬が知っているアドレスからだった。宛先は数人、件名は無し、中身は「城之内です。アドレスが変わりました。登録をお願いします」、それから電話番号とメールアドレス。他人行儀な中身などまるで嬉しくはなかった。そのまま電話を掛けようとして思いとどまったのはモクバの目の前にいたからだ。何を口にするかわからなかった。詰るのか縋るのかもわからなかった。

どういうつもりだ、と聞きたかった。けれども海馬にそれを尋ねる権利がなかった。聞き返されて答えることもできない。城之内の都合を考えたことがなかった。逆はいつだってーーー、違う、何も求められたことがなかった。欲しがる前に与えた。望みだと思うものすべて。父親の更生、いつでも明るい部屋、三食困らない生活。驚くほど望みの少ない城之内のすべて。海馬がいなければ生きていけないと言って欲しかった。そんなことがあるはずないのに。城之内と海馬の間には、確かに何の約束もなかった。ずっとここにいて欲しいとも、出て行くなとも言った覚えはない。金がないならここにいろと言っただけだ。ひとりで生きていく目処がついたから、出て行く。城之内にとってはそれが当たり前のことだろう。何の相談も無しにつれてきた海馬が、何か相談して欲しいというのはあまりにも傲慢だった。それでも海馬は城之内に求めたかった。甘えていた。赦されていた。この空間を失くしたくなかった。でももう無くなってしまったのだ。いまさらどうにもならなかった。追いかけて取り戻すわけには行かなかった。城之内がそれを望まないことを、そして城之内がそれを拒絶することを、海馬は最初からちゃんと知っていた。理由のないことが嫌いだった。海馬も同じだった。けれども、海馬の理由を城之内に理解しろということは出来なかった。どうしてもできなかった。

城之内のいないマンションで数日過ごした。そこここに残る城之内の跡をひとつずつなぞって、どうしても手放せないことを思い知った。海馬はリアリストだ。だからこそ、非現実的な思考に逃げることも出来なかった。海馬の望む幸せと城之内の作る幸せは違うことがわかっていた。海馬の望むことを強いることはできなかった。城之内が海馬に依存しないように、海馬は城之内に依存していなかった。異常なくらい海馬は冷静だった。冷静に、城之内を愛していた。愛しているからできることと、愛しているから出来ないことが共存できることが海馬自身にもいっそ不思議だった。

取り返しのつくこととつかないことの境目が海馬にはわからなかった。どうすればいいのかもわからなかった。壊さずにいる選択肢を選ぶことが出来なかった。どこで間違えたのかはわからなかった。最初から間違っていたのだと思った。1か0か、海馬の世界にはそれしか存在しなかった。城之内が少しずつ変えていた全てが辛うじて海馬を引きとめていた。狂おしいくらい考えた。城之内のいた部屋の、城之内がいない部屋で、城之内のことだけを考えた。この何物にも変えがたい存在を手放すことが出来なければ、いつか海馬は城之内を壊してしまうだろう。それは予感ではなくはっきりとした自覚だった。もう遅すぎるかもしれないと海馬は思う。いっそ城之内が本当に何も言わずに去っていたら、海馬は安心して城之内を壊すことが出来ただろう。逃げ出さないように、ゆっくりと丁寧に時間をかけて、海馬のために生きる存在に作り変えることが出来ただろう。一緒に壊れていけただろう。もしかしたら海馬にとってはそれが一番幸せなのかもしれなかった。けれども城之内はまだ海馬の手の届くところにいる。

最後を決めるのはまだ海馬の意思が届く範囲にあった。終わりには出来ない。手放せもしない。けれども幕を引くことなく城之内の幸せを願うことは海馬にも出来そうだった。城之内の幸せに海馬は介入しないほうが良かった。海馬の幸せと城之内の幸せの重さは秤にかけるまでもなかった。だって愛していた。海馬の全てだった。全てを擲ってでも城之内がいればそれでよかった。城之内のいない世界なら海馬には何も要らなかった。

だから、










あいしていた、
だから。



















もう二度と会うつもりのなかった城之内は、「そんなことが聞きたいのか?」と咎める風でもなく、けれどもどこか腑に落ちないような、気の抜けたような、不思議そうな声で海馬に問い返した。城之内の声色よりも、明確な答えではなかったことに海馬は安堵して、短い呼吸をした。まだ海馬が選べるのだ。三年前ほど簡潔ではなくても、海馬が望まない方向へ城之内を連れて行ける。海馬は緩く呼吸をする。意識しなければ出来なかった。顎から髪に移動していた、城之内の指先から伝わる微かな振動を頼りに肺を動かす。漫然と流れていた海馬の時間を城之内が生きてきた三年間に合わせるために。

「わからない」
「何が?」
「何を聞いていいかわからない、お前に」
「何も聞きたくないか?」
「違う、何から聞いていいかわからない」
「…うん?」
「どれだけ聞いても足りないかもしれない」
「だってお前なんだって知ってただろ。俺のこと」
「知らない」
「嘘吐け。人が覚えてない過去まで掘り返してきたくせに」
「でも何も知らない」

言い募る海馬の前で、城之内の蜂蜜色の瞳が戸惑うように揺れていた。お前のことなんて。三年前も、その前も何一つわからなかったのに、三年越しの再開で何かが変わるわけもない。終わりを先伸ばしたかった。このまま理由もない問答を続けて城之内にずっとここにいて欲しかった。勝手なのはいつだって海馬のほうだった。逃げておいて、いつか連絡が来ればいいと、ずっと思っていた。空虚を埋めて欲しかった。自分からは一切働きかけることもなかったのに、いつまでだって赦されていたかった。城之内の指は海馬の肩先に触れている。震えている。海馬の震えが伝わっているのかもしれなかった。何も、…?と語尾の疑問符が遠い城之内の、震える吐息に合わせてゆっくりと海馬は頷いた。

「本当に?」

城之内の言葉は確かに問いかけだったのに、けれどもそれは言葉以上の意味を孕みはせずに海馬へ届いた。城之内は海馬に問いかけたわけではなかった。頷く必要すらなかった。城之内は驚くほど完全に海馬の言葉を理解していた。海馬にはなぜかそれがはっきりとわかった。海馬が城の内を知らないことを、城之内は今理解した。呼吸を三つ数えた後、城之内はすとんと腰を落として海馬の膝に突っ伏した。海馬の膝の上で、城之内は長くて静かなため息を吐いた。まるで嘆息のようだった。それから立ち上がってカーテンを閉めた城之内は、また海馬の前に腰を下ろした。赤い赤い西日がカーテン越しに差し込んで、城之内の金髪を歪に染めている。意味のわからない行動を前に、海馬が城之内の言葉を反復している間に、「なあ、ここ壁は?」と城之内は言った。

「壁?」
「薄い?アンアン言って平気なわけ」
「は、」
「まあダメだって言われても、言うんだけどさ」

海馬が城之内の言葉を理解しないうちに、城之内は海馬の膝に右足を乗せた。するりと城之内の腕が海馬の首に絡まって、柔らかいものが唇に、そして口内を犯した。海馬の目の前に城之内の蜂蜜色の瞳が迫っていた。城之内の右足が両足に変わって、海馬の首に回していた両腕が背中に回って、そのままソファに押し倒された。ふたり掛けの、小振りのソファのスプリングがふたり分の体重を支えきれずに鈍く軋んだ。何が起きているのか海馬には理解できなかった。城之内の腕が海馬の身体に巻きついて、城之内の舌が海馬の舌を探っている。城之内が。随分長い時間が経った後で口を離した城之内は、呆然と城之内を見上げるだけの死体然とした海馬に呆れたような顔で言った。

「これでもわかんねーって顔してるなあ」
「…城之内、」
「鈍いのか、お前。どこまでできるか試そうかと思ったじゃねーか」
「何を」
「俺が入れるぞ?」

ゆっくりと青い眼を見開いた海馬の真上で、それはそれは楽しそうに城之内が笑った。蜂蜜色の瞳が零れ落ちそうなくらい美しく輝いていた。両腕は海馬の肩甲骨と背骨を探っていた。唇は城之内と海馬の唾液で艶やかに濡れていた。「本当に?」と海馬の呟いた主語のない言葉は「知らないのはお前だけだ」という微塵も衒いのない城之内返答で肯定された。引っくり返して組み敷いた。城之内の右足がソファからずり落ちて、爪先が軽い音を立ててフローリングにぶつかった。何の余裕もなかった。三年間も、三年前も、今のふたりには意味がなかった。今だけだった。五年前の嵐のような時間を思い出した。服を脱ぐ間も惜しくて中途半端に乱した上着の中で、海馬の手も城之内の指も性急に動いていた。海馬が城之内のジーンズに手をかけたところで、城之内が「ポケット」と言った。

「ゴム、買ってきた」

城之内の言葉通り、ジーンズの右ポケットからバラ売りのコンドームが三包み出てきた。「最初からそのつもりだったのか」と尋ねた海馬に、「他に何があるんだ」と城之内はいっそ睨みつけるような眼光で答えた。海馬の知らない三年間を城之内がどう過ごしていても構わなかった。城之内は海馬とSEXしに来たのだという。三年経っても。指を止めた海馬を急かすように、城之内の左足が海馬を擦った。

「あるかもって思ったけどないほうがいいから持ってきた。濡らすもんはねーからお前先に達けよ」
「お前がしろ」
「お前以外の精液なんて俺のだって入れたくねえよ」

乱暴な口調に紛れて尚甘く城之内に囁かれて、海馬は心臓が焼き切れそうになった。信じる以上に目の前の状況を把握し切れなかった。この奇跡のような存在が、また海馬の腕の中にいる。けれども海馬には一切疑う余地がなかった。海馬の真実はいつだって城之内の中に在った。城之内が齎す全てが海馬の全てだった。
蜂蜜色の瞳は最後まで海馬から反らされなかった。


( 終わりの終わり / 海城連作 / 遊戯王 / 20090404 )  | |