思 い 切 り ひ ど く 死 ん で し ま え ば い い



ハンバーグ弁当の付けあわせだった味のないスパゲティの最後のひとかけらを飲み込んで、城之内は満足そうな溜息をついた。麦茶をごくごく飲み干して、ぺらぺらのプラスチックを器用に折りたたんでビニール袋に詰めている。割り箸も半分に折って詰め込む。プラスチックと燃えるごみは分別が必要なんだが、とちらりと思った海馬は、まあ袋に入っていれば誤魔化しは効くだろうとその思考を打ち消した。無頓着な城之内は、口にソースをつけたまま立ち上がろうとしているので、海馬は仕方なく引きとめて自分の頬を指した。

「…ついてる」
「マジ?ここ?」
「反対だ」

ここか?と擦る城之内の手があまりにも見当はずれなので思わず手を伸ばしかけて、危ういところで引いた。ぴくりと動いた海馬の右手を、城之内の蜂蜜色の瞳も見ている。これはもう海馬の触れていいものじゃない。本当は最初から最後までそうだったんだろう。城之内が海馬の傍にいたのは城之内の意思ではなかった。けれどもそれならば、今ここにいる城之内はなんだというのだろう。忘れるはずだった。城之内はすぐに海馬を追いかけるか、今度こそ海馬を見限るか、それしかないと思っていた。三年は長すぎるとやはり身勝手なことを海馬は思った。数回頬を擦ってようやく汚れを探り当てた城之内は、手の甲をぺろりと舐めてサンキュ、と笑った。

「これ、どこに捨てたらいい?てか捨ててっていい?」
「…その辺に置いておけばいい。後で片付ける」
「片付ける?お前が?」
「そうだ」
「ふうん」

じゃあこの辺に置いとくぞ、と城之内はビニール袋をローテーブルの下に押し込んだ。何もない海馬の部屋にそれだけが転がっていると、城之内でも落ち着かないのだろうか。ゴミ箱くらい置いてもいいか、と海馬は少し考えた。けれども、一人暮らしでは必要ないものだ。ゴミ箱はキッチンにひとつ、それも適宜ゴミ袋に直接入れてしまう。何より持ち物は少ないほうがいいのだ。海馬にとって。空腹を満たして落ち着いたらしい城之内は、ソファに寄りかかって足を投げだしている。浅く腰掛けた海馬の足と、城之内の距離が近い。海馬が少しだけ足を引いたら、城之内の頭ははずり落ちるように傾いた。逆効果だった。黒に近い茶色い布張りのソファに城之内の金髪がゆるく散らばっている。せめて本でも読んで落ち着こうと、海馬は無造作に隣へ放っていた鞄を引き寄せた。気配に気付いたのか、城之内が首を捻って振り返る。開いたばかりの本を差して何の本、と尋ねるので、専攻に関わる本だと海馬は返した。城之内が視線を外さないので、ためしに一冊渡してみる。受け取った城之内は心なしか嬉しそうにしている。

「お前何勉強してんの」
「地球工学だ」
「それは」
「簡単に言えばテラフォーミングを地球に行おうという学問だ」
「へえ。聞いてもぜんぜんわかんねえことしてんだろうな」

城之内はぺらぺらと分厚い本をめくり、全部英語だ、と呟いている。ちなみにそれはドイツ語だった。聞くまでもないだろうから、いっそ説明してやったっていいと海馬は思う。しかし、しばらく眺めていても城之内はページを捲る手を止めなかった。「楽しいか」と、読めもしないものをめくってという意味を込めて尋ねると、見たことないアルファベットがあってわりと楽しいと返された。好きにしたらいいと思う。海馬は鞄からもう一冊本を引き出して、それから三年間の間に作った眼鏡を掛けた。海馬の視力はそれほど悪くないが、たまに物が二重に見えるのだ。乱視。老眼にはならないらしい。けれども、本を開こうとした海馬の手は城之内の声でまた止まってしまった。一瞬噴出した城之内は、本を放り出して海馬の顔を見ている。

「何そのメガネ」
「…何とはなんだ」
「似合ってて変」
「喧嘩を売っているのか?」
「いや、ゴメン、ちょっとかけさせて」

海馬が開きかけた本も放られて、城之内は海馬の膝に上半身を乗り出すように手を伸ばした。少し引いた海馬を追うように伸び上がった城之内の体重を感じた。三年前まではすぐそこにあった海馬より高い体温も、鼓動すら感じそうなその距離も。海馬は城之内を押し返そうとして、その身体に触れることを躊躇した。少しでも手を伸ばしたら抱きしめてしまいそうだった。海馬が抵抗しないので、城之内はあっさりと眼鏡を手に入れてご機嫌な様子だった。細い紺のフレームが薄いレンズを覆っている。海馬の膝に肘をついて眼鏡を掛けた城之内は、あちこち眺めて小さく首を傾げた。

「…なんか…色ついてる?」
「少しな」
「なんで」
「眩しいときにかける」
「ああ、お前薄いもんな。目の色」

薄い色ガラスの向こうから、少し落ちた蜂蜜色の目が海馬を見上げている。三年前は少しばかり斜に構えていた城之内の眼光が、今はただ酷く穏やかだった。城之内の薄い虹彩に表情のない海馬の顔が映っている。こんな風に過ごすことがあっただろうか、と海馬は思う。穏やかな時間はあった。事実だ。けれどもそれはいつだってもっとずっと即物的な物に包まれていた。若かったというよりは幼かったのだろう。海馬自身が。どうしてこうならなかったのだろう、と城之内を膝に感じたまま考える。目を反らさないレンズ越しの城之内は、瞬きをひとつして口を開いた。

「俺さあ」
「なんだ」
「仰向けでお前の目を見てるのが結構すきだったんだ」






城之内はいつまでたっても海馬に墜ちてこなかった。海馬の与えた部屋に住んで、海馬の与えるもので暮らしながら、城之内の生活水準は一定のままだ。海馬の生活に合わせてシフトを調整しつつ、バイトも続けている。学校に充てていた時間を労働に使えば、城之内が生きていくだけの金は簡単に稼げるようだった。人脈も広がったらしく、海馬のいない夜は城之内もよく出かけている。当然のように高校のお仲間も含まれるようだ。ほとんどが大学に進学した今では城之内のほうが裕福らしい。出世払いで奢ってきた、と笑う城之内の顔にやり場のない焦燥感を覚えた。いつだって側にいないのは海馬のほうだ。けれども、城之内は何も言わない。寂しいとも、苦しいとも、愛しいとも。新聞配達をやめたおかげで少し遅くなった朝と、変則的なふたりぐらしで少し豪華になった食事と、肩甲骨まで伸びた金髪だけが城之内の変化だった。

終わりに近いSEXで、海馬は若気の至りで片付けるには少しばかり度の過ぎることをした。無理な体位の強要も、法すれすれのドラッグも、数日間の軟禁も、お定まりな強姦紛いの暴力も。けれども城之内はほとんど何も言わなかった。目に付く場所にあからさまな情交の痕さえ残さなければ、咎める顔すらしなかった。もともと傷だらけの身体だからと、道具を使うことはむしろ積極的に受け入れるほどだった。痛みにも屈辱にも異常に強い人間だった。しかし城之内がそれを好むわけではないと、それだけはわかっていた。

その日は皮の拘束具を着けていた。あえて加工の少ない、ダメージの大きい素材だった。一通り行為が終わるころには、城之内の手首と足首からは薄っすらと血が滲んでいた。頬を染めて追い上げられた城之内がほとんど色を無くした精を吐き出したのを最後に、海馬も身体を引いた。海馬は無言で拘束具を外して、お前ちょっとやりすぎ、とあちこちさすりながら起き上がる金髪を見ていた。バランス良く筋肉のついた城之内の薄い身体に、裂傷と擦傷と鬱血の痕が広がっている。退廃的な傷跡に、城之内の明るい表情があまりにも似合わなくて海馬はひとりで眉を潜めた。何をしても城之内は穢されなかった。ベッド脇に置いた消毒液に伸ばされた城之内の腕を封じるように握りこむ。城之内が海馬の顔を見上げている。

「怒らないのか」
「怒る?なんで」
「傷がついただろう」
「こんなプレイだったらしょうがないだろ。それとも付かないと思ってやったのか?」
「そういうことじゃない」
「よくわかんねえ」
「こんな一方的な方法で抱かれて、お前はなんとも思わないのか?」
「やった奴に言われてもなんかすごい釈然としねーんだけど」
「うるさい、質問に答えろ」

それって質問なのか?脅しじゃねえの?と城之内は首を捻ったけれど、海馬が真剣なので、少し考えてからやっぱり怒らねえよ、と首を横に振った。きっぱりと。城之内の言葉はいつだって簡潔にまとまっている。けれども言葉が少ないだけに、海馬には意味のわからないことも多いのだ。今だって、結果だけが全てで過程と理由が置き去りだった。海馬が続きを促すと、城之内は裂傷を残す唇を開いて言った。

「だって俺、お前が俺を好きだって知ってるし」
「は、」
「それにさ、喧嘩なんかで付く傷は痛いだけだけど、お前がつける傷は気持ちいいこともセットだからいいんだよ」

城之内の蜂蜜色の瞳に欺瞞や偽善は欠片も含まれていなかった。それだけに、海馬には衝撃の強い言葉だった。愛している。何度も繰り返した。通じていることは知っていた。けれども、こんな風に使われたくは無かった。海馬はそんなことを望んで城之内を愛しているわけではなかった。愛が免罪符になどならないことは海馬自身が痛いほど理解していた。少なくとも、海馬の愛情表現に暴力は含まれていなかった。眉間の皺が深くなる海馬の顔を覗き込むようにして城之内が尋ねた。

「何、お前が怒ってるの」
「違う」
「今の気持ちよくなかったか。お前ドSなんだから良かっただろ?」
「お前はどうなんだ。Mだとでもいうのか?そういう気持ち良さだったのか」
「いや違うけど。どっちかっていったら俺も縛るほうがいいかな」

相手はきれいなおねーちゃんがいいけど、まあお前でも我慢してやってもいい、と城之内は少しばかり不遜に笑った。お前が縛られたいって言うならな、とも付け加えた。城之内の言葉はいつだって海馬が主体だった。そうして、笑ったままの城之内はどこまでも海馬を追い詰めていく。気付きもせずに。

「でも、お前がしたいならそれはそれで別にいいんだよ」
「なぜだ」
「嫌じゃないから」
「理由になるか」
「ならないのか?」

まっすぐ城之内に聞き返されて、海馬は言葉に詰まった。理由はともかく答えにはなっていないだろうと海馬は思う。けれども、それをどうやって城之内に伝えればいいのかわからなかった。何もかもを押し付けている城之内に、今更何を返せというのだろう。金品の見返りに心を?そんなもので手に入るのだったら、そんなことを要求できるのだったら海馬は何も悩んだりしない。答えられない海馬は、それでも城之内の腕を放さない。鬱血の少し下を掴む海馬の指に、城之内の血が一滴落ちる。「あ」と小さく零した城之内は、何の躊躇いもなく海馬の指に舌を這わせてその一滴を舐め取った。どうしようもなくなって、海馬は腕に力を込めた。城之内は、ゆるく身体の力を抜いて言った。

「やっぱちょっと怒ってるだろ」
「違う」

瞼を伏せた海馬の胸に渦巻く感情は、怒りではなく後悔だった。海馬は城之内を痛めつけたいわけではなかった。城之内が海馬に赦しを請う場面を見たかっただけなのだ。最初は泣くまでイかせるところから始まった。城之内がひとつをクリアするたびにすこしずつハードルをあげた。けれども、どれだけ行為がエスカレートしても泣き言一つ漏らさない城之内を、海馬にはどうにもできないことがわかっただけだった。城之内を赦すどころか、海馬がどこまで赦されるのかを試しているようだった。こんなことは今すぐ止めて、丁寧に抱きたかった。気付いても止められない海馬自身が怖かった。抵抗しない城之内が恐かった。それ以上に愛しかった。

酷い行為を繰り返す海馬は、それでも城之内に消えない傷跡だけは残さなかった。
それが海馬の最後の砦だった。


( それでも明日を繰り返す / 海城連作 / 遊戯王 / 20090325 )  | |