慈 悲 に も 例 外 は あ る の だ よ



都合のいい夢を見ているのだと思った。
その声も、その姿も、ここに在るはずがない。三年越しでも、ここまで色鮮やかに忘れられない自分に腹が立った。城之内に関するものはすべておいて出てきた。写真の一枚も手元にはない。未練がましいにも程がある。もう一度目を瞑って、ゆっくり開いた。けれども、城之内はまだそこにいる。傾きかけた日の色が金色の産毛まで淡く染めている。乾いた風に、癖の強い髪が無造作に揺れる。忘れていた息を吐いて、もう一度吸った。驚くほど口が渇いている。覚めるなら早いほうがいいはずなのに、都合のいい現実に流されたがる海馬を海馬自身では抑えられない。

「城之内」
「おう。久しぶり」

どうした変な顔して、とやはりなんでもないような顔で言った城之内は、少し首を傾げて海馬を見ている。一歩踏み出して扉まで滑り込めば身体を寄せて、海馬が鍵を開けるのを待っていた。軽い音を立てて開いたドアを開く前に、海馬はまじまじと城之内を見つめた。三年前と変わったところを探す。少し髪が短くなった。あの頃より、いくらか線が太くなった。いくら食べさせても片端から消費していた、危うい細さはもうない。その変わり頬の辺りに残っていたやわらかい線が消えている。少し背が伸びた気がする。もうどこからどうみても大人の男だった。けれどもそれは確かに城之内だった。今でもただ愛しい。

「海馬?」

名前を呼ばれて恥ずかしいほど胸が跳ねた。甘くも柔らかくもない、けれどもゆるやかに低い穏やかな声だ。張上げても上擦っても耳障りではないその声を聞くのが好きだった。海馬に向かう声が好きだった。こみ上げるものをやり過ごして、今度こそ海馬は扉を開けた。城之内の動く気配がないので、振り返ると少しだけ戸惑うような顔で海馬を見ていた。どうしてそんな顔をする。入ってもいいか、と聞くので、無言で中を指差した。がさがさと白いビニール袋を揺らして靴を脱いだ城之内は、玄関からぐるりと部屋中を見渡した。そう広くはない1LDKだ。二人がけのソファとテーブル、それからテレビだけが置かれたリビングで、ふうんと城之内は言った。何もないこの部屋に、城之内がいる。

「普通の部屋だな。お前の家見慣れるとどこも普通だけど」
「そうか」
「そうだよ」

家主を置き去りにして平然と床に陣取った城之内は、ビニール袋から弁当を取り出している。海馬が立ったままそれを見ていると、城之内は顔を上げて「昼飯食ってなくてさ」と聞いてもいないことを口にした。少しばかり言い訳めいた言葉は海馬の心に一縷の希望を芽生えさせて、けれども海馬はすぐにそれを打ち消した。もう違う。本当は最初から違ったのかもしれない。もう確かめる余地もない。テーブルに食料を並べてから、初めて気づいたように城之内が言う。

「あ、ここで食ってもいいか?」
「構わないが」
「サンキュ。お前も食う?」

シャケ弁とハンバーグ弁当のおかずだけだから、そんなに量はないけど。箸を割りながら尋ねる城之内の申し出は断って、それより手ぐらい洗ったらどうだと促した。輪ゴムと格闘していた城之内は、変わってないんだなあ、と呟くように言った。何がと聞き返す間もなく、じゃあ洗面所借りるな、と城之内が言うので、玄関の脇の扉を示した。海馬の脇をすり抜けて城之内が歩いていく。水を流す音が聞こえる。海馬は思ったよりもしっかりとした足取りでソファまで辿り着き、そこで力が抜けて座り込んだ。柔らかい感触に現実は帰ってこない。ただ、城之内はここで弁当を食べるのだという。それではその間はここにいるわけだ。膝の上の肘を突いて、掌に顔を埋める。海馬は今自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

海馬が変わらないと言った、城之内こそ何も変わらないような顔をしている。
本当に、何一つ。





城之内と海馬が付き合い始めてから、顔を付き合わせれば罵り合っていた関係が一変して、ほとんど喧嘩というものをしなくなった。海馬は変わらず好きなように城之内を呼んでいたが、城之内が海馬に噛み付くことはなくなった。「凡骨」でも「駄犬」でも「馬の骨」でも、面倒くさそうに返事をする。そのうち海馬のほうがたまらなくなって止めてしまった。「城之内」と呼べば、少し照れくさそうに海馬を見る。その顔を見るほうが大切だった。挑発に乗らない城之内とは案外気が合うこともわかった。一度理由を聞いたことがある。あれだけ闘争心むき出しだった城之内を何が変えたのかと。城之内はなんでもないような顔で言った。

「お前が俺のこと馬鹿にしてるわけじゃないってわかったからもういいんだよ」
「どういう意味だ」
「そのままだよ」

違うのか、と噛んで含めるように問われて少し照れる。そんなことを悟るような人間だとも思っていなかった。城之内が他人の感情には敏感だということを忘れていた。そのまま認めても面白くないので、大げさに眉を上げて茶化してやった。

「馬鹿にはしているぞ。進級は大丈夫か」
「それはほんとのことだから気にしねーの」
「教師が聞いたら泣くな」
「そうかも」

予定調和のように会話をつなげて、ふたりで顔を見合わせて笑った。こんな会話が楽しいなんて思っても見なかった。笑いながら海馬は、本当はもう少し違う言葉を期待していた。海馬のことが好きだから気にならないんだといって欲しかった。けれどもそれはたいした問題ではない。城之内の答えは海馬の気に入ったし、城之内が本当の意味で愚かではないことも嬉しかった。海馬の高笑いも、傲慢な物言いも、城之内の気に触るものではなかったらしい。海馬は城之内を認めていた。それが伝わったことが何より一番大切なことだった。

遊戯と少しだけ距離を置くようになっていた城之内は、たまに海馬の家に遊びに来ていた。城之内は何も言わなかったが、海馬に城之内との関係を公にする気はなかった。世間体を気にしたのだといわれればそれまでだし、確かにそれはその通りだったのだが、それでもそれだけではなかったことを海馬が知っている。海馬といるときの城之内はすべて海馬のものにしておきたかった。告げればきっと城之内は笑っただろう。あるいは黙って受け入れたのかもしれない。ともかく、城之内と海馬が触れ合うのは城之内が海馬の家にいるほんの一瞬のことだった。

10時にバイトを終えた城之内が海馬の家にやってくる。食事と入浴を済ませて仮眠を取る。日付が変わって帰ってきた海馬が城之内を起こす。短い情を交わして、一緒に眠る。城之内は4時半に起きて新聞配達に行く。戻ってきてから、一緒に朝食を取って、一度家に帰って学校へ行く。海馬はもとより、バイト三昧で普通の高校生より忙しい城之内が少ない睡眠時間を削ってまで逢いにきてくれることが嬉しくもあり、心苦しくもあった。まどろむ城之内の手を握って、いろいろなことを考えた。こんなことを続けていていいはずがなかった。城之内にとって。それでも海馬の口からは何も言い出せなかった。だって一緒にいたかった。感情のままに力を込めてしまった手の横で、城之内が薄く目を開いた。起こしてしまった。慌てて離そうとした海馬の手を、城之内が柔らかく握った。夢を見ているような顔をしている。かいば、と舌足らずな声が甘く響いて、城之内が海馬に擦り寄った。手は離れない。城之内の金髪が海馬の頬をくすぐっている。

「城之内」
「うん…」
「俺はお前と一緒にいていいか?」

海馬には卑怯なことをしている自覚があった。ほとんど意識のない城之内に何を尋ねているのだろう。ここで城之内が何を答えても、海馬に何の影響も齎さない。海馬は海馬のしたいようにするだけだ。それなのに胸がざわめくことが不思議だった。いいよ、と言って欲しかった。保証のない約束が欲しかった。城之内が欲しかった。息を詰めて見守る、おそらく一瞬の後に、城之内の手が海馬から離れた。掴みなおそうとした海馬の手をすり抜けて、城之内は手を伸ばしてゆるゆると海馬の頭を撫でた。薄く笑った城之内は何事か口にしたようだったが、溜息のような吐息を残して寝息に変わってしまった。城之内の手は海馬から滑り落ちて、白いシーツに深い陰影を作った。城之内の答えはなかった。けれどもそれは確かに許された瞬間だった。海馬が踏み出すことを止められなくなった瞬間でもあった。





手洗いうがいを済ませた城之内は、海馬の足元で弁当をかきこんでいる。恐る恐る外していた輪ゴムには負けたらしく、噛み付かれた腹いせと称して手首にはめている。意味はよく分からなかったが、城之内の旋毛はひょこひょこ動いている。城之内が物を食べる姿はどう差し引いても上品ではない。ガツガツという音が聞こえてきそうなほどだ。けれども決して見苦しくはなかった。箸の持ち方は正しかったし、口に物を入れたまま喋ることもない。何より城之内自身が食事を楽しむ姿勢が良かった。城之内がいだきますとごちそうさまを欠かさないので、海馬もつられて手を合わせるようになった。ひとりきりになった今でも。

食事が終わるまで黙っていても良かったが、城之内の意図が分からなくては海馬の心も落ち着かない。知ったところで何も変わりはしないだろうが、それでも何か意味は見出せるだろう。忙しなく揺れる金髪に向かって、城之内、と声をかけた。口いっぱいに詰め込んだものを噛み締めながら城之内が振り返る。城之内は声を出さないまま疑問の形に首をかしげた。蜂蜜色の瞳が海馬を見上げている。海馬は意図的に目を逸らして、城之内の食べかけのシャケ弁を見つめた。冷静な声が出せるだろうか、と思いながら口を開く。

「仕事はどうした」

城之内の仕事は肉体労働系で、平日に休めるものではなかった筈だ。拘束時間はきっちり決まっている代わりに、週休二日制は絶対だった。海馬はそれを城之内の口から聞いてはいない。尋ねる余裕が海馬にはなかった。これは海馬が勝手に仕入れた情報で、だからこそ間違いはないはずだった。三年前と変わっていなければ、絶対に。けれども城之内はちょっと待てというようにひとつ頷いて、まずはシャケ弁を飲み込んだ。海馬が出してやった麦茶を一口飲んで、それからあっさり言った。

「借金完済したからやめた」
「やめただと?」
「ん。もともと長く続けるつもりじゃなかったし」

なんでもないような声で言った城之内は、呆然とする海馬を尻目にもう一口シャケ弁を頬張った。どこまでも海馬の援助を嫌った城之内が、卒業してからやっと見つけた職場だった。新卒ではないものに厳しい社会で、柄は悪いが居心地のいい場所だと笑った城之内の顔は今も覚えている。それなのに。何かを言いたかったが何を言っていいか分からなかった。海馬は逃げ出したのだ。ちくわ天を齧りかけていた城之内は、思い出したように顔を上げた。

「そうだ、親父も退院したんだぜ。今は病院から紹介された施設で働いてんだ」

お前のおかげだ、と笑って城之内は言った。海馬には何の感慨も沸かなかった。ああ、と低くうなるような声が出ただけだった。感謝されるようなことじゃない。すべては海馬のエゴだった。






海馬が城之内の父親を施設に入れたのは高校三年の夏だった。アルコール依存症治療施設。ほとんど閉鎖病棟のようなそこは、それでも最高級の治療設備を有していた。そんな金は無い、見舞いにも行けないと渋る城之内を、このままでは手遅れになるのだと半ば強引に説得した。親切めかした体のいい厄介払いだった。父親がいないのならここにいる必要も無かろうとそれまでのアパートを引き払わせた。引越し先は海馬の所有するマンションだ。金銭の援助を嫌がる城之内を、壁の薄い部屋ではできないことをしかけて黙らせた。海馬の帰る場所は、モクバのいる家から城之内の住むマンションに変わった。それまでよりずっとたくさんのSEXをした。予定を合わせることができなければ学校でも事に及んだ。寝込みを襲うこともあった。城之内はいつでも黙って受け入れていた。いつかの優しい掌が海馬を裏切らないことを信じていた。

高校卒業を前にして、就職先を探す城之内にKCへの就職も持ちかけた。そればかりはきっぱりと断られた。結局就職が決まらないまま卒業して、バイトと日雇いで食い繋ぐ城之内の生活を縫いとめていたのは確かに海馬だった。けれども優越感はちらりとも沸かない。そんなものがなくても、城之内が生きていけることを知っていたからだ。城之内がここにいる理由が分からなかった。どれだけ差し出しても必要なものさえ受け取らない城之内に、何をすれば喜んでもらえるのか分からなかった。

そして結局いつだってSEXをしている。抱いている間は城之内もどこへも行かない。何より、海馬にとって繋がる感覚が堪らなかった。いくらこじ開けてもいつまでも狭い穴が生理的に気持ち良いということもあるが、重ならないはずの身体がまるでそのためだけにできているような動きをする。比喩だけでなく、できることなら海馬は城之内の身体を本当に作り変えてしまいたかった。海馬しか受け入れない身体に。海馬はどこまで本気か分からなかった。睦言を囁くこともなく、ただ城之内を追い上げて海馬自身も追い詰められていく。いっそ意識が飛んでしまえばいいのにと、果てる瞬間にいつも思っていた。けれども城之内の意識は最後まではっきりしているし、どれだけ搾り出しても動けなくなるほど消耗することもない。バイトで培った体力のおかげだと城之内は言う。ギリギリまで絞られた身体には薄く筋肉が付くばかりで、無駄な肉は少しもない。それなのに力を抜くと柔らかく解けて、どんな体勢でも海馬を受け入れた。ずいぶん無理なことも仕掛けたというのに。

ベッドの上で囲うように抱きしめて、海馬の胸に背を預けさせた城之内は情事の痕を色濃く残している。髪は乱れ、頬は上気して、後先かまわず吸い上げた肌には鬱血の後が無数に浮き上がっている。キスマークといえば聞こえはいいが、結局はただの内出血だ。痛みを伴うものでもある。その痕をひとつずつなぞると、くすぐったいからと城之内が海馬から離れようとする。もちろん離すつもりのない海馬は、城之内の裸体をさらに強く抱え込んだ。城之内はクスクス笑いながら、海馬より細い首をのけぞらせて海馬の肩に乗せた。

「割とかわいいよな、お前」
「この状況ではどう見てもかわいいのはお前だ」
「それを平然と言えるところがかわいいんだよ」

そう言って、城之内は腰に回していた海馬の手に自分の手を重ねた。まだ冷めない熱が海馬にも城之内にも残っている。海馬は少しばかり感心していた。感嘆だったかもしれない。先ほどまで散々喘がされていた相手を捕まえてかわいいとは、なかなか言える台詞ではない。むしろ海馬にとってはほとんど未知に近い言葉だった。幼い頃ならいざ知らず、ここ数年海馬に向かってかわいいなどという形容詞を使える人間はいなかった。しかし、城之内が相手なら悪い気分はしなかった。熱い掌で海馬の指を探っていた城之内は、海馬を見つめていた蜂蜜色の目を閉じて口を開いた。

「なあ海馬」
「なんだ」
「俺しあわせだなって今思ったよ」
「幸せなのか?」
「うん、しあわせだ」
「そうか」

頷きながら、城之内が幸せなのなら海馬も幸せでいいのだろうと思った。海馬にとっての幸せと城之内にとっての幸せが同じものならいいのにと願っていた。城之内の言葉はそれでおしまいだと思ったが、随分長い沈黙の後で城之内はぽつりと言った。

「なあ海馬」
「なんだ」
「俺どうやってお前に返そうか、こんなに」

呟きは困惑の色を滲ませている。けれどもそこに卑屈な感情はひとかけらも込められてはいない。城之内は今までとこれからの負債を考えているだけだった。海馬は何もいらなかった。城之内がいればいい。それだけで海馬にとって無上の喜びだった。ただ、それをどう伝えていいか分からなかった。愛しているから要らないという言葉は城之内に伝わる気がしなかった。城之内は金銭を受け取ることを躊躇った。身体を繋げることは拒まなかった。城之内は自分自身に価値があるとはまるで考えていなかった。金の代わりに寝ることなどは考えてもいないようだった。城之内が海馬をどう思っているのか、海馬はまだ知らなかった。これから先尋ねる気もなかった。答えを待つ城之内の身体を抱いたまま、海馬は黙って横になって目を閉じる。城之内は少し身じろいでいたけれども、海馬が髪を撫でるとおとなしくなった。わかっている、今日はこれで終わったとしても、いつか答えが必要になる。それでも少しでも先に延ばしたかった。海馬は城之内が好きだった。いつまでも腕の中に囲っていたかった。

海馬の望みは最初から最後までそれだけだった。


( 現在・過去。海馬の雲行きが怪しくなってきました / 海城連作 / 遊戯王 / 20090319 )  | |