消 え 去 れ 、 や さ し い 面 影 よ



城之内とは、高校2年の冬から海馬が大学に入学−編入−する三年前まで付き合っていた。世間一般で言うところの恋人同士、だったと思う。歯切れが悪いのは自信がないからだ。海馬はともかく、城之内がどう思っているのか、海馬は知らなかった。最初から最後まで海馬の独りよがりだったのかもしれない。それが一番怖かった。なんでもない顔で、うっすら微笑みながら肯定されることが怖かった。

馴れ初めはどうだかわからないが、きっかけはくだらない感傷だった。海馬にも城之内にも影響が大きかった、遊戯−この場合はライバル−の喪失だ。3000年前などという非科学的なことを信じる気はない。しかし結果として彼の人格はいなくなり、終生のライバルはもう二度と現れないことがわかった。もうひとりの遊戯は、感情の揺れが大きかった分、立ち直りも早かった。1000年後の約束を信じているのだと、少し大人びた顔で笑った。痛みは残っているのだろう、けれどもそれはすでに忘却に近い。受け入れることが一番だというなら、その意味でいつまでも引きずったのは海馬だろう。残るはわけのわからない記憶だけだ。それも、意味もわからない他人の記憶が混在している。信じてもいない、3000年前を生きた記憶。そんなものより、遊戯とデュエルしたかった。あんなに心を灼かれる闘技はなかった。魂が震えるようなほんの数回、それだけ残して消えてしまった遊戯と。

とはいえ、人がひとりいなくなったところで世界が変わるわけでもない。まして、あれは肉体を持たないただの意識だった。消失とも呼べない消失は日常を損なうこともなく、海馬の生活にもなんら影響を及ぼさなかった。だからこそ、どうしようもなく歯痒かった。表面上は何事もなく過ぎていく時間をできるものなら止めてしまって、遊戯自身を引きずり戻したかった。苛立ちは少しずつ疲弊を重ねて、吐き出せない分いつか砕けてしまいそうだった。遊戯の態度も、モクバの気遣いも、海馬がいないともう回らないKCも、何もかも煩わしくなりそうだった。

ギリギリまで避けていた高校へ、出席日数のために訪れたのはそんなある日だった。出席だけ取って帰ろうとすると、放課後に進級試験だと告げられる。中間を放り出した負い目もあって、一日学生生活を送ることになった。教師の口から流れる当たり障りのない授業内容はほとんど聞き流して、しかしパソコンを広げる気にもならなかった。逆立った遊戯の頭から意識的に目をそらすと、うつ伏せた金髪が見える。1時間、2時間、結局午前が終わるまで、金髪は一度も顔を上げなかった。

昼休みが終わる5分前、授業終了と同時に席を立った金髪はまだ帰っていなかった。遊戯がちらちらと空席を気にしている。海馬には関係のないことだ。しかし、偶然か故意か知らないが、不意に振り返った遊戯は海馬と目を合わせて困ったように微笑んだ。思わずカッとなった。そんな目を。あの遊戯だったら、海馬を見てそんな顔はしない。いつだって自信に満ち溢れた。そして、海馬と対峙するのはいつでもあの遊戯だったのだ。なぜ貴様がそこにいる。貴様ではない、あれを、もう一度。無理やり引きずり出してやりたい衝動に駆られて、海馬はギリギリと拳を握り締めた。伸びすぎた爪が掌に食い込み、赤い痕をいくつも残した。冷静になれそうもなくて席を立つ。教室を出る海馬の目の端に、驚いたような遊戯の表情が張り付いて離れなかった。

苛立ちにまぎれて飛び出しては見たものの、帰宅するわけにも行かない海馬の足は屋上に向いた。ポケットにはタバコとライターが入っている。一服して心を落ち着けるつもりだった。授業開始の鐘が鳴り、ばらばらと生徒が吸い込まれていく廊下を過ぎて校舎端の階段をぐるぐる上る。踊り場の窓から裏庭を見下ろすと、冬枯れのひまわりが見えた。なんて物悲しい。無感動に呟いて壊れた鍵がついた鉄の扉を押し開く。正午過ぎの眩い光が海馬の目を刺した。ゆるく瞼を伏せた海馬の視線に、どこまでも青い空を背にした金髪が映る。一瞬息が止まるかと思った。それくら強烈なコントラストだった。知らずに手を離れた鉄の扉が、大ろくほど大きな音を立てて閉じる。ゆっくりと振り向いた城之内は、海馬と同じ目をしていた。

城之内は、錆び付いた白い手すりに肘を付いていた。吹き上げる風が金髪を乱している。一瞬走った緊張の色は、海馬の姿を認めた途端にさっと消えた。城之内の唇が、声を出さずに「海馬」と紡ぐのを見た。海馬は、たいした意味もなく城之内の隣に並んだ。城之内と同じように手すりに寄りかかると、城之内は何気ない素振りで半歩ほど遠ざかった。およそ一メ−トル。日本人の平均的な有効対人距離だ。異性でも初対面でもないが、嫌悪感はあるのだろう。何しろ兄弟で寄ってたかって殺しかけた記憶も新しい。仕掛けられたほうの心境は、推し量ってもなお余りある。危機管理能力としては正常な判断だ。沈黙が続いたが、しばらくしてから城之内はちらりと海馬を眺めて、口を開いた。

「何してんの、お前」
「貴様こそ授業はどうした」
「見りゃーわかるだろ」
「その言葉をそのまま返す」

うわ、こいつ会話終わらせたよ…サボりならサボりでいいけど、じゃあなんで俺の隣に来るんだよ、と城之内は呟いている。その通りだと思った。校舎の分だけ広さのある屋上で、扉から一目瞭然の、まともに日を受ける、城之内の隣に並ぶ意味は何もないだろう。強いて言えば日の沈む方角だった。けれどもその意味がわかる人間が他にはいない。海馬と城之内を除いて。くだらない話だ。こんな凡骨と、海馬の意識が同調している。けれども不思議と不愉快ではなかった。まだ過去にできない人間が、ここにもいる。城之内は海馬の顔を見ている。不躾に見返してやると、意思のはっきりした蜂蜜色の双眸に海馬の青が重なった。城之内は、何がおかしいのかへらりと笑って言った。

「社長さんは忙しいんじゃないんですかーぁ」
「その通りだが、貴様こそ切羽詰るわけでもないのでな」
「俺はもう、あとは卒業するだけだからいいんだよ」
「まず進級が問題だろう」
「放っとけ」

城之内が目をそらしたので、海馬はポケットを探ってシガレットケースとライターを取り出した。箱で持ち歩くと目立って仕方がない。海馬は愛煙家ではないが、これを吸って落ち着く人間の気持ちはわかる。それがニコチン毒の常習性でも、無意識のうちに条件付けられたものでも、どうでもよかった。肺まで下ろしてからゆっくりと吐き出す。城之内はライターの音で視線を海馬に戻していた。もの言いたげな目を無視して煙を吸い込んでいると、城之内はくるりと半回転して手すりに背中を預けた。75センチ。距離が近くなる。

「…俺にも一本」
「やらん」
「ケーチ」

いいよ俺はこっちで。さして期待もしていなかったのか、城之内はどこからか取りだした棒付の飴を咥えた。もうすこしせがまれれば分けてやらないこともなかったので、海馬は少しばかり拍子抜けた。むしろ城之内が持っていないことに違和感を覚えたが、家庭環境を思い出して無理もないかと落ち着く。買う金がないから、と言われたらそれで終わりだ。せびるのは良くても、恵まれるのは嫌なのだろう。プライドが高いのか低いのかわからない人間だ。結局、煙を吐き出してから哂ってやった。

「そのほうが似合う」
「うるせ」

ゆるく開いた城之内の唇の中で、赤い飴に赤い舌が絡まっている。時折舌を鳴らす音がする。風が吹いている。城之内が瞬きする。そしてもう半回転。50センチ。家族との距離。また日の当たる方向に向き直った城之内は、すっと右手を上げた。白くも小さくもない筋張った手は少し荒れている。水仕事とバイトのせいだろう。海馬の手とは似て非なるものだ。その右手の人差し指が、まっすぐ日の沈む方向を指している。

「あっち」
「西がどうした」
「エジプトだよな」

よく知っているな、という嫌味は喉の奥に消えた。口に出してしまうのか、これは。海馬が苛立ちに消しているすべて。城之内が、おそらくおめでたい友人どもには言えないすべて。聞かなくてもわかる。海馬も同じだった。少しでも近くに行きたいなんて、そんな女々しい感情を抱いているわけではない。ただ惹かれる、焦がれる、あの灼熱に。海馬が何も言わないので、おそらく城之内にも伝わってしまった。海馬がいまだに認められない感情を、城之内が裁いてくれるのだろうか。それとも海馬が裁くのだろうか。城之内の右手は手すりの向こうで力を失っている。何度か息を吸い込む音がする。そして。

「去年の俺の誕生日にさあ、遊戯が言ったんだ」
「突然なんだ」
「世間話。まあ聞けよ」
「…勝手にしろ」
「おー。そんで誕生日な。当たり前だけど、この年になってそんなこと自分から言ったりしねーだろ。だから知ってたのが本田だけだったんだけど、当日学校でめちゃくちゃ怒られてさ。なんでそんな大事なこと黙ってるの、って」
「言いそうだな」
「な。えらい剣幕でさあ。結局放課後に家まで引っ張られて、強制的にパーティだった」

楽しかったよ、と漏らす城之内の横顔に笑みはない。本田や杏子も一緒でさ、静香がいなくなってから初めて蝋燭の火を消したりした。ささやかだけど、っていつの間に用意したのかわからないプレゼントもくれた。その日は遊戯の家に泊まることになって、遅くまでデュエルしたりゲームしたり、すげえ楽しかったんだ。

「で、もう寝ようかって言う、日付が変わる直前にさ」
「前置きが長いな」
「俺にはプレゼントを買う金も作る技術もないけど、来年は一番におめでとうって言わせてもらうよ」

あ、これ「もうひとり」のほうな、と城之内は慌てて付け加えた。言われなくてもわかっていた。一言ですまなかった一連の流れで、城之内が何を言いたいのか予想が付いた。付くことが堪らなかった。これを聞いてしまっていいのだろうか。海馬が聞いてしまえば、城之内の中身も海馬の中身もすべて同じ重さを持ってしまう。目が合っただけでわかってしまったのに、これ以上何を繋ぐという。けれども海馬は止めなかった。城之内はゆるやかに続けている。

「あのときのあいつは本気だったんだって知ってる。たいした約束じゃなかった。俺だって同じ立場だったら帰りたいと思うだろうし、あいつにとってそれが一番いいことだって言うのはわかってた。そんで、帰ったらもう二度と帰ってこられないことだってわかってた。だから俺が悪いんだってわかってる。あいつのせいじゃないってわかってる」

でも俺は待ってたんだ、と城之内は言った。日付が変わった瞬間から次の日まで、バイトも休んで待ってた。蜂蜜色の目に空を映しながら城之内は歌うように続ける。あいつの存在が奇跡みたいな物だってわかってる。だから、もう一度くらい起こしてくれるかもって、ずっと。わかっている、といいながら、夢のようなことを城之内は言っている。

「一言でよかった。一番じゃなくたって、当日じゃなくたって、声じゃなくても夢に出てきてくれるだけでも、あいつが俺のこと忘れてないってわかるならそれだけでよかった」
「いつの話だ」
「昨日」
「おめでとう」
「ありがとう」

城之内が午前中ずっとうつ伏せていた理由が、それでわかった。無機質なやり取りだった。何の意味もないことを、海馬も城之内も痛いほど理解していた。海馬にはもういいと言えなかった。最後まで聞きたかった。中身も文脈も支離滅裂な言葉だった。何度もわかっている、と言った城之内が、本当はわからないのだということもよくわかった。わからないのではない、わかりたくないのだ。聞こえるか遊戯。お前の大好きな城之内が、ここでお前を呼んでいる。聞こえないのか。奇跡というものがあるならこの瞬間に起こるべきだ。けれども、そんなものが存在しないことを海馬も城之内も悲しいくらい知っていた。城之内はまた身体を半回転させて、ずるりと地面に尻をつけた。遠いな、と呟く。

「3000年だぜ」
「3000年だな」
「そんで次は1000年だって」
「そうらしいな」
「俺たちにとっては信じられない時間だろ」
「そうだな」
「それだけ、待てたなら、あと100年、遊戯の身体で過ごして何が悪かったんだ」

城之内の言葉は既に疑問の体をなしていない。当たり前だ。何しろもういないのだ。まるで揺れない蜂蜜色の瞳が、だからこそおかしかった。城之内は無防備に右手を投げ出している。すっかり灰だけになったタバコをもみ消して、海馬も腰を下ろした。無防備な右手に海馬の左手を重ねても、城之内は何も言わなかった。代わりに、海馬を見つめてぽつりと言った。

「お前見てると思い出す」
「ああ」
「逢いたい」
「俺もだ」
「遊戯には言えない」

愚にも付かない言葉はそれでおしまいだった。海馬は50センチを乗り越えて、そのまま城之内に口付けた。城之内は拒まなかった。半開きの口から、赤い飴が音もなく滑り落ちた。どちらも目は閉じなかった。何度も角度を変えて口付けて、口内を犯して、二人とも息が上がるまで止まらなかった。狭い場所をこじ開けるように犯したのもその場所だった。いつ誰が入ってきてもおかしくない場所で、遊戯に見せ付けるように城之内を組み敷いた。いつの間にか城之内の身体は完全にコンクリートに押し付けられて、生理的な涙で潤んだ目がダイレクトに海馬を見ていた。自ら止めていた海馬の時間はその日からまた動き出した。

「…なあ」
「なんだ」
「俺どうすんの、これ」

嵐のような一時を終えた頃には日が傾いていた。もうすぐ放課後だろう。無理な姿勢で事に及んだせいで、城之内の身体には無数の擦り傷がついていて、コンクリートには説明できない染みがいくつも残っている。何より城之内の制服がひどい有様だった。上半身は上着を羽織ればいいとして、下半身のドロドロは少しばかり誤魔化しようがない。今日を乗り越えても明日着る服がない、と城之内は訴えた。海馬は少し考えて、自分の上着を城之内に放り投げた。無防備だった顔面に硬い布を食らって、城之内は少し驚いた、らしい。

「っおい!何すんだよ」
「責任を取ってやる」
「…海馬?」
「ここで待っていろ。用が済んだら迎えに来る」
「え、」
「帰ったら制服もお前も洗ってやる」
「お、…おう」

立ち上がった海馬を見上げる形で、城之内は案外素直に頷いた。白くも小さくもなく筋張って少し荒れた城之内の手が海馬の上着のふちを握り締める姿を見て、こみ上げるものが愛しさだと気づいた。あふれるものを抑えきれずに、屈んでもう一度触れるだけの口付けをした。唇を話した後に城之内は何か言いかけて、少し考えてから恐る恐る切り出した。

「海馬お前、俺のこと好きなのか?」
「そうらしい」
「らしいって何だよ」
「今気づいた。愛している」
「…そうなんだ」
「ああ、そうだ」
「ふうん…なら、いいか」
「いいのか」

いいよ、と城之内は鮮やかに笑った。何を、とは言わなかった。海馬も訊かなかった。沈みかけた太陽が城之内の金髪を美しく彩っている。遊戯の存在は今でも至上だった。けれども、海馬にとって城之内が唯一であることもその瞬間から覆すことができなくなった。初めから予定されていたように、遊戯の喪失は城之内が埋めた。焦燥も苛立ちも、城之内の感情と混ざって溶けていくようだった。これを馴れ合いと呼ぶのならそれでも良かった。狂おしいほど愛しかった。

海馬が伸ばした手は一度も振り払われなかった。はっきり握り返されたのは数えるほどだったが、それでも拒まれたことは一度もなかった。あの屋上から始まって、そして海馬が逃げ出す三年前まで、ずっと。何もかも許されている気がした。それくらい甘くて密やかな感情だった。

愛していた。世界のすべてを捧げても足りないほど夢中だった。
今でも。


( 馴れ初め。闇遊戯がすきすぎるふたり / 海城連作 / 遊戯王 / 20090318 ) | |