誰 か が 最 後 に 永 遠 を 知 る



渇いた風の吹く10月だった。海馬は薄く日の差す路地を歩いていた。
海馬は雪が降らない北国の大学に通っている。都会の喧騒を遠く離れた、錆びれた私立大学だ。現在は社長業から手を引いて、細々と趣味のような研究だけを続けている。誰も海馬の顔を知らないような場所で二年次に編入して、あっという間に三年が過ぎた。仕事だけが趣味のような、そうでもないような破天荒に過ぎる高校時代からは一変した、地味な生活だ。不思議と海馬はそれを苦痛とは思わなかった。派手なことはすきだ。権力も金も、あって邪魔なものではない。そして持っている以上は持っていない人間とは違うように生きなければならない。だから逆に、全部置いてきた海馬にそうしたことは必要ないのだった。金がないならないだけの生活が、海馬にはできる。もちろんただの大学生よりはよほど裕福な暮らしだったが。

モクバとは主にメ−ルと、手紙のやり取りをしている。会いにはいけない。何より、中学生にKCを押し付けてしまった負い目がある。同時に、M&Wとも距離を置いて久しい。遊戯−この場合はライバルではない遊戯−がKCの主催する大会でデュエルキングとして名を馳せていることだけは、モクバから聞いている。遠慮がちに口を開いたモクバに、おめでとうと伝えてくれといえば、電話の向こうで息を呑むのがわかった。素直に賞賛を送れる自分に少し驚いた。どこかにぽっかり穴が開いていて、そこから感情がすべて抜け落ちたようだった。あんなに追いかけた相手も、こだわった勝敗も、なにもかもどうでも良かった。

大学生活は思ったほど悪くなかった。欠席しなければ単位がもらえるもの、毎回レポート提出が義務付けられるもの、興味深いものもつまらないものもあった。特に何を学びに来たわけでもない海馬は、就職までの執行猶予のような気分で大学に通う連中とよく一緒にされた。目標を持つことが大事だとしきりに諭す年長者がいた。研究室でお茶を勧める老教授がいた。戯れに友人と呼ぶ人間ができた。気まぐれに体を重ねる相手もいた。拒むことも拒まれることもあった。金髪の人間とは頑なに距離を置いた。それは生ぬるい生活だった。苛烈さも鮮烈さもないが、だからこそ穏やかで平凡な日常だった。このまま一生が終わったとしても、海馬に後悔はないだろう。すべては海馬が投げ出したことだ。けれども空虚を埋める人間はいない。当たり前だ、海馬自身がそれを望まない。海馬の中の、どこかの空虚。どこなんてとっくに知っている。ただひとりのために全部捨てて逃げ出した。そのひとりが足りない。ひとりの空虚が、何人がかりでも埋まらない。ただひとりを忘れることができないと知って、もう三年が経った。

大学図書館で本を借りて、銀行に寄って、スーパーを覗いて家に帰る。めぼしい惣菜が見当たらなかったので、今日の夕食も外食で済ませるつもりだった。何の約束もないが、誘えば誰かやってくるだろう。ファミレスの安い味も、慣れてしまえばそう悪いものではない。健康にはどうだか知らないが、学生の薄い財布(これは嫌味ではなく)に釣り合った味、といえばわかりやすい。いい意味でも悪い意味でも分相応という言葉がある。こういうことが三年前にわかっていたら、海馬ともうひとりの関係もずいぶん違ったのかもしれない。断定してもいい、きっと違っただろう。けれどもそれはもう昔の話だ。

咎められたことは一度もないが、断られたことは何度もある。頼むからお前少し落ち着けよ、というのはもうひとりがよく言っていた言葉だ。感情で動くな、後先考えろ、常識を持て、周りを良く見ろ。あの頃はわからなかった一つ一つが今になって腑に落ちる。まったく持って不毛だった。当時の海馬は今の海馬とは違う。あの頃の海馬も、もうひとりも、今ではもうとてつもなく、遠い。

大学から徒歩12分、最寄駅から15分。新しくはないが造りのしっかりした8階建てのマンションがある。ここの6階に海馬は住んでいた。当然エレベーターもついているが、いつも何か理由をつけて故障している。本当はもう動かないのだろうと、住人は噂していた。101号室に住む管理人は何の権限もない飾りで、文句をつけても意味がないのだとも。どうでもよかった。海馬は健康で、足腰も達者だ。3年前なら一瞬で手を回しただろうそれを、今は黙って階段を上ってやり過ごしている。海馬が帰る場所は海馬しかいない部屋だ。友人も女も、そこに連れ込んだことはない。海馬のプライベートに立ち入っていい人間はモクバと、それからもうひとりだけだ。無機質に煤けたコンクリートの壁を眺めるともなく眺めながら、夢のようなことを考える。階段を上りきって、広くもない外廊下を進んで、一番端−606号室−までたどり着くと、もうひとりが立っている。なんでもないようなとぼけた顔で、海馬を咎めることもなく声をかけるのだ。あまりにも都合のいい話だった。海馬にとって。期待してなかったといえば嘘になるが、もうひとりの性格からして、来るとしたら三年前だ。今ここにいないのなら、これから先ここにいることはない。わかっている、だから、夢だ。

惨めな夢を振り払って、階段を上りきった。6階から眺める寂れた町は灰色だ。少なくとも三年前、世界がこんな風に見えることはなかった。いつだて鮮やかに彩られていた、もうひとりの。階段から10歩ほどで606号室、海馬の部屋だ。残り5歩。4歩。3歩、2歩。1歩を残したところで、唐突に金色が見えた。瞬きをする。息を吸い込む。吐くことができない。だってありえない。けれどもあんな色をした人間を、他に知らない。

どうして。

606号室、海馬が一人で暮らす部屋の前には城之内が立っていた。扉に寄りかかっていた城之内は、弾みをつけて背を浮かせ、半歩海馬に近づいた。なんでもないような素振りで、蜂蜜色の髪と目を輝かせてひらりと手を振る。

「お帰り海馬」

まるで昨日別れた友人のような顔で。
三年前に置いて逃げたはずの、もうひとりが。


( 城之内とダメな海馬の話 / 海城連作序章 / 遊戯王 / 20090318 )  |