く だ ら な い 悲 劇 ご っ こ は も う お し ま い



海馬がベッドで眼を覚ますと、一緒に眠ったはずの城之内の姿がどこにもなかった。城と青で統一した飾り気のないベッドルームにも、縺れるように抱き合ったブルーのソファの上にも、膝を抱えて浸かったバスルームにも、海馬が立てば一杯になってしまうキッチンにも、トイレにもベランダにも城之内の姿はなかった。それどころか、昨日使ったゴムも、城之内が飲んだ麦茶のコップも、城之内が放り投げたコンビニのビニール袋も、海馬の部屋には何もなかった。海馬はとてつもない不安に襲われた。どうしようもないくらい情緒不安定だった。まさか昨日、薄い扉の前で城之内が笑ったところから海馬の妄想だったのだろうか。あんなにはっきりとした夢があるのだろうか、と海馬は思う。海馬は、少しずつ成長していた城之内の姿を思い返す。蜂蜜色の瞳、少し短くなった金色の髪、伸びた身長、しっかりした背骨、まっすぐ伸びた指先、…指先。そこまで思い出して、海馬は弾かれるように左手に眼を落とした。果たして、昨日の指輪は今でもそこにあった。海馬は城之内が閉めたカーテンを開いて、真昼の太陽に左手をかざした。細いプラチナの指輪には、小さくダイヤが埋め込まれているだけで他に細工は何もない。だからこれはエンゲージを通り越してマリッジなのだ、と海馬は胸を締め付けられるような気がした。約束をくれた。本当はきっと、三年前にもう城之内は決めていた。

がちゃりと音がして、玄関の扉が開いた。海馬が振り返ると、廊下の先に城之内が荷物を抱えて立っていた。近づいたら消えてしまうような気がして海馬がその場から動けずにいると、脱いだスニーカーをきちんとそろえた城之内は一旦キッチンに消えた。がさがさとビニール袋を揺らす音がして、がちゃがちゃと冷蔵庫の中へ物を放り込む気配がした。キッチンから出てきた城之内は、残ったビニール袋を綺麗に畳みながら海馬に近づいてくる。カーテンの隙間から差し込む光が城之内の蜂蜜色の瞳を柔らかく照らしている。

「おはよう」
「…おはよう」
「腹減ったんだけど、何もなかったから買ってきた。冷蔵庫借りていいよな?」
「ああ」
「いろいろ探したけど、片手鍋しかないんだなこの部屋。フライパンも小さいし。料理はしなかったのか?」
「あまりな」
「そうか。あ、っつうか昨日も思ったけど、ここのエレベータ壊れてるよな。不便じゃねえ?」
「不便だな。三年前から動いているところをほとんど見たことがない」
「それってなんか建築法違反じゃないのか?」
「よくわからんが」

別に上れるからお前がいいならいいけどさあ、と一人ごちて前髪をかきあげる城之内の左手に銀色のリングを見つけて、海馬の胸はひとつ跳ねた。このまま買い物に行ったという。それでは海馬も、ずっとこれを填めていていいのだろうか。誰の眼を憚ることもなく城之内と海馬の関係を公表していいのだろうか。城之内はそれすら海馬に赦してくれるのだろうか。「城之内」と声をかけた海馬を、少し笑った城之内が振り仰ぐ。これからを聞こうとして、けれども海馬は結局何も言えずに城之内の腕を取った。愛しかった。今はそれだけでよかった。

「何だよ?」
「いや」
「お前も腹減ったか?もう飯にする?」
「ああ」
「じゃあ俺用意するから、お前ちょっと蒲団干して来い。いい天気だし」
「わかった」

窓一杯午後の光が差し込む今で、海馬と城之内はゆっくりと食事を取った。城之内が作るものはいつだって簡素で、でもいつでも海馬に幸福を与えた。真夜中のお握りも、アパートでの味噌汁も、モクバの為に焼いたホットケーキも。朝食とも昼食ともつかない食事を終えて、海馬はソファに沈み込んだ。海馬の目の前には城之内がいる。海馬が城之内を眺めていると、城之内は昨日と同じように海馬の足元に寄りかかって言った。

「じゃあ俺、そろそろ帰るな」
「もう帰るのか」
「ん、着替えもないし」
「俺のを着ていればいいだろう」
「お前、すぐ買うって言わなくなったのな」
「あまり物は持たないことにしたんだ」
「いいことだと思う」

ひとつ頷いて城之内は笑った。金を使うことが悪いのではないと城之内は言う。ただ、使い方を誤って欲しくはないのだと。でもお前の服はでかいから着たくないなあ、と城之内は小さく付け加えた。海馬は、ソファに寄りかかった城之内の蜂蜜色の頭にそっと右手で触れる。城之内はずっと海馬にそう言っていた。したいこととしたくないことのはっきりした人間だった。海馬がわからないことがわからなかった、と城之内は言った。わからない自分を、それでも海馬は否定できなかった。それくらい愛していた。愛されることが当然だと思うほど、海馬は自分を肯定できなかった。

「仕事は止めたんだろう。しばらくここで暮らしたらどうだ」
「ふっふっふ、俺が本当に何も考えずに来たと思うか?」
「思う」
「お前と一緒にいるって言っただろ。ヒモなんて冗談じゃないから、もう再就職先は見つけてあるんだよ」
「…そうか」

それではまた城之内には逃げられたのだ、と海馬は少しばかり肩を落とした。今度こそKCに入れてやりたかったというのに。けれども、考えるまでもなく今の海馬にその権利はないこともわかっていた。あの場所はもう海馬のものではない。城之内は、語気を弱めた海馬の右手を取って柔らかく握りこんだ。慰められているのだろうか、と海馬は思う。

「お前こそ、今4年だろ。どうするんだ。留学とか院とか考えてるのか」
「お前が来るまではそれもいいかと思っていたが」
「が?」
「お前がいるなら、俺も帰ろう」
「マジで?」
「ああ」

海馬の手を取る城之内の左手を握り締めながら、城之内と一緒なら帰れるのだろうと海馬思った。城之内無しでは海馬にとって何の意味ももたらさなかったあの場所に。同時に海馬が思うのは置いてきてしまったモクバのことだった。海馬自身の選択に後悔はない。けれども、海馬が城之内の次にひどいことをしたのはモクバだった。一緒にいられないことはなかったのに。モクバは笑ってくれるだろうか、と海馬は思う。もう海馬を必要としないだろうモクバが。だが、逡巡する間もなく城之内が諸手を挙げて言った。

「良かったあー」
「何がだ」
「俺モクバと約束してたんだよ」
「何を」
「お前の居場所を教えてもらう代わりに、絶対連れて帰るって。それが俺の最初の仕事」

城之内は海馬を振り仰いでにやりと笑った。意味がわからなくて海馬は何度か瞬いた。城之内の蜂蜜色の眼に、それでも表情の変わらない海馬の顔が映りこむ。考えてもわからなかったので、結局海馬はぽつりと呟いた。

「…仕事だと?」
「うん。もういいかな。ちょっと俺の上着とって」
「これか」
「そうそれ。胸の、うん、携帯」
「あとで交換してくれ」
「アドレス?ずっと一緒だよ、俺のは」
「3年も?」
「うん。お前からかかってくるかもって、ちょっと思ってた」

なんでもないことのように城之内が言うので、海馬は逆に息が詰まるような気がした。城之内のアドレスを、海馬は今でも暗記している。一度もかけられなかったのは、海馬が少しも城之内を忘れていない証拠だった。一言でも聞いてしまったらさらいに言ったかもしれない。その方が良かったのだろうと、思うのは今があるからだった。何も言えない海馬の前で、城之内は携帯を弄っている。アドレスを引き出した城之内は携帯を耳に押し当てる。

「あ、モクバ?俺。うん、無事会えた。昨日な。あ?言わせるなよ。聞きたいのか。4回。抜かずも入れると5回。うるせーよ、まだ21だっつの。うん。おかげさまで。じゃあ、海馬に変わるな。はい」

何の話をしている、と眉を寄せた海馬に城之内の携帯が差し出される。城之内越しのモクバ。海馬が一瞬躊躇うと、城之内はゆるく頷いて笑った。モクバは海馬を赦してくれるだろうか。海馬は、城之内の笑顔に後押されて携帯を取った。海馬の最初の一声は驚くほど低く掠れていた。

「もしもし」
『兄様?久しぶり』
「ああ」
『びっくりした?城之内』
「すごくな」

お前が城之内とグルだったことに一番驚いた、と海馬は思う。けれども思い返してみれば昨日の夜城之内は言っていた。「モクバに聞いてここに来た」。当たり前だった。海馬の居場所はモクバしか知らなかった。携帯の向こう側でモクバが笑う。海馬が久しぶりに聞く声だった。

『へへ。本当は教えないつもりだったんだ。兄様に言われてたし、兄様も城之内も、忘れたほうが幸せかもしれないって思ったから』
「モクバ」
『でも、やっぱりそんなの違うって。兄様たちは何も悪いことなんてしてない。好きな人とは一緒にいたほうがいい』
「ああ」
『俺も…兄様と一緒にいたい』
「ああ」

三年間、モクバは一度も海馬に言わなかった。電話口の向こうで、感情を押し殺した声で、気丈に振舞っていた。モクバは海馬のことを良く知っていた。だからこそ、海馬はモクバのことを知らなければならなかったと言うのに。ただ肯定することしか出来なかった。それ以上何を言っていいか分からなかった。城之内の為に捨てたというのに、海馬が城之内と一緒にいることを赦してくれた。それが幸せだと、モクバは言った。

『帰ってきてくれる?また俺と暮らして、一緒に、KCで』
「お前が望んでくれるなら」
『ありがとう、兄様』
「…それをいうのは俺のほうだ」
『いいよ、言わなくてもゆるしてあげる。兄様だもん。』
「モクバ」

顔が見たかった。モクバの声を聞いて、きっと随分伸びただろうその姿を眼にして、抱きしめたかった。もうそんなことを望みはしないモクバに、それでも海馬を拒みはしないだろうモクバに。今度こそ泣くかもしれないと海馬は思った。けれども、モクバの次の言葉が海馬を一瞬で現実に引き戻した。

『それじゃあ、後のことはそこにいる兄様の秘書に任せるから』
「…は?」
『今までのKCとか、これからのスケジュールとか、復帰の挨拶とか、全部聞いていいからね』
「ちょっと待てモクバ、どういうことだ」
『あ、ごめん兄様電話だ。楽しみにしてるから、じゃあね!』
「モク…」

混乱する海馬を置き去りに、笑いを含んだモクバの声を残して通話は切れた。未練がましく携帯を耳に当てる海馬を、目の前の城之内が見上げている。分かり合っている様子のモクバと城之内にすこし胸を妬いて、その前にすることがあるだろうと海馬は思う。海馬は閉じた携帯をソファに放って城之内を見下ろす。済ました顔をする城之内の唇の端がぴくぴく動いている。摘んでもいいだろうか、と海馬は思う。冷静になってモクバと城之内の言葉を繋ぎ合わせると、少しずつ中身が見えてきた。どんどん眉根が深くなる海馬を、城之内はやはり笑い出しそうな顔で見ている。

「…どういうことだ」
「んー?聞きたい?」
「当たり前だ。全部話せ。大体仕事とはどういうことだ」
「たいした話じゃないって」

海馬の足元から立ち上がった城之内は、汚れても居ない膝を払って芝居がかった咳払いをひとつ落とした。背筋を伸ばした城之内は柔らかい双眸を海馬向ける。それからにっこり笑って城之内は一息に言った。

「この度KC社長秘書になりました城之内克也です。若輩者ですので至らない部分も多いかと存じますが、おはようからおやすみまで手取りナニ取り存分に励ませていただきますので、何卒ご容赦願います。ヨロシクオネガイシマスv」

城之内の語尾はきっちりハートマークつきだった。営業スマイルの城之内とたっぷり三分間見詰め合って、海馬は大きく溜息をついた。昨日とは違う意味で何を言っていいかわからなかった。首を落とすと、すとんと座り込んだ城之内がにやにやと海馬を覗き込んでくる。悪戯が成功した子供のような顔だった。その通りなのかもしれなかった。

「…貴様、3年前あれほどKCへの就職を拒んだことを忘れたか」
「ああ、だってあれは違うんだよ」
「何がだ!」

海馬のしおらしさもそろそろ限界だった。城之内があの時それを拒まなければここまで拗れることもなかったというのに。釈然としないのは海馬が嬉しいからだろうか。それでも海馬は喜んでいた。モクバがさりげなく海馬の帰る場所を示してくれたことに。城之内が海馬のプライドを刺激しないように演出をくわえたことに。だからこれは八つ当たりだった。照れ隠しかもしれなかった。

「俺お前からもらった金で借金返済したくなかった。お前がくれた金を、俺の都合じゃないことに使いたくなかった。俺とお前のことに使いたかったんだ、全部」
「それを早く言え」
「恥ずかしかったんだよ、あの頃は」
「今はいいのか」
「お前より大事なものなんてないってわかったからいいんだ」

ストレートに返されて海馬は言葉に詰まる。城之内の物言いがはっきりしているのは元からだったが、こんな風に海馬を差すことにはまだ慣れない。口元の笑みを消した城之内は当たり前のことを語る顔で、少し傾げた首で海馬に言った。

「俺、今はお前のこと少しわかるよ。俺がお前を好きだから、いいんだ。お前が俺なんてどうでもよくても、もう嫌いでも、顔も見たくなくても、殴ってでも犯してやろうと思ってきた」

城之内の語調は静かだったが、中身は熱烈な告白だった。それでも、「いいんだ」と言った城之内の口元が少し歪んだことに海馬は気付いてしまった。好きだからいいなんて、そんなことは本当だった。ただ、それだけではないほうがいいに決まっていた。似ていたのだ、と海馬は思う。同じ物だったのかもしれない。本当はあの屋上で、同じ瞬間を過ごしたときからわかりきっていた。わからなかったのは海馬だけだった。

「なあ、いいんだよな?これが、愛ってことで。俺とお前なら」

答える代わりに、海馬は城之内を膝の上に引き上げた。額をつけるようにして抱きしめる。城之内の顔を見ていたかった。どれだけ近づいても眼を閉じない城之内が好きだった。城之内もやんわりと海馬の背に手を回した。長い口付けの後で、海馬は口を開いた。

「…愛人権秘書とは、あまりにもベタベタだがな」
「セオリーどおり行こうぜ、社長?一度くらいなら網タイツ・タイトスカートにメガネ咥えて机に座ってやったっていいぞ」
「ああ、いずれな」

真顔で肯定してやると、「モクバは怒るだろうなあ」と城之内は海馬の耳元でくすくす笑った。この体格で女装は笑い事にしかならないだろうが、一度くらいなら着せてみてもいいと海馬は思う。ノリのいい城之内のことだから、きっと社内で卒なく仕事をこなしてくれるだろう。その格好で。想像して、海馬も少し笑った。

「それで、いつ帰ってくる?モクバも寂しがってるし、俺もお前のいないお前の家に帰るのってちょっとな」
「俺の家に、帰る?」
「ああ、だって俺住み込みだったから。前のとこやめてすぐに、お前の家に世話になってる。モクバには頭あがんねーよ」
「いつからだ」
「えーと、2週間前?」
「それを早く言え。買えるぞ」
「えっ今から?学校は」
「どうせもう講義はない。卒論も提出済みだ」
「ええー…お前どうせゼミとかで君臨してんじゃねえの?そんないきなりでいいのかよ」
「フン、この期に及んで他人のことか。貴様はどうだというのだ」
「…一緒に帰りたいけど」
「ならば今すぐ帰宅だ、磯野!は、いないのだな。…城之内」
「はいはい。もう手配済みですよ、社長」

にやりと笑った城之内の上着からは、新幹線のチケットが二枚出てきた。指定席の日付は今日だった。城之内からは何でも出て来るのだと海馬は思った。海馬に必要な全て。城之内に回した腕に力を込めると、城之内はチケットをポケットに戻して言った。

「本当に変わってないよな、お前。思い立ったら即行動!ってちょっと直したほうがいいぜ?」
「わかっていたくせに何を言う」
「そうだけど。この町に愛着はねえの、3年間暮らしたんだろ」
「ないな」
「あっさり?」
「ここにはお前がいない」

全ては海馬のせいだった。わかりきっていた。信じられなかったのは海馬だった。赦されていたのも、甘えていたのも、割り切れなかったのも、弱かったのも全て海馬だった。城之内は最初から全て決めていたのに。愛してくれていたのに。愛しているだけでいいと思ったのは本当だった。それは海馬の真実だった。けれども本当にそうだと思い込んでいたのは海馬の弱さだった。それだけでは駄目なことも、本当は最初からわかっていたはずなのに。言い切った海馬を、城之内が優しい目で見ている。城之内は、海馬の背に回していた手を伸ばして海馬の頭をゆるゆると撫でた。

「卒業式には帰ってこような。俺とモクバで出てやるから」
「いらん」
「そんなこというなよ、証書もらってこいよ」
「学位ならアメリカで取得済みだ」
「そういうことじゃなくてさ、俺も見てみたいんだよ」
「何を」
「お前が三年間居た場所を、さ」

するりと膝を降りた城之内は、昨日と同じ姿で海馬を見つめている。黙って差し出された腕を握る。もう二度と離さなくてもいいのだと海馬は思う。思ったので、城之内の手が離れても海馬はもう平気だった。行こうぜ、と目線で促されて、薄い色の扉をくぐった。灰色にすすけていた町が午後の光に明るく照らされていた。動かないエレベータを横目で眺めて、ふたりで階段を下る。なんとなく城之内の腰を支えてしまって、いや、別に慣れてるから大丈夫だとやんわりと否定された。三年ぶりだというのにずいぶん余裕だった。それでも、最初から城之内はそうだった。リズミカルに階段を下りきる城之内の背骨を見ていた。

「---、城之内」
「え?」

振り仰いだ城之内を追い越して、海馬は降り注ぐ日差しの中へと飛び出した。海馬を追う城之内の足音が聞こえた。海馬を呼ぶ城之内の声が聞こえた。城之内と一緒にいたた。城之内のいる世界は昨日までとまるで違う色をしていた。海馬の世界は城之内で出来ていた。
何もかも愛しかった。









細い雨を受けながら海馬が辿り着いたのは煤けたマンションだった。何の感慨もなくエントランスをくぐると、エレベータは故障していた。海馬は、全て事務的に処理を進めた不動産屋の顔を思い出そうとして、止めた。***は毎朝集合住宅の階段を駆け上って新聞を配達するのだといっていた。***にできるのだから、海馬がたかだか6階まで登れないわけがない。息も切らさすに上りきった階段から、通路の端まで進む。誰もいるはずのない扉を開く。梱包されたままの、驚くほど少ない海馬の荷物が目に入った。生活に必要なものは全てこちらで揃えるつもりだった。海馬の部屋にあったものには、***の記憶が染み付いていた。忘却は望めないことがわかっていた。忘れられるくらいなら今頃海馬はこんなところにいなかった。もう会えない。***に。足が震えた。海馬はふらふらとまだカーテンもない硝子戸の前に座り込んだ。空からは絶え間なく細い雫が降り注いでいる。ここには誰もいない。何もない。思い出すものは海馬の記憶しかない。海馬が見るともなしに眺めていた床の上に水滴が落ちた。雨漏りだろうか、と思った海馬の視界を歪めて水滴はどんどんフローリングを濡らした。低い嗚咽が漏れた。拭うこともできなかった。だってここには***がいなかった。もうどこにも進めなかった。子供のように泣きじゃくりながら***を思った。ほとんど笑顔が浮かばないことで余計に涙が溢れた。笑わせることも出来なかった。一緒にいられなくて当然だった。海馬が選んだことだった。***の前で泣けばよかった。泣いて縋ればよかった。きっと一緒にいてくれた。できない海馬が悲しかった。惨めで滑稽だった。もう帰れなかった。それでも会いたかった。愛していた。あいしていた。あいしていた。空っぽの部屋に、空っぽになった海馬の声が空しく響いていた。
雨は翌日止んだ。
海馬の嗚咽は、三年後まで止まなかった。


( 少し、たくさん、完全に / 海城連作 / END / 遊戯王 / 20090411 )  |