※「彼は知る、神が思想でしかないことを」の続編です
590話のネタバレを含みますのでご注意ください



彼 は 知 る 、 神 が 思 想 で は な い こ と を


青い光が柔らかに差し込む午後だった。モビー・ディックは、海の底を直走っている。風を受けることのない帆に波を受けて、海流と潮流をうまく操る航海士には頭が下がるばかりだ。甲板に出ることができない今は、狭い船室に大勢の船員がひしめきあって、けれどもその士気は高まる一方である。普段は4隻に分乗する隊長も、この航海ばかりはモビー・ディックに集結して、親父と角を突き合わせていた。1番隊隊長の、マルコを除いて。

全16隊の(現在は3人欠けて29人の)隊長と副隊長が集まる集会から抜け出して、マルコはマルコの自室に籠もっていた。マルコの部屋には、壁一面に作りつけられた棚がある。横幅は船室と同じだけ、高さは天板を天井に任せるだけ、奥行きはそれほど深くないが、狭い船室をさらに縮めてなお余りあるだけのことはあった。マルコはそこに、マルコの持ち物をほぼすべて並べている。僅かばかりのベッドリネンとタオル類だけはベッドの下に押し込んでいるが、趣味で集めている海図も、読むだけの本も、誰かが寄こしたガラクタのような土産も、きれいな石も、今日着る服も、昨日飲んだ酒瓶も、敵船から奪った宝も給料もゴミも、すべてが整然と、そして雑然と詰め込まれていた。整頓はできるが整理しないマルコにとって、この棚は人生の縮図のようなものであって、捨てられないわけでも片付けられないわけでもないのに物は拭きだまるばかりだった。またそうしたことを、マルコより理解している奴が一人いて、これまたマルコが気に入りそうな上に何の役にも立たないようなものをいくらでも積み上げて行ったり、またもう一人は何も分かっていないだろうに、マルコにいろいろなものを寄こすので、それもまた、マルコの棚に層を作って行く。意図的と無作為と、どちらの方が質が悪いのかを考えて、結局どちらも拒むことのできないマルコ自身が悪い、と結論付けるマルコは、今日もがさごそと棚を整理している。

マルコの棚に、小さな引き出しが置かれたのはつい最近の事だった。ティーチを追って船を飛び出したエースがわりと頻繁に手紙を寄こすので、書類置き場ではなくエースの手紙置き場を作ったのである。いつも島を離れる間際に送られるエースの手紙には、マルコの知りたいエースの近況やこれからの動向は一文字も書かれておらず、ただ今までいた島と、その島で見た美しいものや楽しかったことや、それからモビー・ディックでの思い出が綴られるばかりで、だからマルコはあまりその手紙を読み返せないのだった。ただし、エースの手紙にはいつでも何かしら小さな「物」が同封されていて、それは花の種だったり(思い出したから)、鳥の羽だったり(青い羽だ)、小さな象牙細工だったり(親父に似ている、と書いてあった)、目が覚めるような色のキャンデーの包み紙だったり(これがすごくうまかった、と強調している)、殴り書きのわりにやけに正確な海図だったり(宿のおっさんが宝の地図だと言ってた)、きらびやかな木工細工の栞だったり(特産なんだと)、マルコには使い道の無さそうな飾り紐だったり(マルコももっと装飾品つけたらいいんじゃねえかな)、古い貨幣だったり(これお釣りだったんだけど見たことねえから)、そうしたものを見るだけならマルコにも耐えることができる。何も分かっていないだろうエースが、けれども一番マルコのことを知っていて、引き出しを開けるたびにマルコは少しだけ笑ってしまう。なぜならばそれは、エースが船に乗って2年間、毎日のようにしてきたことだったからだ。

ぱたん、と、エースの過去を詰めた引き出しを閉めて、マルコはようやく顔を上げる。ベッドと棚と、棚に渡した天板でできた机とでほとんどいっぱいになってしまうマルコの部屋は、マルコとサッチと、それからエースを詰めて、それで終わりだった。それ以上も其れ以下もない。これだけ狭い部屋を、マルコ一人ではどうしても持て余してしまう。だからマルコは、エースがマルコに懐いてからは自重していた、部屋で寝ない癖をまた発動させて、食堂の椅子の下や倉庫の扉の前や人通りの少ない裏廊下やまだ血の跡が残るサッチの部屋で惰眠を貪っていた。それはマルコにとって一種の願掛けのようなもので、やはりきままに眠っていたエースの軌跡を追う意味もある。どうしても部屋にいなければならないとき、マルコはよく不死鳥に変わっていた。鳥の思考は人間のそれより随分単純にできていて、二つ以上の事を考えることはできないので、サッチとマルコがいたことにさえ集中してしまえば、今いないと言うことを思い出すこともない。サッチとエースがいない数カ月をそうして乗り越えて、ぽつぽつと届くエースの便りをやり過ごしながら生きたマルコに、バナロ島での一件はあまりにも衝撃的で、モビー・ディックで向かう道程すら待ち切れずに飛び立ってしまったことは今も記憶に新しい。本当は、いつでも知ることができたエースの行程を、マルコが追わなかったのはエースを信じていたからである。だからそれが打ち砕かれた瞬間、マルコはきっとひどい顔をしていた。絶対、などと言う言葉はないことを知っていたと言うのに、マルコはいつの間に夢を見るようになったのだろう。エースとティーチの戦いが紙面を賑わせる前、エースの炎の焦げ跡も、ティーチの能力の爪痕も新しいバナロ島に訪れたマルコは、間に合わないことを知りながらエースを探してしまった。白ひげ海賊団が仕入れた情報が誤っていて、本当は、エースはまだこの島のどこかで仲間の助けを待っているのではないか、と。けれども、全てがまっさらな瓦礫と灰に覆われた島にはエースの影も形もなくて、唯一、大きく抉れた地面の端に落ちたエースのテンガロンだけが鮮やかに赤い影を落としている。そっと拾い上げたそれを見るマルコの視界がぐらりと歪みそうになって、マルコは慌てて青い焔を噴きあげた。不死鳥に、ならなくては。エースが好きだと言った、青い鳥の姿だ。嘴の先でそっとテンガロンを咥えて、ばさりと飛び上がったマルコの眼下には全速力で舵を進めるモビー・ディックが映って、ぱちりと瞬いたマルコは、船の針路を変えるために大きく翼をはためかせる。エースのいないこの島に、もう用はなかった。

マルコが持ち帰ったエースのテンガロンを見て、親父が下した決断はひどく単純なものである。

「エースを迎えに行くぞ」

と言った親父の顔は、焦っても歪んでもいなくて、これから海軍の本部に乗り込みに行くのだとはとても思えなかった。親父の前に集っていた隊長格の誰も異論を述べることはなくて、マルコだけが一言、「その価値があるかよい」と尋ねるわけでもなく呟いた。仲間のためとはいえ、勝手に飛び出していったエースに、白ひげ海賊団の総力を挙げて迎えに行くだけの価値があるのか、と。ざわめいた隊長達の声を遮るように、グララララ、と親父は大きく笑って、「命を掛けた息子に、命を預けねえ道理がどこにある」と言った。穏やかな声だった。そうして、「お前はもうそのつもりだろう」と返されたマルコも、大きく笑み崩れて「よい」と頷いた。それからの話は早かった。まず、隊長を失くした2番隊と4番隊を他の船に移動させて、5から16番隊の隊員を300人分、モビー・ディックに乗船させる。これには2番隊と4番隊から随分抗議があったが、エースのテンガロンを渡してやったら途端におとなしくなった。エースが率いた2番隊と、エースを仰いだスペード海賊団の面々にとって、エースのいない船がどんなものなのかは想像してなお余りあるものだ。だからこそ、彼らには後方にいて欲しかった。エースのためなら何を犠牲にしてもかまわないだろう彼らは、きっと簡単に命を散らせてしまう。それはあまりにも忍びなかった。何より、船に帰ってきたときのエースのために、彼らには無事でいる義務がある。マルコが、何があっても生きてエースを迎えたいと思うように。


あれからもう、1月ほどが経過していた。モビー・ディックは順調に進んでいたが、エースの公開処刑日は迫るばかりである。一刻も早く、とはやる気持ちを抑えて、モビー・ディックが海底にいて良かった、とマルコは思った。これが海上を進んでいたら、マルコはひとりで飛び立たない自信がない。何一つ勝算がないと知って、それでも羽ばたきたいマルコは、出来る限りエースの事を考えずにいる。けれどもそれは難しい話だった。マルコが呼吸するモビー・ディックには、どこを見てもエースの感情が染み付いて、マルコはうまくそれを切り離すことができない。エースは、マルコに何でも話した。昨日見た夢の感想、今日起きた時間、頭上に広がる朝焼けの色、朝食で一番うまかった料理の味、立てつけの悪い扉の音、廊下に浮き出た染みの形、水を飲んだ回数、エースがマルコを好きだという同じ口で、マルコ以外の全ても好きだと紡ぐエースが、マルコは愛しくてたまらなかった。どこにいても思い出せるエースが、手紙で同じことを繰り返しているエースが、今ここにいないことを思うだけでマルコは笑ってしまうのだ。泣くわけにはいかないから、笑うしかなかった。エースが寄こす全てがマルコを形作るものになるだなんて、エースは想像もしていないだろう。それでいい、とマルコは思う。マルコは自由奔放なエースを愛していたから、エースがマルコに縛られることは耐えられなかった。だから言わなかったのだ。最後に会ったときに、エースに向かって言いかけた言葉と、エースが答えかけたことを思い出す。後悔していないと言ったら嘘になる。現に今、エースは海軍に捕えられて、その首がいつ凶刃に倒れてもおかしくはない。海賊だからこそ、海軍がそれほど清廉潔白でないと知るマルコにとって、「公開処刑」が本当にその時間に行われるかどうかも疑わしいものだ。だからマルコは思い出を整理している。このままずっとこの部屋で、サッチとエースを思い出して生きることだってマルコにはできることを知っていて、それもきっと、マルコにとってそう悪いものではないことも分かっていた。ただしそれは後悔に後悔を重ねて、ただ生きるだけの生涯である。マルコは海賊になった瞬間から、つまりは親父に掴まってからずっとマルコ自身のものではなかったので、それは「生かされている」と言っても過言ではないかもしれなかったが、それでも、マルコは白ひげ海賊団で充実した日々を送っていた。眩い日差しの下で、打ち寄せる波飛沫の中で、燃え盛る火の粉の最中で、降りしきる粉雪の元で、マルコの隣にはいつでもサッチとマルコがいる。目を閉じるだけで、むしろ閉じなくてもありありと浮かぶその光景は、マルコに過去だけでなく未来すら与えてくれるような気がして、けれどもそれが錯覚だと言うことをマルコは痛いほど理解している。サッチを失くして、エースを手放して、それでも悲しいほど冷静なマルコは、もうすでにどこか一番深い場所が欠けていて二度とそれを埋めることができない、ような気がした。そしてそれすらも確実ではないと言うことも。マルコはきっと、近いうちにサッチの事を過去にしてしまえるだろう。エースを取り戻した後であればなおさらだ。白ひげ海賊団の総力を挙げて奪い返しに行くエースは、マルコを見て笑ってくれるだろうか。そしてマルコは、エースを見て笑うことができるだろうか。間にあうだろうか。誰も欠けることなく、エースを取り返すことができるだろうか。エースが戦闘の度に、仲間を失う度に、細く炎を揺らめかせてその魂を送っていた事を知るマルコは、エース一人を連れ戻すためにどれほどの犠牲を払うかを計算していて、そしてその結果帰ってくるエースがどれだけ心を痛めるかを考えるだけで胸のすくような思いをしていた。マルコはエースをあいしていたから、エースがエース自身を粗末にする度にエースに怒りを覚えている。エースを送り出してやったのはマルコだったから、マルコにはエースを迎えに行く権利があって、それは白ひげ海賊団全ての総意でもあった。「自己責任」だと思っているだろうエースに、エース一人では責任のとれないことだと見せつけてやることがエースにとって一番堪えるだろうとマルコは思う。エースは後悔したらいい。死ぬことも、殺されることも大したことだと思ってはいないだろうエースの目の前で何人もの犠牲を出して、それが全てエースのせいなのだと、エースを愛しているから起きたことなのだと、きちんと理解させた上で取り戻すのだ。そうすればきっと、もう二度とエースは白ひげ海賊団から逃げ出したりはしないだろう。けれどもそう思うマルコの思考にだって、誰一人欠けずにエースを迎える未来は浮かんでいて、あり得ないと知っていても願わずにはいられない。

マルコが余すところなく物を詰め込んだ棚を見渡したところで、控えめに扉がノックされて、「開いてるよい」と返したマルコの、部屋の扉を開いたのはジョズだった。2番隊と4番隊がいなくなって、モビー・ディックに乗り慣れているのは1番隊のマルコと3番隊のジョズだったから、ジョズがマルコを迎えに来ても何も不思議なことはない。ノックと同時に扉を開くエースや、叩きもせずに開けるサッチを思い出してしまうのは、単にマルコの我儘である。「航海士と、親父さんが呼んでる」と穏やかに告げるジョズに軽く頷いて、マルコはマルコの部屋に背を向けた。「いいのか?」と尋ねたジョズに、「何がだよい」と素知らぬ顔で後ろ手に扉を閉めたマルコは、それきり振り返りもせずに親父の部屋へと歩を進める。黙って隣を歩くジョズの顔があまりにも沈痛なので、「辛気臭い顔してるんじゃねえよい」と言って、マルコはジョズの背中をどやした。お前に言われたくはない、と返してくれたらいいと思っていたマルコは、「マルコはすごいな」と言われて逆に驚いてしまう。「どこがだよい」と目を細めたマルコに、「あんなに仲が良かったのに、今も冷静だ」とジョズは返して、そう見えるなら良かった、と、評価通り冷静な脳でマルコは考えた。長い付き合いのジョズにもわからないのだとしたら、これはもうサッチにしか伝わらないのだろう。エースにはきっと理解できない。その方がいいと思う。「取り乱したところで、エースとサッチが帰ってくるわけじゃねえよい」と肩を竦めたマルコに、そうだな、とやはり悲痛な顔でジョズは答えて、無理に笑って見せようとするから、マルコは今度は穏やかにジョズの背中を叩いた。悲しくはないマルコがおかしいことを理解しているマルコは、優しいジョズを非難するつもりもない。「すぐ帰ってくるよい」とことさら軽くマルコは言って、答えのないジョズの背をさらに2,3度、なだめるように擦った。それは、マルコ自身に言い聞かせるようでもあった。






信じていた。






見慣れない天井と、丸窓と、磨きこまれた床板と、モビー・ディックとは別のワックスの匂いに囲まれたレッドフォースの一室で、マルコは血の気の引いたエースと親父の顔を眺めている。半分ほど欠けてしまった親父の顔は清潔な包帯に覆われて、シャンクスが閉じた片方の瞼も、全身に受けた銃創と刀傷の血も、綺麗に拭われていた。その目から大粒の水滴が落ちたことを思い出して、マルコはまたぽつりと涙を落とす。処刑台の上にエースを見た瞬間から、長いこと堰き止めていたマルコの涙腺はどうにも溢れてしまったらしい。本当はわかっていたのだ。認めてしまえば、それが事実になることを知っているマルコは、悲しむことすら遠ざけて、全てをなかったことにしてしまいたかった。目を閉じて、耳を塞いで、一番つらい時期さえ乗り越えてしまえば、あとは風化して形骸化した思い出を抱いて生きていくことができる。けれども親父は、エースは、サッチは、それすらマルコに許してはくれなかった。何度も、鮮やかなまでに残酷な現実が怒涛のように押し寄せて、流れることのできなかったマルコは、生きて今日を見つめなければならない。流れる涙を拭いもせずにエースの腹に目を移して、嫌な色に塗れる、ぐるぐる巻きの布に手を伸ばす。これはエースの血だった。マルコとは別の意味で丈夫なエースの、こんなにたくさんの血を見るのははじめてで、死にたがり、と称したマルコの評価が間違っていなかったことを知る。エースは、エースの弟を知らない白ひげ海賊団ですらそれを守りたくなるほど弟を愛して、まるで憚ることがなかったから、エースが弟を庇ったことに誰も、何の疑問も抱いてはいない。末っ子で次男で長男のエースを助けに来た1600人の兄弟と1人の親父は、だからたった一人の弟を守ったエースをとてつもなく誇りに思っていて、けれども、だからと言って悲しみが消えるわけではなかった。数十年、白ひげ海賊団を支えたモビー・ディックを置いて、親父とエースと、皆で乗り込んだシャンクスの船には拭い去れない死臭が確かに立ち込めていて、マルコはどうしてもそれを掃うことができない。付き添い、と称してエースと親父の隣に陣取ったマルコを、横たわるエースと親父を、誰も訪なうことがないのがその証拠だった。瞬きしたマルコの目からはまた一粒涙が零れて、ささくれた床板を濡らしている。と、唐突に、エースと親父の向こう側の扉が開いて、入ってきたのはシャンクスだった。さすがにいつもの笑みを消して、軽口をたたくことのないシャンクスが、親父に随分敬意を払ってくれていることを知っている。「よう、」と言ったシャンクスは、すたすた歩いて、マルコの隣の丸椅子に腰を降ろす。「よい」と返したマルコは相変わらずぱたぱたと涙を流していて、ちらりとマルコを見たシャンクスは「ハンカチがなくて悪いな」と言った。「構わねえよい」と呟いたマルコには涙を止める気も、その術もないので、泣くなよ、とは言わないシャンクスがありがたかった。

しばらく黙っていたシャンクスは、マルコが深く息を吐いたのをきっかけに、「お前らの親父と、ロジャー船長は、わりと仲が良かった」と漏らす。思い出話を聞いたことがあるマルコが「ああ」と頷けば、「オーロ・ジャクソンはそこまででかい船でもなかったし、白ひげ海賊団のように『家族』じゃあなかったが、それでも良い仲間で、船長が船を解散すると言った時には驚いた」とシャンクスは続ける。そうして、「あんなに強かった船長が、断頭台で首を落とされた時よりもっと驚いたんだ」と、シャンクスは笑った。その笑い顔が、エースの顔によく似ていて、マルコは泣くことも忘れてシャンクスを眺める。あのとき、弟に伝言を頼むエースの言葉はうまく風に乗って、さらには人のものより数倍性能の良い不死鳥のマルコの耳にすべて、届いてしまった。愛してくれて、とエースは言った。エースはいつでもよく笑って、時には泣いて、怒って、食べて、眠って、生きていたけれど、あんなに胸を掴まれるような顔で、泣きながら笑ったのは初めてだった。マルコやサッチや親父や隊長や隊員やエースの弟や、そしてきっとティーチだって、エースにそれを教えたくて、けれども誰もあんな風に知ることなんて願ってはいなかったのだ。マルコは後悔している。マルコがマルコの矜持と、それから臆病風に吹かれて伝え損ねた感情を、エースはきっともうずっと前に知っていたのだ。ちゃんと、正しい言葉で伝えてさえいれば、エースは「愛してくれて」ではなくて「愛している」と言ってくれたかもしれない。またぽたり、と涙を落したマルコには構わずに、「俺たちは船長の遺体を引き取れなかったが、お前らの親父はちゃんと船長を弔ってくれた」と、シャンクスは笑顔のまま親父を眺めて、「だからこれは、俺からの弔いだ」と、次にたどり着く島の地図をマルコに渡した。広げて見たマルコの視界には新世界の、親父が愛した春島が広がって、「シャンクス」とマルコは数十年ぶりに、シャンクスの名を口にする。「なんだ」と言ったシャンクスに、「ありがとよい」と絞り出すような声でマルコは答えて、海図が濡れてしまわないように片手で顔を覆った。シャンクスだけではなく、親父と、エースと、エースの父親と、エースの弟と、それからサッチにも伝えたかった。シャンクスはマルコの言葉に対して特に何の感想も述べず、「船が付くのは明後日だ」とだけ告げて、マルコの肩に手を伸ばしかけたが、結局マルコに触れることはなくエースの髪を撫でて部屋を出ていく。シャンクスの手があまりにもやさしいので、マルコは昔シャンクスが語ったゴール・D・ロジャーを思い出して、今更生きているうちに会ってみたかった、と思った。きっとエースを愛しただろうロジャーを、エースを知る前のマルコが知っていたら、マルコはもっと上手にエースをあいせたのかもしれなかった。そっと顔から手を離して、海図をシャンクスが座っていた丸椅子に置いたマルコは、数時間ぶりに椅子から立ち上がる。海楼石を嵌められた分だけ治りの遅い傷が(それでも半分がた塞がってはいるが)少しだけ痛んだが、いつでも痛みだけは感じるマルコにとってはたいして苦でもなくて、マルコはぐるりと親父を迂回してエースの枕元に辿りついた。真っ白なエースの顔には泣き崩れた痕と笑顔が残っていて、マルコはするりと傷だらけの頬を撫でる。それからマルコは、しっかりしたエースの首の後ろに手を回して、赤い飾り玉の留め具をかちりと外した。少しだけ心もとなくなったエースの首に手をかけて、マルコはしばらく目を閉じている。伝えるべきか止めるべきかしばらく迷って、結局マルコは、愛している、とは言わずに、血の気のないエースの額に唇を落とした。親父とエースと、マルコしかいない部屋で、また一つ涙を零したマルコは、親父もサッチもモビー・ディックも失くした世界で、生きていかなくてはならない。それは何も持っていなかった18の時と同じ状況で、でも知ってしまった分だけ、マルコはあの頃よりずっと脆い存在だった。世界の広さと狭さと、己の強さと弱さを知ってしまったマルコにとって、これからはどうしようもなく長く、そして単調に見える。耐えきれるかどうかを思って、生きていくだけならまるで問題がないだろうとマルコは笑った。泣きながらではうまく笑えなくて、どうしてもシャンクスやエースのようにはいかなくて、マルコはここにサッチがいなくて良かった、と思う。きっと笑われてしまう。エースがいたら庇ってくれるだろうが、エースにマルコの泣き顔を見せるわけにはいかない。もう二度と訪れない瞬間を、あまりにもリアルに想像できて、マルコはさらに涙を止めることができない。愛したからこそ辛くて、悲しくて、認められなくて、覆しようのない、現実だった。

それでもマルコは、サッチとエースを愛したことを後悔したりはしない。
おそらく隊員の前では涙を流せないマルコは、握り返されないエースの手を握りながら、春島に雨が降ればいいと願った。渇いたマルコを、空が潤してくれますように、と。信じてはいないマルコの下で、エースはじっと目を閉じている。今にも目を開きそうな顔で、微笑んでいる。

(エースが出て行ってから590話の直前まで / マルコ→エース / 親父、サッチ、シャンクス / ONEPIECE )