※サッチ死亡前後捏造。エースがティーチの後を追うまで。
サッチの描写が微妙にR15Gくらいかもしれないので、血やその他苦手な方は注意してください。




彼 は 知 る 、 神 が 思 想 で し か な い こ と を



その夜、波はひどく穏やかだった。島影も見えない遠い深い海の沖合で、白ひげ海賊団は静かに船を進めている。その船べりから暗い海面を見下ろして、エースは小さく息を吐いた。暗い波は呼吸するように蠢いている。なにもいない。普段は真夜中でも人の気配がする甲板に、今日は誰もいない。かわりに、船内では大勢の意思が動いている。誰も、立ち止まってはいられないみたいに。エースはもう一度、今度は大きく息を吐いた。何かしていないと足が震えてしまいそうなのに、一歩でも動いたら認めてしまうような気がして、それでももう現実は覆らないことを、エースは知っていた。何をしていいのか分からないが、何をしてはいけないのかは分かっていた。白ひげに言われていた。けれども、エースは、どうしてもしなくてはならなかった。だって。

数日前まで、船はこの海のように穏やかだった。いつものように目が覚めて、いつものように襲撃があり、いつものように勝って、いつものように宴会に突入した。いつものように。輪になって飲んでいたエースとマルコとサッチと、それからティーチは、いつものように他愛のない話をして、それからついでのようにサッチが、「さっきの船でこんなん見つけたぜ!」と笑いながら差しだしたのだ。悪魔の実を。「食うのか?」と尋ねたエースに、「そうだなそろそろ、お前らみてえになるのも悪くねえよな」とサッチは豪快に笑った。「でもそうするとお前らが沈んだ時に助けに行けなくなるな」と、割と冗談でもなくサッチが言うので、エースは黙ってサッチの背中を張り倒した。ブッ、と酒を噴き出したサッチに、「きたねえ!!」と叫んで、「照れんなよエース」と笑うサッチの顔を押し返す。照れるだろ。そりゃ。そっぽを向いたエースに、「以外と可愛いよなお前」とサッチはまた笑って、真っ黒な実を夜空にかざした。零れ落ちそうな星空の下で、実は禍々しく存在を主張している。「これって皮は剥くべきなのか?」とサッチが尋ねるので、「俺が食った時は剥かなかった」とエースは返した。「マルコは」とサッチはマルコに向き直って、「俺が食った実は明らかに皮剥かねえと食えねえ造形だったよい」と、空になったサッチのグラスに酒を注ぎながらマルコは言う。要は「好きにしろ」ということだった。「参考になんねえなあ」と呟くサッチに向かって、「仕方ねえだろい、ひとり一回しか食えねえんだから」とマルコが正論を述べている。まあそうだけどよ、と頷いたサッチに、「あとスゲーまずいから気をつけろよ」とエースが忠告し、「飲みながら食うと悪酔いするよい」と頷きながらマルコも言った。それこそ1人1つしか食べられないものなので、うまい悪魔の実、というのも存在するのかもしれないが、今までエースが会った悪魔の実の能力者は全員が全員「ひどい味だった」と言う。だからサッチが味覚障害者、あるいは変わり者でなければおそらく「まずいもの」で有るだろうと思ったのだ。エースも、それからマルコも。「じゃあ明日以降にするか」と言って、懐に真っ黒な実を仕舞ったサッチを、エースとマルコは見ている。それから宴会が終わるまで、悪魔の実のことは誰も口にしなかった。

あの時、その場でサッチが実を口にしていたら、とエースは思う。エースとマルコがサッチを止めなければ、あるいは「食べろ」とはやし立てていれば、エースとマルコが実の味を知らなければ、サッチが味など気にしなかったら、サッチが実の話をしなければ、あの場にティーチがいなければ、宴会をしなければ、戦闘中にサッチが実を拾わなければ、あの船と闘わなければ。どれか一つでも変わっていたら、サッチとティーチは今もこの船で笑っていたのだろうか。

宴会が開けた日、夜番にあたった4番隊のサッチがいつまでたっても起きてこなかった。同じく、夜番にあたっている2番隊のティーチもやってこないので、また2人してどこかで飲んだくれているのか、と、爽快とは言えない頭で-明らかにただの飲み過ぎだ-エースは考える。副隊長に当てられた部屋は4人部屋なので、飲んでいるとしたらサッチの部屋だろう。というわけで、その辺を歩いていた4番隊をひとり捕まえて、「あいつら起こしてきてくれねーか」とエースは頼んだ。寝起きは悪くない2人なので、マルコを起こしに行けと頼むよりは良い反応で、4番隊は走って行った。エースとマルコの部屋とは逆方向に、甲板を挟む形で、3番隊のジョズと4番隊のサッチの部屋は向き合っている。船の警備と言う観点から、隊長の個室は離れて作られているのだった。

サッチの部屋には、他の3つにはない床下収納があって、サッチが集めた刀剣の類がきれいにおさめられている。中には包丁なんかもあったりして、「これで人を切るのか?」と尋ねたエースに、「まあいざとなったら人を捌く機会もあるかもしれねえしな」と、いろんな意味で怖いことをサッチは言った。その機会は一生来ないといいとエースは思う。顔色を変えたらしいエースに向かって、「戦いには使わねえから安心しろよ」とサッチは笑ってエースの頭をぽんぽんと叩いた。マルコはエースの頭をがしがし撫でるが、サッチは軽く叩く。一瞬で離れていく体温が、逆にいつまでも頭に残る気がして、エースはいつもサッチが叩いた部分を押さえたくなるのだが、たぶんそうすると馬鹿にされる気がするので(子供扱いと言う意味で)我慢していた。まっすぐで薄い刃の包丁をきちんとケースに収めて、有るべき場所に戻すサッチを眺めながら、「なあ」とエースはサッチに声を掛けた。「なんだ?」と、サッチは手を止めてエースを振り返る。サッチはいつでも、話す人間の目を見て喋るのだ。それはエースもそうだったが、いつでも明るい顔と声を出すサッチが、エースはとても好きだった。う、と、真っ直ぐな目にひるんだエースに、ん?と笑いながらサッチは首をかしげた。何を言っていいか分からなくなったエースが、「なんでもねえ」と言いながら目を反らすと、「なんだよ」とサッチは呆れたように言って、けれどもその声に不快感はまるで滲まない。

最後の刀を仕舞い込んで、ぱたんと床下収納の蓋を閉じたサッチは、ゆっくり立ち上がってばきりと肩を鳴らした。それから、エースを振り返って「ん」とサッチは手を伸ばした。「ん?」と、首をかしげながらエースがサッチの手を取ると、ぐいっと腕を引かれて、サッチの胸に倒れこみそうになる、ところをサッチに止められた。「なんだよ?」と、サッチに倒れかかった形でエースが尋ねれば、「なんでもねえけど?」とサッチはにやりと笑っている。さっきの仕返しらしい。特に何の意味もない所がサッチらしい。何か言いたかったが、特に言う言葉もなかったエースは、サッチの手が以外と冷たいことに今更気がついた。掴まれたままの腕を、サッチの腕ごと持ち上げて眺めると、サッチの掌は細かい傷だらけだった。傷が多すぎて、逆に滑らかな感触になっているみたいだ。「これ、」と言いかけたエースに向かって、「コックの修行って傷だらけになるんだよな」と冗談めかしてサッチは言う。「コックだったのか?」とエースが尋ねると、サッチは「ん?んーー」と誤魔化して、エースから手を離した。聞いても無駄そうだったので、あとでマルコに尋ねよう、とエースは思ったが、「マルコも知らねえぞ」とサッチに先を越されてむっとする。マルコも知らないサッチの過去、に、エースは興味がないわけではなかった。けれどもサッチが話したくないなら仕方がない。ん、と頷いたエースの前で、サッチはなんだか困ったように笑った。「お前はさ」と言ったサッチは、もう一度エースの手を取って、サッチの胸に引きこんだ。そのままエースの頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でるように叩いて、そして、サッチは手を外さなかった。低い体温が伝わって、エースは首をねじってサッチを見上げる。やっぱり困ったように笑ったサッチは、不思議そうな顔をするエースに向かって、「あんまりなんでもすぐに諦めなくていいんだぞ」と言った。「諦めてねえよ」と返したエースに、「そうだけど」とサッチはまた笑って、それからひとつ息を吐くと、「俺がコックをしてたのはもう15年以上前のことだ」とだけ言った。「え」と目を丸くしたエースに、「お前と俺だけの秘密な」とウインクしたサッチは、ぱっとエースの腕を離して、「じゃまあ刃物の整理も終わったし、飯食いに行くか」と何もなかったように言った。

サッチは、そういう人間だった。誰のこともそう気にしてはいないような顔で、誰のことも一番近くまで引き寄せてしまう。マルコが親しくならないことで人を遠ざけるとしたら、サッチは親しくなることで人を遠ざけていた。誰とも親しければ、誰とも親しくないのと同じことだった。その中で、ティーチとサッチが「親友」だったのは、ティーチとサッチの距離感が絶妙だったからだ。いつでも一緒にいるわけではない。むしろ、エースとマルコの方が隊長ごとの付き合いだったり、飲んだくれたり、一緒にいる時間は多かったかも知れない。けれども、いつでも一番大事な時に、サッチはティーチを信頼していた。エースが隊長になるとき、4番隊にいたティーチを2番隊の副隊長に推したのはサッチだった。「4番隊の副隊長はもういるからなあ」と笑ったサッチが、本当はエースを心配してくれたのだということをエースは知っている。そして、サッチが信頼するティーチをエースに付けてくれたということは、エースを信頼してくれたのだということも、マルコに聞いて察した。ティーチがエースの副隊長になった後も、サッチとティーチの関係は揺らがなかった。そもそも同じ隊だからできた絆でもないのだろう。揺らぐような関係ではなかったからこそ、サッチとティーチは「親友」だったのだ。

3日前だった。4日前の宴会が終わって、起きてこないサッチとティーチを4番隊に呼びに行かせたのは、3日前のことだった。煌煌と甲板全体に燈る篝火を眺めながら、今日の夜食について考えていたエースに、血相を変えた4番隊が帰ってくるまでの間、たしかに船は平和だった。あくびをしながら歩いてくるサッチとティーチが、今にも扉をくぐってやってきそうな、穏やかなざわめきが広がるいつもの船だった。バタン、と蝶番が外れそうな音を立てて開いた、エースの後ろの扉の中には、青ざめた4番隊が息を切らして立っている。「どうした?」と尋ねたエースに、4番隊は何度かぱくぱくと口を開いて、だらだら汗を流して、がたがた震えて、「隊長が」と言った。「サッチが、どうした?」と重ねて尋ねたエースに、ほとんど泣きそうな声で「殺されました!!!」と4番隊は叫ぶ。反射的に「嘘付け」と返したエースに、「嘘じゃねえ!!!」と4番隊は言って、震える両手を差し出した。真っ赤だった。「部屋中こうだったんだ!」と、ほとんどヒステリーのような声で泣きわめく4番隊を甲板に座らせて、近くにいた2番隊に預けてエースは駆けだした。全速力でも遅くて、時々炎に変わりながら、それこそ飛ぶようにサッチの部屋を目指す。扉は開いたままだった。息もつかずに駆けこんだエースの目に飛び込んだのは。っそれこそ部屋一面に広がるサッチの収集品の数々だった。刀、剣、ナイフ、クナイ、鋏、包丁まで、ありとあらゆるものが血だらけで突き刺さっている。その真ん中に血だらけの物体が転がっていた。は、は、と肩で息をするエースは、その上がった息が走ったせいなのか、こみ上げる感情から来るものなのか分からなかった。ととと、と小走りに進んで、広くもない部屋を突っ切って、エースはばしゃりと血だまりに座りこむ。どこもかしこも差し傷だらけだった、その、サッチだったものの手をエースは握った。古傷が滑らかにエースの手を抉って、指の上にぽたりと水滴が滴る。エースの涙だった。泣いている場合ではない。人を呼ぶべきだった。船医を呼んで、マルコを呼んで、親父を呼んで、4番隊を呼んで、状況を理解するべきだった。けれども、エースはどうしてもサッチの手を離せない。動脈を触ることすらできなかった。もともと高くはなかったサッチの体温があきらかに冷たくて、足に触れる血の感触が凝固しかけていて、どう考えても間に合わないとしたって、エースはサッチの死を認めたくなかったのだ。昨日まで笑っていた。エースの隣で、サッチは笑っていた。逆隣にはマルコがいて、向かいにはティーチが座って、笑いながら酒を飲んでいた。戦闘中でもなければ、病に倒れたわけでもない。船の中に敵が紛れていたのでなければ、誰か、この船に乗っていた人間がサッチを殺したのだ。そんなことがあるわけがなかった。エースでもなければマルコでもジョズでもない、もちろんオヤジがするはずもない。それ以外の人間に、サッチが殺されるわけがないのだ。戦闘力から、考えれば。泣いて泣いて泣いて泣いた、エースの声が漏れて、扉の外には多くの隊員が集まっていた。けれども、中まで踏み込む人間はいなかった。エースが発する覇気に触れて倒れた隊員もいる。エースはそれに気付いたが、止めることは出来なかった。誰かが来たら、サッチが連れていかれてしまう。そうしたらこれはもう止められない。事実を、反らせなくなる。涙は後から後からエースの頬を伝って、傷だらけのサッチの腕を洗う。そこだけ血の色が消えて、その時だけはエースも少し笑った。もっと、と思った、エースの耳に風を切るような音が聞こえて、え、と思った時にはもう殴り飛ばされていた。

「な、にすんだ」と、エースが唸りながら起き上って、殴り飛ばした張本人を-マルコを-睨みつけると、「それは俺の台詞だよい」とマルコも覇気を纏ってエースを睨みつけた。「こんなときに、隊長のてめえがしっかりしねえでどうする!!」と、一喝されて、エースは涙と一緒に流れた鼻血を拭うこともせずにマルコを見上げた。半分不死鳥に変わったマルコの姿は、こんなときでもやっぱり美しくて、エースは一瞬状況を忘れそうになる。すぐに思い出したが。ゆっくりと覇気をおさめたエースに続いて、マルコも変身を解く。「マルコ」と、ぽつりと言ったエースの手を、マルコは強く握る。血が流れる、体温を感じて、エースはまた大粒の涙を零した。「マルコ、サッチが」とエースが言えば、「ああ、…サッチが」とマルコも言った。お互いに決定的なことは口に出さず、けれどもだからこそ、もうダメなのだということが分かっていた。震える足をどうにか押えて、マルコの手を握ったままエースは立ち上がる。手だけではなく、サッチの全身を良く見たかった。エースが覇気を沈めたので、入り口で固まっていた隊員たちも、雪崩のように部屋に押し寄せる。中にいた船医がサッチの首筋と、心臓と、動向を確認して、首を振るのを、どこか他人事のようにエースは眺めていた。「親父に報告するのは奴らに任せて、風呂入って着替えろ」言われて、「このままでいい」と返したエースに、「その格好だとまるでお前が殺した見てえに見えるよい」とマルコは言った。大きく眼を見開いたエースに、「いや、…違う、疑ってるわけじゃねえよい、そうじゃねえ」とマルコは言って、「入口にこれが落ちてた」と、エースに何かを差し出した。エースが受け取ると、それは、一口だけかじられた悪魔の実だった。昨日、サッチが眺めていたものに間違いない。「サッチ、食ったのか」とエースがぼんやり呟くと、「…これ食った奴が、サッチを殺したのかも知れねえよい」とマルコは言った。え、と言いかけたエースの髪を乱暴にマルコは撫でて、「とにかく風呂だ、俺も入るから」と手を引いて歩き出した。けれども、エースにはマルコの言葉しか考えられなかった。「なあ、だって、サッチが実を拾ったの知ってるのって、俺達しかいねえじゃねえか」とエースが言うと、「わかんねえだろ、どこかで聞いてた誰かが入りこんで食って、殺した可能性もある」とマルコは言った。振り返らずに。「そんなことできるわけねえじゃねえか、なあ、マルコ!」とエースが叫ぶと、エースの手を引いていたマルコも「そんなことはわかってるが、じゃあ出来る奴は一人しかいねえだろい!!!」と叩きつけるように叫んだ。「そんなことあるわけねえだろ」と、茫然と呟いたエースの前で、「だから言わなかっただろうが」とマルコは言った。馬鹿みたいに足と頭が重くて、エースはもう涙も出なかった。

その後、船内をくまなく調べて、誰かが侵入した形跡はないことが分かった。サッチの部屋には酒瓶と、2人分のグラスが転がっていて、死ぬ直前まで誰かと一緒にいた痕跡が残っていた。サッチの胃の中から、悪魔の実は見つからなかった。サッチが悪魔の実を拾ったことを知っていたのは、マルコとエースとティーチ、それからサッチが実を拾った時に一緒にいた数人の4番隊だけで、ティーチ以外の全員にアリバイがあった。いなくなっている人間は2番隊副隊長のティーチ1人、なくなった備品はボートが一艘、食糧、ティーチの私物、それから一部の財宝だった。何一つ、状況を打破してはくれなかった。調べれば調べるほど、「ティーチがサッチを殺した」という現実ばかりが重くのしかかって、エースは、サッチの傷だらけの腕をまた握りたくて仕方がなかった。サッチの遺体は、船大工が作った棺に納められてしまって、もう誰も触れることができない。葬儀は簡単に済まされる予定だった。船の上でできることは限られていて、遺体は海に流される。水葬だ。それでも、サッチは隊長だったから、ありったけの氷で冷やして、一週間はそのまま置いておかれる。離れた船に乗った隊員と、本島からも、サッチに別れを言いに来る人間はいるからだった。誰かが、「春でよかった」と言ったセリフが、エースの耳について離れなかった。

日はひどく簡単に流れた。もう3日だった。親父には、「追うな」と言われた。マルコも、ジョズも、他の隊長も隊員も皆口々に、「やめろ」と言った。けれども、エースにはどうしても、それをせずにはいられなかった。だって、サッチは殺されたのだ。誇りも、笑顔も、秘密も、全てなかったことにして、サッチはもうすぐ消えてしまう。たしかにそこにいたのに。そのすべてを奪った人間を、どうして許せるというのだ。誰も許してはいない、親父も、特例だと言った。だが、追わないのなら、それは許されたことと同じことだ。ティーチに、仲間を、「親友」を殺したティーチが、のうのうと生き続けることなど一秒だって許したくはなかった。暗い水面を眺める、あと数日で、サッチはここに帰るのだ。どこにいても、海の上ならサッチと一緒だと思うと、エースはこれからすることに少しだけ安堵するのだ。深い藍色の波の上には、エースのストライカーが浮かんでいる。エースは、これから1人でティーチを追うのだった。エースの荷物は、革袋一つにおさまってしまった。何もなくなったところで、何も変わりはしない部屋の扉を、何の感慨もなくエースは閉じた。スペード海賊団時代のログポースを嵌めて、テンガロンをかぶればそれで終いだ。食料だけは少しだけちょろまかした。ゴメン皆、それからオヤジ、と心の中で呟いて、船べりに足を掛けて一気に飛び降りた…はずのエースの体が、ふわりと浮かんだ。は、と思って、エースの身体を支える腕から先に視線を移せば、仏頂面をしたマルコに行き当たる。誰もいなかったのに。

「どこから来たんだ」と尋ねたエースに、「ずっとここにいたよい」とマルコは言った。
「お前が部屋でごそごそしてる時から、ストライカーを水面に落として考え込んでる間までずっとここにいた」と。それってずっと羽ばたいてたってことか?来るかどうかもわからないエースを待って?エースが茫然とマルコを眺めていると、「こうなることは分かってたよい」とマルコは言った。「俺が行くことか」とエースが言うと、「行かねえわけがねえからな」と、答えにならないことをマルコは返した。エースを見下ろすマルコの目は、相変わらず無表情で眠そうで、でもとても悲しんでいることが分かる。「なあ、俺行くよ」と、エースは言った。「そうだろうな」と、マルコは頷いた。マルコは行かない。1番隊隊長が船を離れるわけにはいかないと、マルコには分かっているのだ。4番隊隊長が不在の今、2番隊隊長まで離れてはいけないのだろう。何しろ、副隊長を追って行くのだ。けれども、エースにはそれが分からない。分からなくていい、と、サッチは言った。マルコも、おそらく許してくれる。出来ない筈のことを、しても良いと言われるのは、甘やかされているのだと知った。この船に乗ってエースは知ったのだ。教えてくれたのは、親父やマルコやジョズやサッチや、ティーチだった。だからこそ、エースはティーチを追うのだ。追って知りたいのだ。赦されていたはずのエースを、船を、サッチを、どうして裏切ったのかと。

しばらく、マルコは何も言わなかった。エースも何も言わなかった。何か言ってしまえば、言ってはいけないことを言ってしまいそうだった。マルコは、何度か羽ばたいて、エースをストライカーまで運んでくれた。「ありがとう」とエースが言えば、「選別だよい」と小さな布袋を渡される。開くと、大金貨が数枚入っていた。「これ」と呟いたエースに、「食い逃げするな、白ひげの2番隊だとバレるな、寝過ぎるな、無茶をするな、いつでも帰ってこい」と淡々とマルコは言って、「お母さんかよ!」とエースは笑った。サッチが死んで、初めて声をたてて笑った。笑いながら、ほろほろ涙が出て、エースは、この船に乗ってよかったと思った。「泣くなよい」と言ったマルコは、いつものようにがしがしエースの頭を撫でて、それから何度か視線を泳がせて、「あー」と言った。エースは泣きながら、「なんだよ」と言った。マルコは、「だから泣くな」とエースの涙を指で拭い、エースの顔を覗き込む。ストライカーは狭いから、ただでさえ近い姿勢がさらに近付いて、マルコとエースはほとんど密着していた。エースはぼんやりマルコを見上げていると、はあ、とマルコは溜息を吐いて、それから、「お前に言いたいことがあるんだが」と言った。「なんだ?」と首を傾げたエースの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、「また今度にするよい」とマルコは笑う。「今度っていつだよ」と言ったエースに、「お前がいつ帰ってくるかによるだろうな」と飄々とマルコは返した。それは。「マルコ」と言いかけたエースを遮って、「夜が明ける前に行くんだろい」とマルコはエースの肩を押す。ばさり、と羽を開いたマルコは、船には戻らず、ストライカーに乗るエースと同じ高さにとどまっている。「ん、」と返したエースは、ばさりとストライカーの帆を張った。風はないが、エースには炎が付いている。「それじゃ、行くな」と片手を上げたエースの手を、マルコは一度だけ握って、「ああ」と言った。マルコが笑っているので、エースもにや、と笑って、それからマルコの手を離した。「サッチと親父によろしく」と残して、エースは勢いよく炎を吹き上げた。くらい暗い水面に、エースの紅い焔が篝火のように揺らめいている。モビーディックから一気に離れる、その一瞬だけ、紅い炎がマルコの青い焔と混ざって、それはまるで弔いのようだった。

( 現実が想像より良かったことなんて / サッチとエースとマルコ / ONEPIECE )