※メフィストと藤本の過去捏造話
※後編は性描写を含みますのでご注意ください

誰 も い な い 、 遠 い 過 去 に / 前 篇


少しばかり涼しい風が吹き始めた9月のことだった。4年間のヴァチカン勤務を経て、藤本が日本支部に帰ってくると言うので、メフィストは朝から割と機嫌良く仕事をしている。メフィストはそれなりに優秀で勤勉だったが、普段は悪魔的な人間としての役割を果たすために時折席を立つことにしているので、さらさらと書類を仕上げていく姿はなかなか見られないのだった。メフィストが2時間ほど真面目に机に向かっていると、「いつもこうだったら良いんですが」と、副支部長は溜息交じりに仕上がった書類を引き上げていく。「それはそうでしょうとも」と呟いたメフィストの声は、客用のテーブルに置かれた薔薇の花にしか届かない。と、そこで理事長室前の長い廊下から足音が聞こえるので、メフィストは飾りの様な羽ペンを置いて、胸の前で手を組んだ。人差し指に青インクが僅かに染みついていたが、気にはならない。軽いノックの後、副支部長に続いて扉を潜ったのはやや硬い表情をした藤本で、「お久しぶりです、フェレス卿」と一礼する。「これはまた他人行儀ですね」と、メフィストがふかふかとした椅子から立ち上がって藤本に近づくと、藤本は軽く、しかし確かにメフィストから目をそらして、「いえ、これが普通です」と短くメフィストを切り捨てた。おや、とメフィストは僅かに首を捻ったのだが、ここには副支部長もいるので気を使ったのだろうと納得させて、形式上の遣り取り-日本支部への委任状の提出、その他書類の承認、正十字騎士団への忠誠を誓う敬礼など-を進める。最後に、藤本が必要とするだろういくつかの鍵を渡して、「これからどうぞよろしくお願いします」とメフィストは微笑みながら手を差し出したのだが、藤本は黙って頭を下げると、メフィストの手は取らずに理事長室を去って行った。ふむ、と宙に浮いた右手で顎鬚を撫でたメフィストには構わず、副支部長は渋い顔で藤本を追っていった。

誰もいなくなった理事長室で、客用のソファに腰を下ろしたメフィストは、薔薇の花を一本取ってくるりと回す。手遊びに力を込めると、生気を失った薔薇は、ぼろりと灰の様になって崩れていった。こんなことをしても何の意味もない、と天井を見上げたメフィストは、目を閉じて藤本の顔を思い返す。メフィストと藤本がまともに顔を合わせたのは、ほとんど4年ぶりのことだった。卒業式の後、すぐに海を渡ると言う藤本に選別として渡したのは新しい十字架で、「先生はほんとに悪魔なんですか?」とやけに楽しそうに問われたことを覚えている。そもそもメフィストは悪魔なので、記憶の取捨選択ができるのだが、こと藤本に関する記憶は忘れようとしたことが無い。理事長室のソファに腰掛けて、あるいは寝そべって、メフィストと下らないことを離しては笑い合っていた藤本の姿を、昨日のことのように思い出せる。が、それはメフィストにとってだけ特別なものだったのだろうか。メフィストが"奇跡狩り"に告げた通り、藤本は悪魔などと関わることは辞めたのかもしれない。そういえば、ヴァチカンの藤本から手紙が届くこともあったし、メフィストも当たり障りのない返事を出したのだが、最初の一年で交信途絶えている。ほんの2,3度、メフィストがヴァチカンを訪れた際に姿を見たこともあったが、それも一瞬のことだった。人間にとっての4年と、悪魔にとっての4年が違うことは理解していたつもりだが、それでもメフィストは少しばかりおかしくなって掌で瞼を覆う。心移りが激しいのはいつだって人間の方だった。そんなことは200年足らずの間に、いやその前から人間と関わってきたメフィストには分かり切っていたはずなのに、何を失望したような振りをしているのだろう。正直なところ、メフィストは藤本のことが好きなので、藤本がメフィストをどう思っていようと問題はないのだった。つまるところ、メフィストはどうあっても悪魔なのである。いくら分かりあったところで、本質的な部分が異なってしまえばどうにもならないこともあるのだ。ふう、とことさら軽く息を吐いたメフィストは、コートを羽織ってトップハットを頭に載せると、天窓を開けて屋根に登る。聖十字学園のかなり高い場所に位置する理事長室からは、メフィストの世界が見渡せた。広くて狭いメフィストの天国であり、同時に牢獄でもある。

「Verweile doch,du bist so schon」

と、メフィストは大仰に呟いて見せたが、もちろんそれでメフィストの時間が止まるはずもなかった。


さて、藤本が日本支部に帰ってきて4週間ほどたった新月の夜である。藤本がメフィストと同じ悪魔薬学の副講師を引き受けてくれたので、メフィストが祓魔塾を訪れる機会は減っていた。藤本は、任務のない時間をほぼ全て温室か図書館か祓魔塾地下の鍛錬場で過ごしており、メフィストが藤本とふたりで顔を合わせる機会はない。手持無沙汰にメフィストの「目」を何度か送ってみたが、その度に祓われてしまうので、今はもうやめてしまった。一度はメフィストが藤本の部屋まで訪ねていった事もある。が、教員宿舎の入り口にもうかなり強い悪魔除けの呪印が施してあったのでそこで諦めて引き返した。もちろんメフィストが越えられないわけではないのだが、痛いものは痛い。何より、入り口でこのレベルなら藤本の部屋にはどれほど強い結界が張られているのか、確かめるのが嫌だった。藤本がいても、メフィストの生活は藤本がいない4年間と何ら変わりがなくて、メフィストは少しばかり唇を尖らせて椅子に沈み込む。自分一人で楽しいのは簡単だが、誰かと楽しむことも時には必要である。メフィストは基本的に友好的で社交的だったが、時に非肉屋で何より悪魔だったので、こと聖十字学園で気の合う誰かを探すことは難しかった。その点藤本がいたころは良かった、とメフィストが何度かのお茶の時間を思い返していると、不意に窓ガラスが軋む音が聞こえて、メフィストは何の気なしに振り返る。すると、仏頂面の藤本がかつかつと窓を叩いているので、メフィストは思わず20cmほど飛び上がった。比喩ではなく。

明り取りの窓にはバルコニーも屋根もなく、窓枠に乗っているだけの藤本がどうしてここにいるかは分からなかったが、ともかくメフィストは注意深く窓を開いて藤本を迎え入れた。カソックを翻して理事長室に滑り込んだ藤本を認めてから、メフィストはかたんと窓を閉める。「ずいぶん上手になりましたね」と言うのは、メフィストが張り巡らせていた結界のことごとくを藤本が破壊しているからだった。「昔よりもろくなっていましたから」と藤本は答えて、ブーツの踵を鳴らしてソファまで進むと、定位置だった入り口側の左端に腰を下ろす。聖十字学園の生徒だった頃、藤本は良く理事長室に忍び込もうとしていたので、メフィストは常に気を張っていた。あの頃は藤本に悪魔だと言うことを明かしていなかったので、それなりに見られて困る物もあったのだが、今は特にない。気の緩みはそれが原因だと言っても良かったが、言い訳のようなので止めておいた。

藤本がソファに背を預けるでもなく、メフィストに声をかけるでもなく、ただじっと座って窓の外を眺めているので、メフィストは少しばかり考えてから、「私を祓うのならもう少し武器があった方が良いと思いますよ?」と告げる。藤本のカソックの下には短刀が1振、小銃が2丁、聖水が少し。あとは、メフィストが餞別にした十字架をベルトから下げているだけだった。藤本は一流の祓魔師で、メフィストが相手であろうと善戦はするだろうか、しかしそれもメフィストの領域では分が悪い。メフィストが本気で頭を悩ませている間に、藤本はひどく鋭い目でメフィストを射抜いて、「俺がフェレス卿を祓うと思っているんですか」と尋ねた。「私は悪魔ですから」とメフィストが事も無げに肯定すると、藤本は大きく唇を歪めて、「そんなことできるわけないでしょう」と押し殺した声で言う。「ええ、そう簡単に死ぬ気はないですけれどね」とメフィストが薄く笑えば、「そういう意味じゃねえよ」と藤本がメフィストを睨みつけるので、メフィストはさらに楽しくなって笑みを深くした。憎悪とは良いものだ。特にそれが藤本から向けられるのであれば、メフィストにとって朝露の様に心地良いものである。だからメフィストはあえて、「でも言われたのでしょう、ヴァチカン本部に」と藤本の心を突いた。藤本は表情を変えなかったが、それはもう肯定と同じである。何より、術技だけならほとんど並ぶ者がいなくなった藤本をヴァチカンが手放したこと自体がもうおかしいのだ。メフィストを殺すためでなければ、日本支部などという悪魔が治める悪魔だらけの聖域に、藤本が帰ってくるわけがない。今までも、そしてこれからも変わらないだろう連鎖を前に、メフィストは副支部長の様にメフィストを殺しに来て、メフィストに心を囚われた者のことを思う。

メフィストはもう人間の魂に興味が無いし、器もあまり熱心に探してはいないので、心につけ込むのだ。普段はただの人間と変わらないが、いざという時にメフィストの傀儡となって働くもの、それがメフィストの周りを固めている。そのほぼすべてがヴァチカンから送り込まれた刺客だと言うことを、メフィストは内心笑いたくてたまらないのだが、あまりおかしくはなかった。何よりそれは当然のことだった。悪魔が人間に従うなどと、逆の立場であればメフィストだって信じたりはしないだろう。メフィストには世界を壊すだけの力がある。それが忘れられるほど人間は愚かではなく、けれどもそれを知ってなお悪魔にすがる程弱い物なのだ。だからこそ、メフィストは人間を裏切らない。信用に足る行動を重ねれば重ねるほど、メフィストが正十字騎士団に利益をもたらす程、メフィストの立場は危うくなっていく。それが楽しくてたまらなかった。たとえ正十字騎士団を追われたとしても、メフィストには何の不利益もない。人間に殺される気もないし、人間を殺す気もない。メフィストにとって、これはただの遊びなのだ。長い長いメフィストの悪魔生の、ほんの一部を懸けた人間とのお遊びである。だからメフィストは、メフィストに向き直った藤本が硬い口調で「俺は、フェレス卿を殺したくなかったからここにいるんです」と言った言葉の意味をしばらく理解できなかった。

冷たい炎の様な視線を真正面から受け止めたメフィストは、しばらく考えた挙句、「あなたは自分の意思で日本支部に帰って来たのですか?」と問いかける。重々しく頷いた藤本に、「だったらどうしてお茶を飲みに来ないんです」と、メフィストが咎めるような声を上げれば、「ファ、…フェレス卿が望まないと思ったからです」と言う藤本の声はだんだん小さくなっていった。3年間あれだけ入り浸っておいていまさら何を言うのだろう、とメフィストが眉をひそめると、「だってファウスト先生、じゃなかったフェレス卿は、俺がフェレス卿を殺しに来たと思ってたんでしょう?!」と出しぬけに藤本は声を張り上げる。「ええ、思っていましたけれど」とメフィストが当然の様に頷くと、「そんな人が俺のこと歓迎すると思うわけないじゃないですか」と藤本はなぜか泣きそうな顔で俯いた。メフィストはまた少しばかり首を捻って、「藤本神父」と呼びかけると、「私は人ではなくて悪魔ですよ」と言う。「知ってます」と暗い声で藤本が返すので、メフィストはもう少し噛み砕いて、「私にとって、ヴァチカンとの確執は遊びの様なものですから」と続けた。え、と顔を上げてメフィストを認めた藤本が随分面白い表情をしているので、メフィストはじわりと笑みを浮かべながら、「だからいつでも遊びに来てくれてよかったんですよ、藤本君」と言って指を鳴らす。魔法の様にテーブルに現れたティーポットからティーカップに熱い紅茶を注いで、ガラス瓶からクッキーを取りだして受け皿に沿えて藤本に差し出すと、藤本は呆然としながら受け取って一口紅茶を啜る。「…にがい」と藤本が呟くので、メフィストは角砂糖も2つ落としてやった。そうして半分ほどお茶を飲んだところで、「せ、…先生は、俺が先生を殺そうとしても怒らないんですか」とたどたどしく藤本が尋ねるので、「怒りません、死にませんから」とメフィストは頷いた。「でも、俺は殺しに来たわけじゃないです」とカップを置いて藤本が言うので、「その方が驚きましたねえ」と、メフィストは目元を緩めて、立ったままミルクティーを口に運ぶ。「自分の意思で、聖騎士待遇を蹴ってまで帰ってきたのですか?何のために」と純粋な好奇心でメフィストが問いかければ、藤本はティーカップで顔を隠しながら、「いや、…ファウスト先生に会いたくて」と答えた。

それはそれで予想の範囲外だったので、メフィストがぱちりと瞬くと、「だって、先生全然ヴァチカンに来ねーし!来ても会えねーし!手紙出しても返事こねーし!」とやけくその様に藤本は叫ぶ。ティーカップで隠しきれない耳元が真っ赤なのを見て取って、ああこれは照れているのだと理解してもまだ、メフィストには藤本の感情が上手く伝わらなかったので、藤本の言葉でおかしな所にだけ反応した。「おかしいですね、私は返事を出しましたよ」とメフィストが言うと、「え、嘘、一回も、」と反論しかけた藤本は一瞬で何があったのか悟ったらしく、乱暴にティーカップをテーブルに置く。「ヴァチカンはそういうところですから」とメフィストが気休めの様に告げれば、「4年で十分わかりましたよ」と両手で顔を覆った藤本は、そのままソファに倒れ込んだ。ヴァチカンでどれだけメフィストの過去を拭きこまれたか知らないが、おそらくそのどれもが根も葉もない物ではないのでメフィストは澄ましてクッキーを一枚摘む。「彼らには彼らの流儀がありますから、あまり落ち込まないでくださいね」とメフィストが言うと、「先生からの手紙、欲しかったです…」と死にそうな声で藤本が返すので、メフィストはもう一枚クッキーを口に入れた。それから、引き出しから水玉模様のリボンで止めた紙の束を取り出して藤本の膝に乗せると、指の間から片眼だけ覗かせた藤本が「何ですかこれ」と尋ねるので、「君に宛てた手紙の下書きです」とメフィストは悪魔的な笑いを浮かべて答える。音がしそうなほどの勢いで紙の束を握りしめた藤本が、「えっ、…これ全部ですか?」と複雑な表情でメフィストを振り仰ぐので、「ヴァチカンに知られたくないようなことを削る前の文ですから、長くなりましてね」とメフィストはあっさりと肯定した。ええ〜、と困ったような嬉しそうな顔で藤本が紙の束を眺めているので、「そんなに嬉しいですか?」とメフィストは不思議そうに問いかける。「とても嬉しいです」と言った藤本は、しかしリボンを解くこともせずに今度は紙の束に顔を埋めた。「悪魔からの手紙をそんなに喜んで良いものですかねえ」と目を細めたメフィストは、しかし同じ引き出しに入った藤本からの手紙を何度読み返したかわからないので、同じように悪魔失格である。ヴァチカンから贈られた手紙はその権威に違わず全てが聖水と聖銀で装飾されており、メフィストにとってはそれなりに毒のようなものだったのだが、あまり美しくはない藤本の文字で中和されて、今ではすっかりメフィストの手に馴染んでいた。やがて顔を上げた藤本が、「先生これ、もらっても良いですか」と期待と不安の入り混じった目でメフィストを見上げるので、「もちろん、君に宛てたものですから」と、メフィストは藤本に目配せを送る。「ありがとうございます」と言った藤本は、カソックの裏側に紙束をどうにか仕舞い込もうとしているので、「入れる物を差し上げましょう」とメフィストは指を鳴らして、大型の封筒を宙から掴み出した。「何から何まで」と言って右手を出した藤本の手からさっと封筒を引いたメフィストは、藤本が何か言う前に藤本の手を取ってぎゅう、と握る。目を丸くした藤本の膝に封筒を落として、「お帰りなさい、藤本君」とメフィストが4週間前の様に微笑めば、「…ただいま戻りました、ファウスト先生」と藤本も口元を綻ばせた。乾いて冷たい、藤本の掌だった。



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