[未来をばら色に変えた今日という日に]
* [ 美しいオフィーリア、水面に揺らめく花 ] の続きでVS武田戦。ハッピーエンド。






それは圧倒的な負け戦だった。

白刃を掻い潜り掻い潜り、市は人を斬り続ける。ひとり、またひとりと己の闇に引きずり込みながら少しずつ消耗していく感覚が恨めしい。周りにいた雑兵たちはずいぶん前に散り散りになってしまった。今頃はきっと無数に転がる屍の一部になっている。そして、このままでは市もそれに加わるのだろう、そう遠くもないうちに。飽きもせずに襲いかかる軍勢を無感動に斬り捨てながら、この戦は何なのだろうと考える。甲斐を落とす?それでも名のある武将が、こんな場所で雑魚相手に死にそうになっているのに?
ああ――と市は溜息をつく。市の持つ薙刀は、人を切れば切るほど強くなる。そう遠くはないはずの死がなかなか訪れない。もうこのまま手が滑ってしまえばいいのに、と思いながら人を斬る。ひとりきりで人を斬る。
市は一人で死ぬことが出来ない。市はひとりで生きていくことができない。誰かを殺し続けていないと気が狂いそうだ。だから市は、戦場以外で生きていけない。早く死んでしまいたいのに手が止まらない。気が遠くなっても死体は増えるばかりで、市にはもうわからなくなってしまった。欲しいものも、要らないものも、何もなかったのに。



思い続けて。斬り続けて。血の色以外のすべてが失われてしまったような風景の、向こうから。


「市殿!」
「幸村さま」

現れたのは、血よりもなお赫い赫い戦装束を纏った幸村だった。
いつかもこんなことがあった、と市は思う。いつかではない、ふたりがはじめてであったときのことだ。けれども、あのときまっさらだった紅い陣羽織が、今は赤黒く汚れている。おそらくこれは返り血と、そして幸村自身の血。赫い赫い幸村の血だ。
織田が弱いわけではない。けれども鉄砲隊を破られ、受け手を切り崩された今となっては武田の騎馬隊を遮るものが何もないのだ。怒涛のように雪崩れ込んでくる赤い軍団に、不屈の織田軍も陣を乱してしまった。つまりは、気圧されたのだ。
幸村とともに残りの軍勢を斬り伏せる。無限に見えた敵の数も、ふたりがかりでならどうにかなる、ような気がした。そんなことはないのだけれど。これは、今ここにいるのはあくまで雑兵だ。市の薙刀一振りで簡単に切り捨てることが出来る、いわば捨て駒。市を、他の武将を、あくまでここに縫いとめるためだけの。
それを振り払ってここまでやってきた、幸村のことを市は絶対的なものだと思っている。
そうして、そこまでしても敵が消えないこともまた現実なのだと市は思う。
幸村と市がここにいても、戦局は何も変わりはしないだろう。それでもここにきてくれた幸村のことを、市はどうしていいのかわからなかった。ここでふたりで、少しずつ消耗していくのだろうか。そうして、市ひとりと同じように、幸村とふたりでここに骸をさらすのだろうか。
それは、だめだと、市は薙刀を掃う。

「兄さまは?」
「後方で戦っておられる」

短く答えた幸村に、市はやっぱり、と心の中で呟いた。兄は、よほどのことがない限りそんな場所で戦いはしない。玉座に控えているか前線までやってくるのが常である。そうできないほど深く入り込まれた。ということは、下手をすると武将達も死んでしまったのだろうか。白髪の凶人やいまだ幼いという形容詞が似つかわしい弓使い、兄から下賜された銃をそれはそれは見事に扱う義姉を思い返す。織田を支えるに相応しい、殺戮を糧とした彼らが。

それでは、市がここにいる意味はもう本当になくなってしまったのではないだろうか。

小さく溜息を吐いて、最後の薙刀を下ろす。幸村が気遣うようにこちらを見たが、そうではない。諦めたわけではなくて。市は少しばかり笑って見せてから、意識を失わずに影を使役して周りの敵を一掃した。血まみれの戦場で、市が使える最大の攻撃と防御は、市が抱える闇だった。
そのまま影を周りに張り巡らせて敵兵の侵入を拒む。どの道触れれば取り込まれてしまうのだから、兵がやってきても来なくても市は別に困らなかった。この中にいれば、幸村は安全である。市は、…市は魂を磨り減らすことになるのだけれど。
そっと手を伸ばして、闇に絡め取られた幸村に触れる。幸村の属性は炎、闇に取り込まれることはなくとも、闇を消すことは出来ない。揺らぐ炎の下に現れるのは闇だ。
己の頬に触れる手と、市の顔を何度か見つめて、幸村が口を開く。

「市、殿?」
「幸村さま、市は兄さまのところへ行くわ」
「某も参ります」
「幸村さまは、そこにいて」
「某は…!!」
「市は、幸村さまにいきていてほしいの」

幸村自身の赫い赫い血で汚れた頬をそっと拭って、市は笑う。

「さよなら幸村さま」

うつくしく、笑うことができただろうか。幸村が好きだといった不器用な笑みを浮かべることができただろうか。市は幸村の幸せであることができただろうか。もうわからない、届かない、伝わらない。でも市は幸せだった。幸村の幸せを願うことができて幸せだった。
お願い笑って、笑っていて、月のように冷たくやわらかくやさしく。そんな顔をしないで。戦場を生きるということはそういうことでしょう。男でも女でも、まして魔王の妹なら。
まだ大丈夫、市が命を削って創った闇は、市が死んでも幸村を守ってくれるはずだ。
そのあとは、戦が終わったあとに幸村が武田に下れば、いいえ帰ればいい話。元々客将だったのだ。実態は人質であれど表向きはそういう話だった。幸村が帰りたいと望めばいつでも帰れるはずの。じりじりとした膠着状態も、織田が消えてしまえばすべては終わり。
幸村の家族は、まだ生きているだろうか。織田に、その前に、消されてはいないだろうか。幸村は生きている。あなたたちも生きていれば、いいのに。

市は闇を纏い、戦場を走りぬける。たとえ何千何万の刃が悪意を持って向けられようとも、市はもう怖くはなかった。だって幸村はここにいない。市が生きるためにどうしても必要なふたりを、壊そうとするものたち。同じ血を持って生まれた兄さま、対極にあるような幸村さま、それでもふたりとも、市を必要としてくれた。
頬に返り血以上に熱いものを感じて、市は泣いていることに気づいた。悲しいのだろうか。市にはうまくわからない。恐ろしい、うれしい、市にはそれしかなかったのだ。最後の最後で市は何を感じたのだろうか。人形ではない自分を、自分と、生きていくと笑った幸村の顔を思い返す。一緒に生きていたかったのだろうと、でもそれは幸村にとってとても痛かったのだろうと、泣きながら市は思った。それでも人を斬る手は止めなかった。

市が戦場を駆けるのは、兄が市を戦に必要だといってくれたからだ。
そこに市の意思はひとかけらも存在せず、だからこそ市はそれが心地よかった。何かを考えることは市に絶え間ない恐怖を与える。間違えることが怖いのだ。失望されるくらいなら最初から期待されないように生きるほうがいい。自分のために生きるくらいなら誰かのために死なないほうがよほど楽だった。だからこそ望まれたとおりの人形でいたのだ。
けれども、今市が走るのは紛れもなく市自身のためだった。市のために幸村を生かし、市のために兄の元へ走る。怖かった。これが正しいのかわからなくて怖かった。それでも人を斬る手は止めなかった。

だから視界の向こうに、禍禍しい剣と銃を翳す兄が見えたとき。市は初めて兄を見て安堵した。畏怖と畏敬しか感じたことのなかった兄に、初めて縋り付いて泣きたいと思った。もちろんそんなことを実行できるような状況でもなく、市はただ敵兵を切り裂いて兄の、兄へ声が届く場所まで。

「兄、さま!」

兄は振り返らなかった。ただ一度、市の後ろに迫っていた武将を音もなく撃ちぬいただけ。でも市にはそれで十分だった。市はまだ、兄の盾になることも出来る。闇は半分幸村に預けてしまったけれど、市が持つ闇はそれ以上に深いことを市は知っている。照らされれば照らされるほど闇は深くなるのだ。それは太陽と月を得た市が一番良く知っている。
絶望より怖いことを、市はもう知っているのだ。

産声を上げた場所で最後を迎える、それはとても市に相応しかった。あまりに短い一生を、それでも最後の最後を華々しく飾ることが出来た。だって幸村は生きている。兄と一緒に死んで行ける。この世の地獄を味わった市に、あの世の地獄の水はきっとやさしい筈だ。



だから


闇を乗り越えて市の首を切り裂いた刃が闇色をしていたことを、市は知らない。
闇の向こうに見えた赫い色が幻の幸村ではなかったことも。
市の死に、兄の銃が一度だけ標的をそれたことも。
そしてその一撃が織田の将来を絶望的なものに変えたことも。
市の死を知った幸村が武田には下らなかったことも。

無数に転がる屍の一部になった市には知る由もないことだった。
光を失った闇が市に触れたときも、市の笑みは微塵も崩れることはなかった。








[ 未来をばら色に変えた今日という日に / 市と幸村 / 捏造夫婦 ]
不意にやってきた真田*市妄想そのに。
市はこういう死に方が多分一番幸せなんだと思うんですがいかがでしょうか。
絶対的な何かを持っている人は自分のために生きることがむしろ苦痛、みたいな。
そのさんがあるような気がしてきました。「光を失った闇」が幸村に絡むんじゃない?