[美しいオフィーリア、水面に揺らめく花]
* あらゆるものをすっとばして幸村が織田の武将で市と夫婦です。






月が見たくなって、市は夜半に部屋を抜け出した。隣には侍女が詰めているが、市には興味がないようで何も言わない。市もそっとしておいてくれればいいと思っている。奥座敷から部屋を抜けて抜けて、中庭に面した廊下の隅で息を吐いた。月明かり以外は頼るものもない暗闇だ。座敷の中で揺らぐ炎は、無駄な影ばかり生み出してあまり好きではない。見たくはないものばかり照らし出す。
比べて月は優しい、と市は思う。何もかもを暗闇で塗りつぶし塗りつぶし、その上からそっと光を当てる。それは優しくて淡くて果敢無くて、月の下でだけ、市は存在を許されている気分になる。夜が好きなのではない、ただ月がすきなのだ。
眩しすぎるものは怖い。揺らぐ炎も笑う侍女も、それから太陽も怖い。あまりに眩くて熱くて正しすぎる。弱さも辛さも惨めさも全部全部、太陽の前では本物だ。まるで兄さまのようだわ、と市は少し笑う。市は、兄が怖い。嫌いなわけではない、そんな次元にいる人ではない。あまりに圧倒的過ぎて市には近寄ることも出来ない。

冷たい床に腰を下ろして月を見上げる。なんてやわらかでつめたい光。
目を閉じれば、全身に染みとおるように降り注ぐのを感じた。もう今日はここで寝てしまおうか、と市は思う。床は少しばかり固いけれど、月明かりに守られているような気がして心地よかった。明け方に部屋へ戻れば、何も問題はないだろう。

けれども不意に、月光が翳った。
雲でも出たのかしら、と市がゆるゆるとまぶたを開けば、月を背にして人が立っている。月光を遮ってなおやわらかく降り注ぐような、ひと。

「幸村さま」
「市殿、こんな時刻にどうなされた」
「月を見ていたの」
「月を?」

幸村は問い返してから振り返り、なるほど今日の月は美しいでござるな、と呟いた。それから、月を遮っていたことに気付いて市の横へと移動する。寄り添うように腰を下ろした幸村を見上げるように市は言った。

「幸村さまは、どうしたの?」
「しばらく屋敷を空けることと相成ったので、その前に市殿に挨拶をと思いまして」

幸村様は月のようだと市は思っている。明るくて優しい。
兄さまも幸村さまも、市にとってなくてはならないお人だ。
どちらも、なくしてしまってはきっと生きていけない。
だからそのために、と市は思うのだ。

「戦になるのね」
「ああ。甲斐の武田に攻め入る」
「市もいっていい?」

市は幸村を見つめた。市より高いところにある幸村の顔を、市はだから、少し見上げる形になる。幸村はゆるゆると首を振り、市殿は尾張を守っていただけないだろうか、と言った。市は邪魔かしら、と市が首をかしげると、いいえそうではありませぬと幸村は市を見返す。

「某の我侭です。某は…あなたを今回の戦場にお連れしたくない」
「なぜ?市、幸村様の楯くらいにはなれるわ」
「そんなものになって頂かなくても某は負けませぬ」
「でも、市も、戦えるわ」

幸村は少しばかり困ったような顔をして、それは知っておりますと呟いた。知っているのなら使えばいいのだ。兄はいつだって市をそうやって使っている。幸村はそれが嫌だという。市にはそれがうまく理解できない。
だって、幸村と市はそこで出会ったのだ。


この戦乱の世で、女子は誰にも必要とされなかった。ただ織田の姫として、少しばかり美しい商品としてどこかに嫁いでそこで朽ち果てるはずだった。美しいが虚ろな人形として周りが触れるものだから、市も何もいわなかった。けれども、市の華奢な身体には兄さまと同じ血が流れていたのだ。確かに流れていたのだ。
護身術だったはずの薙刀の腕はいつしか師範を負かすほどになり、市自身は知らないけれど、引き寄せた闇は人を喰らう。有益と判断した兄さまが、市を戦に連れ出したのは14のときだった。
ただでさえまぶしい陽の下で人が人を食いつぶす様はただ恐ろしく、市は身を守るだけで精一杯だった。時折意識を失い、気が付くとあたりは一面死体の山で、なおさら恐ろしかった。
けれどもそこで、市は確かに生きていた。人形だ、飾りだからといわれながらも市は動くことが出来る。しゃべることも出来る。人を斬ることができる。それは足元に連なる死者とは明らかに異なり、市は初めて自分が本当に生きていることを知った。

市は戦場で産声を上げたのだ。

人はあんなに簡単に壊れてしまうのに、市がまだ生きているのは奇跡のようだと市は思う。壊しても壊しても市は壊れない。それは市が強いからだと兄は言った。初陣の後、本陣近くの死体の中で市は初めて兄と直接話をしたのだ。市は、生まれて初めて人の役に立ったのだ。
人はまだ恐ろしかったけれど、戦はもう怖くなかった。

そうして、3度目の戦だった。市は15になっていた。果敢無くて儚くてそれでも市は死ななかった。相変わらず市はよく意識を飛ばして、その度に纏う闇の気配は濃くなっていく。いつの間にか呼ばれた魔王の妹、その字は、嫌いではなかった。
だって市は人を殺しているのだ。人を殺して生きているのだ。兄のように圧倒的な殲滅は出来なくとも、魔と呼ばれることに否やはない。魔王の妹は地獄ではなんなのかしら、と市は思う。人から堕ちるというなら阿修羅だろうか。少しきれいね、と市は笑う。戦場で笑う。

戦は終盤に差し掛かっていた。当然のように本陣へと攻め上っていった兄の放つ銃声が遠く響く。あとすこし、と思った市はおそらく気を抜いたのだろう。ゆるく息を吐いた隙を縫って、襲い掛かってきた敵兵に動きを止めてしまった。市の薙刀を弾き飛ばして、首をめがけて鈍い銀色が迫る。
これで終わりね、と思ったとき、後ろから怒号が聞こえた。何、と思う間もなく市は突き飛ばされる。瞬間、飛び出した刃に貫かれた敵兵は音もなく倒れ、そのまま市の闇に呑まれていった。一段と深さを増した影をそっと撫でてから振り返る。そこにいたのは赤い陣羽織を纏い、二槍を下げた武将だった。まだ若い、と市は思う。市と同じくらいだ。
肩で息をしていた武将は、市に向かって頭を下げて言った。

「市殿、お怪我は」
「ない、わ」

そっと伸べられた手を取って立ち上がる。ありがとう、と言えば武将はゆるく首を振った。
市の名を知っている、ということはそれなりに名のある家の者なのだろう。
槍の穂先は血に塗れているのに、陣羽織は染みひとつなく鮮やかな赤を保っている。直後に鳴った勝利の法螺貝を聞きながら、結局市はその武将に連れられて本陣へと帰ったのだった。

それが、幸村だった。
市より一つ年上の幸村は、元は甲斐の武田の参謀と称される真田家の次男である。甲斐と尾張の長い膠着状態に収拾をつけるべく和睦の証として、いわば人質のように織田に送られた人間だ。本来ならばどこかの屋敷で軟禁されるように一生を終えるところだが、兄は剛毅である。智の真田を遊ばせておくのは笑止と徹底的に教育を施した。最初は風当たりが強かったが、幸村が次第に知将の名に恥じぬ振る舞いを見せれば評価も変わる。何より、幸村は圧倒的に強かった。
初陣で首代を4つあげたその日から、幸村は織田の武将として名を轟かせることになったのだったという。

そうしたことを、市は戦が終わってから聞かされた。
洗い清められた体で、梳られた髪で、整えられた白無垢で、同じように改められた幸村の前で聞いたのだ。つまりは、婚礼の儀である。
市はまるで知らなかったが、戦の前から兄は幸村に打診していたのだという。魔王の妹を嫁にする気はあるか、と。幸村の返答は知らないが、今こうなっているということは幸村はそれを受け入れたのだろう。13で初陣を終えた幸村が14で初陣を迎えた市を娶る。いかにも兄の好みそうなことだと市は思う。兄のすることに逆らう気はなかった。

何より、幸村ならいいと市は思った。
少なくとも、幸村とは一度会っている。戦場で、血に塗れて、人を殺した姿で向き合った。それでもここにいる気があるなら、市には何もいうことはない。生まれ育った尾張を離れずにすむというのも市にとってはうれしかった。市には人を殺すことと人形のようであることしか出来ないから。

夫婦になって最初の夜に、幸せになっていただきたい、と幸村は言った。
某は市様に幸せになっていただきたい。市様は何が幸せでござろう。
しあわせ、と市は首を傾げた。そんなものは市にはわからない。誰にも求められたこともなかったし市自身が欲しいと思ったこともない。そう告げると、幸村はほんの少し顔を歪めてそうでござるか、と小さく言った。
その表情の意味が分からなくて市はまた首を傾げる。しあわせがわからないと幸村に迷惑をかけるのだろうか。それは、嫌だった。しあわせとはなんなのだろうと思って、市は幸村に問い返す。幸村さまのしあわえはなあに?と。すると幸村はしばらく考えて、某は鍛錬の後に上手い団子を食うことが幸せでござる、と顔を綻ばせた。
団子。意外な答えに思わずそれを繰り返すと、幸村は大きく頷いて、今度一緒に頂きましょうぞ、とやはり笑った。市の前で笑った。


幸村と一緒に鍛錬をした。二槍はやはり力強かったけれど、市の薙刀も交わし難いと褒めてもらった。一緒に団子を食べた。市はみたらしがすきで、幸村はごまがすきだった。小豆餡はふたりとも粒餡がすきだ。
戦にも何度か一緒に行った。同じ場所で戦うことはなかったけれど、法螺貝が鳴れば必ず幸村は市を迎えに来た。ふたりで兄から褒章を受取った。
それは決して長くはないけれど、市が生きてきた14年よりもっとずっとたくさんの時間だった。


そうして市は、幸村がしあわせなのがしあわせだ、と思った。

だから幸村の嫌がることはしたくない。
けれども、今迄だってふたりで戦ってきたのだ。
ふたりで強くなってきたと思うのは、市だけの想いだったのだろうか。
それとも。

「…幸村さまが市と一緒に行きたくないのは、今回の相手が武田だから?」

優しい月明かりを受けながら市はぽつんと呟いた。
甲斐の武田との戦。なんでもないことのように幸村は言ったけれど、そういえば幸村の係累はすべて武田に在るのだ。幸村は、武田の人間なのだ。

「…某は織田の武将でござる。相手がどのようなものであっても、信長様のご上洛のため働くのみ」
「そう…」

やさしい声に、市は目を閉じる。幸村がそういうのならそうなのだろう。
幸村はなにひとつ迷うことなく人を斬るだろう。薄闇に真実も苦痛も全て覆い隠して、やさしい明るさで、音もなく。
それでも、市には見せたくないと幸村は言った。
織田の武将なのだと、まるで自分に言い聞かせるような声音でそういった。

「…兄さまが殺さないうちに、下ってくれたらいいのにね」
「市殿、某は別に、」
「違うの。市がそう思うの」

ゆっくりと目を開いて幸村の顔を覗き込む。
だって幸村さまの家族に会ってみたいもの、と市は言った。幸村は何も言わない。けれどもきっと、幸村のようにやさしくて明るくてそして冷たい光に満ちているに違いない。だって幸村を育んだ者たちなのだ。

「だから、市も一緒にいかせてね」
「…市殿…」
「ね?」

重ねて尋ねれば、幸村は目を伏せて微かに頷いた。それから僅かに歪んだ表情を隠すように両手で顔を覆う。幸村がなにも言わないので、市は月を見ていた。甲斐は遠い。次にこうして月光を浴びるのは月が欠けて満ちて、また欠けるころになるだろうか、と市は思う。
そうして月が傾き始めるまで、ふたりは月光の下で寄り添っていた。







[ 美しいオフィーリア、水面に揺らめく花 / 市と幸村 / 捏造夫婦 ]
不意にやってきた真田*市妄想そのいち。
そのにがあるのかといわれたら答えに詰まりますが一応続きは考えています。
VS武田、ひいては真田VS佐助にもっていきたいところですが、別に真田主従にはならないと思います。
余力があったら書きたいけれど、救いはまるでありません。