さひはひすむとひとのいふ 5

松平からの荷は、松平が江戸へ発った三日後に届いた。
正確には、松平に付いて江戸へ上っていた山崎が持ち帰った、という方が正しい。土方の話によると、山崎はもともと松平が連れてきた人間らしい。道場の人間を召し抱えるという知らせを持ってやってきた山崎は、近藤と二言三言会話して、そのまま道場に居付いたのだと言う。
「剣の腕は並み…に見えるが、ただものじゃあねぇだろうな」と言った土方の言葉を聞いた銀時は、なるほどな、と頷いた。妙に鋭い目をしている、と思った銀時の値踏みは、あながち間違いでもなかったらしい。
 朝食を終えたばかりだった銀時の前で丁寧に一礼した山崎は、銀時に紫色の風呂敷包みを手渡して去って行った。それとなく席を外そうとした土方を捕らえ、背に背を預ける形で寄りかかった銀時は、そっと正絹の風呂敷を解く。厳重に中身を包んでいた油紙も剥がし、蒔絵の手箱から現れた書状の宛名を目にした瞬間、銀時はくるりと振り返って土方の背にしがみついた。
「おい」と、咎めるような声を出した土方だったが、「先生の字だ」と呟く銀時の声がよほど悲壮だったのか、銀時を引き剥がしはしない。土方は、そういうところが少しだけ松陽に似ている。
萩で暮らしていた十年間、松陽は折に触れてさまざまな文を銀時に送った。銀時が初めて手習いに参加した日に、松陽が熱を出して寝込んだ翌朝に、摘み草へ行く弁当包みの中に、高杉や桂と喧嘩をした夜に、なんでもない日に、それはまるで息をするような容易さで松陽の指から紡ぎだされたことを覚えている。
その為人を示す様な美しい、けれども少しばかり崩した仮名の多い手は銀時にも読みやすく、ほんの二、三行の文でも銀時は大事にしまっておいたのだ。松陽の庵が焼け落ちた今となっては、そのすべてが灰と化し、もう二度と松陽の文字を眼にすることは叶わないと諦めていたのに。
整然とした書状の山の中から、『坂田銀時殿』と書かれた文を選び取った銀時は、震える手でそれを開こうとして三度取り落とし、「なあ、これ読んでくんない」と、土方に押し付けたが、「ばか、てめえが読まないでどうする」と土方は首を振る。銀時が弱り果てたように土方を見つめれば、土方は銀時の肩を軽く叩いて大きく頷いてくれた。それはなんでもない仕草だったが、銀時にとってはこれ以上ない激励だった。
ゆるく深呼吸しててのひらの薄い紙を見下ろした銀時は、ゆっくりと折り込まれた紙の端を開いて、松陽の文字を見つめる。中身はひどく他愛ないものだった。庭の花は咲いたか、屋敷へ遊びに来る猫は元気か、銀時に変わりはないか、畑の作物は順調に育っているか、いつ再開できるかわからないが寺子屋の子供たちは恙なく勉学に励んでいるか、桂や高杉と仲良くしているか。
『詮議にはしばらくかかるでしょうが、必ず帰ります。その時は銀時の味噌汁で迎えてください。私の梅漬けが今年も上手に漬かっていますように』
松陽らしい呑気な言葉で締めくくられた文を読み終え、「梅も燃えちゃったよ、先生」と俯いた銀時の手からそっと紙を抜いて、「泣くならもっとわかりやすくやれ」と土方は言った。
「泣いてねぇよ」と、土方の指を握りながら銀時が言うと、「そうだな」と何でもない声で土方も頷いて、「泣きたい時に泣かねえと、泣けなくなるな」と銀時の手を握り返した。土方の言葉に息を呑んだ銀時は、勢い任せに何か言おうとしたが、言葉は出ない。
 銀時にとっての松陽がどんな存在だったか、銀時は明確に語る言葉を持たない。銀時の刀と文字の師であり、父であり、母であり、兄であり、全てであり、そして何物でもない、それが吉田松陽と言う人間だった。銀時に向かって差し出された手を取った瞬間から松陽は松陽であり、銀時は銀時になったのだ。
松陽が浚われるようにして行ってしまった時、銀時は泣かなかった。必ず取り返すと誓いを立て、その為に戦って多くの犠牲を出した時も、白夜叉と祀り上げられながらその実孤独だった戦中も、ただひとつの希望だった松陽を失ったと知った日も、よるべだった戦から弾き出された時も、銀時は泣かなかった。
これもすべて銀時が銀時たる、つまりは鬼子である証なのだと銀時は不思議にも思わなかったが、土方はそう思わないらしい。土方は、銀時の手を握るこの温かい手の持ち主は、銀時が涙を零して当然の存在だと思っている。そんなことを言われたのは何年振りだろうか。
松陽が松陽でしかないように、土方も土方でしかないのかもしれない。それが嬉しいのかどうかさえ銀時にはわからなかったが、それでもただひとつわかっていることは、銀時の命が土方のもので、そしてそれが銀時の心を驚くほど満たしているということだった。銀時が松陽と出会った時のように。

∽ ∽ ∽

銀時が松陽と出会ったのは、十一年前の春だった。
いつものように戦場で死体漁りをしていた銀時を、松陽はいとも容易く手懐けると、己の庵に連れ帰って食事と風呂と寝床を与えてくれた。ちょうど、先日の土方と同じように。どこかで拾った刀を手放せなかった幼い銀時に名を与えてくれたのも、松陽だった。
松陽との暮らしは、それから八年ばかり続いた。四六時中抱いていた刀を手放すところから始めて、松陽の教え子だった桂や高杉とも交友を深めるうち、いつのまにか銀時は人になっていた。なったのだと思っていた。
鬼子の噂をまことしやかに囁いていた村の人間は、銀時の容姿や刀の腕に陰口を叩くこともあったが、銀時は気にしなかった。人は見たいものしか見ないものです、と言う松陽の教えは銀時にも納得がいくもので、銀時自身も身に覚えがないわけではなかったからだ。
手習いを終えたところで、銀時は松陽から学ぶことを放棄したが、桂と高杉は違う。松陽が語る日の本の未来に思いを馳せ、天人との共存も含めた未来を夢見ていた筈だ。銀時には途方もない理想に見えたが、松陽は本気だったのだろう。
世界を変えるより自身を変える方が容易い、といつか銀時は松陽に告げた。それは銀時が髪の色で理不尽な誹りを受け、激昂した高杉が相手に殴りかかるのを力づくで止めた日のことである。反応の薄い銀時にも牙を剥いた高杉を宥めて、あとは私が、と微笑んだ松陽は、銀時とふたりきりになってから、「あなたは悔しくないのですか」と問いかけた。
松陽の目を見つめ返した銀時が、「ねぇよ」と言い切れば、「なぜです」と松陽が重ねるので、銀時はためらわずに「先生は言わないからだ」と返す。
少しばかり驚いたような顔をした松陽に、「小太郎も言わねェし、晋助も言わねェ。だから、俺の事を知らねェ奴に何を言われても何ともねーよ。俺の容姿が天人みてェなのは嘘じゃねーしな」と銀時が続ければ、「銀時は大人になりましたね」と松陽が冗談でなく涙ぐむので、「そういうの止めてくんない?」と銀時はがりがり首の後ろを掻いた。
世界は銀時にとって理不尽なものだが、それはそれで仕方がない。だから銀時は、銀時が関わる人間が銀時にとって愛しいものであるだけで充分幸せだった。松陽自身は二度と歴史の表舞台に立つつもりはないと語っていたので、銀時はこのまま松陽とふたり、萩の片田舎で一生を終えるのだと信じていた。
いつか出世した桂や高杉が村を訪れた時、彼らが今と変わらぬ笑顔を向けてくれたら、銀時に対する反感も少しは薄れるかもしれない。そういう世界になればきっと、高杉も喜んでくれるだろう。銀時はずっと、そう思っていた。



それは三年前の、まだ肌寒い春の日だった。銀時が作った朝食を終え、松陽は手習い所に、銀時は近所の畑へ手伝いに向かおうとした時、往来から怒声が届いた。松陽の庵は村の外れに位置しており、余所者が入り込むことも多かったので、それ自体はそう珍しい話でもない。
しかし、その声の端々に鍔鳴が混ざるとなれば話は違う。一瞬銀時と顔を見合わせた松陽は、「刀を」と短く告げて、自身は何も持たずに縁側から飛び降りた。松陽から譲り受けた刀を手にした銀時がすぐさま後を追いかければ、庵に程近い三ツ辻で見知らぬ侍たちと切り結んでいたのは、松陽の教え子である数人の若者である。
その中に桂と高杉の姿が無いことを見て取って、知らず安堵してしまった銀時がそのまま刀を抜こうとすれば、松陽は銀時を押し止めて、「これはどういう状況ですか」と、場にそぐわない穏やかな声で集団に問いかけた。
松陽先生、とあからさまに狼狽えた塾生たちは、ぱっと侍から距離を取ると、「こいつら先生を出せと、いきなり村の家に押し込んだんです」と一人が言う。俺の家です、と苦りきった声で続けるのは村長の息子で、おそらくはぐるりと見渡した中で一番立派な家に押し込まれたのだろう。
「それはそれは、私のせいで申し訳ないことをしました」と頭を下げた松陽は、刀を構えたままの侍たちに、「吉田松陽と申します。立ち話もなんですから、どうぞあちらへ」とにこやかに告げて、「銀時、お茶の用意をお願いします」と銀時の肩を叩いた。
釈然としない顔をしていたのは塾生も侍も同じだったが、銀時は慣れているので抜きかけた刀を腰に佩いて、「先生の庵はこちらです、村の者が失礼いたしました」と侍を促す。ちらりと振り返れば、松陽はやはり笑顔のまま塾生を宥めているところだった。
侍は、全部で五人いる。そう広くもない庵の客間では手狭だったが、居間は手習い所なのでそこへ通すわけにもいかず、銀時はせめて取って置きの茶を出すことにした。
茶菓子はいるだろうか、と銀時が高杉から貰った最中を眺めているところに、松陽が帰ってきて、「それはいらないでしょう。そう長い話にもならない筈です」と言うので、「先生はあれが誰だか知ってるのか」と銀時は首をひねる。
ゆるく頷いた松陽は、「直接知っているわけではありませんが、旅ごしらえと家紋を見れば予想が付きます」と返して、「お茶はわたしが出しますから、銀時は私の代わりに皆の字を見ていてください」と笑いながら続けた。
「昼飯がいるようなら言えよ、準備があるから」と銀時が答えれば、「そうですね、その時はお呼びします」と松陽は頷くと、客間へ向かって歩いて行く。銀時がいつも通りの松陽を見たのは、それが最後だった。
手習い所に集まってきたこどもたちは、銀時を見て露骨にがっかりして、「松陽先生は?」と口々に尋ねたが、「いまは客が来てんの。まあ昼前には終わるだろうから、ちゃんと練習してたら褒めてもらえるだろうな」と銀時が返すと、神妙な顔で机に並ぶ。
半紙と手本を出してやりながら、こいつらほんとに先生が好きだな、と薄く笑った銀時は、数年前の桂や高杉を思い返して、あいつらよりマシか、と首を振った。むしろ今もひどい有様である。
午後になったらまたうるせェんだろうな、とおそらく今頃は村中に伝わっている先ほどの鍔迫り合いを思い浮かべた銀時は、けれども墨を零したこどもの泣き声に気を取られて、それ以上考えることはできなかった。

あの時、せめて松陽のそばに居たら良かったと、銀時はそれから何度も悪夢にうなされる羽目になった。

そこから先はほとんど断片的な記憶しかないので簡潔に言うと、手習いが終わる前に松陽は侍たちの手によって後ろ手に縛られ、罪人のように引き立てられていった。引き留めようとした銀時の身体は、なぜか村の者に押さえつけられてうまく動かず、もがきながら叫んだ銀時に、「銀時、私は江戸へ行ってきます。すぐ戻りますから、家のことは頼みましたよ」と、松陽はいつも通りの顔で笑うと、馬に乗せられてしまった。
後から聞いた話によると、侍は五人ではなく、八人いたらしい。村長の息子は松陽寄りだが、村長自身はそもそも江戸から帰って来た松陽のことを快く思っておらず、同じく松陽に反感を抱いていた者を集めて裏口から忍び込んだのだと言う。
「先生はどうして連れていかれたんだ」と尋ねた銀時に、村長は尊大な態度で「江戸家老様、引いては上様のご命令だ」と返した。それ以上の理由は何も知らないのだ、と理解した銀時は、踏み荒らされた客間の中で一通の書状を見つけた。零れた茶のせいでほとんど読めないが、末尾の署名だけは鮮明に、『松平片栗虎』と残っている。
これが、松陽を江戸へ浚って行った人間の名だ。じっと書状を眺めていた銀時は、やがて訪れた桂になぜむざむざと松陽を見送った、となじられたが、事情を知っていたらしい高杉が止めてくれた。むしろ責めてくれた方が良かった。
それから三ヶ月、銀時は松陽の帰りを待った。拾われた頃に戻ったような態度で刀を抱える銀時に、近づくものはひとり減り、ふたり減り、いつしか鬼の名が人の口の端に上るようになった頃、とうとう松陽の庵に火が放たれた。
丑三つ時だったが、銀時はほとんど眠らずにいたので逃げ遅れることは無かった。けれども火のついた場所は一か所ではなく、また誰ひとり消火に手を貸すものもいなかったので、銀時が持ちだしたものは身に纏っていた松陽の袷と、滲んだ書状と、片時も離さなかった松陽の刀だけだった。
これが村の意思か、と焼け落ちた庵を前に虚ろな目をした銀時は、そのまま村を出ようとして、桂と高杉に出くわした。息を切らせた桂は銀時に握り飯を押し付け、高杉はもともと松陽の持ち物だった髪紐を松陽の刀に結ぶ。
何の反応も示さない銀時に、戦へ出よう、とふたりは言った。お前の居場所はこの村に無いかもしれないが、先生の教えは俺にも、お前の中にもある。先生が目指した世が世なら、先生もきっと取り戻せる、と断言した高杉は、ひとまず銀時を家に連れ帰り、桂は知らずに負っていた銀時の火傷の手当てをしてくれた。
間を置かずに出た戦場で、銀時は松陽の刀を抜くことは無かった。銀時が村に居付いて初めて人を斬ったあと、使い物にならなくなった拾い物の刀の代わりにもらったそれは、立派な銘こそないが名品なのだと高杉が言っていたからだ。天人を、あるいは人を斬る為だけならば、戦場のどこででも代わりが見つかる。世界に一本しかない松陽の刀を、そんなことで消耗させたくは無かった。
そうして二年が過ぎた。真っ白な装束をまとい、銀髪をも血に染めた銀時を、仲間は畏怖と軽蔑を持って白夜叉と呼んだが、銀時にはどうでも良かった。天人を斬り続ければ、いつかきっと松陽が帰ってくる。銀時にとっての希望はそれだけで、そしてその銀時が戦場の希望だった。
だから、二年目の冬に吉田松陽の訃報を受けた時、銀時は一度どうしようもなくなったのだろう。決死の覚悟で持ち帰った松陽の首は整然と変わらぬ笑みを湛えて、銀時にはもう何もわからなくなってしまった。昨日もあしたも今日も未来も、松陽がいないのであれば銀時には何の意味もない。
いつかを信じ続けた銀時にとって、それはひどく恐ろしい感覚だった。悲痛な叫びをあげる桂と、声も無く泣き続ける高杉から離れた銀時は、その足でひとり戦場に向かい、敵味方の区別なく目の前の何かを斬り続けた。松陽は死んだのに、銀時は生きている。それが堪らなかった。
銀時の白は、ずっと死に装束だったというのに。

∽ ∽ ∽

銀時が戦から弾き出されたのは、それから半年後のことだった。混戦を極める中で、銀時が自暴自棄に手放した松陽の刀は桂のおかげで手元に残り、銀時は今も生きている。生きていたおかげで、松陽の死について知ることができた。土方と、会うこともできた。
土方の手をどうにか離した銀時は、松陽の手紙を選り分けて、見知った宛名を抜き出す。『高杉晋助殿』、『桂小太郎殿』、名前だけ聞きかじったことがある松陽の旧友、銀時宛のものは他にもいくつもあった。
松陽が書き散らした、と松平は言ったが、差し出したものの萩へ送られなかった、と言う方が正しいのかもしれない。松陽が最期に書いたものはどれなのだろう。それが己に宛てたものでなければ良いと、銀時は強く願った。
丁寧にまとめた書状の束を文箱へ納めた銀時が蓋をすると、「それは全部テメー宛なのか」と土方が言うので、「そうじゃねェけど、…渡す機会はねェだろうな」と銀時は首を振る。
銀時を失くした仲間たちがどれだけの劣勢を強いられているかは想像に難くない。もしかしなくても、仲間たちの多くは若い命を散らしているだろう。桂と高杉もその例に漏れないかも知れない。銀時が呆けていたせいで、また大事な人間の生死がわからなくなってしまった。
と、文箱に屈みこんだ銀時の頭をわしわし撫でた土方は、「テメーが生きてんだ、そう悲観的になることもねェだろ。江戸へ出ればまた、何か変わるかもしれん」と何でもない声で言う。そうかな、と絞り出すような声で銀時が返すと、「そうだろ」と土方は頷いて、「それまでちゃんとしまっといてやるから、貸せ」と銀時に手を出した。
しばらく土方の手を見つめていた銀時は、やがて文箱を土方に預けると、「なあ」と声を掛ける。長持ではなく、薬箪笥を引き出して文箱を納めた土方が「うん?」と振り返るので、「もしもその時が来たら、お前も一緒に来てくれる?」と、銀時は土方に問いかけた。
言ってしまってから、これは気持ち悪い発言だったか、と舌打ちした銀時に、土方は一瞬間を開けてから、「置いて行くつもりだったのか?」と真顔で問い返す。
へっ?と呆けた銀時の前で、ふはっ、と吹き出した土方が「その間抜け面、傑作だな」とひとしきり笑うので、「俺は本気なんですぅ」と銀時が釈然としない思いで唇を尖らせれば、悪い、と笑みを含んだ声で土方は言うと、「俺も本気だ」と続けた。
今度こそ二の句が継げない銀時の肩を叩いた土方は、「お互い生きてるのに、会えねェような立場じゃねェと良いな」と言って、部屋を出ていく。土方の背中を見送った銀時は、土方の手が触れていた肩に手を置いて、畳に俯せた。薄く土方の匂いがした。

∽ ∽ ∽

それからまた、十日ばかりが過ぎた。その頃には銀時も土方の部屋から出ることを許され、道場の使用も許可されていたが、銀時は結局土方の部屋に居続けている。土方との対峙は吝かでないが、それ以外の争いはできるだけ避けたかった。病み上がりだから、と銀時の代わりに沖田を筆頭とした面々の申出を一蹴してくれた土方は、「好きにすりゃいいが、身体は鈍らせんなよ」と、銀時に木刀を一振り投げて寄越す。聞けば、土方が昔使っていたものらしい。
随分年季が入った木刀を矯めつ眇めつ眺める銀時をよそに、土方はそれまでの日々を取り戻すような勢いで道場に入り浸っていた。純粋に剣が好きなのだろう。銀時にはわからない感覚だった。相手が強くても弱くても、勝たなければ死ぬだけである。ものごころついてからずっと、銀時が振るう刃はそういう類のものだった。
土方が求める刀もそういうものなのだろうが、銀時はできればそうした感情のない剣で土方と打ち合いたくはない。というわけで、銀時はこのところ、土方に隠れて素振りを続けていた。
朝食のあと、土方が道場へ行ってしまってから、銀時は縁側から下りて中庭で木刀を振るう。土方の部屋の先には布団部屋と物置しかなく、中庭にもほとんど人はやってこないのを良いことに、銀時は誰にも見とがめられることなく木刀を握っていた銀時は、だから、何の前触れもなく廊下の角を曲がってきた気配に微塵も気付かなかった。
「お疲れ様です、旦那」と声を掛けられて、思わず飛び上がってしまった銀時が振り返ると、そこには座布団を一山抱えた山崎が立っている。
心臓を押さえつつ、「なんだ、オメーかよ」と銀時が息を吐けば、「ひどい言い草ですね」となんでもない声で山崎は返すと、土方の部屋を通り越して布団部屋へ入り、手ぶらで出てきて縁側に膝をついた。
「何してんの」と銀時が嫌そうな顔をすると、「どうぞお構いなく」と山崎は首を振って、「後学のために見学していこうかと」と銀時を促すが、銀時にとってはたまったものではない。
「見られながらだとやりにくいんだよ、金取るぞ」と言いながら銀時が縁側に腰を下ろすと、山崎は少し考えるようなそぶりを見せてから、「これどうぞ」と袂から口を捻った紙包みを取り出して、銀時の手に乗せた。 
ん、と鷹揚に頷いた銀時が包みを開けば、中には綺麗に角が経った白と桃色の金平糖が詰まっている。「なに、くれんのか」と言いながら、銀時がつやつや光る金平糖を一粒摘まむと、「どうぞ、賂みたいなもんですから」と山崎は明け透けに返して、失礼します、と銀時の斜め後ろに移動した。
口の中で金平糖をからから転がしながら、「お前はいつから松平のおっさんに仕えてんの」と銀時が尋ねると、「二年ちょっとになりますかね。元は京に居たんですが、昨今の不景気で藩が潰れて、江戸に出たところを拾われた口で」と、山崎の答えは淀みない。
道理で、と山崎の声の端に上方訛りを認めた銀時は、「見張り?それとも庭番?」と問いを重ねる。「どうでしょうねえ。土方さん辺りは、俺が公方様じゃなくて主上様に仕えてると思ってるみたいですけど」と山崎は軽く首を傾げて、「でも俺は、何事もなくこの道場の皆さんと仲間でいられたらいいと思ってますよ」と薄く笑った。
「そのわりに俺を放っとくのな」と銀時が耳の後ろを掻けば、「松平公のお墨付きですからね」と山崎が言うので、ふうん、と銀時は首を曲げて山崎を振り返る。
どこといってとらえどころのない山崎は、十人が十人どこかで見かけたことがある顔をしている。どこかで合ったような、けれどもどこで会ったかは定かでない程度の人間だ。事実銀時も、いつかの戦場で酒を呑んだような既視感に襲われている。もちろん気のせいなのだろうが。
ある意味銀時の対称に位置するような山崎は、銀時の視線をどう捉えたのか、「なにかついてますか」と自身の頬にぺたりと触れた。
「お前、名前は。山崎、なに」と銀時が言うと、山崎は少しばかり驚いたような顔で、「さがる、です。山崎退」と板の間に指で時を描いて見せる。
やまざきさがる。何度か口の中で呟いてから、やっぱり覚えがない、とひとつ瞬きを落とした銀時は、けれども男の名前になど欠片も興味はないのだった。若干不思議そうな表情を作りながら、「俺の名前なんかどうするんです」と山崎が言うので、「どうもしねえけど」と、手枕でごろりと横になりながら銀時は返す。
「何か掛けるものを用意しますか」と山崎は言うが、「お前がいなくなったら素振りすっから」と銀時は首を振った。
つれないですね、と別段声音も変えずに立ち上がった山崎は、「そのうち道場にも顔を出してください。近藤さんがうるさくて敵わんので」と、おそらくこれが本来の目的だろうという言葉を落としてから、「それに、土方さんとも早く試合わないと機会がなくなりますよ」となんでもない調子で付け加える。
予想以上に冷たい床に閉口しつつ、「別にここじゃなくれも、江戸にだって道場くらいあんだろ」と銀時がひらひら手を振れば、山崎はまた少し考えてから、「土方さんがそう言いましたか」と静かな目で銀時を見下ろす。
「は?」と、言葉の意味を図りかねた銀時が肘を付いて身体を起こすと、山崎は僅かに目を細めて、「俺は旦那のことを、土方さんの代わりだと思ってました」と噛んで含めるように言った。
唖然とした銀時を尻目に、「でも勘違いかも知れません」とごく軽い声で山崎は続けて、「じゃ、俺はこれで。また昼餉に」と立ち去ろうとするので、「ちょっと待て」と銀時は鋭い声を出す。
肩越しに銀時を一瞥した山崎は、「土方さんなら道場です。ご存知でしょうが」と銀時の視線をもろともせずに告げると、あとは振り返りもせずに廊下を曲がって行ってしまった。
いきなり縮み上がったような胃の腑を押さえた銀時は、床板に両手をついて、土方の行動を思い返す。何の打算も無く饅頭をくれたこと、道場へ連れ帰って熱い風呂へ入れてくれたこと、握り飯と味噌汁の味、傷の手当てをして古いが清潔な布団に寝かせてくれたこと、松平片栗虎を殺さずに済んだこと、銀時に生きる目的をくれたこと。井戸端での身を斬るような寒さを思いながら、「だって、一緒にって言ったよな」と、銀時はぽつりと落とす。

俺と一緒に江戸へ上る気はないか。

あの時、土方は確かにそう言った。幕府などどうでも良かったが、土方が行くと言うのなら銀時に否やは無かったことを覚えている。裏を返せば、銀時には土方のいない幕府に仕える理由は無いのだ。
銀時のような人間を探していた、と土方は言う。人を斬る為の剣を振るう人間を。銀時でなければ、と言った土方の言葉は方便だろうが、それでも銀時は嬉しかったと言うのに。
しばらく俯いていた銀時は、やがて顔を上げると、脇に転がしていた木刀を掴んで素足のまま雪に下りた。凍った地面は容赦なく銀時の皮膚を刺すが、知ったことではない。音もなく走りだした銀時が向かう先は、土方がいる道場だった。
∽ ∽ ∽

息も切らさず道場に飛び込んだ銀時は、乱雑に打ち合う門下生の間をすり抜けて、まっすぐ土方を目指す。最奥に近い場所で、銀時の知らない誰かと組んでいた土方は、銀時を認めるや否や躊躇いなく目の前の相手を蹴り飛ばして、銀時が振り下ろす木刀を竹刀で受け止めた。
「不意討ちは感心ねぇが、これもテメーの戦法か」と、にこりともせずに土方が言うので、「戦場では生き残った奴が法だ」と銀時は返す。理に適った話だな、と何でもない声で肯定した土方が、やおら握っていた竹刀を手放すので、銀時がほんの一瞬姿勢を崩す間に、土方は大きく後方に跳んで、壁から木刀を取った。
中段に構えた土方が、「テメーがやる気になったのは結構だがな、いきなりどういう了見だ」と、銀時を睨み付けながら問い掛けるので、しばらく睨み合ってから、「土方、お前も江戸へ行くんだよな?」と銀時は直球で切り出す。
その途端、土方はあからさまに顔色を変え、銀時から目を反らした。一瞬のことだったが、かあっと頭に血が上るのを感じた銀時は、土方との距離を詰めて木刀を叩き落とすと、土方の首筋に木刀を当てて、「どういうことだ」と押し殺した声で告げる。
まさか本当に、銀時の刀の腕だけが目当てだったのだろうか。銀時をここへ連れ帰ったことも、それから先の全ても、何もかも計算だったと?
さらに問いを重ねようとした銀時が息を吸い込んだ時、「テメー、誰から何を聞きやがった」と、木刀の切っ先を掴んだ土方が言うので、「…山崎が、俺は土方の代わりだから、お前は江戸に行かねえと思ってたって」と、勢いを殺せないまま銀時は答えた。
あの野郎、と凶悪な顔で呟いた土方は、一度息を吐いてから、「近藤さん、総悟、一緒に来てくれ」と、木刀ごと銀時の手を掴む。 遠巻きにしていた門下生の間から顔を出した沖田は、「とうとう痴話喧嘩ですかィ」と鼻で笑うが、「言ってる場合か」と近藤に窘められて、しぶしぶ銀時と土方のあとに続いた。
土方に引きずられるようにやってきたのは、銀時の知らない座敷で、三人の反応を見るに近藤の部屋らしい。上座に座った近藤の隣を沖田が占め、向かい合うように土方と銀時が並ぶ。この、見るからに神経の太そうな道場主とはほとんど会話も無く、銀時はごくりと息を飲んだ。
「それで、どうしたんだ」と、最初に口を開いたのは近藤で、「俺とこいつの処遇について、まだきちんと話をしてなかったと思ってな」と、土方は言う。土方の処遇。知らず眉を寄せていた銀時に、「旦那、すげェ顔になってやすぜ」と沖田は首を傾げた。
ぐ、と膝の上で拳を握った銀時が、「その前に、質問に答えろ。お前も江戸に行くんだよな?俺は、お前の代わりじゃねーよな?」と土方に向き直ると、「土方さん、あんたそんな話もしてなかったんですかィ」と、沖田はむしろ同情するような眼で土方を見つめる。
なんだそりゃ、と声を荒げそうになった銀時の口を土方は無造作に手で塞ぎ、「だからお前と近藤さんを呼んだんだ」と、土方は返した。まるで話の読めない銀時をよそに、「近藤さん、あの時ああは言ったが、こいつひとりに道場を任せるのはやはり得策じゃあねえと思う。虫の良い話だが、俺も連れて行ってくれねえか」と、銀時ごと近藤に頭を下げる。
もが、と土方の手を外した銀時は、「お前、行かねえんじゃなくて連れて行ってもらえねーの?」と小声で尋ねたが、「黙ってろ」と土方の答えは冷たい。と、「最初からそのつもりだったさ。むしろ、ここまで来たら引きずってでも連れていくつもりだったよ」と、良く通る音で近藤は言った。
 頭を上げた銀時に、「俺たちの揉め事に巻き込んですまんな。そもそもトシは江戸行きに反対だったんだが、代わりが見つかるまで、と言う条件付きで付き合ってくれていたんだ。トシの気が変わったのはお前のおかげだろうから、改めて礼を言わせてくれ」と近藤が続けるので、「え、じゃあ代わりってのは本当だったの?」と、銀時は情けない声を出す。
「最初はな」と何でもない声で肯定した土方の言葉に被せて、「この人ァ、このところ失恋して腐ってたんでさァ。旦那の殺気を見て好い加減覚悟を決めたんでしょうよ」と、にやにやしながら沖田は言った。
しつれん、と冗談ではなく言葉の意味が解らなかった銀時の前で、「総悟ォォォ!!テメッ、余計なことを言うんじゃねェ!」と土方はいつになく感情をあらわにすると、銀時の手から木刀を取って沖田に打ちかかる。「おい、丸腰のガキ相手に止めろよ」と手を出しかけた銀時を制したのは近藤で、「やらせておいてくれ、あいつらは昔からああやってじゃれてるんだ。最近トシは元気が無かったからな、総悟も嬉しいんだろう」と、銀時の肩を抱いて大きく頷いた。
いや、じゃれるも何も障子の桟が今四、五本折れましたけど、と胸の中で突っ込んだ銀時は、馬鹿馬鹿しくなって足を崩す。
「土方、美人なのに失恋すんのな」と、銀時が膝の上で頬杖を突くと、近藤は少しばかり困ったような顔で、「俺の口からは何とも言えんが、お前にならトシも話すんじゃないか」とあやふやなことを言った。
 ちらりと近藤の顔を見上げて、「あんたさあ、俺がいるからって土方を手放すつもりはあった?」と銀時が尋ねれば、「トシの代わりがいるわけないだろう」と、近藤は笑う。
「あんたもいい性格してるよ」と鼻を鳴らした銀時は、とうとう素手で取っ組み合いを始めた土方と沖田の間に割り込むと、「これから痴話喧嘩すっから、返して」と土方の手を取った。
はっ?と妙に幼い顔で目を丸くした土方とは対照的に、「痴話喧嘩でもなんでも構いやせんが、そいつを泣かせていいのは俺と姉ちゃんと近藤さんだけなんで、それは覚えておいてくだせェ」と沖田が言うので、「姉ちゃん?お前の?」と銀時が首を捻ると、「そいつを振ったのは俺の姉ちゃんでさァ」と、勝ち誇ったように沖田は続けた。
「何それ、詳しく」と食い付いた銀時の手を逆に引くと、「痴話喧嘩すんだろ、行くぞ!」と、土方は木刀を拾い上げて、ばきばきに骨の折れた障子から逃げるように飛び出す。近藤の座敷からは沖田の高笑いが聞こえたので、本当に逃げ出したのかもしれない。
全速力で走りながら、「なんで隠してたんだよ」と銀時が言うと、土方はしばらく逡巡してから、「…戦帰りのテメーにそんなしょうもない理由を聞かせられるわけねーだろ」と、明後日の方向を見て言った。耳が赤い。
いっそ楽しくなってきた銀時が声を出して笑えば、「つーか、テメーは山崎と何の話をしてんだ」と、土方が別の角度から文句を言うので、「ただの世間話だよ」と銀時は返す。
ふうん、と鼻を鳴らして、「テメーは俺より山崎を信じて木刀まで振り回すんだな」と、土方の声は普段より低い。「えっ」と予想外の言葉に銀時が思わず足を止めると、土方はにやりと笑って、「痴話喧嘩なんだろ?」と銀時を振り返った。
雲に覆われていた太陽が不意に顔を出して、土方の顔を柔らかく照らし出す。初めて見るような気分で土方を見つめる銀時に、「おい、何固まってんだ。テメーが言いだしたことだろが」と、土方は不審そうに眉を顰めた。
そうだな、と頷いた銀時が、「乗って来るとは思わなくてさ」と首の後ろを掻くと、「よく言われる」と土方は言って、「俺の冗談は分かり辛いんだろ」と小声で付け加える。少しばかり拗ねたような態度に親近感を覚えた銀時は、「誰もそんなこと言ってねーよ」と土方の肩に腕を回して、「お前に拾われて良かった」と囁いた。
肩を竦めた土方が、「せいぜい働けよ、俺のために」と尊大に言い放つので、「はいはい、お前のためにな」と銀時は答えると、土方と顔を見合わせて同時に吹き出す。馬鹿みたいな会話が楽しくて仕方なかった。
土方の部屋に戻ってから、「それで、江戸へはいつ経つんだ」と銀時が尋ねると、「拠点になる寺の手入れが終わったらだ。この前覗いてきたが、あとひと月ってとこだったな」と土方は返した。「ちょっと待て、お前が帰ってきたのって、俺がここへ来た日だろ?あれからひと月って、もういくらもねえじゃねえか」と銀時が返せば、「何慌ててんだ、テメーは身ひとつで出られんだから出発が一年後でも一週間後でも変わんねェだろ」と、土方の言葉は雑である。
それはそうかもしんねェけど、と不服そうな顔をしながら、「この荷物はどうすんの」と銀時ががらんとした土方の部屋を見渡せば、「松平公が手配した人足があとから来る。俺たちは先に鉄の車で向かうがな」と、土方が言うので、「丘蒸気?」と銀時は重ねた。
「正確にはもう蒸気じゃなくてえれきてる…電気、だそうだ」と、舌を噛みそうな様子で土方は言って、「乗ったことあるか?」と、銀時に問い返す。「萩はド田舎だったしな…お前はあんの?」と銀時が言えば、「薬屋は足で稼ぐ商売だからな」と土方も首を振った。
「なら、お揃いだな」と銀時が安堵すると、「正直、そう遠いわけでもねえから徒歩か馬で行きてェんだがな、どうも松平公の利権が関わって来るらしい」と苦々しい顔で土方が言うので、「あのおっさん、鉄道も管理してんのか」と、銀時は純粋に感心する。人は見かけによらないものだ。
「問題はそこじゃねえよ」と頭を振った土方に、「もしかして、お前乗りたくねえの?」と銀時が首を捻れば、土方はむしろ堂々とした態度で、「俺は天人の技術を信用してねえ」と言い切る。
あはっ、と笑った銀時が、「お前のそういうところ、いいよな」と言って、「どうしても乗りたくなかったら、俺がお前を連れて逃げてやるよ」と請け合うと、「そうだな、その時は頼む」と土方はあっさり言い放った。
 笑みを含んだまま、欠伸をひとつ落とした銀時に、「ところで、俺との試合はあれで終わりじゃねえよな」と土方は言う。「あー、うん、俺の勝ちではあったけどな」と銀時が鷹揚に頷けば、「ばか、あれは無効だ。今からでもやり直せ」と土方が銀時に木刀を突き付けるので、「昼飯のあとで良ければ」と銀時は返した。
冬の陽は、もうほとんど頂点に達していた。


( W副長未満 / 坂田銀時×土方十四郎 / 140727)