さひはひすむとひとのいふ 4

道場の客間は、下座敷の喧騒を避けるため、母屋から回廊を繋いだ離れに在った。途中、広い屋敷だな、と銀時が呟くので、「元は大名家の下屋敷かなんかだったらしい」と土方は返す。剣術道場も含めて、今はもう衰退の一途を辿るばかりの。そうか、と返す銀時に軽く頷いて見せた土方は、銀時の手を引いていない左手で腰の刀に触れた。物理的な話だけではなく、これは正しく人を斬る為のものだった。竹刀や木刀と言った紛い物とは明らかに質の違う重みに、土方はちらりと銀時へ視線を滑らせる。この男は、こんなものを抱いて寝ていたのだ。朝から晩まで抱え続けたそれは、侍の魂などではなく、ただ銀時の魂の拠り所なのだろう。ふわあ、と大口を開けて欠伸をする銀時の顔からは、先ほどの迸るような殺気は微塵も感じ取れない。土方の視線をどう受け止めたのか、いつも通り光の無い目で土方を見つめ返した銀時は、「で、お前の方から俺に聞きたいことはねえの」と、もう何でもない声で言った。銀時の顔と、繋いだ手と、銀時の刀とを順に見下ろした土方が、「無くもねえが、あとでいい」と首を振れば、「変な奴」と、銀時は屈託のない顔で笑う。それはテメーだろ、と心の中で呟いた土方はもう一度腰帯を確認した。

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話は少しだけ遡る。松平の訪れで、道場が一気に沸いた頃の出来事だ。
正直なところ、土方は武士の位になど興味はない。剣術は嫌いではなかったし、自分が強くなっていく感覚も悪くはなかったが、あくまでそれは己ひとりを高めるものであり、何かのための剣では無かった。いずれと言わず、すでに衰えていた道場は近藤の代で円満に閉じるとして、土方はこのまま本家の脛を齧るように生きていけば良いと思っていたのだ。異母兄がいなくなってどうしようもなくなったら、江戸へ出て気ままに暮らすのも悪くない。土方は元来根無し草のきらいがあるし、江戸のその日暮らしはさぞかし性に合うだろう、と夢想していた。それこそ、ほんの半年前までは。流れ者の浪人だとばかり思っていた相手が松平片栗虎と知れた瞬間、道場は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。幕府になどまるで興味がなかった土方とは異なり、少なくとも侍の端くれである彼らにとって、次期将軍の傍仕えである松平は畏敬と憧憬の的だったらしい。あのオッサンがねえ、と種を明かされてなお首を捻る土方をよそに、道場は江戸行きへの期待と興奮が入り混じった熱狂的な渦に飲まれていた。年に似合わず、何事にも飄々とした態度を崩さないあの総悟までが、帯刀を許されるまたとない機会に拳を握る姿は、いっそ微笑ましくもある。
ひとり対岸の火事を眺めるような気分でいた土方には、その時点で道場の一員として江戸へ出る気はまるでなかった。土方はそもそも武家の出でもなんでもなく、ただ豪農の、しかも妾の子である。一心に棒きれを振り回す生活はそれなりに楽しかったが、そこに命を預けるとなれば、また話は別だった。散々世話になっておいて何だが、結局土方は我流が過ぎて皆伝にも至らなかったし、将軍家にも興味はない。この辺が潮時だろう。京へ上ると言われたら今生の別れかもしれないが、江戸へ出ると言うのならそう遠くもなく、あるいは新しい武装組織お抱えの薬屋として悠々自適に暮らせるかもしれない。
皆とは別の理由で部屋を片付けていた土方は、だからある夜、「江戸でも、トシに皆をまとめてもらいたい」と近藤に打診され、冗談ではなく手にしていた湯呑を取り落とした。幸い割れなかった湯呑を拾い上げ、少しばかり畳を濡らした茶を丁寧に拭いた後、「すまねえが近藤さん、俺ァ江戸に出るつもりも、将軍様に仕えるつもりもねえ。あんたには伝えたと思ってたんだが」と、土方が改めて口にすれば、近藤は目を剥いて、「何を言うんだトシ、ようやく道場の旗を上げられるんだぞ?お前がいなくてどうする!」と、土方の腕を掴む。逆に驚いた土方は、「おいおい、俺はただの冷や飯食いだぞ。道場をまとめてきたのはあんただし、松平公だってさすがに何もかんもこっちにおっかぶせはしねェだろうさ。頭を使うようなことには人を廻してくれるよう頼みゃいい。そっち方面はからっきしだからなァ、ここは」と、冗談めかして笑おうとしたが、近藤の指は外れない。
「俺たちを見捨てるのか、トシ」と、真顔の近藤に言われた土方が、おおげさだ、と首を振ろうとした瞬間、「怖ェんですかィ」と怒りを孕んだ声が響いた。土方と近藤が同時に目を向ければ、水墨画の唐紙がすぱんと開いて、「江戸が怖いんですかィ、あんた」と、沖田は繰り返す。「馬鹿言うな、俺ァ江戸には何度も出てる。行くたびにめまぐるしい変わりようではあるがな、なんてこたァねェよ」と、頭を振った土方に、「だったら刀が怖ェのか」と、ゆらりと近づいた沖田は言った。「ここまで世話になっておいて、いまさらケツ捲って逃げ出そうなんざ虫が良すぎでィ!」と、土方の襟首を掴んだ沖田の言葉が、「それともあんたァ、まさかここで所帯でも持つつもりかィ?許さねェぞそんなこと!」と妙な方向へ逸れていくので、「落ち着け総悟」と、近藤は沖田を引き剥がす。
「だって、近藤さん!」と、顔を真っ赤にした総悟に、「トシは今俺と話しているんだ。お前は後にしろ」と、近藤は告げて、総悟を膝へと抱き込んだ。しばらく見なかったその光景に、土方は数年前のことを思い出す。まだ総悟の口がここまで尖っておらず、四六時中近藤にまとわりついていた頃のことを。



土方は、日野の庄屋の末子として生を受けた。妾の子ではあったが、半分しか血のつながらない兄や姉は皆優しく、でもだからこそ口さがない連中の声は良く響いた。土方自身や、今はもういない生みの母のことであればなんでもなかったが、異母兄姉にまでその声が広がるとあっては腹に据えかねる。十を数える頃、下から三番目の姉の婚姻が土方のせいで破談になりかけた時、土方が迷わず家を出たのは、そういう背景があるからだった。最初の奉公先は、土方の家が探してくれた。生薬を卸す中で繋がりが出来たと言う大きな蝋燭問屋には奉公人も多く、土方はそこで商いの基礎を一通り学んだ。もちろん、小僧に与えられるような仕事は掃除や水汲み、使い走りが良いところだったが、目端が利き、良く働く土方は、店の主人にも随分気に入られることができた。
土方は三年そこで働き、このまま江戸で店者暮らしを続けるのも悪くないと思ったのだが、折悪しく開国から数年を数えた江戸には天人由来の灯りが幾種類も持ち込まれ、蝋燭問屋は瞬く間に縮小を余儀なくされた。店の片端で扱っていた煙草売りを主流にしていく、となった時、土方はやはり迷わず店を止めた。煙草売りの中心になっていた跡継ぎと、残念ながら反りが合わなかったからだ。行儀奉公のようなものだったのに良く働いてくれたから、と少しばかりまとまった額の金子を受け取った土方は、土方の家に金を言付けた短い手紙を出し、そのまま放浪生活を始めた。すでに店の小女とも関係を持っていた土方は、寝床と温もりが欲しくなると適当な女を探し、そうでないときは適当に喧嘩屋などをして過ごした。勝つことも負けることもあったが、純粋に喧嘩は楽しかった。最初は素手だった得物がだんだんと棒きれに、棒きれから木刀にと変わって行ったのは、その方が効率が良いと言うだけの話だった。
そうして、やはり三年ばかりを過ごした土方は、ある日数十人のごろつきに囲まれて進退極まった。十数人であればなんとか切り抜けることもできただろうが、人の波が出来てしまっては、ただ逃げるだけでも難しい。結局、十人ばかりを倒したところで足首を掴まれて身動きが取れなくなり、その後は散々に打ち据えられて土方は動けなくなった。止めを刺されなかったのはいっそ奇跡に近いだろう。喉の奥で笛のような音が鳴るのを聞きながら、なんとか近頃寝床にしていた鎮守の祠まで帰ろうと這いずっていた土方を拾ったのが、近藤だった。襤褸切れのような土方の腕を掴んで、軽々担ぎ上げた近藤は、「ずいぶん手ひどくやられたな」と一言落としただけで、そのまま土方を道場へ連れ帰ってくれた。傷口から熱を出した土方の傍に、一晩と言わず三日三晩付き添った近藤は、やがて眼を覚ました土方へ何の見返りも求めようとはしなかった。恩には恩で報いるしかない。床上げも済まない十日目に道場を狙ったごろつき共と再戦を果たした土方は、背中あわせに戦った近藤の強さに驚かされた。近藤の太い腕から繰り出される剣は、武骨でありながら確かに優美さを纏って、土方を魅了する。そうだ、土方はあの時確かに、近藤の剣に見惚れたのだった。
その頃、道場には近藤と十にも満たない沖田、それと近藤の義理の祖父しかいなかった。道場の主体は江戸にあり、そこは近藤の養父が回している、というようなことを話半分に聞きながら、錆びれた道場を見渡した土方は、二度目の怪我が治ってすぐ、土方の本家へと足を運んだ。本家頭首の長兄は、数年ぶりの訪いにも動じることなく土方を迎え入れ、四方山話に花を咲かせた。土方が道場の話を切り出せば、昨今の廃刀令の煽りを受けて、江戸の本道場も厳しい状態にある、ということはすぐに知れ、土方は長兄に頭を下げて、道場入りを決めた。「お前がわがままを言うのは初めてだ」と、なぜか顔を綻ばせた長兄は、道場への寄付を惜しまず、朽ちかけていた屋敷と道場を建て直すとともに、村々から習い手を募った。もともと、武州はその名の通り武芸全般に厚い土地である。土方家の援助と、近藤の剣の腕、それに江戸の道場からやってきた師範代たちのおかげで、道場はなんとか持ち直した。それどころか、松平公に目を掛けられるまでに成長している。
であれば土方の恩返しも、このあたりで終わって構わないだろう、とごく自然に土方は思っていたのだ。道場が無くなれば、土方が恩を返す場所も無くなる。土方の見惚れた剣が、ただ人を斬る為のものになると言うなら、それはもう土方の望むものではない。養子とは言え武家の近藤たちや、世が世なら土方など箸にも棒にも掛からない大名筋の沖田とは、抱えているものが違うのだ。それがこの数週間ではっきりとわかった。



「トシ」と口を開いた近藤に、「悪ィが、総悟の言う通りかもしれねェ」と、土方は斬り込む。「俺ァ、喧嘩の最中にも人を殺したことはねえ。殺しそうになったことはあるが、最後の一歩でいつも手が出なかった。だが、御上の手先として刀を持つようになったら、そうもいかねェだろ。俺とあんたらでは覚悟が違う。あんたらのように、大義のために振るう剣は持てそうにねェ。すまねェ、近藤さん。…総悟もな」と、土方が頭を下げれば、「トシ、俺たちは人を斬りに行くわけじゃない。江戸の治安を守りに行くんだぞ」と、苦々しい声で近藤は返すが、「そんな綺麗事のためなら、『武装警察』なんて名は掲げねえだろ?誰の息も掛かってねえ手、ってことはつまり、後ろ盾のねえ存在が欲しいってことだ。いざという時、簡単に切り捨てられるようにな。あんただって馬鹿じゃねェ。それもわかって行くんだろうがよ、俺は無理だ。名誉のためには死なねェ」と、土方は首を振った。
「トシ」と三度言いかけた近藤へ、「本当は、あんたも総悟も誰も行かせたくねェ。でも、そうはいかねえよな。何しろあんな天の上からの名指しだし、俺がどう思おうとあんたらは完全に乗り気だ。…俺は武州から、あんたらの息災を願ってる」と、土方が言い切れば、近藤は絶句して土方を見つめる。失望しただろうか、もしくは激昂するのだろうか。それも良かった。近藤が望んで修羅の道を行くのであれば、土方と彼らの先はここで分かたれる。幸い荷物はまとめ終えたし、今は土方の兄とも繋がりのある土方の行く末はそう暗くない。たとえ一生を田舎の小作で終えるとしても、それが土方の矜持だった。
二の句を継げない近藤に、せめて暇乞いだけでも、と土方が足を正した瞬間、明らかな殺意を孕んだ木刀が土方に降りかかる。身を捻り、辛うじて初太刀は避けた土方だったが、やみくもに木刀を振るう沖田の手によって何度か打ち据えられ、さすがに喉の奥で呻き声を上げた。普段、沖田は道場で竹刀しか振るわない。すぐ先がばらけて困る、と愚痴を零しながら、それでもまっすぐ伸びやかな沖田の剣は、反りが合わない土方の目を通しても好ましいものだった。その剣筋が、今は見えない。こんなものは棒切れ一本で、いや棒すら使わない素手で、簡単に止めることができる。江戸へ行かない、と言っただけでこんなことになるほど嫌われていたのか、と今さらながら空しくなった土方は、土方を庇おうとした近藤を押しのけるように沖田の利き腕を取って、逆手に捻り上げた。鈍い音を立てて畳に転がった木刀を足先で抓み、屈むことなく手にした土方が、「道場を辞するなら、もうお前を立てる必要もねえんだな」と、沖田の喉元に切っ先を突き付ければ、「止めろトシ!頼む、止めてくれ」と、近藤は木刀を掴もうと手を伸ばす。
「悪ィな近藤さん。別に危害を加える気はねェが、最後に一発くらい入れさせてくれや」と、目を細めた土方の前で、「はァん、やっぱり猫かぶってやがったか。キャンキャンうるせェ野良犬の癖に、同情引いて餌貰うのだけは得意と来た。人の心を散々弄びやがって、江戸に出ねえんならせめてその面刻ませやがれ!」と、顔を歪めて沖田は吐き捨てた。雲行きの怪しい言葉に、「ちょっと待て、誰が何を弄んだって?」と土方が手を止めれば、「空っとぼけんじゃねえやィ、わかってんだろう?姉ちゃんのことでさァ!」と、噛みつきそうな勢いで沖田は言う。一気に力が抜けた土方は、「近藤さん、持っててくれ」と、一瞬空を掻いた近藤の手に木刀を握らせ、沖田の頭を平手で軽く張り飛ばすと、「めったなこと言うんじゃねェよ、俺とミツバがどうにかなるわけねえだろうが」と、溜息交じりに返した。そんなことで激高していたのか、とこめかみを押さえた土方に、「テメー…姉ちゃんの気もしらねェで」と、沖田はなおも身を捩るが、土方の手は揺るがない。
「何も知らねェのはお前だ、総悟。あいつは正しく自分の立場を理解しているし、俺もそうだ。お前がこのまま武州で一生を終えるならまだ違ったかもしれねェが、お前は江戸へ行くんだろ?そうなったらお前とあいつの血筋は、お前らの武器になる。言い変えりゃあ道具だな。ま、あのオッサンの力がありゃ、あいつを正しく大事にしてくれる家へ嫁げるだろうさ。良かったな、江戸で縁づきゃ、ちょくちょく顔見せに行けんぞ」と、土方が顔色も変えずに言い切れば、そこでようやく伝わったのか、「まさか姉ちゃんが、そう言ったのかィ」と、声の震えを押さえようともせず沖田は言った。土方は肯定も否定もしなかったが、ただ一言、「あいつは強いおんなだ」と告げる。それだけで沖田の全身から力が抜けるので、土方はくたりとした沖田を抱き上げると、近藤の腕に引き渡した。まだ薄い背中を二、三度撫で、「それでも、行かねえとは言わねェんだろ?」と追い打ちをかけたのは、土方の若さだった。



沖田の姉は、名を沖田ミツバと言う。沖田より四つほど年嵩で、花も恥じらう風情の美少女だ。生来の病弱さも相まって、まさに触れなば落ちん、と言わんばかりのミツバと土方は、四年前に出会った。土方が近藤の道場に居付いて数日、沖田の屋敷から使いとしてやってきたミツバは、たまたま縁側に出ていた土方を見て目を丸くし、「その尻尾、良くお似合いですね」と、土方の髪を褒めた。女に好意を抱かれることにも、その対処にも慣れていた土方だが、ミツバのそれは斜め上だったので、一瞬反応が遅れ、その隙にミツバの手は沖田がさらって行ってしまった。そろそろ切ろうと思っていた髪の根元に触れ、まんざらでもない気分になった土方は、結局四年経った今でも髪型を変えずにいる。
ミツバと土方の間にあるものはひどく不安定だった。恋と言うほど確かなものではなく、愛と言うほど儚いものでもない。ただ、十六歳と十二歳ではどうにもならなくとも、二十歳と十六歳であれば充分釣り合うのだと、どちらともなく思っていたことは確かで、ミツバはときおり、「総ちゃんが元服したら、私はお役御免ですから」と、ある種の情熱を込めて土方に告げた。もちろん身分の差を鑑みればとんでもない話だったし、土方が沖田家の使用人に煙たがられていることも知ってはいたが、天人が飛来して拾余年、幕府の力にも若干の衰退が見られるこのご時世であれば、そこまでの夢物語ではない、と土方は考えていた。今すぐではなくとも、いずれ土方が自力で糊口を凌げるようになった暁には、きっと。
だがそれも、数週間前までの話だ。嵐のような激しさで近藤の道場を掻きまわして行った松平は、その足で沖田の屋敷へも向かい、沖田の祖父母に『沖田総悟』の幕府入りを認めさせたのだ。それが何を意味するかと言えば、二代続けて役の無かった沖田家が息を吹き返したと言うことで、年老いた祖父母は涙ながらにそれを受け、その場で沖田に家宝の菊一文字を授けたらしい。珍しく紅潮した面持ちの沖田がもったいぶって抜いて見せた刀は陽を浴びてぎらりと光り、道場の面々は皆一様に息を詰めた。もちろん、近藤の道場には他にも真剣が置いてあったし、まがりなりにも武家の出である各師範代たちも差し料を下げてはいたが、素人目にも格が違うことはわかった。同時に、菊一文字を擁する沖田家の格も。
沖田の家が武家として力を取り戻すと言うことは、すなわち沖田ミツバにもそれ相応の価値が生まれると言うことだ。良家の子女には、それに相応しい相手が要る。これまで再三告げられた言葉が、ここへきてようやく土方へと圧し掛かった。日本刀を前に、邪気のない笑顔を見せる沖田は、そもそもミツバと土方の関係を良しとしていない。ミツバが土方に見切りを付ける良い機会だと知れば、沖田はきっと喜んで家人に協力するだろう。急速に冷えていく頭の隅で、土方ははじめてこの国を変えたい、と願った。もう、遅すぎる願いだったが。
土方がミツバと話をしたのは、それから三日後のことだった。近藤の道場まで共も付けずにやってきたミツバが、開口一番に「私にさらわれてくれますか」と言うので、土方は一瞬一も二もなく頷きかけ、けれども結局「二人で逃げた先に、未来はあるか」と、問い返す。身体の前で柔らかく組まれた、細くしなやかなミツバの指は、冗談抜きで筆より重い物など持ったことがないのだろう。ミツバは、今現在重篤な病を抱える身ではない。ただ生まれつき心の臓が弱く、それが要因で様々な病を引き当てるのだと言う。武士の身分と、働かずとも生きていけるだけの家禄があるからこそ、今日まで人と変わらぬ暮らしが出来たのだと、ミツバはいつか土方に語った。一生、一人では生きてゆけぬ身体なのだと。毎年、夏と冬に一度ずつ重い風邪を引き込むミツバは、今年もつい先日床が上がったばかりで、いつにもまして儚く見えた。
たとえば土方がミツバにさらわれて逃げたとして、同じだけの生活をさせてやれるかと問われたら、それは否である。最初の夏を満足に越せるだけの甲斐性があるかも疑わしい。時限はなくとも確実にミツバの命は縮まり、土方を置いて逝ってしまう。ここでミツバの手を取ることはたやすい。それからも、きっと幸せではあるだろう。だが、未来はないのだ。拾年、弐拾年、参拾年先の未来に、ミツバはきっともういない。土方とミツバの間に慕情はあった。けれどもそれは、沖田とミツバの間にも、土方と兄の間にもあるのだ。その全てを擲ってまで数年の幸せを得ることに、果たして意味はあるのだろうか。ミツバはきっとそこまで見越して、土方を迎えに来てくれた。だが、土方はどうだろう。己の命であれば、惜しくはない。けれども、懸っているのはミツバの命だ。沖田家の娘であれば何不自由なく生を全うできるミツバを、土方の一存で連れ出せるだろうか。
じっと見つめ合っていた二人だったが、やがてミツバはほろりと笑い、「私はあなたのこどもが欲しかった」と零す。「あなたを一人にしないように、あなたが寂しくないように、私が淋しくないように」と、噛みしめるように続けたミツバへ、土方は何も言えなかった。見透かされている、と思った自身を恥じ、そしてここまで言わせてしまった己を胸中で詰るばかりだ。口を開かない土方を前に、ミツバはあくまでもたおやかに微笑んで、「帰ります。あなたをさらえなかったことは残念ですが、でも、あなたが私の生を案じてくれて、嬉しかった」と告げる。その、震えもしない声の下で、組まれたミツバの細い指がさらに白く握り締められていることに土方は気付いたが、触れることはできなかった。元より、簡単に手を出せるような相手では無かったのだ。いつか江戸で見た華奢なギヤマン細工のようなミツバは、身分の差を抜きにしても、ずっと特別だった。ミツバと子を成すことなど、今の今まで土方には思いもよらなかった。ミツバは土方が思うよりずっと強い人間で、そして強い女だった。土方には何もない。ミツバに差しだせるだけの愛も、言葉も、命も、一夜の交わりでさえも。
「…俺は、この国の理が憎い」と土方が低く漏らすと、「ええ、でもそれは言っても仕方がありません」とミツバは言い、「私は江戸へ参りますが、どこにいてもあなたの幸せを願っています。あなたが一人でないように、寂しくないように、誰かに置いて行かれないように」と重ねて、そっと土方の指に触れる。土方よりずっと冷たい指先は、一瞬で土方の肌を離れ、後には何も残らない。江戸へ。沖田とミツバの父が暮らす、上屋敷へ。
「私のことは忘れてください。ただ、あなたをさらってしまいたかった人間がいたことは、どうか忘れないで」
最後に深々と頭を下げたミツバは、喘ぐように息を呑んだ土方を置き去りに、軽やかな足取りで道場の門を潜っていってしまった。それきり、ミツバには会っていない。もう二度と会えないのかも知れない。



「そんなこと…姉ちゃんは一言も」と、白を通り越して青ざめた沖田の顔を一瞥し、「好んで語るようなことじゃねェ。テメーが、…掘り返すような真似をするとは、ミツバも思わなかっただろうな」と、土方はひどく乾いた声を落とした。「すまねえ近藤さん、これ以上は無意味だ。俺は刀に命を預けることはできても、誰かのために振るう刀は持っちゃいねえ。あんたら武士とはどうしたって、相容れねぇんだ」と、最後はほとんど自身に言い聞かせるような声音を出した土方は、目を伏せて立ち上がる。もうここにはいられない。否、ここにはいたくなかった。土方がミツバの手を取ることができない理由は、もとを糺せば近藤に繋がってしまう。土方はそうしたくなかった。土方とミツバの間にあった情は、土方と近藤の間にも確かに存在したのだ。
呼吸を整えて襖に手を掛けた土方は、「トシ」と揺るぎない声に呼び止められて、震えそうになった手を握る。一瞬でも、足を止めてはいけなかった。逡巡は迷いであり、すなわち土方の弱さの象徴である。土方を引き留めた近藤が、「命を惜しんだ先で何を得る」と言うので、土方は奥歯を噛んで振り返ると、「命を捨てて得るものがあるのか」と、近藤に問いかけた。それが一番いけなかった。沖田を膝に抱え上げたまま、にい、と笑った近藤は、「それを見つけるのが武士の本分だ」と土方に告げる。「だから、俺は武士じゃねえ」と土方が苦り切った声を出せば、「それはお前が決めることじゃない」と、澄ました顔で近藤は言い、「今お前に見捨てられたら、この道場はどうにもならんだろう。どうしてもと言うなら、お前の代わりが見つかるまででも構わんから、ここにいてくれ」と、まっすぐに言い切った。近藤の腕の中から、沖田も土方を見上げている。ミツバに良く似た色の目をしていた。「…俺は繋ぎかよ」と零した土方は、それから結局近藤の長話に付き合わされたのだった。

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土方の隣を歩く銀時は、隙だらけのような顔をしながら、そのくせどこにも打ちかかる余地がない。丸腰の今でさえ、簡単に取り押さえられるとは思えなかった。土方の代わりと言うには充分すぎる逸材だろう。けれども、土方の指を掴む銀時の手からは無条件の信頼が伝わって、土方は薄く息を吐いた。土方はさっき、一緒に江戸へ上る気はないか、と告げている。そこに土方がいないのなら、銀時はきっと首を縦に振りはしなかっただろう。守られたいなどと思ったことは一度もないが、銀時の言葉は純粋に嬉しかった。銀時がいるのなら、江戸での暮らしもそれほど悪いものではないかも知れない。相変わらず侍には興味が無いものの、銀時と戦ってみたいのは事実である。ざらついた銀時のてのひらをぎゅっと握った土方が、「その突き当りの先だ」と短く告げて手を離せば、銀時は土方を見ずに頷いた。ほんの少しだけ、面差しが変わったように見える。
豪奢な欄間が付いた客間の襖の前には、山崎が控えていた。土方が近づくと、山崎は心得たようにするりと中へ滑り込む。膝を着いた土方と銀時が黙って季節外れの牡丹絵を見つめていれば、やがて内側から音もなく襖が開いた。十六畳の奥にどかりと腰を下ろした松平と、その脇を固める近藤と沖田に視線を滑らせ、すう、と目を細めた銀時に、腰帯の刀を握ることで答えた土方は、松平に平伏する。強要するつもりはなかったが、銀時も流れるような所作で畳に跪き、低く頭を下げた。その姿がいかにも美しいので、土方は少しばかり目を瞠り、松平の応えを待って顔を上げる。銀時は、たっぷり二呼吸置いて背筋を正した。
松平が次に口を開く前に、「近藤さん、総悟、悪ィが外してくれるか。これは銀時の個人的な話でな」と、土方は告げる。銀時にああは言ったが、やはりいざと言う時に斬られる相手は土方だけで充分だろう。銀時がどれだけ強くても、今、銀時の刀を持っているのは土方だった。「トシ、それはさすがに」と、咎めかけた近藤に、「構わねえよ」と首を振ったのは松平自身で、「お前が聞きたいことも、お前が俺を殺したい理由もわかってる。むしろ、アレの弟子にしちゃ遅すぎるくらいだったな」と、いっそ親しげに銀時へと声をかけた。やはり、松平も銀時を知っているらしい。土方は驚かなかったが、近藤と沖田は幾度か松平と銀時に視線を彷徨わせ、最後はどちらも土方を見つめる。そんなだから出て行けねえんだろ、と普段はふてぶてしい沖田の寄る辺ない顔を一瞥した土方の隣で、「松平公、まずは先ほどの無作法についてお詫び申し上げる」と再び額突いた銀時は、畳に手を突いたまま朗々と続けた。
「私は、長州藩萩松本村松下村塾講師、吉田松陽が一番弟子、坂田銀時と申す。過日、江戸城下にて執り行われた我が師、吉田松陽の処刑について、公の知る真実をご教示いただきたく」
そこまで聞いたところで、「止めろ止めろ、肩が凝る」と松平は片手を振り、「固っ苦しいのは無しだ。テメーのことは松陽から良く聞いてんだよ、出来損ないの鬼を拾ったってなァ」と、値踏みするような眼で銀時を眺める。それだけで、ぴんと張り詰めた空気に、土方は知らず刀の柄を握り締めた。沖田も近藤も片膝を立て掛け、松平に制された。ほんの一瞬、十六畳の客間を支配しかけた銀時は、けれどもすぐに息を吐いて、「オッサン、先生のこと名前で呼んでんのな。まあ、手紙の中身も無理やり引っ張りだすようなもんじゃなかったしな」と、言いながら膝を崩す。さずがにぎょっとした土方を置き去りに、「俺ァ、昨今の戦の動きについてあいつの意見を聞きたかったんだ。まさか江戸城を追われた人間が、のこのこ古巣へ戻って来るとは思わねえよ」と松平は言い、「アレの馬鹿さ加減を忘れていた俺の責任ではあるがな」と苦々しい声で続けた。
「俺の屋敷に引きこもってりゃなんとかなったが、アレはそんな殊勝なタマじゃねェ。俺がいねェ間ににっこり笑って呼び出しに応じて難癖付けて捕えられて、それでどうしようもなくなっちまった。罪状は天人との内通による謀反だがな、冗談じゃねえ。そもそも、あの時もう江戸は天人のものだったんだ、内通も何もねえだろう。確かに幾人か、俺の知らないところできなくせェ繋ぎは付けていたようだが、そんな奴ァ老中共の中にだって幾らでもいる。幕府は…天人共はただ、開国後の障壁をひとりでも減らしたかっただけなんだろうよ。情けねえことに、俺は壁とも認識されなかったわけだ」と、そこで松平は静かに息を吐き、居住まいを正した。
「何にせよ、もとを糺せばテメーの師匠は俺が殺した。テメーには俺を恨む権利があるし、俺を狙う理由もある。俺の方にも今すぐには死ねねェ理由があるからむざむざと殺される気はねェが、誹りは受ける。謝罪もする。命以外で贖えるものがあるなら教えてくれや」と言った松平に、「ああ、うん、いや、特にねぇわ」と、気の無い声で銀時が言うので、おい、と土方は思わず銀時の脇腹を突く。先程の殺気を忘れたと言うのだろうか。刀を掴むだけで精一杯だった土方には構わず、「先生、オッサンのとこで俺の話なんかしてたんだろ。ってことは、オッサンと先生の間に利害は無かったってことだ。これは勘だけどよ、先生が城へ出向いたのは、そうしねェとあんたに何某かの不利益があったからじゃねえの」と、銀時は松平に首を捻って見せる。語尾は問いの様だったが、断言するような響きに、松平はただ黙って頷いた。ふ、と軽く笑った銀時は、「なら、もういい。それであんたが今生きてるからこそ、先生は笑って死ねたんだろうしな」といっそ明るい声を出すと、余韻を残したまま土方の手を掴んで立ち上がる。呆気に取られたまま手を引かれる土方の前で、緋牡丹柄の唐紙はまた音もなく開き、銀時も躊躇わずに客間を出ようとして、「おい、銀時!」と、松平の声で足を止めた。肩越しに振り返った銀時は、「あいつが俺の屋敷と座敷牢で書き残した文書がいくつかある。捨てられる前に拾っといたが、お前いるか」と尋ねる松平の言葉に大きく目を見開いて、「ありがとうございます」と返す。土方のてのひらを掴む銀時の指にぎゅっと力が籠もり、襟から伸びた首は淡く上気していた。すぐに届けさせる、と請け負った松平は、僅かばかり言い淀んでから、「…なあ、お前俺と来るか」と銀時に持ちかける。「松陽の弟子なら、今の幕府でも役に立つだろ。出回った手配書も何とかするし、内側にいりゃあ俺の寝首をかくのも簡単だぞ」と、にこりともせず言った松平の顔をしばらく眺めた銀時は、やがてゆるりと首を振った。
「光栄な話なんだろうけどよ、俺はこの」と、銀時は繋いだままの土方の手を振って見せ、「土方殿に命を救われたから、俺の命はこいつを守るためにある。二君に仕えんのは侍の本懐じゃねえだろ」と、おどけるように肩を竦めた銀時に、そうか、と頷いた松平が、「だとよ、トシ。仕方ねえから譲ってやるが、粗雑に扱うんじゃねえぞ」と、土方に振るので、土方はただ、「はい」とだけ返す。信頼には信頼で答えるしかない。そういうものだった。

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客間からの道を逆に辿りながら、「てめぇ、何が捨て子だ。ずいぶん立派な肩書きがついてんじゃねえか」と、土方が銀時を軽く睨むと、「あんなん名乗るのは初めてだし、もう二度とやんねーよ」と、どことなく機嫌の良い銀時はひらひらと片手を振る。ざらついて固い皮膚をした銀時の手はそれでも白く、そうするとまるで蝶のように見えた。銀時と過ごす上で、沈黙は決して気詰まりなものではなかったが、今なら銀時が何か答えそうだったので、「…テメーは萩から来たんだな」と土方が水を向ければ、「思えば遠くまで来ちまった」と、銀時は目を細めて、「あのオッサンの言葉がすべてだとは思えねえ。しがらみが多いのも、先生見てりゃわかるしな。だけど先生が、あの時死にに行くつもりがなかったってわかっただけで、俺には充分だ」と、自身に言い聞かせるような声で続ける。
銀時が言うところの『先生』であり、松平が指すところの『吉田松陽』が誰なのか、銀時にとってどんな相手なのか、土方は知らない。銀時が呟いた『あの時』と、初めての晩、銀時の着物の襟から出てきた紙包みとの因果関係も解らないままだ。けれども、それで構わなかった。土方の前で、銀時はただの『坂田銀時』であり、土方も『土方十四郎』でしかない。そこには何のしがらみも打算も無かった。ふはっ、とゆるく笑った土方は、銀時の手を振り解いて預かっていた剣を押し付けると、「重いな」と言って銀時の背を軽く叩く。「慣れたつもりだったんだけどな」と、銀時も少し笑った。



「お前さあ、どこまでわかってた?」と、井戸端で土方の羽織を揉み洗いながら銀時が尋ねるので、「何も」と、土方は縁側から首を振る。「テメーの腕が立つことしかわからねえから、あのオッサンに調べてもらう手筈になってたんだよ。まさか顔で一発だとは思わなかったが」と土方が返せば、銀時は明後日の方向を向いて、「過去は過去、今は今だろ土方くん」と白々しい声を出した。そうだな、と銀時の言葉を受け流した土方は、手枕でごろりと横になると、銀時が無造作に放った刀を引き寄せる。僅かでも刃に土方の血が付いてしまっているので、早晩手入れが必要だろう。土方がおぼろげにしか知らないその所作を、銀時は知っているだろうか。利休鼠の羽織を広げた銀時は、ふんふん鼻を寄せながら真剣な顔をしている。
「適当なところで止めていいぞ。どうせたいした着物でもねェしな」と、土方は言ってやったが、「でも、お前に良く似合ってたから」と銀時は答えて、もう二、三度羽織を濯いだ。ぎゅっと絞った羽織が物干し竿からぶらさがる様を眺めながら、土方は真っ赤になった銀時の手に洗い晒しの手拭を乗せてやる。「…土方?」と、銀時が紺地に白で染め抜かれた文字を読むので、「薬売りの宣伝みてェなもんだ。数年前に兄貴が刷って、得意先に配った残りだよ」と土方が返せば、銀時はふうん、と呟いてから、「やっぱ、お前んちって金持ち?」と掬い上げるような眼をした。「俺が持ってるわけじゃねえ」と、敢えて否定はしない土方田に、「金持ちが皆厭味ったらしいわけでもねえんだな」と囁くような声で銀時は零して、寝ころがった土方の前に腰を下ろす。
そのまま、「そういや俺、江戸って傍を通ったことしかねぇんだけど、楽しい?」と銀時が尋ねるので、「花街は広い」と間髪入れず土方は答えた。「マジ?!」と目を輝かせた銀時が可笑しくて、「でもお前金ねぇよな」と土方が突っ込めば、「うー、お前だって持ってねえって今言っただろ」と、銀時は悔しそうな声を出す。ああこれは、と思った土方が、「自慢じゃねえが、金を出して女を買ったことはない」と、ことさら余裕の表情を作ると、「それもう完全に自慢だよね!?俺だってお前みたいにさらっさらの黒髪だったらもてるんだからね!」と、銀時は半ば本気の顔で縁側を叩いた。腹に振動が伝わるので止めて欲しい。
銀時のふわふわとした銀髪を見上げた土方が、「…そうだな、染めてみるか」と、ふと思い立てば、「え?」と、銀時は妙に澄んだ声を落とす。驚愕を通り越すと、感情は無くなるものだろうか。「そのくるくるはどうしていいかわからんが、色は変わるぞ」と重ねた土方の前で、「えっ、えっ、できんのそんなこと」と、銀時が常になく取り乱しているので、「薬屋だからな」と土方は頷いて、よっ、と体を起こした。土方が銀時の髪に手を伸ばせば、銀時はびくりと肩を揺らし、それでも土方の指を受け入れる。まとまりのない前髪を玩びながら、「鉄漿と同じようなもんだ。染め替える手間はあるが、黒くなる。どうする?」と、具体的な方法を口にした土方の前で、銀時はしばらく口を噤み、やがて、「…いいや」と首を振った。
「いいのか」と、拍子抜けしたような、安堵したような気分で土方が目を眇めると、「なんか奇跡が起きて、明日から真っ黒でさらさらの髪になれるんならいいけど、そうじゃねえならいいや」と、銀時は土方の指ごと前髪を握り込む。「そうか」と頷いた土方が、それでは足りないような気がして「俺は好きだぞ、テメーの髪」と付け加えれば、「それ初日も言ったよな。お前に好かれても仕方ねえじゃん」と、銀時は声を立てて笑った。その通りだったので、土方もつられて笑う。銀時の笑い声を聞いていると、なぜだか土方も楽しい気分になるのだった。
しばらくそうしていれば、銀時の腹が鳴るので、「そういや飯の途中だったな」と土方が言うと、「あと、吐いちまったからな…悪ィ」と、銀時は少しばかり気まずそうに目を逸らす。いまさら何を言っている、と包帯を巻いた手で銀時の額を叩いた土方は、「残りもんでも漁りにいくか」と、立ち上がりながら銀時に左手を差し出した。「行く」と躊躇わずに土方の手を借りて腰を上げた銀時が、そのまま歩き出そうとするので、「おい、刀は」と、土方は投げ出されたままの刀を拾おうとしたが、「もういい」と銀時は言う。「お前がいるからな」と振り返った銀時の顔が一瞬泣き出しそうに見えて、土方は思わず瞬いた。瞬きの間に銀時はいつも通りの眠たそうな表情を取り戻し、「テメーが良くても、こんなところに刀出しっぱなしで良いわけねーだろ。責任持って部屋まで運べ」と言った土方に、「はァい」と肩を竦めて見せる。無造作に鞘を握る銀時の指から、初めの寂寞は感じられなかった。


( W副長未満 / 坂田銀時×土方十四郎 / 140601)