三人暮らし_01

ある日、銀時が仕事を終えて家に帰ると、玄関脇の家電で留守電ランプが点滅していた。友人や仕事仲間には携帯の番号しか教えていないので、家電にかかってくるのはセールスか、あるいは親戚かのどちらかだった。どっちにしても面倒くせーな、とひとまずボタンを押してみれば、『銀時、あんたいつ掛けても留守じゃない。これ聞いたらすぐ電話頂戴ね、すぐ!』と二十秒足らずのメッセージが吹き込まれていて、銀時は思わず「すぐって、今二時なんですけど、いいのかよ母さん」と呟く。吹き込まれた時間は午後八時だった。んー、とがりがり頭を掻いた銀時は、それでも母親の性格上、ここで電話をかけないと明日以降の生活に支障が出る、と判断して、十年経っても暗記できない母の実家の番号を押した。
一度でも着信履歴が残っていれば時間稼ぎにはなるだろう、と暢気に構えていた銀時は、一コールが鳴り終わる前に『遅い!』と不機嫌な母の声に一喝されて、受話器を取り落としかける。「かっ…母さん、起きてたのかよ」と、銀時が返せば、『あんたが帰ってくるのを待ってたんでしょうが。こんな遅くまで何してたの』と、母は厳しい声で続けた。「なにって、仕事だよ。納期近ェし、持ち帰れねーし。だから連絡は携帯にくれっていつも、」といいかけた銀時の言葉を遮り、『ああもういいわ、あしたからそっちに行くってだけの話しだから。またゴミ貯めみたいにしてないでしょうね?今度壁にカビ生やしたらあんたに壁紙代請求するから』と矢継ぎ早に母は言う。そりゃいいけどよ、と母の言葉を受けた銀時が、「でも急にどうしたんだよ?父さんと喧嘩したんじゃねえよな」と尋ねれば、『まさか、あのひとより祖母ちゃんとの喧嘩が耐えないわよ。そんなことじゃなくて、そこでしばらくこどもを預かるだけだから、気にしないで』と、母はあっさり答えた。
「こども?」と訝しげな声を上げた銀時に、『そう。遠子おばちゃんとこの、ほら、従姉のマナちゃん、わかるでしょう?こっち来るたびに遊んでもらったじゃない。あの子が結婚して、今そのあたりに住んでるんだけど、二人目の妊娠がわかったところで旦那さんの海外派遣が決まっちゃってねえ。ほんとならこっちに帰ってくればいいんだけど、姉さんはお姑さんの介護で手一杯だし、上の子の学校もあるし、まだそっちにいるのよ。順調ならよかったんだけど、どうもお腹の子が大変でしばらく入院するらしいから、手の空いてる私が手伝いにいくわけ』と、母はすらすら並べて、『マナちゃんマンション住まいだから、そこに余所者が入るより家で預かっちゃったほうが早いでしょう。そうそう、上の子は今七歳でね、とってもいい子よ。髪も心も素直で、お前とは大違いだわ』と、余計な言葉も付け加える。
じゃあそういうことだからよろしく、あんたも早く寝なさいよ、おやすみ、と一方的に切れた受話器をじっと見下ろして、「で、その子はいつ来んの」と、銀時は尋ねてみるが、もちろん答えは無かった。

坂田銀時は、今年で二十五歳になる。大学を出て就職した先は小さな設計事務所で、入社三年目の今でも、銀時は一番の下っ端だった。納品前は地獄のようだが、仕事はやりがいがあるし、何より事務所内の空気が好きなので、銀時は充実した日々を送っている。銀時は実家住まいだが、今現在そこには銀時以外誰も住んでいない。七年前、母の両親が相次いで体を壊し、共働きだった母が転職して田舎へ帰るというとき、執筆業を生業にしていた父は付いていったが、大学受験を控えていた銀時はここに残ったのだ。もともと父方の祖父が建てたというこの家は、築四十年の木造住宅で、跡取りの伯父は早々に新しい家を建ててしまったから、婿入りして母方の姓になった父が土地家屋を継ぐ、と言う妙なことになっている(だから『坂田』は母の苗字だ。父の旧姓は『吉田』と言う)。
母が言っていたマナちゃん、と言うのは、母方の伯母の長女で、銀時より八つ年上の従姉だった。年が離れているので、仲良く遊ぶ、と言うことは無かったものの、優しい年上のお姉さん、と言う印象はいつまでも消えず、八歳の頃目に焼きついた従妹の夏のセーラー服姿が、銀時の初めてのおかずである。たしか、十二歳の時だった。長い休みになると毎年訪れていた母の実家も、銀時が部活や塾で忙しくなると自然に足が遠のき、従姉が結婚する、と言うときも両親は招かれたが銀時にまで声はかからなかったので、美しい思い出になってしまっていた。
そっかあ、マナちゃんもう子どもいるのか、っつーか二人目か、結婚が確か…まだ皆でここに住んでた頃だから、もしかしなくても今の俺より若かった?あれっ、子どもはさすがにまだ生んでねえよな?と、なぜか動揺して受話器の脇で年齢を計算してしまった銀時は、「なにやってんだ俺は」とぼりぼり首を掻いて、あふれそうなゴミ箱へと丸めたメモ用紙を放り込む。ふわあ、と欠伸しながら、スーパーの半額弁当を広げた銀時は、ゴミくらい片付けないと母親に殺されるな、と散らかり放題散らかった今をぐるりと見渡した。二時半になっていた。

▽ ▽ ▽

翌朝、鳴り続ける電話の音で目を覚ますと、陽はもう高く登っていた。いつものことだが、居間の床でタオルケットだけかぶって寝てしまったらしい。春だからいいが、真冬は寒さで目が覚めるので、もういっそここに万年床を作ればいいんじゃないか、と銀時は思う。緩慢な動きで起き上がって、「はぁい、坂田です」と電話に出れば、『もしもし、銀時?』とまたしても母親の声が響いて、真夜中にゴミ出しだけでも済ませておいて良かった、と銀時はなんとなく居住まいを正した。「んだよ、俺以外の誰がいるっつーの」とけだるい声を出した銀時に、『誰かは居るわよ、何度か見たもの。そんなことより、おじいちゃんが今朝ぎっくり腰になっちゃって、そっちに帰れなくなっちゃったのよ。マナちゃんの入院は伸ばせないから、あんた今から車出して、マナちゃんちまで行ってあげて。マナちゃんには説明しとくから、二時に。場所は○○三丁目のあの大きいマンションよ。その一〇四六号室。あんたあそこに友達いたから、わかるわよね?電話番号は〇九〇−****−****だから、下までついたら電話して頂戴。ああ、あとこどもの服やなんかは宅配で送ってもらってるから、その受け取りもお願い』と母親は水を流すような速度で告げる。
えっ、と銀時が状況を把握しきれないうちに、『同じことをメールでも送っておいたから、確認して。ちょっとは小奇麗な格好で行くのよ、マナちゃんに妙な噂が立ったら大変だから!マナちゃん送ってったら連絡しなさい。これからこっちも病院だから、切るわ。じゃあね』とやはり母親は言いたいことだけを言って、ぶつっと電話を切ってしまった。えっ、ともう一度溢した銀時は、おそるおそる壁の時計を見上げて、今が一時過ぎであることを確認する。ざっ、と血の気が引いた銀時は、ともかく考えは後回しに、タオルを掴んで風呂場へ飛び込んだ。三丁目までは、車で八分だった。

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十三時五十八分にマンションのエントランスへたどり着いた銀時は、五分後、『土方』と書かれた表札の前で従姉と顔を合わせた。「久しぶり、銀ちゃん」と微笑んだ従姉は、約十年の歳月をもろともせずにしばらく他愛ない話をしてから、「本当はあがってもらいたいんだけど、もう家に何も無いの。隣町の総合病院までお願いします」と、頭を下げる。いや、とあいまいに首を振った銀時は、やわらかく膨らんだ従姉の腹部から目をそらしつつ、玄関に準備されていた荷物を手に取った。この辺りは母親の教育の賜物である。「ところで、子どもは?」と銀時が尋ねれば、従姉は薄暗い部屋(留守にするので、カーテンを締め切っているらしい)に向かって、「としちゃん」と声をかけた。ややあって、ぱたぱたと軽い足音を立ててやってきた子どもは、すばらしく大きな目と耳にかかる程度のまっすぐな黒髪をして、ひざ上のハーフパンツにオレンジ色のランドセルを背負っている。
銀時は従姉の幼い頃を知らないわけだが、でもきっとこうだったのだろう、と思わせる風貌に、「おー、可愛いなお前」と、銀時は思わず手を伸ばしてみるが、子どもはさっと従姉の背に隠れてしまった。宙に浮いた手をどうしていいかわからない銀時に、「ごめんね、この子人見知りなのよ。そこは銀ちゃんに似てる」と従姉は言って、「ほら、このお兄ちゃんが銀ちゃんよ。ひいおばあちゃんちで写真を見たでしょう?綾乃おばちゃんちのお兄ちゃん」と、子どもの頭を撫でる。従姉の服にしがみついたまま、半分だけ顔を出した子どもが、「ひじかた、とおしろうです。七さいです」と言うので、あっ男の子か、とそこでようやく知った銀時は、驚きをぐっと飲み込むと「はじめまして、坂田銀時です。二十五になります」と、子どもに片手を差し出した。おずおずと差し伸べられた小さい手を一瞬だけ握って、「よろしく」と銀時が笑えば、子どもはこくりと頷いて、また従姉の服に顔を埋める。
すげー、子ども体温、とひどく暖かい手に感動しながら、「ところで、この子はどうするの」と、銀時が従姉に囁けば、「今夜は病院で一緒に寝かせてもらって、あしたからは実家にいってもらうことになったわ。予定日まで二週間で、それからも何があるかわからないから」と、従姉は緩やかな弧を描く眉を下げて囁き帰した。「え、でもそれって、学校は」と子どものランドセルを見下ろした銀時は、こちらを伺っていた子どもとばっちり目が合って、さっと顔を上げる。「可哀想だけど、こうなったら落ち着くまであっちの学校に通ってもらうしかないのよ。ここのお友達もいるから、離れたくないって言ってたんだけど…」と、俯いた従姉の後ろで、子どもも黙って項垂れていた。
そっか、とつられて悲しくなりかけた銀時は、できる限りの安全運転を心がけて、病院へ向かう。後部座席から聞こえるひそやかな笑い声に、銀時はぎゅっと心臓を掴まれている気がした。従姉が入院手続きを進める間、付き添いにもならない銀時は、子どもを連れて開放的なカフェに向かう。一面ガラス張りの窓辺に陣取った銀時は、背筋を伸ばして腰掛けた子どもに、「なあ、お前、おばあちゃんちに行きたい?」と問いかけた。大きな目をさらに見開いた子どもが、「…おとうさんもおかあさんも、いないから」と小さい声で言うので、「お前が通ってる小学校って、銀魂小学校?」と、銀時はさらに重ねる。こくり、と子どもが頷くので、「ん、あのマンションだもんな。俺もさ、あそこに通ってたんだよ。マンションより家のほうが学校近いし、家来ねえ?」と、銀時は気安く子どもの肩を叩いた。
びくっと体を震わせて、「でも、おばちゃんも来られないって」と俯く子どもに、「お父さんもお母さんも、ついでに綾乃おばさんもいないけど、俺はいるんだよな。あとさ、もう一人暇な人間に心当たりがあんだよ。昨日の今日なら転校手続きはまだだろうし、お前が今の学校にいたいならそうできるけど、どうする?」と、銀時がいたずらっぽく問いかけると、子どもは一瞬目を瞬かせて、「いまのがっこうがいい」と言い切った。よーし、と頷いた銀時は、ちょっと待っててな、と子どもに告げて、携帯を取り出すと、母親の実家ではなく、別の登録アドレスを呼び出す。四コールほど鳴らしたあと、『はい、松陽です』とごく穏やかな声が聞こえるので、「父さん?銀時だけど、今いいか?」と銀時は問いかけた。
構いませんよ、とやわらかい音で頷いた松陽に、一連の経緯を説明し、「でさ、母さんがダメでも父さんはこっち来れねーかって話なんだけど。どうせそっちでは空気みたいな扱いなんだしさ」と、銀時が持ち掛ければ、『少なくとも空気は存在が許容されていますから、私よりマシでしょうね』と松陽はやはりなんでもない声を出した。母方の祖父も祖母も、孫である銀時には優しかったが、およそ定職と言うものを持たない松陽への風当たりは常に冷たい。七年前だって、本当は銀時と残れば良かったものを、「娘と同居するなら、夫婦そろっていないと肩身が狭い」と、口々に非難された結果がこれである。
「力仕事に関しては裏のおじさんが来てくれんだろうし、父さんは台所立たせてもらえねーからさ。帰ってきて、もっかい子育てしてくんない」と銀時が重ねると、『十四郎くんもそれでいいと言っているのですね』と、松陽は問い返す。「あ、名前知ってんだ」と言った銀時に、『愛佳さんの里帰りの際に何度か顔を合わせていますよ。離れに本を読みに来てくれたこともあります。一瞬でしたけど』と松陽は笑って、『そこにいるなら、少し変わってください』と続けた。送話口を押さえ、「今、俺の父さん…松陽おじさんと電話してんだけど、かわってもらっても良いか」と銀時が首を傾げれば、子どもはぱっと顔を輝かせて手を出す。あ、わかるんだ、と少しばかり疎外感を感じながら、銀時が携帯を耳に当ててやると、「もしもし、せんせい?」と、子どもはうれしそうな声で言った。先生ってなんだよ、と噴出しそうになった声を抑えた銀時の前で、子どもはくるくる表情を変えながら、松陽と会話を続ける。「うん、待ってる」で話を終えたらしい子どもが、「ときくんに、かわってって」と銀時を見上げるので、「ん、ありがと」と、銀時は子どもの体温でぬるまった携帯を受け取った。
「…時くんはもうやめてください」と、銀時が開口一番に言うと、『でも、<銀ちゃん>より好きでしょう』と、松陽は柔らかく笑い、『十四郎くんの希望はわかりましたから、私はこれからそちらへ向かいます。綾乃さんと、お義父さんたちへの説明は私がしておきますから、銀時は愛佳さんをお願いしますね』と言う。「母さんはいいけど、じいちゃんばあちゃんには俺から言う方が良くねえ?」と眉をひそめた銀時に、『いえいえ、これでも物書きの端くれですから、これくらいのことは』と松陽は返し、『そうですね、これからの電車で考えて…二十時過ぎには、家へ帰るようにします』と続けた。わかった、よろしく、気をつけて、と言ったことを銀時が告げれば、『はい、銀時も。十四郎くんによろしくお伝えください』と、松陽は言って、ぷつりと電話が切れる。
ふー、と息を吐き、「と言うわけだから、俺と…先生と?しばらく三人暮らしな」と、銀時が子どもへ笑いかければ、「うん」と子どもは高潮した頬で頷いた。やがて運ばれてきたオレンジジュースとクリームソーダ(銀時がクリームソーダ)を食べる間に、従姉が合流するので、銀時が母の代わりに父がこの子の世話をするから、と告げれば、従姉はあからさまにほっとした顔をしたあとで、「でも、良いんですか?松陽先生はお忙しいのに」と、またやわらかく眉を下げる。そうか、先生はここから来てんだな、と納得しながら、「うん、二十年前も同じことしてるから。知ってるかな、母さんはずっとこの病院で働いててさ、子育ては半分以上父さんがしてんだよね。その俺がこんな立派に育ってるから、安心して」と、銀時が笑うと、「ありがとうね、銀ちゃん」と、従姉も綺麗に笑い返した。
であれば、と個室への子どもベッドの運び入れは断って、毎日は無理でもできるだけお見舞いに来るから、と約束した銀時は、しばしの別れを惜しむ母子を微笑ましい気分で眺める。名残惜しそうに何度も振り返って手を振る子どもの手を引いて、車に戻った銀時は、「これから家に帰るから、良く道を覚えておけよ」と、子どもを運転席の後ろの座席に乗せながら言った。こくん、と頷いた子どもが、もじもじしてから、「… ときくん?」と言うので、「あっ、そうなの?それがいいの?」と、銀時はがりがり首を掻く。銀時、と言う名前のインパクトから、だいたい< 銀>を基準にしたあだ名をつけられる銀時だが、父である松陽だけは銀時を『時』と呼んだ。どちらに思い入れがあるかと言う話です、と、理由を尋ねる銀時に意味深な言葉を残した松陽が忘れられない銀時は、何を隠そうただのファザコンである。「イヤ?」と首を捻る子どもに、「嫌じゃない。でもそうすると、お前はシロくんになっちゃうけど、どうよ」と銀時が返せば、子どもは悩む間も見せずに首を振って、「ひじかた」と、自分の顔を指した。
「ひじかた…って、苗字で呼んで欲しいの?いいけど」と、銀時が言うと、子どもは大きく表情を綻ばせて、「誰もよんでくれないから」と、銀時の指をぎゅっと掴む。たしかに、小学校の低学年くらいまでは名前でしか呼ばれなかったな、と思い出した銀時は、「ん、ならあらためてよろしくな、土方」と、土方の指を握り返した。やっぱり、柔らかくて熱い手をしていた。

▽ ▽ ▽

銀時が土方を連れて家に帰り着くと、ちょうど宅配便のトラックが止まっていた。今まさに発車しかけたトラックに手を振れば、顔馴染みの配送員はほっとしたような顔で、中サイズの段ボールをみっつ、銀時に渡して去っていく。「土方のだってさ」と、銀時が整った字で書かれた宛名と差出人を示せば、「きのうのきのうに送ったよ」と、土方は胸を張った。昨日の昨日で、一昨日か、と受付日を撫でた銀時は、「それじゃあ、今日からしばらく、ここが土方の家な。あとごめん、土方が来るって聞いたのが昨日だったから、中ちょっと汚いんだわ」と、引き戸の玄関に鍵を差しながら言う。大きな目で玄関を覗き込んだ土方が、「…おまえんち、おばけやしき!」と節をつけて言うので、「うん、それ散々言われたな!いないから、まっくろくろすけもトトロも見たことねえから」と、銀時は首を振った。しゅん、と土方の方があからさまに落ちるので、「あー、…でもドングリの木と井戸はある。あと、おはぎ作んのも得意です」と、銀時が付け加えれば、「どんぐり?」と、土方は嬉しそうに顔を上げる。「あとで場所教えるから、好きに拾いな」と言った銀時は、土方を促して、ひとまず居間へと段ボールを運び込んだ。
最低限の片付けはして出てきたが、やはり綺麗とは言い難い部屋の中で、土方は興味深そうにくるくる辺りを眺めている。「俺ちょっと掃除するから、好きに遊んでな。えーと、階段探して、二階のつきあたりの部屋で窓開けてくること」と、うろ覚えの台詞を引き出せば土方はぴょんと飛び上がって、居間から出て行った。見られて困るものは一応隠してあるし、子どもが触って怪我をするようなものは無いはずなので、問題は無いだろう。なぜか食卓にまとめてあったトランクスを抱えた銀時は、明るいうちに洗濯から始めることにした。



溜まっていた洗濯と流しの洗い物を済ませて居間と廊下に掃除機をかけ、トイレ掃除と風呂掃除を終わらせた銀時は、こんなもんか、と額の汗を拭ってから、そういえば静かだな、と二階に目を向ける。二階の突き当りは松陽の書斎で、銀時が昔読んだ本も残っているし、その隣の銀時の部屋には漫画本と古いジャンプが積んであるので、読みふけっているのだろうか。遊び道具はあんまり入ってなかったしな、と、一応開けてみた段ボールを軽く叩いて、銀時も二階に上がった。ちなみに、さつきとメイの家のように扉が在ったりはしないので、土方はつまらなかったかもしれない。
はじめに覗いた書斎に、土方はいなかった。全開になった窓からは、柔らかい春風が吹き込んで、しばらく締め切っていた部屋に新しい空気を纏わせている。じっと部屋を見つめていた銀時が、次に自分の部屋へ入れば、果たして土方はそこにいた。いた、というか、床に置いたマットレスのシーツと毛布の間にもぐりこんで、ぐっすり眠り込んでいる。いろいろ気が張ってたんだろうな、と寝顔を覗き込んで笑った銀時は、土方が身じろいだ拍子に捲れた毛布を直そうとして、ふっと魔が差してしまった。気持ちの良い春の午後で、明日も仕事は休みである。さしあたってしなければいけないことはないし、最悪夜になれば松陽が帰ってくるわけで、昼寝には最高のシチュエーションだった。お邪魔します、と土方の隣にもぐりこめば、土方は一瞬目を開けそうになったが、結局銀時の懐へ顔を埋めるような形で寝息を立て始める。やっぱ温かい、と天然の湯たんぽに感謝しながら目を閉じた銀時は、それから三秒で眠りに引き込まれた。特技のようなものだった。

▽ ▽ ▽

銀時が次に目を覚ましたとき、隣に土方の温もりは無く、代わりに松陽が穏やかな笑顔で腰を下ろしていた。「おかえり」と反射的に銀時が口走れば、「はい、ただいま。そしておはよう、銀時」と、松陽は指を伸ばして銀時の目尻を撫でる。軽く目を閉じてそれを受け入れてから、「土方は?」と銀時が体を起こすと、「おはよう、ときくん」と松陽の陰から土方も顔を出した。「なんだよ、起きたなら起こしてくれたっていいじゃん」と、銀時が土方の頭を撫でれば、「きもちよさそうだから、起きるまで待ちましょうって、せんせいが」と、土方はくすぐったそうな顔で言う。そっか、と頷いてから、「今何時?」と目覚ましも無い部屋を見渡した銀時に、「心配しなくても、まだ七時ちょっと過ぎです。早い電車に乗れたのと、駅から小太郎くんが送ってくれたおかげで」と松陽は返した。
「あいつ父さんのこと病的に好きだからな…どっかで嗅ぎ付けてきたんならどうしよう」と銀時が眉をひそめれば、「心配しなくても、お嫁さんを送ってきた帰りだそうですよ。惚気られてしまいました」と、松陽が笑うので、桂の妻の名前が<幾松>であることは黙っていよう、と銀時は思う。ちなみに、髪の色と長さが松陽に良く似ていることも。ふわあ、と欠伸をして、「ごめん、冷蔵庫にほとんど何も無いから、買い物に行くか外食になるんだけど、いいか」と銀時が土方の顔を覗き込むと、「そんなことだろうと思ったので、途中の駅でデリカに寄って来ました。ご飯もパンもありますから、好きなほうを食べて残りは明日の朝ごはんにしましょう」と、松陽は言った。
さすが父さん、と感心してから、「土方は何が好きなんだ?」と銀時が尋ねれば、「マヨネーズ」と土方が即答するので、「ん、調味料じゃなくて、おかずか主食を聞きたかったかな」と銀時が真顔で返すと、「マヨネーズがあればいい」と、土方も真面目な顔で言う。「と、父さーん!!」と銀時が助けを求めると、「十四郎くんは三食マヨネーズがあれば好き嫌いはしないそうです。ただ、あまり量が過ぎるようであれば調整してやってくれ、と言われてきました」と、松陽は着物の袂からキューピーマヨネーズを取り出した。ぱあっと目を輝かせる土方の頬を軽く突付いて、「お前マヨラーなのかぁ」と銀時が笑えば、「心配しなくても、銀時の分もありますよ」と、松陽はもう片方の袂からゆであずきの缶を出して、銀時の膝に乗せる。
「おはぎ?」と首を傾げた土方へ、「いいえ、そのままご飯に乗せるんですよ、時くんは」と松陽が暴露するので、「ちょっ、もうやってねーから止めて!いつまでも甘いものだけ食べて生きてるわけじゃねーよ」と、銀時が松陽に飛び付けば「おや、そうなんですか?では、食後の卵プリンは我々だけでいただきましょうか」と、松陽はことさらやさしい笑みで土方の手を取った。えっ、と情けない声を上げた銀時を振り返って、「冗談ですよ。さ、ご飯にしますから手を洗ってきてください。銀時は、十四郎くんに場所を教えてあげてくださいね」と、松陽は告げる。はーい、と一気に子どもへ戻ったような気分になった銀時は、差し出された土方の手を引き、松陽に続いて階段を下りた。
「階段下りてすぐがさっきの部屋で、廊下を挟んだ向かいが洗面所とトイレとお風呂。手や顔を洗うのはここな。今の奥が台所で、階段の後ろにある扉が納戸、その奥にも部屋が二つあるけど、あんまり使ってない。寒いしな」と、土方を抱き上げて手を洗わせながら銀時が言うと、「さっき、あっちに先生に似たひとがいた」と、土方は奥の部屋を指す。ああ、と頷いて、「父さんの父さん母さんと、じいちゃんばあちゃんの写真な。あそこにお仏壇もあるから、飾ってあんだよ。俺はあんまり似てないと思うけど」と銀時が返せば、土方はこてん、と首をかしげて、「こんにちは、って言ったよ?」と不思議そうな顔を作った。
えっ、と固まった銀時の後ろから、「ああ、それは私の父ですね。位牌を持ち帰りましたから、落ち着いたんでしょう」と、松陽が顔を出すので、「じょ、冗談だよな?父さん」と、銀時が蒼白になると、「銀時には見えないようですが、私も綾乃さんも、小太郎くんも見えますよ。辰馬くんや全蔵もですね。あやめちゃんは見えないそうです」と、松陽はこの家に縁がある数人の名前を挙げる。ちなみに桂小太郎と坂本辰馬が銀時の腐れ縁で、吉田全蔵と吉田あやめは松陽の兄の子、つまり父方の従兄妹だった。「先生のおとうさん?」とうれしそうな顔をする土方に、「ええ、三十年近く前に亡くなりましたが、銀時に良く似た人でしたよ。髪の色も含めて」と、松陽は告げると、「あとでお仏壇に飾る花を切りに行きましょうね」と、土方と銀時の髪を撫でて出て行く。嘘だろ、と呟く銀時の隣で、「おまえんち、おばけやしきっ」と、土方が満足そうな顔をしているのが印象的だった。

▽ ▽ ▽

夕食は賑やかだった。サンドイッチを朝食へまわすことにしたらしい松陽は、デリカテッセンのおにぎりとサラダと揚げ物とデザートのプリンを檜のちゃぶ台に並べて、「十四郎くんは温かいお茶と冷たいお茶、どっちがいいですか?」と問いかける。「あったかいの」と答えた土方に合わせて、全員分の温かいほうじ茶を注いでくれた松陽は、「では、いただきます」と軽く手を合わせた。いただきます、と松陽に倣った土方が、じっと銀時の顔を見つめるので、「はい、いただきます」と、銀時も手を重ねる。にこっと笑った土方に、「家ではどうやってご飯食べてる?テレビつけようか」と、銀時が尋ねると、「ごはんがおわるまで、見ない」と、土方はふるふる首を振った。
「いまどき珍しい良くできたお子さんですね」と、銀時が言えば、「銀時だって、どこに出しても恥ずかしくない息子ですよ」と、松陽は銀時の皿にえびのフリッターを追加してくれる。試行錯誤の結果、小皿へ出したマヨネーズに何もかもをつけて食べる、と言うことで落ち着いたらしい土方は、あぐらの銀時とは違ってきちんと正座だし、肘を突いたり口に物を入れたまま喋ることも無い。「良くできたお子さんですねえ」と、もう一度言った銀時は、土方の口元についたマヨネーズをそっと拭ってやった。
ほんものの卵の殻の中で冷やし固めたプリンをゆっくり食べ終えてから、「土方はどこで寝る?さっきの、俺の部屋で寝るか?」と銀時が尋ねると、「時くんといっしょに?」と土方が問い返すので、「や、俺は仕事があると遅かったりするから、難しいかな。一緒に寝るなら先生とがいいぞ。あの人すげーあったかいし」と、銀時は返す。ん、と口ごもった土方の代わりに、「十四郎くんがあそこで寝てしまったら、銀時はどこで寝るんです」と松陽から尋ねられた銀時は、「えーと、最近は気づくとその辺で寝てる…かな」と、壁際にはめ込まれたソファを指した。松陽には嘘をついてもばれてしまうので、正直が一番である。「それはいけませんね、布団で寝ないと、取れる疲れも取れませんよ」と銀時のまぶたを柔らかく撫でた松陽は、銀時にもたれかかっていた土方へ向き直って、「時くんも心配ですし、上で川の字になりましょうか」と、大真面目に言った。
かわのじ?と問い返す土方へ、「三人一緒に寝るってことです」と微笑んだ松陽は、「ちょっと待っていてくださいね」と言い置いて立ち上がった。「え、もう決まったの?」と銀時は流れに追いついていないが、「おとうさんがいるときは、おかあさんと三人でねる」と土方が嬉しそうなので、「…この場合、俺がお母さんになんのかな」と、銀時は戸惑いながらも土方の言葉を受け入れる。奥でごそごそしていた松陽は、やがて両手に布団を抱えて居間に現れ、「すみません、手伝っていただけますか」と、中に声をかけた。ぴょん、とはねるように立ち上がった土方の手に枕をひとつ乗せ、銀時自身はやけに大きな敷布団を受け取る。
「これは」と、二階の元両親の寝室へと布団を運びながら銀時が尋ねると、「結婚祝いに頂いたダブル布団です。結局一度も使っていないので、もう捨てたかと思いましたが、さすがに綾乃さんは物持ちがいいですね」と、松陽は笑った。「俺この年になって、ダブルの布団で父親と寝んの?」と、銀時が問いを重ねれば、「メインは十四郎くんですから」と、松陽はぱちりと片目を瞑ってみせる。あ、これは本気の目だな、と思った銀時は、「土方は、俺たちに挟まれて寝るの、嫌じゃねえ?」と土方を味方につけようとしたが、「ほいくえんでもそうだったよ?」と穢れの無い瞳に見つめ返されて、そ、そっかあ、と頷くしかなかった。
継ぎ目のない大きな布団を六畳の真ん中へ敷き、枕を三つ並べた松陽は、そこに毛布を三枚置く。「さすがに掛け布団はダブルじゃねえんだな」と銀時が漏らせば、「掛け布団もありますが、二人以上で寝るとどうしても布団の量が偏りますから」と、松陽は言った。「…俺が父さんと寝てた頃も、布団取ってたっけ?」と尋ねた銀時に、「そういう時は銀時を抱っこしてましたから、寒くはありませんでしたよ」と松陽がにこやかに答えるので、「うん、そう言うのは期待してなかったわ…」と、銀時は枕に突っ伏す。「もう寝る?」と、銀時の隣へころんと横たわった土方の頭を撫でながら、「寝る前に風呂な。あと、歯磨きと着替えと、たぶん父さんが絵本読んでくれる」と、銀時が言えば、「いっしょに入る」と、起き上がった土方は銀時と松陽の手をそれぞれ握った。
「いいですね、ここのお風呂は広いですから」と頷いた松陽の言葉通り、十五年ほど前、水回りを改築した際に風呂を広げているので、成人男性二人に子どもがひとりくらいなら浸かれないこともない。「でもビジュアル的にさあ…」と銀時は呻いて見るが、「久しぶりに背中を流してください」と松陽が微笑むので、あっさり頷いてしまった。己のファザコンが憎い。では私は風呂掃除でも、と立ち上りかけた松陽を引き留め、「風呂はもう洗ったから、俺入れてくる。あと、土方の荷物を運んでくるから、ここを土方の部屋にしてやろうぜ」と銀時が言えば、「わかりました、じゃあ私は箪笥を片づけておきます」と、松陽は部屋の隅を指す。
ん、と頷いた銀時が階段を降りると、土方があとに続くので、「手伝ってくれんの?」と銀時はひょいと土方を抱き上げた。こくりと頷いた土方の頭に顎を乗せ、「じゃ、風呂にちゃんと栓が閉まってることを確認してくれ。そしたら俺が蓋するから、土方はこのお湯張りボタンを押すんだぞ」と、銀時は風呂場の中をあちこち指さした。銀時の腕から身を乗り出して、浴槽を確認した土方が、「だいじょうぶ」と力強く言うのを待って、滑らせるように蓋をした銀時が、「よし、行け」と土方の肩を叩けば、土方はすかさずお湯張りボタンを押した。機械的な声が給湯の開始を告げ、「ありがとな」と銀時が土方の頭をわしわし撫でると、「もっとできる」と、土方は誇らしそうに背筋を伸ばす。
「ん、じゃあ次は土方の荷物運ぶから、それ手伝って」と、土方の背を軽く叩いた銀時は、居間で土方を下ろして、「これ、持てるか?」と、段ボールに入っていた土方のパジャマとぬいぐるみを三つ、土方の腕へと積み上げた。銀時にとっては片手で掴めるサイズでも、土方の小さい手には余るようで、ぎゅっ、とぬいぐるみをパジャマで包むようにした土方は、忍び足で歩き出す。それはなんか違う気がするなあ、と微笑ましく土方の背を見つめながら、銀時は段ボール三つを抱えて階段を上った。「はい、良くできました」と、松陽が土方を膝に抱きあげる姿を横目に、段ボールを下ろした銀時が、空になった引き出しの下から三段目までに土方の荷物を入れ替えていると、「銀時も、良くがんばりました」と背後から四本の手にわしゃわしゃ髪を掻き廻されて、「もっ、そういうのいいから!土方はいいけど」と、多分の照れくささを滲ませながら、銀時は後ろ手に土方の手を摑まえる。
きゃあ、と軽い歓声を上げる土方に、「土方、父さんは悪い人じゃないけど、たまにとんでもない嘘付いたりするから、気を付けろよ。俺はついこの間までフィンランドのトナカイは全部飛べるって信じてたんだ」と、銀時が真剣な眼差しを作れば、「サンタさんは?」と土方は首を傾げた。「ん、サンタのトナカイはクリスマスの魔法が掛かってるから飛べんの。でも、普通のトナカイは飛べないから、動物園で飛ぶのを待ってたりしちゃだめだぞ」と、大真面目に返した銀時は、あはっ、と吹き出した挙句、「ああ、それで小学校の動物園見学でいつまでも帰ってこなかったんですね、銀時」と今さら納得している松陽をがっと睨んで、「父さんの言うことは全部ほんとだと思ってたの!子どもの純情玩びやがって、土方にはそんな思いさせねーからな!」と、土方を抱き締める。
「すみません、今も充分可愛いですが、小さい頃の銀時はもうお人形のようだったので、つい」と、松陽が目尻に浮かんだ涙まで拭うので、「あーっ、だからそういうのいいんだって!!可愛くねえし!」と、銀時はぼふっと頬を染めた。「はいはい、可愛い可愛い」と、あやすように銀時の頭を撫でる松陽に習って、「ときくんかわいい」と土方にまで撫でられた銀時は、「おー、ありがと、でもお前の方が可愛いよ」と、陳腐な台詞と共に土方の肩に額を当てた。風呂が沸くまで、あと十二分だった。


( 社会人の銀さんと父親の松陽先生が土方くん(7)を預かるはなし/銀時と松陽と土方/ 140325)