まわるまわる_07 

カレーとプチトマトと、ついでに銀八が出してきたミニどら焼きの朝食を終え、後片付けも済ませたところで、銀八が土方に意味ありげな視線を送るので、土方は一言断って、昨夜設えた土方の部屋へ入る。
使われていなかった筈なのに、埃臭くはないところを見ると、一応手は入っているらしい。そう言えば昨日探検した時も、足跡がつくような場所は無かった。そのまま積んでおくだけじゃ本も傷むだろうしな、となんとなく納得した土方は、本棚代わりの水屋から一冊のファイルを取って、中から通帳を二冊取り出す。金額を考えれば、こんな風に保管しておくべきではないのだが、土方は他に口座を持っていないので、どこかへ預けるわけにもいかない。それに、失くしてしまうのならそれはそれで良かった。土方にとって、この通帳の中身はその程度の価値しかない。
軽く息を吐いた土方が、襖を二枚通って居間に戻ると、先程まで土方が座っていた銀八の向かいには、三毛猫が長々と寝そべっている。普段は丸まって眠るのに、どうして今日に限って、と土方は少しばかり釈然としなかったが、猫をどかすほどのことでもないので、そのまま銀八の左隣に腰を下ろした。食事時とはまた別の新書に没頭していた銀八は、そこでようやく顔をあげて、「飲むか?」と藍色の急須を持ち上げて見せる。漂う香りから察するに、中身は玄米茶らしい。大丈夫です、と首を振った土方に、そっか、とうすく笑った銀八は、「じゃあ俺がもう一杯飲む」と、急須の中身を自分の湯呑みに注いで、本を置いた。
銀八がどことなく居住まいを正すので、そういえばこれを他人に見せるのは初めてだな、と今さらのように緊張した土方だったが、ここで怖じ気づいても仕方がないので、深呼吸と共に二冊の通帳を銀八へと差し出す。ん?と不思議そうな顔で冊子を受け取った銀八が、通帳を何度かひっくり返してから、「中、見ていいのか」と尋ねるので、土方は黙って頷いた。口に出すより、見てもらう方が早いだろう。
何気ない様子で通帳を開いた銀八は、無音でいち、じゅう、ひゃく、と口を開いて、せんまん、まで数えたところで一冊目を閉じて、ばっと二冊目の通帳に手をかけた。同じく八桁のゼロを指で追って、「お前これ」と銀八が言葉を無くすので、「両親の保険金と、ばあちゃんの遺産です。ちなみに、じいちゃんの遺産も半分以上入ってます」と、土方は告げる。最初に言った通り、土方は金には困っていない。本当に、困らないのだ。おそらくこの先一生働かなくても生きていけるだけの額が、この通帳に収まっている。はー、と嘆息めいた声を出した銀八が、「あんまりたくさんあっても現実味がねえな」と言いながら通帳を突き返すので、「それで、俺は月にいくら払えばいいですか」と土方は尋ねた。
銀八はいらないと言ったものの、これだけあれば考えも変わるだろう、と土方は思ったのだが、「ん、だからいらねえって。お前の食い扶持なんてたかが知れてるし、ここは持ち家だしな。それはお前のためにとっとけ」と、銀八は言う。そういうわけには、と土方は食い下がったが、「お前、あのアパートって家賃いくら?」と、銀八は明後日の方向から質問を投げた。それこそなんの話だ、と思いつつ、「三万二千円です。共益費込みで」と土方が答えれば、「こんだけも持ってんのにあんなとこに住んでるってことは、お前ほんとはこれ使いたくねえんだろ」と言った銀八は、土方の手元を指して、「違うか?」と重ねる。
違わない。違わないが、認めたくもなかった。辛うじて、「ひとりで暮らすならあれで充分ですし」と絞り出した土方に、「少なくとも俺はあそこに住みたくねえし、お前みたいなガキを住ませたくもねえよ?」と銀八は返す。土方がぐっと唇を噛み締めると、銀八はまたなんでもない顔で首を傾げて、「つうか、こんだけ金持ってたんなら家の一軒も残しそうなもんだけど、その辺はどうなんだ」と核心を突いた。
土方がじっと銀八を見つめれば、銀八も同じだけの熱量で土方を見つめ返す。しばらくして、根負けした土方が、「楽しい話じゃないんですけど、それでもいいですか」と尋ねれば、「お前が聞かせてくれるなら、いいよ」と銀八は言って、土方に飲みかけの湯呑みを差し出した。確かに喉が渇いていたので、ありがたく湯呑みを受け取った土方がごくりと玄米茶を飲み下すと、「間接ちゅー」と、気のない声で銀八は笑う。「小学生か」と呆れた声を出した土方に、「心はいつまでも少年だから」と銀八が胸を張るので、「言ってろ」と土方は肩を竦めた。うん、と頷いた銀八は、「やっぱその方がしっくり来るな」と言って、「校外では敬語無くていいよ」と一方的に告げる。
「や、一応目上ですし」と土方は首を振ったが、「うん、一応って付いた時点で俺のこと敬う気はないよね、知ってたけどね」と銀八に返されて、思わず視線を泳がせてしまった。そこは否定しろよ、と言った銀八の声がひどく情けないので、「一ヶ月前よりは尊敬してます」と、土方はきっぱり告げる。あの赤点を取るまで、銀八がこんなに面倒見の良い教師だとは思っても見なかった。本を読むだけで頭が良いとは思わないが、銀八は読んだ分だけ自身の中で消化しているらしい。そういう意味での賢さは、土方にとっても心地よかった。
それってどういう意味?好意的に取っていいの?それとも皮肉?とぶつぶつ呟く銀八に、ようやく決心を固めた土方は、「少なくとも悪意はないです」と返して、「俺が前住んでた家には、今叔父さんが住んでます。家族で」と続ける。「それは、お前が追い出されたってことか?」と、やはり穏やかな声で尋ねる銀八に首を振って、「俺が出てきたんです。もう一緒には住めなかったから」と、土方が言えば、「もともと一緒に住んでたのか」と、銀八は得心が行ったような顔で呟いた。
ぎゅ、と膝の上でてのひらを握った土方は、「ばあちゃんとは、もともと俺の家族が一緒に住むはずだったんです。それで二世帯住宅を建てて、父さんと母さんの転勤とかいろいろ済ませて、これからって言うときにふたりとも事故で死んで、俺はそのままばあちゃんに引き取られました。ばあちゃんは金持ちだったから、ふたりの保険金は全部俺が引き継いで、いろいろあって家の片側には叔父さんが住むことになったんです」と、できるだけ感情を込めずに告げる。「ちなみに、土方はいくつだったの」と銀八が尋ねるので、「小学校に上がる年でした」と土方は答えた。共働きだった両親と過ごした記憶は、実のところあまりない。ただ、真冬の灰色の空に立ち上る煙の色だけは覚えていて、今思えばあれば火葬場だったのだろう。
当時、土方は六歳だった。土方は手のかからないこどもだったらしく、物心つく前からずっと、保育所でおとなしくしていたらしい。それは祖母に引き取られてからも変わらず、土方は息を詰めるように世間から隔絶された生活を続けた。土方の祖母は厳格な人だった。愛されてはいたのだろうが、土方の父である長男を亡くしたことでずいぶん傷付いた祖母は、その思いを全て土方の教育に注いだのだ。同じ家の片側には、祖母を気遣う父の弟の家庭があったが、祖母はまるで関心を示さなかった。祖母のためにも土方のためにもかなり心を砕いてくれた叔父夫妻に、祖母は常に冷たい言葉を吐いた。幼い頃はわからなかった土方も、長じてからはそれが心苦しくて仕方が無かった。土方がどんなに言葉を尽くしても、祖母は一貫して土方のためだけに生き、土方だけに財産を遺して亡くなった。二年前の、やはり真冬のことだった。土方は、中学三年生になっていた。二年前の、やはり真冬のことだった。
祖母の弁護士がやって来てそれを告げたとき、金などまるで欲しくなかった土方は、その場で遺産を放棄しようとしたが、成人までその権利がないとすげなく断られてしまった。老人とこどもが生きていくために、陰日向なく接してくれた叔父夫妻には、住んでいた家しか残らなかった。そのとき、土方はもう無理だと思ったのだ。叔父夫妻には、土方と同じ年の息子がいる。同じ孫だと言うのに、祖母は従兄弟に一銭も遺しはしなかった。土方とは違い、ごく普通に育った従兄弟とは、その時点でまるきり話が噛み合わなくなっていたことも、土方の思いに拍車を掛けた。
九年の歳月を経てもなお土方にやさしい叔父と叔母が、これ以上弱っていくのを見たくなかった土方は、祖母の四十九日を終えてすぐ荷物をまとめ、弁護士を頼って家を離れた。ひどく事務的な手続きで、土方はあのアパートの一室におさまり、中学校の卒業式を最後に、叔父夫妻とは顔を合わせていない。合わせる顔もなかった。

ぽつぽつと語りった土方に、「元の家までは遠いのか」と銀八が言うので、「ここから電車で一時間くらいです」と土方は返す。近くもないが、そこまで遠くもない。それが土方の限界だった。「中学まで通える範囲、って考えたらここが最高で」と土方が続ければ、「転校すりゃよかったのに。徒歩五分で、あるだろ」と、銀八はすぐ近くの中学校を指した。それはそうなのだが、「…俺友達いませんでしたけど、従兄弟はそうじゃなかったんで」と土方が言葉を濁せば、「お前は、そういう気ばっかりまわせんのな」と、銀八はがりがり頭を掻く。保護者を失くしたばかりの土方がすぐにいなくなれば、非難の矛先は叔父夫妻と、その息子である従兄弟に向かうだろう。実情がどうあれ、世間とはそういうものだと、土方はもうずっと前から知っていた。
叔母は決して口にしなかったが、祖母と叔母の間に確執があったのは確かだし、血の繋がりがある叔父でさえ、祖母には疲れ果てていることを薄々感じていた。思えば、祖母の遺産は決定打でしかなかったのだろう。土方が土方である限り、遅かれ早かれ軋轢は生まれていた。祖母の死が周囲の予想よりも早かっただけで、結果は同じだった筈だ。幸か不幸か、生きていくだけなら両親と祖母が遺してくれた金で片が付き、おかげで土方は現金に興味が無くなった。使いたくないわけではない。使い道がわからないのだ。
「だからって、それで素麺三昧なのは極端すぎだろうが」と、咎める風でもなく言った銀八に、「素麺だけじゃないです、もずくも食ってました」と土方が返すと、「お前がそれ引っ張んのかよ」と、銀八はふにゃっと表情を崩す。
「で、言いたいことはそれで全部か?」と銀八が続けるので、「だから、俺はいくら払えばいいですか」と、土方は繰り返せば、すう、と目を細めた銀八は、「あのな、金で済まねえことなんて世の中にいくらでもあるんだよ。お前がここで本を読むだけで充分だって、何度も言わせんな。それでも金に換算したいなら、俺がお前に金を出すぞ」と低い声で告げて、「…な、あんまり気分のいい話じゃねえだろ」と重ねた。
一瞬鈍器で殴られたような衝撃を受けて、土方はこくりと頷く。それは、そうだった。銀八は誰でもいいのだろうが、土方は銀八が銀八だからここにいるのだ。土方の意思で。そこに金が介入したら、土方は今度こそ立ち直れないような気がした。ぎゅう、と土方がさらに強く手を握れば、伸びかけの爪がてのひらを差す。それでも血は出ないだろう。
土方が同じように唇も噛み締めようとしたところで、「なあ、お前ずっとそんなんだったの」と銀八は言って、土方の手を取った。そんなの、とはどういうことを指すのだろう。土方には良くわからなかった。時間をかけて土方の指を一本ずつ解いた銀八は、まっすぐになった土方の手に、一回り大きな銀八自身のてのひらをぴたりと押し当てて、「もういいだろ」とやわらかく告げる。
「なにが、」と、言いかけた土方の口をもう片方の手のひらで塞いだ銀八は、「だから、もういいんだって。お前はここで好きなだけもずくを食えばいいし、カレーは二日目の朝どころか昼の分まで残ってるし、今日の夕飯はおでんです」と、脈絡のない言葉を紡いだ。ぷは、と銀八の手から逃れた土方が、「おでんも鍋いっぱい作るんですか」と尋ねれば、「あたりまえだろ」と銀八は真顔で言って、「お前何がすき?俺は大根と餅巾とがんもどきな」と重ねる。「たまごと、こんにゃく」と、かろうじて答えた土方が、そこで堪らなくなってぎゅっと目を閉じると、銀八は土方の両脇に腕を差し込んで、あやすように土方の背を撫でた。
朝食前と変わらない腕なのに、逃げ出す気にはならないのが不思議で、「なんですか、これ」と土方が呟けば、「お前にはこういうことが必要だろ」と、銀八は返して、さらに強く土方を抱き締める。そんなことがあるだろうか。こんなことは、今まで誰にもされた記憶がないから、と言ったことを土方がしどろもどろに伝えると、「だからいるんだよ。俺もさんざん松陽先生にされたし」と銀八はいつもどおり覇気のない声で答えて、「嫌なら止める」結んだ。少し考えて、「嫌ではないです」と土方が囁くように言えば、「ならいい」と満足そうに銀八は返す。
薄い皮膚を通して、銀八の鼓動を感じながら、土方は知らず肩の力を抜いた。完全に銀八の胸にもたれかかる形になったが、銀八は何の負担もなさそうに土方の背に腕を回している。ふ、と息を吐いて目を閉じた土方が、「猫を飼ってる家があったんです」と、不意に零せば、「何色の?」と銀八が問い返すので、「白と黒の」と土方は答えた。「通学路の裏手にある大きな家の、門の前でいつも寝てて。懐こい奴で、人通りの少ない時間に通ると、よくいろんな人がそいつと遊んでました。でも俺は見てるだけで、触ったことはなかったんです。ただ見てるだけで」と、土方が 一息に言うと、「猫、好きなのにな」と銀八の声に笑みが混じる。
そうなんです、と頷いた土方は、「俺はずっと触りたくて、触れないままこっちに越してきて、…卒業式の後に、一度だけでもと思って、その家まで行ってみたんですね。でも、いつ行ってもいた猫がその日に限っていなくて、」と、そこまでで言葉を切った。よしよし、と銀八の手が宥めるように土方の頭を撫でるので、土方はまた唇を開く。
「そこで帰れば良かったのに、諦められなくてしばらく待ってたら、家の人が出てきて、『ごめんね、チビを待ってるんなら、あの子は先週死んだの』って、言われて」と、土方はまたゆるく息を吐いた。銀八は静かな声で、うん、とだけ答える。うん、それで?と銀八に促された土方は、「泣きそうになりました」と、あっさり零した。「自分が飼っていたわけでもない猫が死んだだけなのに、すごくつらくて。両親が死んだときも、ばあちゃんが死んでも、家を出ることになっても、ほとんど何も感じなかったのに、九年間見ていただけの猫がいなくなったってことがどうしても信じられなかった」 と、言いながら土方は銀八の胸に額を押し当てる。柔らかくはないが、広くて温かい胸だった。
銀八はしばらく土方の頭を撫で続けていたが、やがて口を開いて、「お前、本当はそれが言いたかったのか」と、ぽつりと落とす。そうかもしれない。
「砂遊びが好きで、いつも尻尾の辺りが汚れてたんです。一度だけ写真を撮ったことがあったけど、それもブレてて、だけどずっと消せなくて…だって俺、そのときまであいつの名前も知らなかった。ぜんぜんチビじゃなったんですよ、腹の辺りなんか絶対毛じゃないもので膨らんでたし、手足も大きかったし、でも顔は小さかったな」と、土方が重ねれば、「そっか」と、なぜか銀八が泣きそうな声を出した。
「先生?」と土方が思わず顔を上げると、「ん、なんつーか、うん。俺は物心ついて、松陽先生に拾われるまでの記憶がほとんどねぇのな。その頃八、九歳くらいだったけど、自分の名前も覚束なくてさ。だから、そんなふうに大事なものがいるって、ちょっといいなって思った」と、銀八は早口で言う。「大事だったんでしょうか。ただ、毎日見るだけの猫だったんですけど」と、土方が呟けば、「大事だったんだろ。お前にとっての九年て、一生の半分以上なんだからさ」と、銀八は事も無げに言ってのけた。そうですか、と返した土方が、いまさらのようにぼろっと涙を落とすと、「お前、泣くときも表情崩れねーのな」と、銀八は感心したように言って、指先で土方の目元を拭う。少しばかり荒れた指先は、でもやさしく土方の瞼を伝って、頬へと流れた。
ほんの十数秒そうしてから、ぱちぱち瞬いて涙をはらった土方が、「ところで先生、さっきわりと衝撃的なことを聞いた気がするんですけど」と、話題を換えれば、「何か言ったっけ」と、銀八は首を捻る。「自分の名前がわからなかったとか、どうとか」と、土方が重ねると、ああ、と頷いてから、「わからなかったっていうか、たぶん無かったんだよな。戸籍も含めて。俺は良く覚えてねえんだけど、それまで一緒に住んでた誰かの苗字と、名前はこの髪の色から先生がつけてくれてよ。…まあ、いまさら銀八なんてからかわれるとは思ってなかったけど」と、銀八は照れ笑いを作る。
それから、「つうか、お前らも金八なんて良く知ってるよな。なんだっけ、最後のシリーズが…もう七、八年前じゃなかったっけ」と銀八が続けるので、うん?と土方は首を捻って、「や、それは先生が最初の授業で話してくれたんですよ。銀八って名前だから、金八先生みたいなもんだと思えばいいってところから、その金八先生の説明になりました」と銀八の言葉を正した。
一瞬おかしな顔をした銀八が、「ちょっと待て土方。お前、俺のフルネーム言えるか」と、妙なことを言うので、「坂田銀八、ですよね?」と土方が返せば、「違う」と、銀八はむくれた顔で首を振る。「俺の名前は銀時、銀色の銀に時間の時で『銀時』な。銀八はあだ名なんだけど」と、銀八が続けるので、「えっ?いや、でも、一年の最初の授業で…ほら総悟が!」と、土方は慌てて返した。「沖田くんは関係ねえだろ。人のせいにすんなよ」と、半眼になった銀八にぶんぶん首を振って、「待て、待ってください。よく思い出してください」と、土方は言う。

一年半ほど前のことだ。現代文の教科担任として一年Z組を訪れた銀八が、『坂田』まで黒板に書いたところで、「ああ、アンタがあの銀八先生ですかィ」と、土方の隣に座っていた沖田は声を上げた。んっ?と眠そうな目で振り返って、「なに、新入生にまで俺のこと広まってんの?」と首を傾げた銀八に、「や、俺は姉ちゃんから聞いたんでさァ。銀髪天パに一年中白衣のうさんくさい国語教師がいるって」と、真面目くさった顔で沖田が返すので、まだ沖田の本性も、教師としての銀八も知らなかった土方はずいぶんはらはらしたことを覚えている。
姉ちゃん、と呟いてから、座席表で沖田の名を確認した銀八が、「あー、お前沖田なのか。三年の、沖田ミツバの弟」と、合点が行ったように頷くと、「そうでさァ。姉ちゃんがいつもお世話になってます」と、沖田はぺこりと頭を下げた。
「そうね、良く世話したね。そういや夏頃から言ってたわ、そーちゃんもここを受けるんです、受かったらよろしくお願いしますって。なに、俺もそーちゃんて呼んだらいいわけ?」と、とたんに緩んだ銀八の態度に、沖田を除くほぼすべての生徒が軽く引いていたが、「いえ、俺は沖田弟で充分なんで、そう呼んでくだせィ」と、沖田はにやりと笑ってみせる。おー、と頷いた銀八の話は、「今聞いたと思うけど、坂田銀八です。お前ら知ってる?三年B組金八先生」と、さらに脱線を続け、結局第一回目の授業は雑談で終わった。ちなみに、「お前らもう教科係って決めた?決まって無かったら、沖田弟とその隣の…土方くん、国語係な」と、勝手に決められたことも、土方は良く覚えている。それはもう。

「で、二年でもクラスは変わらなかったんで、二度目の自己紹介は無いままここまで来た筈なんですけど」と、説明を終えた土方の前で、「マジでか」とこめかみを押さえた銀八は、「え、もしかしてZ組全員俺の名前知らねーの?時間割とか…は、苗字だけだよな。坂田って俺だけだし、本名知らなくて困るようなこともねーけど、嘘だろ、二年経ってんだぞ」と、呆然とした顔で呟いた。なんだか可哀想になって、土方が銀八の髪を撫でれば、「あー、なんだよ、お前真面目そうなのに最初から俺のことあだ名で呼ぶから、ちょっと懐かれてんのかなーと思ってたのに、その辺もただの勘違いかよ」と、銀八は改めて土方に抱き着いて言う。
そこは否定してやるのが優しさかもしれないが、土方は不器用なので、「まあ、そうですね。一ヶ月前まで、先生のことはただのだらしない天パ教師だと思ってました」と、容赦なく銀八を切り捨てた。「いや天パは関係なくね?」と顔を上げた銀八に、「性格と同じでねじ曲がってんだなーって思ってました」と、土方が追い打ちを掛ければ、「お前だっていい性格じゃねーか、髪はさらっさらだけど」と、銀八は顔を上げて、土方の髪をわしわし掻き混ぜる。
「天パが移るんで止めてください」と、芝居がかった口調で銀八の手を押し退けた土方に、「移んねーよ!つうかそんなら俺にストレート移してください!」と銀八は叫んで、土方を抱きしめたまま、ごろりと横に転がった。
うわ、と土方が思わず声を上げれば、「びっくりした?」と銀八は薄く笑って、そのまま炬燵の上掛けを引っ張る。「なにしてるんですか」と土方が尋ねると、「二度寝しようかなって。昨日遅かったし」と、銀八はなんでもない声で返した。土方は軽く眉を顰めて、「俺は眠くないんですけど」と、抗議してみるものの、「最近桜子さんはお前の布団にいっちまうから、肩の辺りが寒かったんだよ。いいな土方、スゲーしっくりくる」と、銀八が満足そうに頷くので、「…ゆたんぽ替わりですか」と、土方は呟く。
「まあ、たまにはいいだろ。お前普段二度寝とは縁がなさそうな顔してるし」と、さらに具合よく土方を抱き込んだ銀八は、「なんなら眠くなるまで、また絵本読んでやろうか」と言いながら土方の顔を覗き込んだ。
そんなことで誤魔化されてたまるか、と土方は思ったが、銀八の声がひどく楽しそうなので、結局どうでもよくなって、「…この前の続きが聞きたいです」と返す。タイトルも告げなかったのに、銀八はいいよ、と簡単に頷いて、炬燵の脇に山と積まれた本へと手を伸ばした。
試行錯誤して、土方の頭の後ろに絵本を立てた銀八は、一段落ちた声で本を読み始める。初めて泊まった夜に読んでもらった、月とお姫様の話だった。土方自身はどこまで聞いたかわからなくなっていたのに、銀八が驚くほど正確に続きを読むので、土方はそっと目を伏せる。途中で何度か瞼が落ちかけたものの、なんとか最後まで持ちこたえた土方は、そっと本を閉じた銀八に、「先生は、月ってどんなものだと思ってますか」と問いかけた。
んー、と少しだけ考えた後で、「裏側とか内側に地球外生命体の基地があればいいと思ってる」と、銀八が真顔で答えるので、「先生にファンタジーを期待した俺が馬鹿でした」と、土方はぐるりと銀八に背を向ける。
えっなんで、月面都市とか夢だろ?月の裏側の写真とかめっちゃ興奮するじゃねえか、お前はそういうのねえの?と、土方の肩を揺らす銀八に、一抹の笑いを噛み殺してから、「お化けは嫌いなのに、宇宙人はいいのか」と、土方は問い返した。「SFはすきなんだよ。あと、怪談も読む分には嫌いじゃねえから、そういう意味でもお前がいてくれてすごく嬉しいです」と銀八が言うので、「あ、俺もう便所には付き添わないんで」と、土方があっさり返せば、「えっ」と銀八はこの世の終わりのような声を出す。ぶはっ、と今度こそ本気で吹き出してしまった土方に、「おっまえ、性質悪ィぞ」と、銀八は後ろからぎゅうぎゅう抱き着いて、「こうなったらお前にもホラー読ませてやる。なんならまた読み聞かせてやるから、覚悟しろよ!」ときゃんきゃん吠えた。
「それって諸刃の剣じゃないですか」と、土方が首を捻れば、「死なばもろとも」と銀八が真面目な声で返すので、「俺はもっと楽しい本が読みたいです」と、土方は銀八に向き直る。「先生が薦めてくれた本ならなんでも読みますけど、でもやっぱり、楽しい本がいいです」と土方が重ねれば、ああクッソ、と銀八は唇を曲げて、「その言い方はずるい」と言った。
それから、「言われなくても、お前にはしばらく楽しいこどもの本しか読ませてやんねーよ」と銀八が続けるので、「はい、よろしくお願いします」と土方が笑うと、「こちらこそ、どうぞよろしく」と、銀八もゆるりと笑い返す。
満ち足りた気分で目を閉じながら、でもやっぱり便所には着いて行きません、と土方が呟けば、「宣言しなくてもいいだろ」と、銀八は困ったような声を返して、「いいよ。ここにいるだけで充分だ」と、土方の頬をやわらかく撫でた。

土方は知らなかったが、これがきっと、幸せのかたちだった。


( 現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎/ 140305)