まわるまわる_06 

翌朝、土方が布団から身体を起こした時、銀八はまだ居間で軽い寝息を立てていた。炬燵の中が熱かったのか、足を抜いて毛布の中で縮こまる銀八はまるで猫のようで、銀八猫、と吹き出しそうになるのを堪えながら、土方はそっと銀八の肩を揺する。
んん、と喉の奥でむずかるような声を出した銀八は、土方の手から逃げるように毛布へ顔を埋め、そしてぴたりと動きを止めた。寝息まで止まってしまったことに驚きつつ、「先生」と土方が声を掛ければ、「…ああ、うん、…ひじかた?」と、くぐもった声で銀八は言う。問いかけるような声音に、「俺以外誰もいませんけど」と返した土方が、「…俺に見える限りは」と付け加えると、銀八はがばっと毛布を剥いで、「怖ェこと言うなよ!俺にだって見えねーよ!!?」とひきつった顔で叫んだ。
そう早くもないが、まだ朝と言って差し支えのない時間なので、静かに、と言う意味を込めて土方が唇の前で人差し指を立てれば、「なに、土方くんはお化けとか怖くない人?」と、銀八の表情は少しばかり不安げなものに代わる。
「いないものは怖くないです」と、土方が返すと、「いや、そのいねェもんがいるかもしれねーから怖いんじゃん?見ろよあの五センチだけ空いた襖。あの暗がりから白い手が手招きしてたらどうする?思わず近づいて覗きこんだありえない角度から血走った目がこっち見てたらどうすんだよ」と、銀八はやけに具体的な例を口にした。
少し考えて、「先生は見える人なんですか」と、土方が尋ねれば、「ばか、そんなもん見えてたらひとりで暮らせるわけねーだろ。と言うわけで見えないしいないけどちょっと便所までついて来て下さい」と、銀八は土方の手をぎゅっと握る。本気だろうか。
土方が呆気に取られているうちに、炬燵の上から手探りで眼鏡を取った銀八は、土方の手首を引いたまま立ち上がって廊下を進み、「絶対そこで待ってろよ!」と念を押してから便所に消えた。
何が悲しくて教科担任の小便の音を聞かなければならないんだろうか、と、焦げ茶の扉越しに土方は思うが、長い小便の後で顔を出した銀八があからさまにほっとしているようなので、口には出さない。ただし、もう一度土方の腕を掴もうとした銀八の腕からはさっと逃げた。
「なんだよ」とむくれる銀八に、「手ェ洗ってねえだろ」と土方が苦言を呈せば、「洗ってあればいいのか」と、銀八はゆるく笑う。「まあ、飯食わせてもらってますし」と、それほど深い意味も無く答えた土方に、「…その考え方は良くねえな」と、銀八は目を細めた。
何が、と問う間もなく、廊下の突き当たりを曲った銀八は、台所で手を洗って土方に向き直ると、「ちょっと、こっち来い」と、土方を手招く。土方が素直に銀八へと歩み寄れば、銀八は土方の腕を掴んで引き寄せ、そのまま土方の身体を抱きしめた。銀八の胸にしまい込むような形で。
一拍遅れて、「はあっ?! なに、何してんだ離せ!」と、さすがに土方がもがけば、「あーうんうん、そう、それ。その反応な。嫌なことはちゃんと嫌って言えよ、別に俺はお前に恩を売ってるわけじゃねえんだから」と、なぜか満足そうな声で言った銀八は、土方の背をあやすように軽く叩く。
言ってる場合か、と何とか銀八の腕から抜けだした土方が、「先生は…その、同性愛者の方ですか」と言葉を濁すと、「だったらどうする?」と、銀八は眼鏡の向こうから土方を見つめた。
なんてことだ、そういうことだったのか。せっかくいままでそういうことは考えずに来たのに、結局そうなるのか。ていうか俺で良いのか?総悟や志村弟の方が可愛い顔をしてないか。いやそう言う問題でもねえし、身寄りのないところが良いのか?
ぐるぐる考えた土方が、最終的に「すみません、俺アパートに帰るんで、ここ最近のことはなかったことにしてください」と頭を下げれば、ぶわっはははっ、と吹き出した銀八は、「そっ、そこで謝んの?なにそれお前面白いんだけど!」と、堪え切れない、と言う体で台所の床にしゃがみこむ。
「あの」と、展開についていけない土方が声を掛けると、「悪ィ、冗談が過ぎたな。お前のこと狙ってるとか、最初からそう言うつもりだったとか、ないから安心しろ。お前がちゃんとわかってんならそれでいいんだよ」と、薄く滲んだ涙を拭いながら、銀八は土方の顔を見上げた。
それこそ何の話だ、と土方が銀八を見つめ返せば、ようやく笑いを沈めた銀八が、「俺に下心があっても構わないと思ってるならそれはヤバいし、あっても気付かないまま誰にでもついて行くならそれはそれで困るからな」と言うので、「先生俺のこと馬鹿にしてませんか」と、土方は半眼になる。
いやいや、と首を振った銀八は、「お前を馬鹿にはしてねェよ」と言ってから、「世の中には馬鹿が多いってだけの話だ」と続けた。何があったわけでもないが、何もなかったわけでもない土方が、「…飯奢ってくれた相手に下心があったり」と、軽く目を逸らせば、「やっぱりそういうこともあるのか」と、銀八の声は一段落ちる。
「やっぱりって?」と土方が問いかけると、「や、食うには困ってない、ってやたら主張するからよ。何か嫌なことがあったならあんまり問い詰めない方がいいだろうし、…って、結局すげェストレートに聞いちまったけど」と、銀八は照れたように頬を掻いた。
ふー、と息を吐いて、「それは、俺の荷物を運んでくる前に聞くべきだったんじゃないですか」と土方が言うと、「だってお前危なっかしいんだもん。風邪引いた時にもずくってなんだよ、栄養の欠片もねえだろ」と、銀八が唇を尖らせるので、「俺だって好きでもずくだけ食ってたわけじゃねェよ」と、土方は返す。
うん、と頷いた銀八は、「俺も、お前にもずくだけで生きるような生活はして欲しくねーよ。俺がお前に飯を食わせるのはそれだけの理由だから、今までの常識は捨てていい」と言って、「だけど、世間には馬鹿が多いから、もう他の誰かに飯奢ってもらったりすんなよ。いいな?」と、続けた。
それが言いたかったのだろうか。回りくどいにもほどがあるし、いろいろ段階をすっ飛ばしている気もするが、銀八の作る食事は単純に美味かったので、土方が何の憂いも無く頷けば、銀八はあきらかにゆるんだ顔で、「ん、わかればいい」と、土方の頭をがしがし撫でる。スキンシップが多いのは、無意識の産物らしい。
それから、「お前もう身体は平気?朝からカレーで大丈夫か?」と、普段の調子でガス代の前に立った銀八が言うので、「大丈夫です。二日続けてカレーって初めてですけど」と、土方は背中を見つめて言った。
「えっ、カレーって大鍋で作って二、三日かけて食うもんじゃねーの?俺の読んだ本だとだいたいそんな感じだったけど」と、首を捻った銀八に、「ていうか、家で作ったカレー食うのも初めてなんで」と、土方が答えれば、「ちょっと待て、もしかしてお前カレー嫌いなのか」と、銀八は焦ったような声を出す。
いえ、と首を振った土方が、「俺すっとばあちゃんと二人暮らしだったから、飯は基本和食だったんです。ほんとに、一汁三菜きっちりしたやつ」と、返すと、「へえ、それはそれでスゲーな」と弾んだ声で銀八は言って、「…つか、お前今さらっと大事なこと言わなかった?」と、土方を振り返った。
危ないんで火ィ見ててください、と銀八の頬を押してから、「飯食ったらちゃんと話します。ほんとにここで世話になるんだったら、金の話もあるし」と土方が言うと、「んなもんいらねえけど、お前がお前のこと話してくれんのは単純に嬉しい」と、銀八は含み笑いのような声を落とす。
一瞬ざわっと背筋を粟立てた土方が、「嘘付け、興味もねェくせに」と、思わず漏らせば、「何言ってんだ、だったらこんなとこまで連れて来ねえよ。俺に興味がねえのはお前だろ」と、なんでもない声で銀八は言って、二日目のカレーをぐるりと掻き混ぜた。
え、と言葉に詰まった土方の前で「そうだ土方、冷蔵庫にプチトマト入ってるから、洗って適当な皿に出してくれ。あと福神漬けな。マヨ使いたかったらそれも」と告げた銀八は、やはりいつも通りの顔をしている。それ以上追及する気にはなれなかった。
大人しくプチトマトを洗い終えた土方が、手持ち無沙汰で銀八の背後に佇んでいれば、「もうすることもねェから、向こうで本読んでていいぞ」と銀八は言うが、土方は軽く首を振って、「待ってます。あと、お茶とか淹れます」と返す。
「いきなりいい子になんなくていいのに」と少し笑った銀八は、「や、お前は最初からいい子だったな」と独り言のように続けて、「じゃ、頼むわ。薬缶がここで、いつもの湯呑もそこにあるから」とダイニングテーブルを指した。 椅子が三脚差し込まれたテーブルの上には、洗った湯呑やお茶や海苔や胡麻の袋が乱雑に置かれている。
やかんを火にかけた土方が、ふと思い立って居間から電気ポットを取ってくれば、銀八はカレーを混ぜる手を止めて、残った昨日の湯をざばっとシンクに空けた。そのまま差し出されたポットを受け取って、「洗わなくていいんですか?」と土方が尋ねると、「一応電化製品だから、上から水かけると壊れんだよ。専用の洗浄剤があるから、それで洗うの」と、銀八は言う。
なるほど、と頷いた土方に、「お前の部屋、何もなかったもんな」と銀八がしみじみ呟くので、「人聞きの悪いことを言わないでください、ちゃんと鍋で麦茶も煮出してました」と、土方は抗議した。ただし、当然保温機能は無いので、冬でも冷やして飲むのだったが。
「うん、それは良かったな」と土方をチラ見する銀八の顔が明らかに生暖かい温度をしているので、「電気ポットがそんなに偉いのかよ」と、土方は毒吐いてみたが、「でも、便利は便利だろ?」と返されて、しぶしぶ頷く。
土方があの部屋で風邪を引いたのは今回で三度目だが、過去二回が長引いたのは明らかに部屋が寒くて、食べるものが無くて、水道水だけを飲み続けていたせいだろう。せめて電気ポットでもあれば、温かいものを飲んで人心地付くこともできたかもしれない。さすがに、意識を失いそうな体調でガスを使うのは怖かった。
しばらくして、やかんがしゅんしゅん音を立て始めるので、土方はガスを止めてポットに湯を移す。土方の隣で、銀八もすっかり温まったカレーを皿と茶碗に盛ると(銀八は茶碗でカレーを食べるらしい)、「土方くんの初朝カレー」と、ゆるく目を細めた。
なんだそりゃ、と鼻を鳴らした土方に、「いいだろ、若い内は何でも新鮮で」と、どこか嬉しそうに銀八が言うので、「先生が言うと別のことに聞こえるんで止めてください」と、土方はダイニングテーブルにあった緑茶のティーバッグをぺりぺり開けながら返す。
「土方も、そういうこと言うんだよな」と何故かさらに笑み崩れた銀八には構わず、さっさとポットから沸き立ての湯を注いだ土方が、「お茶もカレーも冷めますよ」と促せば、銀八もようやく居間へと足を向けた。
すっかり座り慣れた炬燵に向かい合って座り、いただきます、と手を合わせた銀八は、昨夜とは違う文庫本を開く。土方も読みかけの本を手にしたが、結局開くことは無く、茶碗のカレーをスプーンですくう銀八をただ見ていた。
途中で一度だけ顔を上げた銀八が、「もう飽きた?」と尋ねるので、土方は慌てて首を振る。カレーにも本にもこの家にも、飽きてなどいない。ただ、銀八のことがさらにわからなくなっただけだった。
昨日よりまろやかになったマヨカレーを一匙掬った土方に、「ゆっくり食えよ」と銀八は言って、土方が洗ったプチトマトをひとつ口に入れる。銀八の舌が一瞬だけ覗いて、土方は思わず目を伏せた。赤い舌だった。


( 現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎/ 140304)