まわるまわる_05

銀八の言葉通り、銀八の部屋から襖一枚挟んだ六畳間はあっという間に土方の部屋へと生まれ変わった。銀八が使っていたらしいL字型の文机に昨夜見たデスクライトを置き、どこかから引っ張り出してきた水屋を本棚代わりにして、他の荷物は全て押し入れに収めてしまう。こんなもんか?と腕を組んで頷いた銀八の後ろで、「先生、自分の机はどうするんですか《と土方が尋ねれば、「俺は炬燵か台所の机で充分だし《と、銀八の答えは軽い。「衣裳ケースが段ボールなのは悲しすぎるから、あとで箪笥も探してくるわ《と続けた銀八に、「あの、まだここに住むって決めたわけじゃないんですけど《と土方は首を振って見るものの、「まあまあ、いつでも荷造りは手伝うからよ《と、銀八はまるで意に介さずにいる。形だけでも溜息を吐いてみようとした土方だが、どうせ土方の荷物など大した量ではないし、そもそも無くなって困るような物もほとんどないので、それ以上の文句も思いつかなかった。
貴重品は財布と通帳と印鑑と、…一応制朊もか?と、土方がつらつら考える間に、銀八は満足そうに首を鳴らして、「うし、飯は食ったし部屋もできたし、寝るか《と、上機嫌で土方の背を押す。「ああ、はい《と返した土方が、銀八の部屋に敷きっぱなしだった借り物の布団に手を掛ければ、「何してんのお前《と、銀八は上思議そうな顔を作った。え、と思いながら、「俺の部屋なんですよね?《と、単に隣へ運ぼうとしていたのだと言うことを土方が示すと、「あれは勉強部屋だろ。寝室はこっち《と、銀八は当たり前のように言う。どう反応していいかわからず、「先生は、ずっと先生の先生と布団並べて寝てたんですか《と、土方が尋ねれば、「うん?最初から別の部屋で寝てたけど《と、銀八の答えは要領を得ない。それから、「もしかして俺、おっさん臭い?寝息とか寝言とかいびきとかうるせえ?《と、銀八がまるで的外れなことを言うので、「それは大丈夫です《と、首を振った土方が、「…ぎりぎり《と小声で付け加えると、「マジで?!待て待てファブリーズすっから、あといびきは鼻栓するから!《と、銀八は半分本棚に塞がれた押入れへと慌てて手を伸ばした。
うろたえる銀八がおかしくて、ふはっ、と笑った土方は、「冗談です、先生からすんのは今日食ったカレーの匂いくらいです《と告げて、少し寝乱れていた布団の皺を丁寧に撫でつける。「それはそれでカレー臭だな《と、親父臭いことを言いながら、それでも少しばかり嬉しそうな銀八を、「まあ、先生が二十代だって言うのは驚きましたけど《と、土方は容赦なく付き離した。がん、とまたショックを受けたらしい銀八のメンタルは放っておいて、「先生、風呂借りていいですか《と土方が尋ねれば、「昨日の今日で、大丈夫か?安静にしてたならまだしも、お前炬燵で寝てたしよ《と、銀八は言う。もう平気です、と返した土方の額に手を伸ばし、冷たくて大きな手で自分の額との温度差を確認した銀八は、「んー、じゃあ、入るだけな。頭洗うのは止めとけ《と譲歩すると、「風呂洗ってくるから、炬燵で待ってろ。桜子さんももうすぐ帰ってくるからな《と、土方の額をぺしっと叩いて行ってしまった。
叩く必要はあったのか、と別に痛くはない額を擦りつつ、素直に炬燵へと潜り込んだ土方は、ふと思い立って銀八が読んでいた文庫本を引き寄せる。銀八が食事時に開くのは、いつも新書か文庫サイズの本だ。おそらく片手で読めるからなのだろうと思うが、実際のところは銀八にしかわからないし、土方も答えが知りたいわけではない。アニメ調のキャラクターに彩られた表紙をめくれば、中にもカラーのイラストが続いて、これは漫画なのだろうか、と土方は一瞬首を傾げたが、先へ進めばそういうわけでもないようだ。二、三ページほど試し読んでみたものの、続き物らしい物語の中身はまるで頭に入ってこない。まだまだ銀八の読解力には追い付かないのだ、と土方が軽く眉を潜めたところで、「悪ィ、それ一巻はもうねえんだ。ラノベと漫画は集めると収拾がつかねえから《と、落ち着き払った銀八の声が落ちて、「読みたかったわけじゃないです《と、土方はそっと本を閉じる。
炬燵の対角に腰を下ろしながら、「まあ確かに、お前の趣味じゃなさそうだよな《と、土方の手から本を抜き取った銀八が言うので、「それはどういう話で、俺が好きそうな本はどんなのですか《と、土方は問いかけた。んー、と文庫本をぺらぺらめくった銀八は、「これは、人が化け物を愛したり、化け物が人を愛したりする話。でもその化け物は人より人らしいし、人は化け物より化け物らしいんだよ。そういう曖昧さが、お前は好きじゃなさそうだと思った。お前に似合うのは…そうだな、たとえファンタジーであっても、ファンタジーなりの理屈がしっかりしている話、かな。あと、お前推理小説好きだと思う《と、どこか楽しそうに紡ぐ。
「ファンタジーは、理屈が通じないからファンタジーなんじゃないんですか?《と、土方が首を捻れば、銀八は緩く首を振って、「通じないのは俺たちの理屈であって、その本の理屈じゃねえだろ。たとえばお前が最初に読んだ本だと、普通に竜が出てきただろ?だけど、竜がどうやって生きているのか、どういう存在なのか、補足説明があったから、別にそこを疑問に思ったりはしなかったんじゃね?その世界なりの理屈がしっかりしていて、その枠を安易に飛び越えない話と、そうじゃねェ話があるんだよ。別にどっちがいいってことじゃねえけど、俺は前者が好きで、お前もそうだったらいいなって思ってる《と、返した。少し考えて、「その世界での、リアリティ《と土方が口にすると、「そういうこと《と、銀八は嬉しそうに頷いて、「物語って結局全部妄想の産物だからさ、書き手の妄想にどれだけ浸らせてくれるかが鍵だろ。これはねーよ、で読む話も楽しいけど、うわあそうきたか、とか、なるほどそうなんだな、で読める話の方がのめり込めるんだよ。…まあ、全部俺が読む時は、って前置きが付くけどな《と、最後は少しだけ恥ずかしそうに付け加えた。
土方が黙って銀八を見つめていれば、両手で顔を覆った銀八が、「止めて、確かに俺今語っちゃったけど、そう言う目で見んの止めて!《と、炬燵に突っ伏すので、「先生は、ほんとに本が好きなんですね《と、土方は銀八の髪に手を伸ばす。もふっとした銀髪の手触りは、まだ帰ってこない猫の毛並みとよく似ていた。片目だけ上げて、「何度も言うけど、好きだよ。悪ィか《と、すっかり拗ねたような声を出した銀八に、「悪くねーよ。つか、俺は先生の話をもっと聞きたい《と、土方が返せば、「笑わねえ?《と、銀八は言う。
笑わねェよ、と真顔で返した土方が、ちょうど鳴った給湯器の音で顔を上げれば、銀八は土方の手をぎゅっと握って、「ん、でも俺の話は、本を読んで作ったもんだからよ。俺のもんじゃない。結局、全部偽物なんだ《と薄く笑った。土方が口を開く前に、「タオルはいつものとこで、着替えは…俺のでもお前のでも。今日は風呂で本読むのは止めとけ。上がったら、ショウガ入りの紅茶でも淹れてやるよ《と、いつもの調子で銀八が言うので、土方は銀八の勢いに押されて立ち上がる。風呂場までの廊下はガラス戸に面しており、立ち枯れの庭が一望できて、寒くはないが寒々しい。
ほとんど無意識で朊を脱いで浴室へ入った土方は、銀八に言われたことも忘れて手早く身体と髪を洗い、熱い湯船に肩まで浸かる。祖母が死ぬまで、風呂の湯は三十八度が基本で、一人暮らしになってからは湯を溜めたこともなかったので、四十二度の湯は土方にとって未知の領域、だった。たった数週間ですっかり慣れてしまった温度は、銀八に流されるままの土方にとってひどく心地良い物で、そしてその意味を問う物でもある。銀八にとって、おそらく土方は誰でも良い存在だ。ここにいるのが『土方十四郎』で無くても、銀八のピースを埋めるものであれば、誰でも良いのだろう。それは、土方にとっても同じだった。土方は、差しのべられた手を振りほどくほど弱くはなく、その手が絶対であると信じられるほど強くもない。無条件の庇護などありはしないと言うことも知っている。全ては偶然の産物で、掛け替えのない物などどこにもない。それでも、今ここにいるのは土方で、土方が取った手は銀八のものだ。物語なら、それ以上の必然などありはしない。誰でもいいのであれば、銀八にとっての必然が土方であり、土方のそれが銀八であってはいけない理由もないのだった。
ばしゃ、と顔を洗って湯船を出た土方は、銀八が揃えてくれていた着替えを身に付け、バスタオルを被って、また長い廊下を歩いて戻る。台所に入れば、ガス代の前には銀八が立っていて、「おう、遅かったな。頭洗っただろ《と、気を悪くした様子もなく振り返って言った。銀八の足元では、いつの間にか戻っていた猫が熱心にスリッパの匂いを嗅いでいる。「桜子さん、もうこれ上げるから火使ってる時は寄らないでくんない?《と、銀八は履いていたスリッパを遠く放るが、猫は銀八の素足を嗅ぐばかりで、離れる様子もない。ひじかた、と眉を下げる銀八の足から猫を抱き取った土方は、猫の背中に顎を埋めながら、「先生《と声を掛けた。沸騰した薬缶の中身を保温ポットへ移しながら、「んー?《と気の無い返事を寄こす銀八に、「先生は偽物っつったけど、俺はそんなことないと思う《と、土方は告げる。
一瞬間を置いて、「何の話、《と銀八が言いかけるのを遮り、「ファンタジーの世界にその世界なりのリアリティがあるんなら、先生の中にだって現実はあんだろ。先生が感じたことまで偽物になるわけじゃない。読んだ物全部が嘘なわけでもねえし、先生は偽物じゃねえんだから、先生の言葉もちゃんと本物だ。少なくとも、聞いた俺の中では本物になる《と一気に紡いだ土方は、「…だから、あんま変な顔すんなよ。俺は先生の話が結構好きなんだから《と、締め括った。先ほどの銀八ではないが、完全に気恥かしくなった土方は猫の背で顔を覆う。銀八もこんな気分だったんだろうか、と、土方がなかなか引かない頬の熱を猫の背に押し付ければ、猫は嫌がるようでもなく、にゃあ、と一声鳴いた。と、上意に明かりが翳って、停電か、と馬鹿なことを考えた土方は、肩と背に感じた温もりと、視界の端に移る銀髪のおかげで、猫ごと銀八の腕に抱き込まれた事を知る。
猫が潰れるほどの強さではないが、「先生?《と、土方が声を掛けると、「お前、やっぱ面白いわ《と、ごく軽い声で銀八は言った。何を言っていいかわからなくて、はあ、と土方が適当な相槌を打てば、「俺にとって俺は偽物なんだけどよ、お前の中で本物になるなら、それはそれで嬉しい《と銀八は返して、土方の背をそっと撫で下ろす。着古されたジャージ越しに感じる銀八のてのひらはやはり熱く、土方はほっと体の力を抜いた。銀八の手は、素直に気持ちが良い。しばらくそうしていた銀八は、始まりと同じく唐突に土方の身体を離すと、「で、お前紅茶は飲めるんだっけ?《と、シンクへ向き直りながら問いかける。「平気ですけど、…ショウガ入りって、どんな味なんですか《と、土方が猫を抱いたまま銀八の手元に目を向ければ、「味は普通に紅茶だな。ただ、後味がちょっと辛くて喉がすっとするかんじ?味噌汁に下ろしショウガ入れんのとそんなに変わんねーよ《と、銀八はポットとカップに熱湯を回しかけながら答えた。
「すぐだから、お前は炬燵で待ってろ《と、銀八に追いやられた数分後、土方の前に湯気の立つマグカップが置かれるので、「…いただきます《と、土方は神妙な顔でカップを手に取る。軽く顔を近づければ、確かにショウガの香りがするような気がして、土方は軽く息を吐いた。「ハチミツ軽く垂らしたけど、もっと欲しかったら使えよ《と、言いながら平気な顔で紅茶を飲む銀八を見習って、ごくり、とほんの少しだけ中身を飲み下した土方は、「あ、普通に美味いですね《と、思わぬ味に声を上げる。「なんだよ、普通にって《と、苦笑した銀八は、「お前に嘘はつかねえよ《と、土方の肩を抱いた。衝撃でマグカップの中身が揺れて、「危ねェよ《と土方は銀八を咎めたが、銀八は気にする様子もなく、「ちょっと詰めて《と、わざわざ土方が座った炬燵の一片にもぞもぞ潜りこむ。割と大きな炬燵なので狭くはないが、邪魔ではある。
銀八がそのまま先ほどの文庫本を広げ始めるので、「飲んだら寝るんじゃなかったんですか?《と、土方が声を掛ければ、「お前は寝れば?俺はもうちょっとここにいるから《と、銀八は視線だけ土方に落として言った。むっとした土方は、紅茶をぐっと飲み干して、たん、とカップを炬燵板へ叩きつけるように置くと、「俺、午後はほとんど寝てたんで《と宣言してから、読みかけだった三兄妹の本を取り上げる。喉の奥で笑った銀八が、「背中冷えるから、着とけよ《と背中に掛けてくれた半纏をもぞもぞ羽織った土方は、「ありがとうございます《と顔を上げずに礼を言った。どういたしまして、と返した銀八は、それきり黙ってページをめくって行く。規則的でかすかな音はまるで鼓動のようで、土方は自身も本を開きながら、どうしても触れてしまう銀八の身体へとほんの少しだけ体重を掛けた。やはり、どこまでも暖かかった。

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それから数十分後のことだ。一冊を読み終えた土方が、充足感に浸りながら顔を上げれば、隣の銀八は炬燵に突っ伏していた。先生、と土方が軽く肩を揺すっても、銀八はよほど深く眠っているのか、まるで反応がない。そう言えば、と銀八が昨夜土方の看病をしてくれていたことを思い出した土方は、銀八の前髪を掻き分けて、腕を枕にしていた銀八の顔からそっと眼鏡を抜き取る。寝顔の銀八はいつもよりずっと幼く見えて、本当に二十代なんだな、と土方はいまさらのように紊得した。どうにか布団へ運ぼうと、土方は銀八の脇に両腕を差し入れて見るが、意識のない身体はひどく重くて、どうにも動きそうにない。仕方が無いので、隣の寝室から枕と毛布を取ってきた土方は、せめて、と銀八の身体を横にして枕を当て、炬燵布団が届かない上半身を毛布で覆う。迷ったが、炬燵は最弱で付けっぱなしにして置いた。銀八のことだから、熱くなったら自分でなんとかするだろう。ちなみに、いないと思っていた猫は銀八を横にしたところで炬燵から顔を出し、そのまま土方の布団へ潜って行った。温めてくれるらしい。
風呂の湯はそのままに給湯器の電源を落し、ガスの元栓を閉め、戸締りと灯りの消し忘れが無いことを確認した土方は、最後に寝室の灯りも落として、ドキドキしながら布団へ潜る。銀八が先に眠ってしまうのは初めてだった。なんでもないことなのだろうが、銀八が本当の意味で土方を信用してくれたようで、土方はそれが少し嬉しかった。閉まらない襖の先、ほんの二畳ほどの間を開けて、銀八の微かな寝息が届く。目を閉じた土方が、銀八の呼吸に合わせてゆっくり息を吐けば、土方の脇腹に寄り添った猫もぷしゅ、と小さな音を立てた。きっと朝まで、変わらない時が続くのだろうと思った。


(現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎 / 140118)