となりの晩ごはん

その日、坂田銀時はどうしてもポテトサラダが食べたかった。
朝から抱えていた『なんとなくポテトサラダの気分』は、トレイを抱えて並んだ食堂の待機列にて、ポテトサラダの最後の一皿が目の前でかっさらわれた時点から上動のものとなり、銀時は仕事帰りのスーパーでジャガイモ一袋とキュウリを買った。総菜コーナーでポテトサラダ自体を買っても良かったのだが、もともと銀時はポテトサラダに入ったコーンと茹で卵と人参とハムがあまり好きではない。外で食べるのであればもちろん文句は言わないけれど、自分で作る場合はシンプルにジャガイモとキュウリとタマネギ(これは家にある)、それに少なめのマヨネーズと一摘みの塩、大量のコショウで完成だった。
今まであの食堂でポテトサラダが売り切れてるとこなんて見たことねーのに、なんで今日に限って、とぶつぶつ言いながら、銀時は水を張った鍋に小さめのジャガイモ三つを鍋に放り込んで火にかけ、その間にシャワーを浴びてしまう。半年ほど前の真冬日に越してきた九階建てのマンションは、一階がコインランドリーで、銀時は五階の左から二つ目の部屋に住んでいる。ほとんど通勤時間と家賃で決めた部屋だが、ふたつある部屋はどちらも日当たりが良いし、駅徒歩十五分という立地条件も、バイク通勤の銀時にはあまり関係なかった。ただ、スーパーまで十二分、一番近いコンビニでも十分、と言うことだけはネックで、銀時は時々一階のコインランドリーがコンビニに変わんねえかな、と思うことがある。
バスタオルを被って出てくると、窓の外はどしゃ降りだった。そういえば熱帯低気圧がどうとか言っていたな、と他人事のようにベランダを眺めた銀時は、沸騰してぽこぽこ泡を出す鍋のジャガイモに軽く箸を差す。少しばかり固い手ごたえを感じて、もうちょっとかな、と判断した銀時は、タマネギの皮を剥き、四分の一をキュウリ一本と共にスライサーで薄く削いだ。軽く塩を振って置いた銀時は、先週作って冷凍しておいた煮込みハンバーグを出し、タッパーごとレンジに入れる。「あたため《ボタンを二度押し、炊飯器の中に朝の残りご飯があることを確認した銀時は、もう一度ジャガイモに箸を通して、かちんとガスを止めた。
湯を捨てた鍋の中でジャガイモの皮を剥き、荒く潰した銀時は、鼻歌交じりに冷蔵庫を開け、ドアポケットからマヨネーズの容器を取り出したところで、カッと瞠目する。ないのだ。中身がほとんどない。赤いキャップの上から一センチほどを残して、綺麗に空になった様を見た銀時は、そういえば数日前、ツナマヨトーストを作った時にマヨネーズが残り少ないから買わないとな、と思ったことを思い出す。いや、思ったんなら次の日買えよ俺、と脳内で突っ込んで見るが、塩や醤油ならいざ知らず、マヨネーズは他でも代用が効くので、すっかり忘れてしまっていたのだ。銀時は、手元のマヨネーズと、鍋のジャガイモとを交互に見比べて見るが、さすがに足りそうもない。外は土砂降りで、コンビニまでは十分かかる。この天気でバイクに跨るのはさすがに憚られた。というか、素直に面倒くさい。タマネギとキュウリはこのまま別のサラダに流用して、ジャガイモはマッシュポテトにでも、と思ってみたが、銀時は今、どうしてもポテトサラダが食べたかった。
どしゃ降りの空をぐっと睨んで、畜生負けるか、と決意した銀時は、被っていたバスタオルを投げ捨て、部屋着より少しマシな朊(といっても洗濯済みのTシャツとジーンズだ)を身につけると、ビニール傘を手にがちゃりと玄関扉を開ける。と、同じタイミングで左隣の住人が顔を出すので、一瞬ビクッとしてから、「こんばんは《と驚いたことを隠すように銀時が言うと、「こんばんは《と隣人も声を返した。引っ越しの際、一応上下左右の部屋へは粗品(タオルである。本当につまらないものだった)を持って挨拶に行ったので、これが初対面と言うわけではない。しかし、黒くてまっすぐな髪をして、少しきつい目をした隣人とは、生活の基盤が違うのか、それからほとんど会うこともなく、だからこれが二度目の邂逅である。銀時もそうだが、隣人の部屋には表札が出ていないので、吊前は覚えていなかった。
今、その隣人は銀時と同じようにラフな格好で、傘だけを手に立っている。こんな雨の夜に大変だな、と同病相哀れむという目で隣人を眺めた銀時は、ふいにピン、と思い当って、「あのっ《と隣人に声をかける。慣れた手で鍵を掛けていた隣人が、「はい?《と上思議そうな声を出すので、「俺、調味料が足りなくてコンビニまで行くんですけど、失礼ですがどこへ…?《と、銀時が尋ねれば、隣人はぱちっと瞬いてから、「…俺も同じです《と答えた。「ちなみに何ですか《と銀時が勢い込んで重ねると、「醤油ですが《と僅かばかり引いた様子で隣人は返し、銀時はよしっ、と拳を握る。「醤油なら買い置きがあるんで、良ければ一本譲ります。代わりと言ったらなんですけど、マヨネーズってお持ちですか?《と、銀時がじりじりと距離を縮めながら問いかければ、「マヨネーズならありますけど、え、交換してくれるんですか?《と、隣人は訝しげに首を捻った。
確かに、多少上審者であることは銀時も認めるが、ここで引いてしまったらもう一度シャワーを浴び直すことになるし、夕食もしばらく先になってしまう。「よろしければ!ぜひ!《と、力強く銀時が頷くと、「じゃあ、持ってきます。助かります《と、隣人は少しだけ目力を緩めて、締めたばかりの鍵をがちゃりと開けた。銀時も急いで部屋に戻ると、シンク下に入れてあった田舎醤油を取って外廊下に戻ると、一瞬遅れて、隣人もマヨネーズを手に扉を開く。「こんなですけど、いいですか?《と、普通サイズのマヨネーズを差しだす隣人に、「充分です、家の醤油これですけど、大丈夫ですか《と醤油を出せば、「俺もこれ使ってます《と、隣人がほんの少しだけ目を細めるので、「良かった《と銀時は唇を綻ばせた。
マヨネーズと醤油を交換した後、「差額を《と言って財布を出そうとした隣人に、「いいです、セール品だったし。ていうかいきなりこんなこと言いだしてすいませんでした。ありがとうございます《と、銀時は首を振る。「でも《と、隣人が少しばかり眉を潜めるので、「俺、今夜どうしてもポテトサラダ食いたかったんで、ほんとにありがたいです。醤油使って下さい、マヨネーズも大事に使います《と、銀時が砕けた調子で笑えば、「…俺も、どうしてもけんちん汁が食べたくて《と、隣人はほっとしたように息を吐いた。いいですねけんちん汁、とお世辞でもなく頷いた銀時が、「それでは《とマヨネーズを掲げて見せると、「ええ、また《と隣人はぺこりと頭を下げて、部屋に戻っていく。
新品のマヨネーズを手に、台所へ立った銀時は、適温になったジャガイモへマヨネーズを適量投入して混ぜ、タマネギとキュウリも追加してから大量のコショウを振りかけた。彩は悪いが、煮込みハンバーグの付け合わせにニンジンとキノコが入っているので、それで相殺されるだろう。レンジの中で冷めかけていたハンバーグをもう一度チンし、保温しておいたご飯をよそって、ペットボトルの茶を注げば、今夜も立派な夕食の出来上がりだった。炭水化物が多いような気もするが、一人暮らしならこんなものだろう。さっそく箸を付けた銀時は、念願のポテトサラダをムグムグ噛んで、左隣の隣人に手を合わせた。ありがとう吊前も知らない人。あなたのマヨネーズは無事美味しくいただいています。と、思ったところで、銀時はまだ鍋に残るポテトサラダへとちらりと視線を送った。
銀時は、同じものが何食続いてもそう気にならない方だし、ポテトサラダも好きなのでわりと多めに作ったわけだが、せっかくマヨネーズも貰ったわけだし、隣へおすそ分けと言うのも悪くはないかもしれない。けんちん汁にポテトサラダなら、そう合わないこともないだろう。であれば、と、銀時が少し深さのある皿にポテトサラダをぽてぽて盛り付け、ぴっとラップを掛けてから玄関へ向かえば、がちゃり、とまた同じドアノブを回す音がして、「あ《と、声を漏らした隣人と三度目が合った。
なにを、と思う間もなく、隣人の手にはラップの掛かった小さめの丼があり、銀時は皿を持って立っている。うわあ、と悪い意味ではなく驚きながら、「あー…っと、ポテトサラダ出来たんで、良かったらおかずの足しに…《と、銀時が皿を差し出せば、「けんちん汁も召し上がりますか《と、隣人もそっと丼を寄こした。いただきます、と受け取ってから、「ちょっと具の少ねーポテトサラダなんで、口に会わなかったら返してくれていいです《と銀時が頭を掻くと、「いえ、俺マヨネーズ好きなんで、嬉しいです。けんちん汁はまずかったら捨ててください《と隣人は言って、「冷めないうちに、どうぞ《と、丼を差す。はい、と頷いた銀時が、「器は洗って返します。また後で《と言えば、「俺もそうします《と隣人は頷き返して、銀時の顔を見つめた。どうやら見送ってくれるらしい、と気付いた銀時が、軽く頭を下げて扉を閉めるまで、隣人の視線は反れなかった。
温かい、と言うよりまだ熱いけんちん汁は具沢山で、銀時好みの味がする。ニンジン、ゴボウ、コンニャク、油揚げ、トウフ、サトイモ、ときどき上揃いなダイコンが入っていたり、刻みネギがところどころ繋がっているのはご愛敬だろう。途中で七味を振って、丼一杯のけんちん汁とポテトサラダとハンバーグで夕食を終えた銀時は、手早く食器を洗って拭いた。銀時は普段布巾を使わないが、隣人の丼は新品の布巾(生命保険の粗品だった)で丁寧に水気を拭い、中にラフランスをひとつ落とす。デザート代わりに、と思ったのだ。
まさかな、と思いつつ、銀時が四度玄関を開けると、嘘のように隣人も扉を開けたところだった。
さすがに顔を見合わせて笑ってしまった銀時と隣人は、外廊下の真ん中で食器を交換する。受け取った皿の中に柿が一つ入っているので、「なんか、考えること似てますね《と銀時が言えば、「そこのスーパーで、三個二百九十八円だったから…こっちは三百九十八円だったやつですか《と、隣人はラフランスを突いた。そうそう、四個で、と頷いた銀時が、えーと、と何も置かれていない表札を見ると、隣人は得心が行ったような顔で、「土方です。坂田…さんですよね、一度挨拶に来てくださった《と、危ぶみながら言う。「すみません、あの時聞いたはずなのに《と、銀時がガリガリ頭を掻けば、「いえ、若いのにきちんとしてらっしゃるなと思いましたよ。タオルありがとうございました、使ってます《と、土方はゆるく首を振った。「言うほど若くもないですし、というか土方さんもあんまり変わらない気がするんですけど《と言ってから、「ちなみに俺は二十六です《と銀時が続ければ、「二十七です、ほんとにあまり変わりませんね《と、土方が答えてくれるので、銀時は妙に嬉しくなって、「土方さん、柿好きなんですか《と、てのひらの皿を軽く持ち上げる。
いや、と首を振った土方は、「喫煙者なので、ビタミンCを取れと言われていて《と苦笑してから、「坂田さんは《と、丼を傾けて見せた。「俺は単純に、甘いの好きなんです。柿も美味しくいただきます《と銀時が砕けた言葉で笑って見せれば、「実はまだ一つも食べていないので、甘いかどうかはわかりませんが《と、土方は手を伸ばして柿のヘタをちょんと突く。「これ、ヘタもしっかりしてますし、上まで全部オレンジ色だから、たぶん美味しいです。多分ですけど《と、銀時が力強く頷くと、「物知りなんだな《と、一瞬砕けた声で土方は言って、「ひとまず、今夜はこっちをいただきます。洋ナシ…でいいですか《と、丼のラフランスに目を落とした。
はい、と頷いた銀時は、なんとなく別れがたい気持ちを押さえて、「それじゃ、今夜はこれで。言い忘れてましたけど、けんちん汁すげー美味かったです。ご馳走様でした《と頭を下げる。「ええ、おやすみなさい。ポテトサラダも、シンプルで良かったです。今度から俺もああいう風に作ってみます《と、土方が返してくれるので、社交辞令でも嬉しかった銀時は、「気に入ってくれて何よりです、おやすみなさい《と土方に挨拶を返した。ちょっとだけ手を上げてくれた土方が、扉に手を掛けてこちらを見ているので、銀時がにっこり笑ってひらひら手を振れば、「では、また《と土方は薄く笑って、するりと部屋へ帰って行く。笑いの余韻が残る顔で扉を閉めた銀時は、さっそく柿の皮を剥いて四つに割り、今返されたばかりの器に盛って、テーブルの前に陣取った。カリ、と齧った歯ごたえの良い柿は、酷く甘かった。どしゃ降りの雨は、夜更け前にようやく止んだ。


( フルネームも知らない / 現代パラレル / 坂田銀時と土方十四郎 /131210)