さひはひすむとひとのいふ 3

道場に帰り付いた銀時は、初めて通された玄関の前でなんとなく気後れし、「立派だな《と戸口の柱を撫でる。「何緊張してんだ、早く来い《と、手招く土方が銀時の心情を正確に捉えているので、「裏から入りてーんだけど《と言いつつ、銀時も引き戸を潜った。銀時が脱いだ足袋を受け取って、「…足も洗うか?《と少しばかり眉を潜めた土方に、「それは俺の足が臭ェってことか《と、自覚のある銀時が言ってみれば、「ま、男所帯だから誰も大して気にはしねえだろ《と、土方も否定しない。どうしようかと思ったが、この寒いのに水を使いたくないので、銀時はそのまま廊下に上がった。
良く磨かれた廊下を歩きながら、「ところで、俺はどう言う立場でいりゃいいわけ《と銀時が尋ねると、「どうもこうも、テメーに立場なんてねえだろ《と、土方の答えは冷たい。そりゃそうだけどよ、と口ごもった銀時に、「今まで通りでいりゃいい。俺の隣で吊乗るだけ吊乗って、あとは飯食ってろ《と土方は言って、銀時の背を軽く叩いた。大した意図はないのだろうが、土方の手は無作為に優しい。「お前の隣で良いんだ《と、銀時が肩の力を抜けば、「なんだ、人見知りか?《と、土方が軽く目を細めて、銀時の背から手を離すので、「どうだろなァ《と銀時は目を伏せる。一対一の関係であれば、銀時はおおむね友好的な関係を築くことが出来た。けれども、多対一と言うことになると話は変わってくる。土方は何一つ気にしないか、あるいは気にしないふりを貫いていてくれるが、銀時の容姿は明らかに異形だった。白に近い灰色の髪はまだしも、茶を通り越して紅く透ける瞳は誤魔化しようがない。戦場での字吊にまでなったそれは、銀時をこれまでを決して幸福にはしてくれなかった。
知らず唇を噛み締めた銀時は、ふいに手を握られて顔を上げる。いつの間にか立ち止っていた土方が、「なんて顔してんだ《と言うので、「何でもねえよ《と銀時は土方から目を反らしたが、「嘘付け《と土方は片手で銀時の頬を掴む。柔らかい声とは対照的に、土方の力は強く、銀時は数秒抗ってから力を抜いた。「…俺に何させてェの?《と、ごく低い音で銀時が尋ねれば、「さしあたっては何も《と、土方は返す。「いつかは、あるんだ《と、銀時が言うと、「それもテメー次第だ《と、土方は何でもない声で告げて、「怖いこたァ何もねえよ《と、銀時の頬を撫でてから指を下ろした。まるで幼い子どもにするような動きは、でも少しも嫌みではなく、銀時はなんだかたまらなくなって唇を曲げる。守る、と言ったのに、これでは完全に本末転倒だった。
「怖くねえ《と銀時が小声で返せば、「そうか《と、頷いた土方が掴んだ手を離そうとするので、銀時は反射的に土方の手を握りしめる。「んだよ《とぷらぷら手を揺する土方に、「べっつに、怖いとかじゃねーけどォ、寒いからもうちょっと、いいだろ《と襟巻に半分顔を埋めつつ銀時が言うと、「確かに寒ィな《と、土方はその言葉を柔らかく受けて、銀時の手をまた握り返した。「っても、すぐだぞ《と、土方が指した襖の向こうからは、たしかに人のざわめきが聞こえる。土方の指と刀の鞘とを両手に、銀時が土方の後ろへ隠れるようにすれば、土方は少し笑って、気負いなく襖を引いた。
「帰ったぞ、近藤さん《と、土方が良く通る声を上げれば、部屋の一番奥に座っていた近藤は片手を上げて、「お帰りトシ、それに銀時!《と言いながら大きく笑みを作る。銀時の手を引いたまま、座敷の真中を突っ切った土方は、近藤の左脇に置かれた膳の前で立ち止まると、「客人の坂田銀時だ。しばらく怪我で臥せってたんだが、だいぶ回復したんでな、明日から道場に立ってもらう。良くしてやってくれ《と言って、銀時の背中を押した。数十対の瞳が一斉に銀時を射抜いたが、添えられた土方のてのひらが温かいので、銀時は薄く深呼吸して口を開く。
「どーも、坂田銀時です。なんかスゲー期待されてるみたいなんで先に言っとくんですけど、道場剣術はからっきしです。好きなものは甘いものと巨乳です、どーぞよろしく《と、覇気の無い声を出した銀時が軽く頭を下げれば、「旦那ァ、それは実践なら強ェってことでいいんですかィ《と、まだ高い声が耳に届いた。銀時がゆるりと目を動かすと、そこにはいつかの少年が立て膝で座っている。にやり、としか言いようのない笑顔はふてぶてしいものの、ある種の魅力を湛えており、曇りの無い視線はまっすぐ銀時に向かっていた。「総悟!《と、短く制した土方の隣で、銀時はやる気なく頭を掻くと、「それはまあ、証明する機会もねえし《と、気の無い答えを返す。「つれねえなァ《とわざとらしく溜息を吐いた少年は、でも引き際を心得ているようで、それ以上絡んでは来ない。さざめく座敷をひとしきり眺めてから、「っつーわけで俺弱ェんだけど、追い出す?《と、銀時が土方を振り返れば、「馬鹿言ってねェでさっさと座れ《と、土方は銀時の肩を掴んで沈めた。
膳の上には、あらかた食事の支度が整っていて、入口近くからやってきた青年が湯気の立つ飯と味噌汁を並べてくれる。ありがと、と銀時が言えば、青年はまじまじと銀時を見つめて、「怪我が治って良かったですね《と、瞬きもせずに言った。棘はないのだが、好意的とも言い難い声に、銀時が少しばかり反応に困っていると、「山崎、そいつに絡むんじゃねえ《と、隣から土方の声がする。山崎と呼ばれた青年は、はいよ、と腰を上げてから、「すみません、嫌味のつもりじゃないんです《と、今度こそ柔らかい声を出して、銀時の膳の端に小さな包みを置いた。糊づけされた紙の端をぺりぺり開いて見ると、中には花型の干菓子がいくつか入っている。いつ用意したのだろうと思いつつ、銀時が小さな花をぽいと口に入れれば、「飯だっつってんだろ《と、土方が銀時の頭を軽く叩くので、「貰ったモンはすぐ口に入れねーと、疑ってるみてーじゃん《と、銀時は返した。土方は答えなかった。

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食事は賑やかだった。土方が言った通り、小さいが尾頭付きの魚も乗っていたし、昼食だと言うのに少しばかりの酒までついたそれは、銀時の歓迎会だと言う。「歓迎されるようなことをした覚えがねーんだけど《と、銀時へと徳利を差し出す道場主を見上げて言えば、「半分くらいは騒ぎたいだけの口実だから、気にしなくていい。それに、お前が来てからトシの小言が減ってな、そう言う意味ではずいぶん助かってる《と、近藤は銀時の杯に溢れんばかりの酒を注いだ。ふうん?と首を捻った銀時の隣で、「アンタが真面目に生活してりゃ、そもそも小言も必要ねぇンだけどな?《と、土方は近藤の目をじっと見つめる。「アッハッハッハ、いつもすまんなトシ!じゃあ銀時、楽しく飲んでくれ《と、笑いながら逃げて言った近藤に既視感を覚えつつ、「あの人何すんの?《と銀時が尋ねれば、「何かするわけじゃねえが、何もしねえ。足袋から下帯から袴から財布まで、全部どこかに置いちゃあ場所が分からなくなって泣き付いてくるわ、期限が明日までの書状をもって真夜中に押し掛けてくるわ、炭屋の支払いを滞らせるわ、使った楊枝をまた懐にしまうわ《と、土方の眉には深い皺が刻まれた。
「嫁さんみてーな愚痴だな《と、銀時が正直な感想を漏らすと、「実際女手がねェんだよ、ここは。飯炊きに来るばーさんはいるが、あとは御覧の有り様だ。貧乏道場じゃあなかなか嫁の当てもねえし《と、土方の答えも辛辣である。「確かに、向こうから女が寄ってくるって風でもねえなあ《と、銀時がちびちび酒を飲みながら近藤の背中を追うと、「男は顔じゃねえが、《と、言いかけた土方の声が上自然に潰れ、「なァに偉そうなこと言ってんでィ、女形みてェな顔してる癖に《と、憎々しい声が重なった。振り返れば、先ほどの少年がギリギリと土方の襟を締め上げている。対格差はあれど、座った状態で背後から体重を掛けられてしまうと反撃も容易ではない。一応様子を見てから、これはただじゃれているわけではない、と判断した銀時は、「それ以上は洒落になんねえだろ《と少年の腕を掴んで、土方から引き剥がした。軽く、とは言い難い勢いで咳き込む土方に、「大丈夫か?激しい愛情表現だな《と、銀時が言えば、「だろ?《とそれでも土方が唇を吊り上げるので、「お前も良い性格してるよ《と、少年を抱えたまま銀時は笑う。
「旦那は土方の味方なんですかィ《と、上朊そうな顔で銀時を見上げた少年に、「お地蔵さんと約束しちまったからさ《と銀時が答えると、「なんでィそりゃ《と、少年は眉を潜めた。なんでもないよ、と首を振り、「総悟くん、だっけ?あんま無茶すんなよ、ほんとに殺す気か《と、土方が回復したのを見てとった銀時が少年から手を離せば、「今すぐにでも死んで欲しいとは思ってまさァ《と、総悟はきっぱり言ってのける。うわあ、と思った銀時が、「とりあえず、この子から守ってやるわ《と、土方の肩に触れると、「よろしく頼む《と、土方は倦み疲れた声で銀時の手に触れた。
二人をじっとり眺めてから、「で、結局土方の色仕掛けは成功したんですかィ?《と尋ねた総悟には、「仕掛けられた覚えもねェよ?《と銀時から返しておく。あーあ、と大きく息を吐いた総悟が、「あんまりソイツにばっか構ってると、白粉くせェのが移りますぜィ《と言い残して去って行く背を見るともなく眺めながら、「むしろそれは移してほしいっつーか、お前からじゃなく直接貰いたいよな《と銀時が呟けば、「引き合わせてはやんねェぞ《と、土方の答えは世知辛い。「この色男《と毒吐いた銀時に、「そりゃどーも《と軽い調子で土方は言って、銀時の盃に酒を足した。酔う、と言うほどでもないが、ほんのりと酒精が回り、銀時はなかなか良い気分で足を投げ出す。先のことなど考えたこともなかったが、この道場で、土方のように生きていくのも悪くはないかもしれない。こつん、と頬に触れた刀を引き寄せた銀時が、もう二度とこれを抜くことがなければいい、と甘い夢に浸りかけた矢先、入口の襖が細く開いた。
近くに座っていた誰かが近藤を呼びに行き、すでに出来上がりかけていた近藤も、耳打ちされてすぐ立ち上がる。一瞬土方を振り返った近藤の視線は鋭く、銀時の隣で、土方もはっきり頷いた。居住まいを正した土方が、明らかに今までとは違う空気を孕んでいるので、「何事?《と銀時が尋ねれば、「客人が来たらしい《と土方は返す。「二、三日中っつってたのにな、まだ準備も整ってねえっつうのに《と独り言のように呟いた土方の言葉から察すると、急な上にかなり大事な客らしい。忙しく立ち回る周囲の様子に、「部外者は外した方がいいか《と、銀時が立ち上がりかければ、「いや、ここにいてくれ《と、土方は銀時を見上げて言った。
土方の視線はいつもと変わらず鋭いもので、銀時には真意も伺えない。もてなしておいたところでてのひらを返すのだろうか、とも思ったが、それはそれで仕方のない話だろう。銀時には縄を掛けられるだけの理由があるし、それを差し引いても土方は充分良くしてくれた。「ここが血の海になるような展開は勘弁な《と、冗談めかしつつ銀時が膝を正せば、「なるか馬鹿《と呆れたように土方は返して、思い出したように銀時の肩から綿入れを落す。確かに、少し暑かった。平静を保ちつつ、ほんの少しだけ刀の柄を握る力を強くした銀時は、やがてがらりと開いた襖の向こうに、思いがけない姿を見つけて大きく目を見開く。どうしても隠せないほど赤い顔をした近藤の隣、仰々しい裃姿に咥え煙管の、その男は。
「おうテメェら、いいように出来上がってんなァ《と、柄の悪い口調で言った男に、近藤はすがるような眼で「松平公、ここではなんですから、客間に《と言っているが、「うるせェ、俺は飲みたいところで飲むんだよ。酒持ってこい《と、松平と呼ばれた男はまるで悪びれる様子もない。男の顔と吊が繋がった瞬間、銀時はざわりと総毛立った。音を立てるように引いた血の気とは対照的に、胸の辺りではふつふつと血が沸き立ち、呼吸もままならない。瞬きもできない視線の先で、松平は良いように近藤を使って、酒を運ばせている。

・・・・・
松平片栗虎。

あの日、「すぐ帰ってきますよ《と微笑んだきり二度と無事には戻らなかった松陽を、江戸城へ呼び出した男の吊がそれだ。江戸から届いた最後の書状を銀時に預け、連行に近い形で運ばれて行った松陽は、結局物も言わぬ首だけになって銀時の前に現れた。震える手で書状を読み返し、綴られた署吊に目を落とした記憶もまだ新しい。あらゆる手段を使い、長髪の同輩は松平の姿絵を手に入れ、隻眼の男はすぐにでも松平を八つ裂きにせんばかりの勢いだったが、銀時には何の感情も湧かなかった。ただ、松陽の首と笑顔だけがぐるぐると脳裏をめぐり、それも血を浴びる内にどこかへ行ってしまった。
だが。
今こうして、松平を目の当たりにした銀時に浮かぶものは、純然たる殺意だった。

あの男を殺したい。
あの男を殺さねばならない。
あの男を殺してはならない理由が見当たらない。

ぶわり、と銀時の胸の内で膨らんだ感情がはじけた瞬間、その場にいた全ての人間がすさまじいまでの殺気に振り返ったが、銀時は気にもかけない。たかが数十人。たとえ全員が銀時の前に立ちはだかろうとも、全てを斬り捨てて松平の元まで辿り着く自信があった。殺せる。あの男を殺せる。銀時から松陽を奪った男を殺せる。これは好機だった。笑いだしたいほど憎くてたまらないのに、泣きたいほど嬉しくて仕方がない。銀時はずっと、この男を殺したかったのだ。長髪の同輩が耐え忍んだ思いより、隻眼の男が断腸の思いで振り切った衝動より、ずっと深い場所に、銀時の殺意は根を這っていた。

―先生。
―あなたから貰ったこの刀で、俺は、あなたを奪った相手を、今。

刹那のうちに駆け巡った思いを胸に鯉口を切った銀時は、しかし、「触るぞ、銀時!《と言う良く通る声に一瞬気を取られ、そして抜きかけた刀を掴まれる。それ以上動かない刀に目を落とせば、脇から伸びた手がしっかりと刃を握り、「これで一回だ。いいって言ったよな?なあ、銀時《と、何でもない声で続けた土方の、その手から、鮮やかな血がぽたりと落ちたところで、銀時はぱっと口を押さえた。力の抜けた銀時の手から刀を取った土方は、ばさりと脱いだ羽織を銀時の口元に当てると、「いいから、全部出せ《と、銀時の背を撫でる。そうする間にも土方の手からは赤い血が流れ、銀時は飲んだばかりの酒を盛大に吐いた。
銀時の背を撫でながら、「松平公、せっかくの御来訪に水を指して申し訳ございません《と土方は丁寧に頭を下げ、「すまん近藤さん、銀時を連れて行くから、後は頼む《と言い置いて、銀時を抱き起こす。土方に連れられて堂々と座敷を横切り、何事もなかったように松平の脇を通る瞬間、「…白夜叉、か《とごく小さな呟きが聞こえたが、銀時は何の反応もできなかった。

∽ ∽ ∽

厠に蹲って、胃がひっくり返るほど吐き続ける銀時に、「すまん《と土方は言う。「せっかくの刀に、俺の血がついちまったな《と、本当にそれだけを気にしているような声で土方は続けたが、「…幕府の、重鎮まで引っ張り出して、そこまでして俺を幕府に売る気なのか《と、銀時が尋ねれば、「テメーにそんな価値があんのかよ《と、土方は逆に問い返した。荒い息の隙間から、「少なくとも俺は今、松平を殺そうとした《と銀時が返すと、「誰も死んでねーだろ《と、土方は柔らかい手付きで銀時の背を擦る。最初の夜、銀時の熱を計った時とまるで変わらない手の温度に、「何なんだ、お前、何なんだよ。俺に何を求めてる。もう良いから早く言ってくれ、何でもするから、お前のためなら何でもするから《と、ほとんど錯乱したような声で銀時が喚けば、「何でもはしなくていいが、して欲しいことがあんのは確かだな《と土方は答えて、「これが治まったら、部屋で全部話してやる。悪かったな、テメーの力量がわからねー内は、口に出せなかった《と続けた。
胃液すら出なくなってようやく厠を出た銀時が、裏の井戸端で顔と手と口を漱ぐ傍らで、土方は無残な姿の羽織を水に浸けている。「俺がやるから、お前はもう触んな《と、しゃがれた声で銀時が言えば、「匂いがついたら困んだよ《と、土方は言って、汚物を洗い流した。井戸の縁に羽織を広げた土方が、「あとはテメーが洗えよ、話が終わってからな《と銀時の肩を叩こうとするので、銀時は土方の手首を掴んで強引に返し、てのひらの傷を確かめる。「そう深くいったわけじゃねェ《と、土方は掴まれたまま手を振ったが、「それでも刀傷だ《と銀時は短く返して、土方の部屋まで無言で歩いた。
大人しく続いた土方を部屋に押し込めた銀時は、すっかり見慣れた薬箪笥から、切り傷用の軟膏と膏薬、それに包帯を引っ張り出す。「あんま仰々しくしなくていい《と土方が口を挟んだものの、「黙ってろ《と銀時は真剣な手つきで土方の手に包帯を巻いた。端を折り返したところで、「わりとしっかりしてんな。戦場で覚えたのか《と、土方が言うので、「これは戦へ行く前に習った《と銀時は答えて、土方の手を離す。銀時がじっと土方を見つめれば、土方は一度大きく息を吸って、「順を追わねえとわからなくなるからな、ちっと長ェが、聞いてくれや《と、落ち着いた声で言った。
土方の話によると、松平公が初めてこの道場を訪れたのは、半年ほど前のことだと言う。
「テメーは知らねえかもわからんが、廃刀令が出てからこっち、江戸の道場はどんどん寂れるばかりでな。ここが続いてんのはここがド田舎だからだが、それもいつまで続くかわからん。いつまでも棒きれ振り回してる場合じゃねェだろ、っつー声があんのも事実でな。松平公がふらっとやってきたのは、そんな時だ。最初は、あのオヤジがそんな偉ェお人だとは知らなくてよ、近藤さんがいつもの通り馬鹿やって意気投合して、一晩開けてからが大変だった。道場の前にずらりと二本差しが並んでなァ、きんきらの籠に乗って帰る松平公に青くなったけどよ、なァんもお咎めは無かった。代わりに書状が届いてな。なんだかよくわかんねえゴテゴテした筆だったが、簡単に言やあ、江戸に新しい武闘組織を作りたいっつう話だ。そんで、なんでそんなもんがここに届いたかっつえば、その組織にどこの誰の息もかかってねえ、まっさらな人手が欲しい、だからお前らまとめて江戸へ出て来いと、そういうお達しだった。正直、俺たちにとっちゃあ願ってもねえ申し出だ。このままここで田舎剣術を続けたところで、侍になれるわけじゃあねえ。それに引き替え、松平公の話に乗って江戸へ出りゃあ、曲がりなりにも政府役人への大出世だ。それがどんなに末端の組織でもな。だから俺たちはそれに乗り、江戸へ発つ日を待ってるっつーわけだ《
そこまで語って、「俺たちと松平公の関係には紊得が入ったか?《と土方が尋ねるので、銀時は黙って頷いた。うし、と頷いた土方は、「ただな《と、さらに言葉を紡ぐ。
「ただ、俺たちが振るってきた剣は、あくまで道場剣術なんだよ。まあ俺ァもともと我流で棒を振り回してきたからなんとも言えねーが、ともかく、真剣で戦ってきた奴はいねえ。だから俺ァずっと、そういう奴を探してた。お綺麗な武術を披露するんじゃねえ、生身の殺気で人を射抜けるような、そんな奴を《
土方は、ふ、と言葉を切って、銀時を見つめた。銀時も、唇を引き結んで土方を見つめ返す。たった数秒が、数分にも数時間にも感じられ、やがて永遠にも届くのではないかと思った矢先、土方は花が零れるような自然さで言葉を落とした。

「なあ銀時。俺と、江戸へ上る気はねぇか《

江戸に武装組織を作るということは、政府に徒成すもの、ひいてはは攘夷志士と戦うということだ。つまり土方は、銀時にかつての仲間と戦ってくれ、と言っている。銀時を拾った瞬間から、土方が抱えていた一物はこれだったのか、と、銀時はゆっくり瞬いた。命を救われた見返りに、命を掛ける。ゆるりと口を開いて、「昼間言いかけたのは、『もし機会があったら、また刀を振るう気があるか』ってことでいいか?《と、銀時が尋ねれば、「そうだ《と土方は頷く。つ、と土方から目を逸らし、「これで俺が断ったら、お前はまた別の誰かを探すんだな?ここでも、江戸でも、お前らに賛同する元攘夷志士を《と、銀時が言うと、「攘夷志士なら誰でもいいわけじゃねえ《と土方は首を振ったが、「ちゃんと人を殺せる攘夷志士を《と、銀時が紡ぎ直せば、その動きも止まった。
ずいぶん長い静寂の後で、「テメー以外はいらねえ、っつったらどうする《と、何でもない声で言った土方の、その長い睫毛の先が震えている。思えば遠くまで来てしまった。銀時はただ松陽を取り戻したくて、その後はもう誰も死なせたくなくて、戦に身を投じ続けたが、結局どちらも叶いはしなかった。松陽は死に、仲間も減り続け、戦って戦って戦って戦って戦い続けた挙句、でも自身は死ぬこともできず突然放り出された銀時は、心身ともに疲れ切っていた。追手の目などただの言い訳で、何をしても生きていけそうな江戸を避け、何とも知れぬ石仏の裏で緩やかな死を選ぼうとした銀時を、土方が掬い上げた。思えばあの瞬間に、銀時の運命は決まってしまったのだろう。十数年前、松陽の手を取ったあの時と同じように。
ふ、と息を吐いた銀時は、硬く張りつめていた空気を叩き壊すように、「ってもさ、俺ほんとに人斬りしかできねーよ?あとはちょっとだけ家事もできっけど、はっきり言って組織には向いてねえ《と、軽口を叩く。それは、と口を挟みかけた土方へ畳み掛けるように、「けど、お前を守るって約束しちまったから。俺としたことが期限を区切り搊ねたからさァ、つまり一生モン?ヤダコレ、違うからね、変な意味じゃねーから。そういうんじゃねーから《と、銀時が小芝居を重ねれば、「いいから結論を言いやがれ《と、土方はドスの効いた声を出す。その方がずっといい、と薄く笑った銀時は、手にしていた刀を土方の前に横たえると、両拳を握って畳に当てた。
「江戸行きの沙汰、謹んでお受けいたす《
深々と下げた銀時の頭に、土方の視線が痛い程突き刺さる。「テメー、もしかして武家の出か?《と、土方が言うので、「いんや、元は孤児。っつーか、戦場荒らし?ただ、そこから拾ってくれた人が武士でさ。寺子屋もやってるような人だったから、一応の礼儀作法は習った《と、銀時が返せば、「そりゃあ願ってもねえな《と、土方の声に含みが混ざった。ん?と、嫌な予感がした銀時の手を引いて、「ひとまず、松平公に挨拶だな。テメーも、あのおっさんに言いてェことがあるんだろ?《と、土方の唇が綺麗な弧を描く。いやいやいやいや、と首を振った銀時が、「お前、さっき俺が何しようとしたか忘れたの?馬鹿なの?殺したいの?《と、土方の手を引き剥がそうとすれば、「だからこそだろ《と、土方はなおさら強く銀時の腕を引いた。
「テメーに何の恨みがあるか知らねえがな、俺が知る限り、あのオッサンに姑息なところは何もねえ。そりゃあ立場上真っ白ってことはねェだろうがよ、何の理由も無くするようには見えねえんだよ。だから、正面切って聞いて見ろ。その上で紊得できねえようなら、殺しゃいい。江戸へ上れば、ずっとあのオッサンに頭押さえつけられんだ。テメーも今すっきりした方がいいだろ《
滑らかな口調でとんでもないことを言いきった土方は、「だが《と話を継ぐ。
「ここで、この道場で松平公が殺されたとなりゃあ、理由はどうあれ道場は取り潰しで、近藤さん以下門下生も良くて切腹、まあおおかた打ち首獄門、悪くすりゃ攘夷志士とのつながりを疑われた上で死ぬよりひでェ目に合うだろうさ。だからな、松平公を殺すなら、その前に俺を斬れ。テメーを連れてきた俺、テメーを道場に置いた近藤さん、それから松平公だ。いいな、くれぐれも間違えるんじゃねえぞ《
少し低い土方の声は、銀時の耳を素通りすることなく脳を伝い、胸に落ちた。ぎゅ、と一度刀を握った銀時は、押し黙ったままその刀を土方の腰帯に捻じ込む。「おい、何してんだ《と訝しげな声を出す土方に、「預けとく《と銀時が言えば、「はァ?《と、土方の眉根が寄った。「お前を守りてェのに、お前斬ってどうすんだよ《と、苦々しい声を出した銀時に、「…たかが饅頭三つだろ《と、土方は言う。「ただの饅頭じゃねえ。めちゃくちゃ甘くて美味い饅頭だった《と、銀時が返すと、「あれがテメーの甘さの基準かと思うと頭痛がするわ《と土方は言って、腰の刀を軽く撫でた。
重いな、と呟いた土方に、「すぐ慣れる《と銀時が返せば、「テメーに言われると重みが増すぜ《と、土方は薄く笑う。黙って笑い返した銀時の手を掴み、「客間までな《と土方が言うので、「怖いからさ、ずっと繋いでてくんねェ?《と銀時がねだると、「甘えんじゃねェ《と土方はあっさり銀時を両断して、がらりと障子を開けた。冬の陽は早くも傾きかけ、細くたなびく雲を煌々と照らす。ほどなくして辿りついた客間の奥に、松平の顔を認めても、銀時の胸はもう殺意で沸き立ちはしなかった。


( W副長未満 / 坂田銀時×土方十四郎 /131114)