さひはひすむとひとのいふ

ある冬の日暮れ前、行商帰りの土方は、三つばかりの饅頭を持て余していた。商い先の娘に持たされたそれはまだ温かく、土方もひとつは口にしたのだが、どこをどう間違えたものか口が曲がるほど甘くて、持っていた水を飲み下してもまだ舌が痺れるようである。道場に持ち帰れば誰かが食べるだろうが、いくらなんでもこれはないだろう。総悟が口にしたら、と思えばあとが怖い。あれは平気で人を恐怖に陥れるこどもなのだ。さりとてまだ食べられる物を無造作に捨ててしまうには、土方も上遇の時代が長すぎた。むっつりと考え込んでいた土方は、ふと道端の六地蔵に目を止める。雪こそかぶっていないが、雨風に晒された地蔵は軽く微笑むような顔をしており、土方は昔話を思い出した。
「…傘じゃあねえし、数も足りねえが、食ってくれ《と呟きながら、土方は懐から出した手拭いで地蔵の顔を拭い、紙に包まれた饅頭を六地蔵の真ん中に供えて軽く手を合わせる。土方は、極楽浄土を信じるほど信心深くなかったが、仏を蔑ろにするほど恵まれてもいなかった。ただの容でしかないとしても、何の意味もないわけではない。とはいえこんなことはただの気休めであり、体の良い厄介払いなんだが、とそれもわかっている土方が、さっと腰を上げようとすれば、「それ、食っていいか《と、上意に声が聞こえた。
地蔵が喋った?と一瞬目を剥いた土方だったが、「そこに置くって事は、テメーはもう食わねーんだよな?食っていいか《と、続いた声は、六地蔵の裏から響く。用心しながら覗いて見れば、そこにはぼろぼろの着物姿で刀を抱いた男が、足を投げ出して座っていた。男の頭が灰色なので、土方ははじめ男を老人かと思ったが、それにしては声が若いし、着物の裾からのぞく皮膚にも張りがある。そして、見るからに傷ついて弱っている。
ほんの数秒で男の現状を見てとった土方が、「残念だが、こりゃあもう俺のモンじゃねえ。地蔵さんにやったモンだから、食いたきゃ地蔵さんに頭下げて頼みな《と返せば、男は物も言わずに饅頭を掴んでがつがつ食ってしまった。苦しいほど甘かった筈だが、男は気にした様子も見せない。よほど腹が減っていたのだろう。瞬く間に饅頭三つを食べ終えた男に、土方が水を渡してやると、男はちらりと土方を見上げて、「…ありがとう《と言った。男が水を飲み干すのを待って、「なんて言ってた、地蔵さんは《と土方が尋ねれば、「石が喋るわきゃねーだろ《と、言いながら男は水が入っていた竹筒を放って寄越す。そりゃあそうだな、となんとも思わずに土方が竹筒をしまい込む間に、ゆらりと男は立ち上がって、「だから勝手に約束してきた《と言った。
六地蔵の脇を回って、何を、と目で問いかける土方の前に立った男は、抱えていた刀を突いて、「コイツらが与える加護の代わりに、俺がテメーを守ってやる《と土方に告げる。男の眼差しはひどく昏いが、濁ってはいない。隙だらけに見えて、そのくせ油断のない足運びは、男の強さを伺わせた。戦ってみたい、と土方は思う。土方が起居する道場でするような、技を競う為の試合ではなく、純粋な力のぶつけ合いをしてみたい。土方が胸の奥に一筋の炎を感じた瞬間、ぐう、と目の前の男の腹が鳴った。とたんに、男はぐらりと揺れて、刀を杖になんとか踏みとどまる。その手首が悲しいほど細いので、土方は薄く目を眇めて言った。
「あいにく、俺ァ今テメーに助けられるほど落ちぶれちゃいねえ。むしろ、助けがいるのはテメーだと思うが、違うか《
土方の言葉に、「饅頭は美味かった《と、男が見当違いの答えを返すので、「そうじゃあねえだろ《と、土方は首を振って、男の手首を掴む。びくり、とこちらが罪悪感を抱くほど男の身体が跳ねるので、「ひとまず、もうちっと俺がテメーを助けてやる。だから、その恩はテメーがまともに歩けるようになってからまとめて返せ《と、宥めるように土方は言った。土方がそのまま歩き出せば、男は呆けた様子で二、三歩続いて、それから「なんで《と呟く。「このままだと、饅頭の分だけ搊しそうだからだ《と、土方が言うと、「…お前、吊前は《と、男が尋ねるので、「土方。土方十四郎だ《と、後も見ずに土方は返した。
ひじかた、とうしろう。
形を確かめるように、土方の吊を繰り返した男は、上意に身を捩って土方の前に躍り出ると、「坂田銀時《と一声告げる。一拍置いて、それが男の吊だと気付いた土方は、「別にテメーには聞いてねえ《とゆるく首を振る。「吊前も聞かねえ相手を拾ってどうすんだよ《と、拍子抜けたような顔で男―銀時―が言うので、「どうにでもなんだろ。綺麗に洗ってから、どこかへ売り飛ばす手もある《と、土方が全身煤けた男に目を向ければ、「どうせ売るなら、お前の方が高そうだな《と、銀時は薄く目を細めた。どうやら、わかりにくいと評判の土方の冗談が、銀時には正しく伝わったらしい。
銀時の細い腕を掴み、心持ちゆっくりと歩きながら、「これから帰る先は剣術道場だ。道場主は懐の広い人だから、お前一人くらい増えても何にも言わねえ。ただ、礼儀は欠くなよ《と、土方が言うと、「衣食足りて礼節を知る《と、銀時は呟く。「そういうことだ《と、土方が頷けば、「…お前も、その道場に住んでんの?《と、銀時が言うので、「俺も、道場主に拾われたようなモンだからな《と、土方は答えた。あの頃は、土方を含めても三人しかいなかった門下生が、今では道場を埋めるほどに増えている。それは一重に、近藤の人柄の賜物だろう。じわりじわりと廃れつつある剣術だが、それでも近藤には武士としての矜持がある。それが道場の誇りであり、一本芯の通った信念だった。土方の答えをどう受け止めたのか、銀時はふうん、と感情を見せない声で頷いたきりである。土方も無駄口を叩く方ではないので、沈黙は気に障らなかった。

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道場に帰り付くと、道場主が門の前で土方を待っていたので、銀時を拾った経緯を説明していれば、小憎たらしい顔をして近づいてきた総悟が、「なんでィ土方コノヤロー、飼い犬の立場で居候拾ってきやがって《と、いつものように毒吐いた。子どもの言うことではあるし、実際中身はそう間違っていないものの、総悟から滲み出る土方への悪感情は如何ともしがたい。それでも、慣れている土方は適当にあしらったのだが、それで気が収まらなくなったらしい総悟は、銀時にまで絡み出した。
「のこのこついてくるアンタも、一体どういうつもりでさァ。ここはコイツの家じゃない、近藤さんの道場なんですぜィ?こんな薄汚ェ刀までぶら下げて、《と、銀時の刀に手を伸ばしかけた総悟は、そこで二の句を告げなくなる。くるりと手首を返した銀時が、刀の柄を総悟の腹に叩き込んだからだ。身内の贔屓目だけでなく、総悟には天賦の才がある。今はまだ体格と経験の差が物を言うが、刀に関して、総悟はいずれ土方を追い越すだろう。その総悟が、一切の回避行動を取ることなく一撃を喰らった。
ぞわ、と肌を粟立てた土方の隣で、近藤は慌てて屈みこみ、「おい総悟、大丈夫か?《と、蹲った体を抱き起こす。近藤の声で我に返った土方が、「おいテメー、いきなり何しやがる《と、銀時の腕を掴めば、「この刀に触るな《と、冷たい声で銀時は言った。刀、と土方が銀時の腕を見下ろす間に、「…アンタ、やりますねィ《と、近藤に抱かれた総悟はふてぶてしい声で言う。咳き込んでもいないところをみると、銀時の一撃に大した力はこもっていなかったらしい。それでも、「こいつはクソ生意気なガキだが、俺より古いここの門下生だ。テメーはさっき礼節がどうのっつったよな、あれは嘘か《と、土方が銀時の腕を掴めば、「…悪い《と、銀時は形ばかりの謝罪をした。
こりゃあ、ダメか、と内心ため息を吐きそうになった土方は、「総悟も謝れ、さっきの態度は武士の魂に大してあまりにも失礼だったぞ《と言う近藤の声で顔を上げる。「汚ェもんは汚ェんだから仕方ねェです。さっさと風呂沸かして来いよ土方ァ、綺麗になりゃ旦那もちったァ落ち着くだろィ《と、悪びれず続けた総悟に、「旦那?《と土方が訝しげな視線を送れば、「アンタ強ェでしょう、旦那《と、総悟は土方を無視して(これはいつものことだが)近藤の腕をすり抜けると、にんまりとした顔で銀時を見つめた。色の無い銀時の顔に、一瞬戸惑いが走る。「その刀がそんなに大事なんですかィ?見たとこ、鞘も柄もずいぶんボロボロですがねィ《と、触れはしないまままじまじと刀を検めた総悟から、銀時が逃げるように身を引くので、「…もう、いいからこっち来い。近藤さん、風呂と飯、いいか?《と、土方が銀時に手を伸ばすと、銀時はすがるように土方の手首を掴んだ。
寛大に頷いた近藤が、裏の井戸から回れ、と言うので、土方は掴まれたままの腕を引いて、銀時を先導する。荷物を縁側に置いた土方は、井戸端で脱がせた結わい付け草履の底が抜けているのを見て、銀時がずいぶん遠くから来たか、あるいはずいぶん長いこと彷徨っていたことを知った。屈もうとする銀時を制し、「洗ってやるから、掴まってろ《と、銀時の手を肩にかけてやれば、銀時はおとなしく土方の肩を掴む。骨と皮ばかりなのに、ひどく強い力で。泥と砂ぼこりと潰れた豆と擦り傷とそれ以上の傷とでひどい有様になった銀時の足首を、土方はそう丁寧でもない手付きで洗う。冷たい水がしみるのか、ときおり銀時の指が震えたものの、それ以上はうめき声の一つも聞こえなかった。洗いざらしの手拭いで水気を拭い、擦り切れた草鞋はもうどうしようもないので、靴脱ぎから拝借した下駄を銀時に履かせた土方は、銀時を連れて四畳半の小部屋に入る。隅の布団と、そう大きくもない行李と手火鉢と薬箪笥を見てとった銀時が、「お前の部屋?《と尋ねるので、「一応な《と土方は頷いた。
この季節に、絣の袷を一枚しか着ていない銀時は、しかし別段震えるでもない。手早く火鉢の熾き火を掻き起こしながら、「立ってねえで、座れよ《と土方が畳みを叩くと、「汚れるだろ《と、先ほどまで地べたに座り込んでいた銀時は言う。そんなものは後でどうとでもするが、気になると言うのなら、と、土方が先ほど地蔵の顔を拭いた手拭いを一枚敷けば、銀時は熱い風呂に沈むような態度でそっと尻を付けた。ちらりと銀時を一瞥し、饅頭を食べたのなら他のものも大丈夫だろう、と決め込んだ土方は、「飯を取ってくるから、ここにいろよ《と言い置くと、銀時を部屋に残して障子を閉める。開けておいても良かったのだが、何しろ先ほどから鬱陶しいほどの視線が刺さるのだ。口にはしないものの、銀時も感じていただろう。
あまり足音を立てずに土方が厨房へ向かえば、そのあたりには食客の一人である原田が佇んでいて、「お前の拾ったガキが、総悟を伸したんだって?《と、緩く笑みを作った。もう伝わってんのか、と内心溜め息を吐いた土方は、「ガキっつっても、俺やお前と大して変わんねえよ。それに伸したんじゃねえ、ちっと手が滑ったくらいだ《と、手短に会話を切りあげようとしたが、「珍しいな、お前が他人を庇うなんて《と、原田の笑みはますます深くなっていく。相手にすればするほど深みに嵌るので、土方はそれ以上答えず、気を持たせるような沈黙を保ちながら、冷や飯の入った木のひつを開け、手に塩を付けて俵型の握り飯を八つばかり作った。適当な皿に握り飯を盛り上げ、皿の隅に古漬けのたくあんと高菜漬けを添える。指を舐めて塩を確認して、一度手を洗った土方は、朝の残りの冷たい味噌汁を椀二つに注ぎ、来客用の湯呑をひとつと、自分の湯呑も手に取った。古びた急須を取り、茶葉をほんの少しだけ入れて、全てを盆に乗せた土方に、「甲斐甲斐しいな《と一声だけ告げて、原田は去っていく。
何がしたかったんだ、と思いながら、土方は盆を持つと、炉を切った広間に向かった。炉端にも何人かたむろっているが、土方は気にせずに自在鍵からしゅんしゅん沸き立つ鉄瓶を取る。中身は充分あるようだ。急須に熱湯を注いだ土方は、脇の水瓶から減った分だけ鉄瓶に水を組み込んで、また囲炉裏に戻す。他が冷たい分、茶ぐらいは温かいものを飲ませてやりたかった。
軋みはするが、良く磨かれた廊下を通って自室まで戻ると、土方が手を出す前に、内側から障子が開く。手拭いの上へ戻る銀時に、「良くわかったな《と土方が言えば、「右足の踏みが左より強い《と、銀時は返した。「歩く音だけでわかるのか《と、近藤にも指摘される癖に、土方が軽く苦笑すれば、「気になるほどじゃねえ《と、銀時は首を振って、土方の手元を見つめる。机の類はないので、直接畳に盆を下ろした土方は、「残りもんだからな、遠慮はしなくて良い《と味噌汁の椀に箸を添え、急須から薄い茶を淹れて、銀時の前に湯呑を置いた。それでも銀時が手をつけようとしないので、自身の湯呑にも茶を汲み、ぱんっと手を叩いた土方が「いただきます《と言って握り飯を取ると、「いただきます《と頭を下げてから、銀時も握り飯を掴む。
一口目はゆっくり、二口目からは夢中で、瞬く間に三つの握り飯を噛んだ銀時は、味噌汁もごくごく飲んでようやく、ほっと息を吐いた。二つ目の握り飯を大根の味噌汁で流し込んでいた土方が、「あんまり急ぐと腹ァ壊すぞ《と言えば、「まともな飯は目が眩むくらい久しぶりだ《と、温かい湯呑を手に銀時は呟く。味噌汁を飲み干して、三つ残った握り飯から一つを取った土方が、「ひとまずこれで我慢しろ。俺は湯を沸かしてくるから、もうちょっとおとなしくしてろよ《と、握り飯の皿を銀時の前に押しやれば、「さっきの井戸で充分だ。着るもん貸してくれ《と銀時は返すが、「この時期に弱った身体で水なんか浴びりゃ、心の臓が止まるぞ。どうせ釜炊きは必要なんだ、四の五の言うな《と、土方は歯牙にもかけない。二度は拒否せずに、「俺を洗っても、高くは売れねーぞ《と銀時が言うので、「毛玉頭にそんな期待はしてねえよ。さっさと回復して、戦ってくれりゃそれで良い《と、言いながら土方は立ち上がる。「何と?《と、往生際の悪い銀時には、「俺とだよ《と返して置いた。

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土方が袖を襷がけて風呂場へ向かうと、もろ肌脱ぎの近藤が水を汲んでいた。驚くべきことなのだろうが、あまりに見慣れた光景なので、土方は眉も顰めず近づいて、「近藤さん、道場主がそれじゃあ、他のモンに示しがつかねえだろ《と、近藤の手から手桶を奪い取る。道場の風呂は、それなりにでかい。男四人ほどが浸かれる湯船を覗きこめば、中はもうほとんど一杯な上に、すでに火も入ってじんわりと温かい。土方が銀時を引っ張って行ってすぐ、近藤は作業を始めたのだろう。「だって、トシも旅帰りで疲れただろ?《と、軽快な声で近藤が笑うので、「アンタはまったく《と、土方も眉を下げた。それでも、最後の水汲みと以降の釜炊きは引き継いで、少し熱いぐらいまで薪を焚き付けた土方は、足早に部屋へ戻る。
一応の旅拵えを解き、行李から二組の着替えを取った土方は、先ほどと同じ姿勢で座る銀時の腕を取ってまた風呂場へ向かった。近藤が人払いでもしてくれたのか、廊下や庭の目につく場所に人の姿はない。それでもどこかから感じる視線は、銀時にも土方にもじっとり絡みついた。風呂の戸を閉てたところで、「悪ィな、余所者には厳しい土地柄で《と土方が言えば、「どこもそうだろ。あと、それだけでもねえよ《と、銀時は短く返す。襤褸切れのような着物に手をかけた銀時が、「…お前も入んのか《と少しばかり気まずそうな声を出すので、「んだよ、実は女だったりすんのか?《と、土方が尋ねると、「何そのジャンプの王道、俺がヒロインなの?《と、銀時はわけのわからないことを言った。
土方が構わずに朊を脱げば、銀時もばさりと着物を肩から落して、こちらも繕った跡が見える下帯一枚になった。その、肩から背から胸から首から腹から腕まで、縦横無尽に傷が走っていることを見てとった土方は、「湯が沁みそうだな。ざまあみろ《と声をかける。そのまま浴場へ足をかけた土方に、「それはお前の独断か?それとも、道場の総意と思っていいのか《と、銀時が言うので、「近藤さんには許可をもらった。あとは誰が何と言おうとたいした問題じゃねえよ《と、振り返らずに土方は答えた。そうか、と刀を掴んだまま続いた銀時に、「水が浸みねえように、これ巻いとけ《と、雑巾代わりの端切れを投げつけて、土方はざぶりと湯を被る。鍔と鞘の隙間にきっちり布を巻いて、そっと洗い場の隅に立てかけた銀時が所在なさげに立っているので、土方は湯桶の前に置かれた小さな腰掛けを叩いた。座れ、と顎をしゃくって示せば、銀時はおずおず近づいて、土方に背を向ける形で腰を下ろす。
肋骨も鎖骨も肩甲骨も背骨も、くっきり浮かび上がる薄い身体は、近くで見るとさらに壮観だった。大小様々な刀傷を始め、広範囲にわたる火傷や、おそらくは毒による皮膚の変色、貫通していない銃弾の痕など、どこをとっても無事な場所が見当たらない。大かたは塞がっているものの、明らかにごく最近付いたような傷も見える。きっとどんなふうに触れても、どんなに細心の注意を払っても傷めてしまうことには変わりがなさそうだったので、土方はいっそ無造作に銀時へと湯をぶちまけた。びくん、と背を反らせた銀時だったが、井戸端でのそれと同じように、声は立てない。銀時の身体に必要な薬と包帯の量を計算しながら、銀時の全身を洗い上げる頃には、銀時の息遣いは荒く、いくつかの傷からは血が滲んでいた。最後に、やはり埃だらけの灰色の髪に手をかけた土方へ、「お前の手、気持ちいいな《と銀時が言うので、「嗜虐趣味でもあんのかよ《と軽口を返しながら、土方は一度で泡立たない髪を二度、三度と洗っていく。充分指通りが滑らかになったことを確かめ、頭から全身に湯をかけてやれば、銀時はひどくこざっぱりとした顔になった。
ぺったりと頬に張り付く癖毛を掻きあげてやりながら、「砂が落ちたら、真っ白になったな《と土方は言ったが、口に出した傍から首を振って、「白より、銀だな《と独り言のように呟く。ごく近い場所で、じっと土方を見ていた銀時は、「そう言われんのも久しぶりだ《と、なんだかひどく深い声で言った。ともかく、綺麗になった銀時を湯桶に沈めて、土方は手早く自分の身体も洗ってしまう。高い位置で結んでいた髪を解けば、「すげえさらさらに見える《と、湯の中で身体を縮めていた銀時がどこか上満そうに言うので、「おかげで、髪紐がすぐどっか行っちまう《と、土方は答えた。「何だよそれ、自慢か《と、むっとした銀時の声に、「持ってるモンは仕方ねえだろ。お前のその癖毛も、俺には羨ましいって話だ《と、土方は返して、髪を洗う。適当に水気を絞り、簡単なまとめ髪を作ってから、土方も湯に身体を浸した。
知らず息を吐いた土方に、「良かったのか、一番風呂《と、銀時が言うので、「いい。どうせろくに身体も洗わねえような連中なんだ、テメーはそうなんなよ《と、顔を洗いながら土方は返す。じっと土方の指先を見つめて、「何も聞かねえの《と言った銀時の声はひどく心もとない。「何を聞かれると思った《と、土方が問い返せば、「あそこにいた理由とか、傷の理由とか、この髪の色とか《と、銀時はごく簡単に質問を並べて見せた。首まで浸かった湯に、銀時の髪から一筋の水が滴って、波紋が広がる。瞬きひとつで銀時から意識を反らした土方は、気の無い調子で腕を伸ばし、湯桶に背を預けた。
「ぼろぼろになってまで刀ァ握りしめて死にそうになってりゃ、馬鹿でも見当はつく。お前、攘夷志士だな。戦から逃げて来たんだろ《と、土方がいっそ投げやりに言うと、「わかってんのに、一緒に風呂入ってていいの?《と、銀時の方もまるで悪びれた様子はない。「見ての通り、道場に金目のモンは何もねえ。衣食住が目当てなら、ここで俺を殺しても仕方ねえよな《と、土方が意味ありげな視線を送れば、「にしたって、酔狂な話だろ《と、銀時は少しだけ笑って耳の穴を掻いた。「番屋まで連れてかれんのかとか、飯食ったら憲兵が来んのかとか、風呂場で煮殺されんのかとか、いろいろ考えたけど、そうでもねえ見てーだし。ここ出てすぐ役人が来んなら、中まで刀持ち込ませねえよな。だけど、ただのお人よしにも見えねえ。お前の目的はなんだ?《と、ほんの少しだけ鋭い視線を作った銀時の顔に、土方は両手を組んで水鉄砲を作り、水を飛ばす。
「ぶわっ、鼻に入った!《と、銀時が一瞬で情けない声を上げるので、「だから言ったろ、見返りに俺と戦えって《と、土方が言えば、銀時は鼻を鳴らしながら「そんなモンが見返りになんのかよ《と返した。「そんだけ傷作っても生き延びたってことは、相当の腕なんだろ。テメーの首にいくらかかってんのか知らねえけどよ、そんなモンより、俺は強ェ奴と戦いてェんだよ《と、土方が力を込めると、「…竹刀か木刀で良いなら《と、銀時は小声で言う。「俺には大事な刀を抜くほどの価値がねえって?《と、ことさら意地悪く土方が重ねれば、「違ェ、はずみで殺されんのも殺しちまうのも嫌だっつー話だよ《と、銀時は首を振って、「殺し合いじゃないんだよな?《と確かめた。
ハァ、と仕方がなさそうに溜息を吐いて、「しょうがねェな。木刀で我慢してやるから、さっさと回復しろよ。ちなみに、両手両足は無事なんだろうな?筋や骨を痛めてるようなら早めに言えよ《と土方が言うと、「お前それ俺を心配してんじゃないよね、俺の全力が減るのを嫌がってるだけだよね《と、銀時の目から急速に光が消えていく。それでも、「おかげさまで五体は満足です《と、銀時が律義に返すので、「そりゃ良かった《と、あながち自己満足だけでもなく土方は頷いた。あついな、と落ちた銀時の声は、水滴と変わらない音をしている。

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風呂上がりの銀時に着物を着せて見ると、見た目通り裄も丈も土方とほとんど変わらなかった。身頃が余るのは仕方がないだろう。土方もあまり着物に余裕があるわけではないので、そのうち実家から古着をもらってきてやろう、と視線も動かさずに決意した土方は、乾かせば乾かすほどに膨らんで行く銀時の髪をじっと見つめた。「言いたいことがあるならはっきり言えよ《と、上貞腐れたような銀時の声に、「そういや、さっき何か言ってたな。テメーの髪の色がどうとか《と、土方が返せば、「…薄気味悪ィ色だろ《と、銀時はほんの少しだけ手を止めて言う。
「別に。ジジィみてーだとは思ったが《と、土方も手拭いを髪に当てながら返すと、「これ白髪じゃねーから!一応銀だから!!《と、銀時は喚く。「うるせえ、似たようなもんだろ《と銀時を切り捨て、適当なところで髪を結わい直した土方は、「いいから、そろそろ出るぞ。そのフワフワはもう諦めろ《と、銀時がさきほど脱ぎ捨てた襤褸布を拾い上げて、銀時の背を押した。先ほどから、風呂場の前に人の気配があることを、銀時も知っていたのだろう。脇に挟んでいた刀を握り直して、「お前も、あした目が覚めて天パだったらいいのに《とろくでもない毒を吐きつつも、大人しく土方に続いた。
入れ違いに風呂へ入った数人は、好奇の目を隠しもせずに銀時を眺めたが、銀時は何も言わない。土方も、軽く手を挙げるだけに留めた。十分距離をとってから、「いろんな奴がいるな《と銀時が言うので、「天パはいねーけどな《と土方が混ぜ返すと、「人の傷抉って楽しいか?心に傷をつけて楽しいか《と、銀時はうっそりと死んだ目で土方を軽く睨む。そう僻むな、と銀時をあしらった土方が、途中の布団部屋から余り布団を一組出して抱えれば、「俺が持つ《と銀時は言ったが、「あと一貫太ってから言え《と土方は銀時の声を切り捨てた。先ほどの背骨を思えば一貫どころか、三貫ほどは増やした方がいいだろう。
部屋に入った土方は、先ほど使った皿の類がきちんと盆の上に重ねてあるのを見て取ると、「足りなくなかったか《といまさらのように銀時へと問いかけた。「充分だ。ごちそうさまでした《と返す銀時を、ひとまず隅に座らせて、土方は持ってきた布団をばさりと広げる。そう厚くはない敷布と枕、継のある掛け布団。贅沢なものではないが、銀時は文句も言わず、ただ「俺もここで寝ていいわけ?《とだけ言った。「今のところ、テメーは俺の預かりだからな。怪我が治ったあと、まだここにいる気があんなら別だが《と、土方が返せば、「あ、すぐに追い出されたりはしねーんだ《と、嬉しそうに銀時は言う。「テメーが弱けりゃあ叩き出すぞ《と土方が非情に言い放つと、「それはちょっと困るな《と銀時は眉を下げ、でもすぐ気を取り直したように、「しばらく世話になる《と、手を突いて土方に頭を下げた。
「今さらあらたまっても遅ェだろ《と何でもない調子で言った土方は、ぽんぽんと布団を叩くと、「ここ座って、脱げ《と銀時に告げる。一瞬置いて、「女じゃねーのは確かめたよな?《と銀時が身構えるので、「馬鹿か、女でも男でも関係ねえよ。さっき開いた傷を見るっつってんだ《と、土方が行商の包みを開くと、「薬売り?《と、銀時は尋ねた。「見てわからなかったか《と、土方が言えば、「俺の知ってる薬売りは、もうちょっとこう、薬を全面に押し出してたぜ《と銀時は返す。「俺が回るのは大概医者と大店で、流し売りはほとんどしねえからな《と答えた土方の前で、するりと着物を落した銀時は、「それで、治療もできるんだ《と、面白そうに言った。「門前の小僧って奴だ《と返した土方は、缶入りの軟膏を取り出して、変色した部分と血が滲む部分に塗り込む。縫うほどの傷が開かなくて良かった、と思いつつ、土方が塗り終えた部分に膏薬を貼り、緩まないように包帯を巻けば、銀時の全身は包帯だらけになってしまった。
もういいぞ、と声をかけた後で、土方が銀時の背に着物を掛けてやると、「ちょっと大げさじゃねえ?動きづらいんだけど《と、銀時は両手を動かしながら訴える。「動くなってことなんだよ《と返した土方は、そのまま銀時を布団に押し倒して、ばさりと掛け布団を被せた。「おい?《と、上審そうな表情で布団から顔を出した銀時に、「寝てろ。気付いてねえようだが、お前熱があるぞ《と、土方が言えば、「嘘だろ《と、銀時は指先で自分の額に触れる。すぐに離して、「ほら、全然熱くねえよ《と銀時がしたり顔を作るので、「馬鹿か。発熱したら指だって熱いに決まってんだろ《と返した土方は、右手を銀時の額に、左手を銀時の指に重ねた。「…冷てえ《と、呟いた銀時に、「な《と頷いて見せた土方は、少しばかりはみ出た銀時の刀に目を落とすと、「ちゃんとしまって、抱いて寝とけ。夕飯には起こしてやるから《と、銀時の肩を突いて立ち上がる。
布団に収まった銀時は、途端に重病人のように見えて、土方は少しばかり顔をしかめたが、しかしそれも仕方がない話だった。あんな傷に空きっ腹を抱え、熱まで出したと言うのに、何でもない顔で歩いていた先ほどまでの方がどう考えてもおかしい。食器類と、銀時の着物を抱えた土方に、「それ、どうすんの《と銀時が声をかけるので、「大事なモンでも入ってるか《と土方が問い返せば、「襟の中に、紙包みが入ってる。それだけくれ《と、銀時は言った。探って見ると、たしかに固い感触がするので、土方はためらわずに着物を裂くと、てのひらに収まる大きさの紙包みを引き出す。「これだな《と土方が示せば、銀時は微かに頷いて手を伸ばそうとする。「寝てろ《と銀時を制した土方が、こちらから近づいて銀時の手に包みを乗せてやれば、銀時は土方の手ごと包みを掴んで、「ありがとう《と目を閉じた。
銀時の吐息が寝息に変わるのを待って、そっと指を引き抜いた土方は、今度こそ障子を開けて廊下に歩み出る。陽の落ちた縁側はしんと冷たく、土方は軽く足を引いた。厨房までの角を一つ曲がれば、そこには近藤が立っていて、「どうだった、トシ《と柔らかい声で言う。「たぶん、京へ上ればお尋ね者だろうが、ここにいる限りは問題ねえだろうよ。誰も顔は知らなかったみてェだしな《と、土方が言えば、「江戸でも大丈夫だと思うか《と、近藤は尋ねた。「それはまたあのオッサン…松平公が来てから考えりゃいいだろ。その前に、アイツがここに居付くかどうかも、まだわかんねえしな《と返した土方が、「とりあえず、飯だけは食わせてやろうぜ《とからりと笑うと、「右之助も言ってたが、トシにしちゃ珍しくマメだな《と近藤は言う。そんなんじゃねえ、と首を振った土方の肩を叩いて、「何にしても、お前が良い顔をしていて良かった《と頷いた近藤は、「今日届いたものだ。差し入れてやれ《と土方の手に干し柿の包みを残して行ってしまった。
干し柿を袂にしまった土方は、また冷たい廊下を歩いて厨房に向かい、洗い桶で皿と箸と椀と湯呑を濯ぐ。煮炊きをしてくれている老女に病人がいることを告げれば、老女は訳知り顔で頷いて、粥の他に煮物もごく柔らかく煮てくれた。囲炉裏がある広間で、賑々しく食事を済ませた土方が、粥と煮物を手に厨房を出ると、「手伝いましょうかィ?《とふてぶてしい顔で総悟は言う。「いらねーよ。それより帰らなくていいのか《と、首を振った土方が、言外に沖田の屋敷で待つミツバの存在を示せば、「姉ちゃんは今夜、角向こうの叔母さんの家に行ってまさァ《と、総悟は答えた。
そうか、と頷いた土方に並んで廊下を歩きながら、「旦那は、戦帰りなんですかィ《と総悟が僅かに声を潜めるので、「たぶんな《と土方が返すと、「たぶんじゃねーよコノヤロー、一緒に風呂まで入ってそんなことも聞き出せねえのかィ《と、総悟は苦々しい表情で鼻を鳴らす。「風呂は関係ねーだろ《と土方は突っ込んでみたが、「情けねえなァ土方、こうなったら同じ布団にもぐりこんで色仕掛けしかありませんぜィ《と、総悟の声はどこまでも憎たらしい。「病人相手に鬼かテメーは《と返した土方が、「もういいから、お前は近藤さん手伝って来い《と総悟の背を叩けば、「気安く触んねーでくだせェ、虫唾が走らァ!《と総悟は吐き捨てて、とたとたと廊下を駆けて行く。曲がり角で顔を出し、「今夜の首尾次第では覚悟してくだせェ《と悪い顔で笑った総悟に、「誰かするかァ!いいから早くどっか行け《と土方が露骨に顔をしかめると、「相変わらず冗談が通じませんねィ、だからモテねーんでさァ《と、総悟はけらけら笑いながら行ってしまった。
たった数分で果てしない疲労に襲われた土方は、とぼとぼ歩いて部屋に戻り、障子を開けた。ほんの微かな手火鉢の炭だけが光る中に、もう二つ光が見えて、土方は一瞬息を呑む。よくよく見ればそれは銀時の目で、「起きてたんだな《と、土方は少しばかり安堵しながら後ろ手に障子を閉めた。短く切りそろえた灯心に火を点し、油を入れた皿に入れて明かりを作れば、銀時は緩慢な動きで起き上がり、本当に抱いていたらしい刀を肩に掛ける。「寒くねえか《と、土方が尋ねると、「熱いくらいだ《と、銀時は手で顔を仰いで見せた。まだ熱が高いのだろう。「それでも、着とけ《と、土方が近藤からもらった綿入れを銀時の背に掛け、粥と煮物の盆を膝に乗せれば、「夢みてーだな《と銀時は言った。
「頬でも抓ってやろうか《と土方が指を出すと、「そういう意味じゃねーよ《と銀時は首を振って、粥を一口啜る。「ちゃんと味がする《と呟いた銀時に、何を言っていいかわからなくて腕を組んだ土方は、ふと指先に触れた干し柿の包みを取り出して、「見舞いだ《と、銀時の脇に置いてやった。「なに?《と銀時が包みに触れるので、「干し柿《と土方が答えれば、銀時は驚くほど嬉しそうな顔で、「食っていいのか《と包みを開く。「そっち全部食ってからな《と、土方がさっと干し柿を取り上げると、銀時はこくこく頷いて箸を動かした。銀時の様子に、夕方の饅頭を思い出した土方が、「なあ、饅頭美味かったか?《と尋ねれば、銀時は粥を飲み込んでから、「美味かった。いい餡だったな、良く練ってあったし、甘かったし《と、銀時は言う。なるほど、と何となく理解した土方は、「柿も甘いといいな《と言って、銀時が器を空にする姿を眺めていた。
嬉しそうに干し柿も食べ終わったところを見計らって、土方は銀時に痛み止めを飲ませる。口に含んだ瞬間はさすがに嫌な顔をしたが、おとなしく水も飲んだ銀時は、「何から何まで悪ィな《と土方に湯呑を返した。「テメーがさっさと治ることを期待してる《と言った土方は、銀時が眠る前に便所の場所を教えておく。「あんまり切羽詰ったら、庭のその辺でしてもいいけどな《と土方が言えば、「あー、覚えとく《と銀時は頷いて、もそもそと布団に潜りこんだ。布団の中で脱いだらしい綿入れを差し出された土方は、それを銀時の掛け布団に重ねて、「どこか痛んだり、苦しいようだったら俺を起こせよ《と告げる。素直に頷いた銀時が目を閉じるので、土方も灯りを落として眠ることにした。
銀時の布団の隣に自分の布団を並べ、灯明を吹き消して油から灯心を引き抜いた土方は、一段高い薬箪笥の上に皿を乗せる。冷たい布団に潜りこめば、ここ数日の疲れがどっと蘇って、土方は大きく息を吐いた。行商での疲労は、刀を振り回すものとは全く別物である。おそらくは気疲れが多分に含まれるそれを、ゆるゆる迫る眠気で押し流した土方は、ごく小さな声で「おやすみ《とかけられた言葉の中身には気づかなかったものの、耳に届いた音が心地良かったので薄く唇を持ち上げた。重なった寝息は、ひどく穏やかな色をしていた。


( W副長未満 / 坂田銀時×土方十四郎 /131111)