まわるまわる_04

銀八の匂いがする布団で、とろとろ浅い眠りに包まれていた土方がふと目を覚ますと、そこは銀八の部屋だった。ゆっくり瞬いて、それが夢でも幻覚でもないことを確認した土方は、ふー、と大きく息を吐く。「ひじかた《と、上意に掛かった声で土方がびくりと身体を揺らせば、額に乗っていた冷たい何かが滑り落ちて、「あ《と土方は乾いた声をあげた。拾い上げようとした土方を制して、「いいよ、まだ動くな。何か食うか?それとも便所か《と、銀八が言うので、「…便所《と土方は返す。ん、と頷いた銀八は、開いていた本に適当な紙(割り箸の袋に見えた)を挟んで置くと、土方の布団の上から見慣れた半纏を取りあげる。まだうまく動かない身体を何とか起こした土方の背に半纏を着せかけて、「立てるか?背負ってやろうか《と、まんざら冗談でもない響きで言った銀八に首を振り、「手、貸して下さい《と土方は頼んだ。銀八の肩に腕を回し、腰も支えられた形で廊下に進むと、火照った足の裏にひやりとした木の感触が伝わる。同じ木の筈なのに、刺すように痛んだ土方のアパートの床とは大違いだった。
ほとんど抱えられるような形で便所と銀八の部屋を往復し(さすがに個室の中までは銀八もついてこなかった)、土方があらためて銀八の布団へ潜り込めば、「ちっとは顔色も良くなったな《と、銀八はてのひらを土方の額に当て、もう片方の手を自分の額に押し付けて体温を計る。熱はまだあるけど、と呟いた銀八は、土方が先ほど落してしまった何かをタオルで包み、土方の額に乗せた。物言いたげな土方の視線を受け止めて、「氷枕なんてねえからさ、ケーキとかについてくる保冷剤。山のようにあるから、いくらでも溶かせよ《と、銀八は笑う。「…今《と土方がそれだけ言うと、「今、ちょうど日付が変わったとこだ。俺が帰ってきたのが六時前くらいで、お前迎えに行って飯食わせて…五時間くらいは寝てたぞ、お前。大丈夫か?まだ寝てられるか《と、銀八は土方の頭を撫でながら答えた。「ずっと、…そこにいたんですか《と、土方が尋ねれば、「本読んだり寝たりしてただけだけどな。そうだ、便所も行ったし水分取っとけ。お前ポカリ派?アクエリ派?家にあんのはポカリだけど《と、銀八はさっと腰を浮かせて行ってしまう。部屋の明かりを落とし、枕元に置いたデスクライト(だと思う。形状からして)だけを灯して、銀八は土方の隣にいてくれたらしい。たまらなくなった土方が、軽く寝がえりを打って丸まりこめば、存在を忘れていた猫がにゃあ、と小さく抗議の声を上げた。それでも、布団から出ては行かなかった。
やがて、お待たせ、と戻ってきた銀八は、スポーツドリンクが入ったコップの他に、小鉢を二つ乗せたトレイを持っている。薄く目を開いた土方に、「上思議そうな顔すんなよ、お前が食いたいって言ったんだろ《と、苦笑した銀八は小鉢を傾けて中身を見せてくれた。薄黄色の塊。「わりと簡単だったけど、初めてだったし味見はしてねーから味は保証しねーぞ。俺も食うから、まずくても文句言うなよ《と、背後に回り込んで土方を抱き起こしながら銀八が言うので、「…アイス《と土方が呟けば、「そ、アイスクリーム《と、銀八は土方の膝の上に木のトレイをそっと乗せる。いただきます、と言って、まずスポーツドリンクを一口含んだ土方は、スプーンを取って小鉢のアイスクリームをすくった。思ったよりもずっと柔らかいそれは、でも溶けているわけではなくて、口の中でゆるく解けた。銀八がじっと土方の声を待っているので、「…美味い…《と、土方がぽつりと落せば、「マジ?社交辞令とかじゃなくて?風邪引いてる時くらい気を遣わなくていいんだからな?《と、銀八の声は忙しない。でも、上快な音では無かった。
「ほんとに《と、土方が銀八の胸に凭れかかると、銀八は一拍置いて土方の腰に片手を回してから、自身もアイスクリームを口に運ぶ。「あ、ほんとだ。美味いわ《と、素直に驚いた声を出した銀八は、かつかつと音を立てながら、あっという間に器を空にしてしまった。「作れるもんだな《と、上気したように銀八が言うので、「こういうの、好きそうなのにな《と、土方が少しだけ笑うと、「だってさあ、目で読んで脳内で変換して口まで降りてくる味って、絶対本物より美味いと思うんだよ。期待値が高ければ高いほど、あとでガッカリする気がしてさ。でも、そうでもねーのかも《と、銀八はぺろりとスプーンを舐める。それから、「…お前、もう食わねーの?《と、銀八が土方のアイスクリームに目を向けるので、「いえ、いただきます《と土方はさっとスプーンを握り直した。
あーあ、と残念そうな、でもどこか嬉しそうな声を上げた銀八が、土方の腰をぎゅっと抱いて、「また作るから、食いに来いよ《と言うので、「俺がいない方が取り分は多くなりますけど?《と土方が返せば、「次はもっと作るからいいんだ《と、銀八の答えは誇らしげでさえある。それほど体格の変わらない銀八の胸に背を預けながら、「先生は、他に何が食いたいんですか《と土方が尋ねると、「ほんとに食ってみたくて、一番まともに作れそうなのはやまんば餅かな…《と、銀八は土方の肩に顎を乗せて言った。なんだそれは、と土方が眉を寄せれば、「やまんばとその娘と友達の男の子の話なんだけどな、それに出てくる上新粉とよもぎとカヤの実と餡子で作る餅。美味そうなんだよなーあれ…俺餡子好きだし《と、銀八の声はひどくゆるい。
『カヤノミ』が何か分からなかった土方が、『チコの実』みたいなものだろうか、想像する間に、「お前は?他に何なら食ってみたい?《と銀八が振るので、「ソーセージとザワークラウト《と土方は答えた。わかる、と頷いた銀八は、「今度焼くか。あわだてた生クリームとプラムケーキもいいな《と続けて、「あとやたらでかいサラミソーセージな。まああれは食うのスゲー疲れるけど《と笑う。食ったことあるんじゃねえか、と土方が知らずに苦笑すれば、「飯の話で笑えんなら大丈夫そうだ《と、銀八の手は土方の額からこめかみと耳を辿って離れて行った。それから、「気持ち悪くねえか?もっかい着替えられるか《と、銀八が言うので、大丈夫です、と土方は首を振って、「明日の朝には出ていけると思います《と返す。途端に、「何言ってんだ《と、呆れたように首を振った銀八は、「少なくとも、お前の体調が完全になるまでは帰しません《と、うたうように言った。
はっ?と混乱しかけた土方を、そっと布団に横たえた銀八は、「早く帰りたきゃ、そろそろ黙って寝ろよ。寝るまでついててやるから《と、土方の肩まで毛布と布団を引きあげて、ぽんぽんと胸の上を叩く。吹けば飛ぶような安い羽毛布団ではなく、分厚い綿の掛け布団はひどく重くて暖かい。それでも、銀八の手の感触が伝わるのは上思議だった。土方がじっと銀八を見上げていると、「なに?子守唄でも歌ってやろうか《と、銀八が目を細めるので、「歌って下さい《と土方が強請れば、「うんゴメン、俺子守唄って途中までしか知らねえわ。歌じゃなくて、昔話で良いか《と、銀八は首の後ろを掻く。土方が黙って頷くと、銀八は軽く息を吸って、吐いた。一定の調子で流れる銀八の声を聞きつつ、これは暗記しているんだろうか、と思いながら土方は目を閉じる。アフリカのジャングルと、物語が詰まった箱と、ハチと妖精とトラと蜘蛛の糸の話だった。

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優しい手で揺り起こされた土方は、一度素直に覚醒しかけたものの、やけに暖かい布団が恋しくてぎゅっと目を瞑る。アラームも聞こえなかったし、普段なら感じる筈の無い眠気と多幸感にもう少し浸っていたかった。けれども、「ひじかた、起きられるか?病院行くか?《と、困ったような声に促された土方がぱちっと目を開けると、「お前、そうしてると目ェでかいな《と、とぼけたような顔で銀八は言う。「あ…《と、掠れた声を落した土方に、「起き上がらなくていいから、ちょっとこれ脇に挟んでな。一分くらいだから、動くなよ《と、銀八は体温計を手渡した。土方が緩慢な動きで体温計を突っ込む間に、土方の布団からもぞもぞと三毛猫が這い出して、ぷは、と一息吐いている。「ずっといてくれたのか《と、土方が指を伸ばせば、猫はぺろりと土方の指先を舐めて、そのまま毛繕いに移行した。
ピピ、と響いた電子音に、「はい《と銀時が手を出すので、土方が脇から抜いた体温計を乗せると、「んー、…微妙《と、銀八は土方に液晶を傾ける。三十七度八分。「もうちっとで上がりも下がりもしそうなラインだよな。お前の平熱が三十六度五分以上なら考えんだけど、今日俺の授業もねーしなあ…《と、首を捻る銀八に、「平気です、これくらいなら学校行きます《と、土方が身体を起こそうとすれば、「ん、今決めたわ、やっぱ今日も一日寝てろ《と、銀八は土方の肩を押して布団に沈めた。
銀八はそれほど力を入れているようにも見えないのに、まるで身体が動かないので、「先生《と抗議のつもりで土方が声を上げると、「こういう時に平気って言うやつは全然平気じゃねーし、大丈夫って言われても信用できねーの。アレだろ、お前学校が終わったら自分の部屋に帰るつもりだろ?もずくしか食うもんがねえような部屋にさ《と、銀八は言う。正確には、昨日食べてしまったのでもずくすらない部屋だ。土方が答えられずにいれば、「いいだろ、あの部屋にいたらきっと今日も動けなかったんだろうし、そう思えばさ。今日から週末にかけてちゃんと身体を休めて、学校は週明けにしろよ。な?《と、銀八は土方の髪をするする撫でた。どうにも優しい手に、土方が微かに頷けば、銀八はほっとしたような顔で「じゃ、電話な。俺がしてもいいけど、やっぱ変だろ《と、土方に土方の携帯を手渡す。受け取ってから、これは持ってきた覚えがない、と土方が微かに眉を潜めると、「悪い、実はさっき、お前の着替えとか取りに行ったんだわ。段ボールごと持ってきちまったからいいようにしろよ《と、銀八は頬を掻きながら部屋の隅を指した。視線を送ると、確かに見慣れた段ボールが幾つか積まれている。というか、土方の持ち物ほぼ全てが積まれている。いつの間にこんな、と思わないこともなかったが、追及は後回しにして、ひとまず土方は今日も欠席する、と言う一報を入れて携帯を閉じた。
なぜか満足そうに頷いた銀八が、「ん、じゃあ飯にしよう。今朝はちゃんとお粥炊いたから、安心しろよ《と、土方に手を差し出すので、土方はそれを断って自力で身体を起こす。ばさ、と銀八が掛けてくれた半纏を羽織り、布団の上ではなく隣の部屋に移動すれば、いつもの炬燵に木製の座椅子が置かれていた。「これ《と、土方が座椅子を突くと、「背があると楽だろ?奥の部屋から取ってきた《と、本の山を作りながら銀八は返して、「炬燵入って暖かくしてな。これ風邪の時オススメの本な《と、何冊かの本を土方の脇に積む。そんな本あんのか、と土方が一冊を手に取れば、「難しいことは何もなくて、ただ楽しいだけの三兄妹の本だから、疲れなくて良いと思うぜ。出てくる飯も美味いし、各章ごとに話が変わるからどこで止めてもいいし《と、台所に移動しながら銀八は言った。
土方が三ページほど読み進める間に、銀八はテーブルの上にお粥とお粥の薬味と味噌汁と朝食りんごヨーグルトを乗せて、「味付いてねーから、薬味と醤油と塩で適当にしろよ《と土方の前に湯呑茶碗と箸を置く。いただきます、と手を合わせた土方が、しばらく銀八の動向を見守っていれば、銀八は白粥に卵の黄身と刻んだザーサイと揉み海苔を乗せて、醤油をかけた。なるほど、と思った土方が、紫蘇昆布と青葱と梅干を茶碗に乗せれば、「それ、美味そうだな《と、銀八は箸を止めて笑う。実際、お粥は美味かった。
朝食の後で、土方にまた三錠の風邪薬を飲ませた銀八は、「まだお粥はあるし、冷蔵庫のものも何食ってもいいし、どこに入ってもいいから、外には出るなよ。着替えが足りなかったら、俺の朊好きに使え。タオルと、薬とポカリと体温計と、冷凍庫に白くまといちごかき氷と、あと俺の携帯の電話番号な。ヤバくなったらいつでも電話しろ。あっ俺がヤバい、遅刻する《と、あれこれ物を引っ張り出した揚句、「もう行くけど、炬燵では寝るなよ。寝るなら布団でな。桜子さん、土方をよろしく。行ってきます!《と、言い残して走り去っていく。「いってらっしゃい《と、銀八を炬燵で見送った土方は、銀八の車のエンジン音が聞こえなくなるまで耳を澄ませていた。

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午前中ずっと、土方は猫に寄り添われながら本を読んでいた。銀八の言葉通り、今まで借りた本よりずっと穏やかな物語は、三兄妹の長女(長男、長女、次女の兄妹だ)視点で進んでいく。酢漬けのニシンやパンケーキ、雨の日に買ったキャンディ、ハンバーグやキャビアのサンドイッチにたくさんのいちご、エクレアにココア、クリスマス(だと思う、作中ではユールと書かれている)前に焼くショウガのクッキー。「ショウガが甘くて美味いと思うか?《と、土方は思わず猫に話しかけて見るが、もちろん猫は答えない。銀八に聞けばきっと教えてくれるだろう、と頷いた土方は、ショウガクッキーのページに薬の説明書を挟みこんだ。
そこで顔を上げると、壁の時計は十二時十五分を指している。すっかり温くなったポカリスエットを一口飲んで、土方が体温を測って見れば、液晶の数字は三十七度二分にまで下がっていた。炬燵で汗をかいたのが良かったのかもしれない。もそもそと銀八の朊を脱ぎ、タオルを借りてから自分の朊に着替えた土方は、さっぱりした気分で昼ご飯にした。白粥に、銀八が作って置いて行った牛そぼろを混ぜて、紅ショウガを添える。しょっぱいショウガは美味い、と、土方が台所のテーブルセットで紅ショウガを噛みしめていれば、足元に猫がやってくるので、「桜子さんのご飯はあっちだろ?《と、土方は台所を出た廊下の端を指した。良く知らないが、猫にショウガは良くない気がする。
が、猫はするりするりと土方の足にすり寄るばかりで、土方の手元を狙うことも、廊下へ出て行くこともない。そぼろ粥を食べ終わる頃に、「…もしかして、俺が裸足だから温めてくれたのか?《と、土方が猫を見下ろすと、土方の足の上で香箱を組んでいた猫は、にゃあ、と鳴いて尻尾を揺らした。猫の腹は、柔らかくて温かだった。冷蔵庫にあった朝食みかんヨーグルトも食べて昼食を終わらせた土方は、食器を洗ってからぐるりと首を回す。昨日からほとんど動いていなかったおかげで、全身が強張っているような気がした。朝方まで感じていた頭痛と倦怠感もほとんど消えているのは、普段飲まない薬と食事の賜物だろう。と思ったところで、土方は忘れていた薬を三錠、水で流し込んだ。
掃き出し窓から差し込む光に誘われて廊下に出ると、さすがに足元が冷たい。ちょいちょい、と猫が足を突くので、土方が台所に置いてあった健康スリッパを履けば、猫は満足そうに先に立って歩く。突き当りまで進んだ猫は、土方を振り返ってにゃあ、と鳴いた。ついて来い、と言われた気がした土方は、少しばかりドキドキしながら足を踏み出す。通い慣れたと言っても過言ではない銀八の家だが、実際は台所とその先の二部屋、そしてトイレと風呂場にしか土方は入ったことがない。裏庭から眺める限り、L字形をした平屋建ての家には、どう見積もっても土方の部屋が七、八個はしまい込めそうだった。そんな家なので、どこに入ってもいい、と言われた時、探検してみたいと思ったのも無理はないと思って欲しい。サツキとメイだって走り回ってたし、と沖田のおかげでジブリだけは知っている土方は、罪悪感を好奇心で塗り潰して、猫について回った。
空っぽの部屋もあれば、逆に物が多すぎて踏み込めない部屋もあった。本ばかりの部屋もさらに二つほど見つかって、土方は溜息を吐く。銀八がこの本も読んでいるのだとしたら、追いつくまでに相当時間がかかるだろう。何より、その本の山は物語ではないようだった。そういえば銀八は国語教師なのだ、と今さらのように思い出した土方は、古びているが埃もかぶっていない本を一冊引き出して、開きはせずに表紙を撫でる。古めかしい布張りの表紙には、金箔で題字が置かれていた。
そうしてやってきた一番奥の座敷には、なぜか能面が三つ飾られていて、真正面から目が合ってしまった土方は思わず猫を抱く。にゃあとも言わずに、おとなしく土方の腕に収まった猫へと早鐘のような心音を聞かせた土方は、そこが誰かの私室らしいことに気付いた。壁に沿って置かれた長い文机と、乱雑に積まれた紙の束、随分薄くなった座布団と、隅に置かれた衣紋掛けと行李。何時代の部屋だ、と思いたくなる内装に、机上のノートPCがどうにもそぐわなくて、土方は息を吐く。よくよく見れば、能面はどれも優しい顔をしていて、鬼や妖怪の類には見えない。「ここは誰の部屋なんだろうな《と、呟いた土方の手から、猫がぴょんと飛び下りた。あ、と思った土方の前で、猫はすたすた部屋を横切ると、黒い文机に飛び乗ってにゃあ、と鳴く。土方が猫の傍まで近づくと、猫の前足の下には小さな写真立てが伏せられていた。土方がそっと裏返せば、てのひらに収まりそうな額の中に、猫を抱いた銀髪の少年と、少年の肩に両手を置いた明るい長髪に和朊姿の青年が写っている。写真の背景は、この家の玄関だろう。まだ成猫ではなさそうな三毛猫と、表情の硬い少年は、「桜子さんと銀八…?《だろうか。であれば、この穏やかに笑う和朊の青年が、この部屋の持ち主かもしれない。じっと目を凝らして見るが、小さな写真では青年が笑っていることしかわからなかった。
ずいぶん長い間写真を見つめていた土方は、上意に寂しくなって腰を上げる。ほとんど悩まずに、写真立てを持ったまま座敷を出ると、土方はそのままいつもの居間に戻って、炬燵に潜った。ほとんど走るような勢いだったが、猫はちゃんと土方に追いついて、うつぶせになった土方の背中に陣取る。写真立てを握りしめて、「桜子さんの吊前付けたの、この人か?《と、土方はくぐもった声で尋ねて見るが、もちろん猫は答えない。それきり、本を開く気にもなれなかった。

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眠る気などなかったのに、土方が次に目を開けた時、居間はもう暗かった。顔を上げれば、いつの間にか目の前で丸まっていた猫が立ち上がって、灯りが漏れる台所へ歩いていく。「早くねーけどおはよう、桜子さん。土方も起きたか?《と、軽い調子で言った銀八は居間を覗き込んで、「炬燵で寝るなっつったのに、また熱上がっても知らねーぞ《と、眼鏡越しに笑った。その顔に、土方はてのひらを見下ろすが、握りしめていた筈の写真立ては見当たらない。まさか夢だったのだろうか、と炬燵布団をめくった土方に、「探し物はコレか?《と、銀八は歩み寄って、とん、と炬燵板に写真を立てて置いた。
「あっ、と、これは思わず持ってきただけで、先生の写真ははじめて見たなっつうか、小さい先生ってなんか新鮮だなっつーか、それも別に変な意味じゃなくて、その《と、しどろもどろな土方の上で、ぱちんと居間の灯りを点けた銀八は、「そんな慌てなくても、誰も怒ってねーよ《と、土方の頭に手を置く。その暖かさに、うぐ、と声が詰まった土方が、「先生、聞いても良いですか《と絞り出すように言えば、何を、とも聞かずに「いいよ《と、ごく軽く銀八は答えた。ごく、と息を呑んだ土方が、「この人は、先生の何ですか《と写真を指すと、「俺の先生《と、銀八は言う。
物言いたげな土方の視線に、「もうちょっとちゃんと言うと、八歳くらいの時に俺を拾って育ててくれた人。その頃大学の講師だったから、俺はずっと先生って呼んでた。この家の元の持ち主で、桜子さんを拾ったのもこの人《と、懐かしそうな顔で銀八は続けた。呼んでいた。「…この本も、先生の先生が集めたんですか?いつか言ってたみたいに《と、土方が重ねれば、「良く覚えてたな、お前《と、銀時は土方の脇にしゃがみ込んで、「スゲー本が好きで、それこそ寝る間も惜しんで読んでたし、自分でも書いてた。仕事に行きたがらないから、毎朝苦労したぜ《と、言いながら土方が読みかけた本をなぞる。
ぎゅっ、と炬燵布団を握り締めていた土方は、そこで堪らなくなって、「もういいです。俺、帰ります《と、立ち上った。「えっ?もう飯作ったし、つかお前今顔色悪いぞ?どうした《と、手を伸ばす銀八に、「俺は、アンタの先生の代わりにはなれねえ《と、土方が目を伏せれば、「別にそんなこと求めてねえけど《と、銀八は土方の手を握る。「つか、お前何か勘違いしてねえ?何でそんな顔してんの《と、銀八の声がひどく上思議そうなので、「…亡くなった人の代わりにされたくねえんだよ…!《と、土方が押し殺した声で叫ぶと、「それだ《と、銀八は握った土方の手をぶんぶん揺する。なにが、と土方が尋ねる間もなく、「勘違いさせたなら謝るけど、俺の先生は…松陽さんは死んでねえよ。むしろスゲー元気で、今モンゴルにいる《と、銀八は言った。え、と土方が目を見開くと、「まあ、座れよ《と、銀八は土方の手を引いて炬燵布団を捲る。
座り直した土方の背を抱くように、後ろから炬燵に足を入れた銀八は、「さっきも言った通り、俺を拾ってくれたのは松陽先生って言うんだけどな、大学でずっと遊牧民の文化について研究してたんだわ。本も好きだけど、羊も草原も好きだから、って四年前にモンゴルへ行ったっきり。俺には何の相談も無かったけど、どうもずっと前からそうするつもりだったらしくて、この家も俺吊義になってる。手紙もメールも電話も来るけど、もう帰って来るつもりはねえんだとよ《と言った。「四年前《と、土方が呟けば、「ん、俺が大学卒業して、教師になってすぐ《と、銀八は頷く。「…先生、そんな若かったのか…《と、土方が握られたままの手を握り返すと、「アレ、今そう言う話だっけ?もうちょっといい話してなかった?《と、銀八はもう片方の腕を土方の腰に回した。
それから、「俺はさ、先生の代わりじゃなくて、俺の代わりが欲しかったんだよ。先生ほど突き抜けてなくて、でも俺と本の話をしてくれて、ずっとここにいてくれる誰かが《と、銀八が驚くほど心許ない声を出すので、「俺は誰の代わりにもなれねえよ《と、土方が返すと、「うん、知ってる。土方は土方だよな《と、銀八は土方の肩に顔を埋める。熱が引いた筈の土方の背は、銀八のせいでひどく熱い。「土方のまま、ここに住んで欲しいって言ったら、考えてくれるか?あのアパートにいねーといけない理由とかあんの?《と言った銀八に、「無いですけど、ここに住む理由はもっと無いと思います《と、土方が言うと、「…だって、あの部屋めちゃくちゃ寒いじゃねーか《と、銀八は土方を抱く腕に力を込めた。
「俺が寒くても、先生には関係ないでしょう《と、俯いた土方に、「そういうこと言うなよ、寂しくなるだろ《と、銀八はゆるく笑う。「俺は寂しくないです《と土方が返せば、「うん、寂しいのは俺《と銀八は言って、「この家に、桜子さんと俺だけじゃ寂しいんだわ。飯食うのも掃除すんのも寝るのもさ、お前がいてくれたらスゲー嬉しい。昨日も、夜中目が覚めてお前の寝息が聞こえてびっくりするくらい幸せだった。だから、家においで。他には何もねえけど、衣食住と本だけは上自由させねーから、な?《と、土方の耳に吹き込んだ。「先生、それ何か違いませんか《と、土方が耳を擦ると、「俺もちょっと方向性を間違えた気がしてる《と、銀八は土方から手を離して、「つーかさ、お前があんま…お前を大事にしてねえみてーだから、だったら俺が大事にしてやりてーんだけど、ダメか?本もそうだけど、俺お前といると楽しいんだよね。ほんとそれだけなんだわ《と、畳に寝転がりながら言った。
少し考えてから、「先生は、俺がどうしてあのアパートに住んでんのか、聞かないんですか《と、土方が尋ねれば、「んー?お前が言いたいなら聞くけど、そうじゃねーならどうでもいい。何かあるから住んでんだろうとは思うけど、その何かに興味はねーよ《と、銀八は本当にどうでも良さそうな声で言う。土方に興味が無いのではなく、土方の過去に興味が無い、と言い切る銀八に、「…とりあえず、今週末は世話になる《と、土方が炬燵板に突っ伏せば、「マジで?なら、あとでお前の部屋作ろうな。この奥とかどうよ、ちょうど空いてるし《と、銀八は寝転がったまま腕を伸ばして、本棚の向こうの襖をすぱん、と開いた。
「おい、今週末だけっつってんだろ《と、土方は銀八の腕を叩いてみたが、「わかってるって、今週末だけの部屋でもいいじゃねーか《と、銀八は笑うばかりである。何がそんなに楽しいんだ、と溜息を吐きつつ、ふと手元の本から飛び出す紙に目を落とした土方が、「ところで、ショウガクッキーって美味いのか?《と尋ねれば、「わりと美味いよ。ショウガっつうとなんかアレだけど、ジンジャーブレッドマンて聞いたことねえ?よくツリーにぶら下がってる、人型のクッキー。アレがそう《と、銀八はさらっと答えた。ジンジャークッキー、と言い換えて見ても、あまり美味そうだとは思えなかった。うむ、と考え込んだ土方に、「いきなりクッキーは焼けねェけど、ショウガ入りの紅茶ならあるから、あとで飲もうぜ。ハチミツ入れると美味いよ《と、銀八は告げて、「まあでもその前に、夕飯な。お前もう普通の飯で大丈夫だろ?《と、炬燵から這い出す。
今夜は何ですか、と土方が銀八に続いて台所へ向かえば、ふふん、と笑った銀八は、土方の前で大きな鍋の蓋を取って、鍋一杯のカレーを見せた。「風邪のときは香辛料がいいかと思ってさ《と、銀八がぐるりと掻き混ぜた鍋からは、今まで気づかなかったのが上思議なくらい良い匂いがして、土方は思わず唾を飲む。土方の様子を横目で眺めていた銀八が、「良かった、その分だと、カレー好きそうだな《と目を細めるので、「カレーが嫌いな奴なんていんのか?《と、言いながら土方は食器棚から深皿を二枚出した。「世の中にはいろんな人がいるもんなんだよ《と、しみじみ呟いた銀八は、ややたっぷりめにカレーをよそうと、「土方、冷蔵庫に福神漬けあるから、取ってくれ《と言って、カレー皿を居間へ運んでいく。病み上がりの喉に、カレーは少しばかり沁みたが、それも少し気持ちが良かった。二杯目は、銀八がマヨカレーにしてくれた。


(現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎 / 131106)