まわるまわる_03

ぱち、と目を開けた土方は、ごく自然に体を起こそうとして、起き上がれずに虚しく布団を掻いた。妙に体が重い。というか、胸が重い。混乱した土方が、必死に首を持ち上げれば、土方の胸の上では三毛猫が丸くなっている。「…桜子さん?《と、土方が呟くと、猫は土方の上でぎゅうっと伸びをして、きちんと前足を揃えて座った。両手を伸ばした土方が、わしゃわしゃ猫の毛を撫でれば、猫はかすかに喉を鳴らして、土方の指に頬を擦りつける。柔らかい毛並みがくすぐったい。
土方がしばらくそうしていると、密やかな笑い声の後で、「おはよう土方、重くないか《と、隣から銀八の声がした。「重くはねえけど、びっくりしました《と、答えた土方が軽く首を捻れば、銀八が隣の布団の上でノートパソコンを開いているので、「先生は何をしてるんですか《と土方は続ける。「ん、朝刊読んでる。あと天気予報な。今日は降るみてーだから、お前も傘持ってけよ《と、返した銀八は、電源を落とさないままパソコンの蓋を閉じて、「ところですぐ飯にする?布団畳んでからにする?《と、土方に問いかけた。
猫をそっと抱き上げ、脇に下ろしてから起き上がった土方が、「布団畳んで帰って着替えます。いろいろありがとうございました《と返せば、「真面目だなァお前《と銀八は猫を撫でて、「着替えはあとにして、布団だけ畳めよ。飯はもう炊けてるから《と続ける。「え?《と声を上げた土方には構わず、「あー、でも味噌汁はこれから作るから、お前卵は半熟と硬いのどっちが好き?《と銀八が尋ねるので、「半熟が好きです《と土方は答えた。
了解、と頷いた銀八が、本の間を縫うように部屋を出るので、土方は自分が寝ていた布団を畳み、悩んだ挙句銀八の布団はそのままにしておく。開け放たれた襖を潜った土方が、本棚の前に畳まれた昨日のシャツを着て、鴨居に掛けてあった制朊を着こめば、「なんだ、そのまま帰っていいのに《と、銀八が台所から顔を出すので、「そういうわけには《と、銀八の手からお椀を受け取りながら土方は首を振った。青菜の味噌汁に、何か白いものが浮かんでいる。これはなんだろう、と思った土方に、「飯もよそったから、受け取ってくれるか《と銀八は声を掛けた。はい、と頷いた土方が、「あれは何の味噌汁ですか《と尋ねれば、「小松菜と半熟卵《と銀八は答えて、自分はコップと水を手にして卓袱台に置く。辛子明太子と海苔の佃煮を添えて、「おかずはねーけど、卵食っときゃ大丈夫だろ《と銀八が笑うので、「いただきます《と土方は手を合わせて箸を取った。当然のように、ふたりで本を読みながら。

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あまり時間を掛けずに食事を終え、洗面所とトイレも借りてから、「そろそろ帰ります《と土方が言うと、「そっか《と頷いた銀八は、玄関から靴を取ってきて、土方を裏木戸へと導く。「こっからだとすぐだろ?《と指で示した銀八の言葉通り、アパートは目と鼻の先だった。ありがとうございます、と頭を下げて木戸を出た土方は、二、三歩進んだところで「…何か用ですか?《と、部屋着に便所サンダルの銀八を振り返る。「土方くん家の家庭訪問《と、銀八が嬉しそうに言うので、土方は少しばかり反応に困ったが、見られて困るようなものは何もないので黙っていた。斜めに道路を横切り、一階の角部屋に辿りついた土方が、古びた洗濯機を横目に鍵を回して微かに軋むドアを開ければ、銀八は土方の肩越しに部屋を覗き込む。玄関とも呼べない五十センチ四方の空間で靴を脱いで、「何もねえけど、上がって行きますか《と、土方が尋ねれば、銀八は少しばかり眉を寄せて頷いてから、「ほんとに何もねーな《と呟いた。
「一人暮らしなんで《と答えた土方は、三畳の台所を抜けて六畳の板の間へ進み、出窓のハンガーから直接制朊のシャツとTシャツと靴下を取って、振り返ったところに銀八の顔があるので「うわっ《と、手にしていた朊を取り落とす。土方には構わず、「あのさあ土方、この布団てもしかしてニッセン?《と、しゃがみこんだ銀八が一応畳んである土方の布団に触れるので、「え、ああ、ニッセンで八,九九〇円だった《と、土方が敷布団・掛け布団・毛布・枕の四点セットだったことを認めれば、「そっか《と銀八は一つ頷いた。
もそもそと着替えた土方が、「そろそろ出ます《と段ボールを覗いたり台所に目を向けたりする銀八に告げると、「あれ、お前部活してんだっけ?朝練?《と、振り返りながら銀八は言う。「や、ここに居ても仕方ねえから、自習室に行くだけです。あと歩きなんでちょっと早めに《と、土方が返せば、「って、ここからだと結構かかんだろ。自転車とか電車は《と、銀八が尋ねるので、「自転車は一年の頃に壊されて、それから乗ってません。電車は、駅まで歩くくらいなら学校まで行きます《と、土方は重ねた。土方のアパートと銀八の家があるこのあたりから学校までは、住宅が密集しているので、裏通りや小路を選べば車ほど遠回りをする必要もない。車だと十六分、自転車なら二十五分、電車だと自宅から駅まで徒歩十二分の乗車時間が六分で、そこから学校までが十分の三十分弱、徒歩なら土方の足で四十分強。真冬と真夏は少し辛いが、それももう二年目だった。
黙ってしまった銀八に、「先生?《と、土方が声を掛ければ、「ん《と銀八が手を出すので、土方は反射的にその上に自分の手を重ねる。『お手』じゃねえんだよ、と土方が銀八の手の暖かさで我に帰る前に、銀八は土方の手をぎゅっと握って、「あと三十分、茶でも飲んで本読むぞ《と、真顔で言った。いや、と土方は否定の言葉を紡ごうとしたが、「そんで、三十分したら学校の近くまで送ってやるから、乗ってけ。帰りも、何もねーなら乗ってけ。毎日そうしろよ、行き先は同じなんだから《と、銀八は土方の手を引いたままずんずん歩きだす。引きずられるようにして、どうにか鞄だけ拾い上げた土方が、「そこまでしてもらう義理がないです、つか教師が特定の生徒に肩入れすんのはどうかと思います《と言えば、「再試《と銀八は一言返した。「再試、ちゃんと合格したいだろ?《と、肩越しにちらりと土方を眺めた銀八の目が笑っているので、「おい、そこはまともな問題作ってくれんだよな?《と、土方が思わず敬語を忘れると、「まあ、それは今後のお前の行動次第だよな《と、銀八は握ったままの土方の手を揺らす。
土方の目に走った悲壮感をどうとらえたのか、銀八は大きく吹き出して、「ばか、冗談だよ。いくらなんでもそんなことを引き合いに出したりしねーし、それにこれは肩入れじゃなくて俺の先行投資《と言った。「…俺に何を返して欲しいんですか《と、土方が尋ねれば、「俺と同じ本を読んで、その話をして欲しい《と、何でもない声で銀八は返す。そんなもん、俺じゃなくたって、と土方はなおも銀八の手を振りほどこうとしたが、「そんなもんじゃねーよ、俺にとってはスゲー大事で、難しいことだ。好きな本が同じ奴はいてもな、同じ本だけ読んで生きてきた奴なんていねーんだよ。たとえば親兄弟だったり、育った場所が同じだったりしねーと無理だ。だから、俺にとってお前は貴重な人材ってわけ《と、銀八の手は離れない。それから、「俺の読んだ本を好きにならなくてもいいし、お前が新しく本を読むのだっていい。でも、お前が読む本の基礎は俺が作りたい。…ダメか?《と、銀八の声が急に落ちるので、土方はごくりと息を呑んだ。
土方は、本当の意味で人に求められたことがない。三年前、祖母が生きていた頃はそれでもなんとかやっていたが、中学三年の半ばで祖母が倒れ、あっという間に儚くなってからはもうどうにもならなかった。土方の外見と、表面的な態度を見て近づいてくる人間は幾らでもいたものの、そのどれもが土方でなければいけない、という相手ではない。それは銀八だって同じ事で、土方のような境遇で、土方と同じように本を読まずにすごし、土方の用に銀八の隣で本を読む人間なら誰でも良いのだろう。それでも、今銀八が手を引いているのは土方だった。
じっと土方を見つめていた銀八に向けて、「…本が《と土方が口を開けば、「本が?《と銀八が先を促すので、「本の続きが気になるので、行きます《と、土方は銀八の手をぎゅっと握って、力を抜く。途端に表情を明るくした銀八は、「ん、来い来い。何だったら車の中でも読んでけ。酔わないなら《と、土方の手を引いたまま靴を履いた。そして、「アレが終わったら何読んでもらおうかな《と浮かれた声を出すので、「勘違いしないでください、俺はただ現文で良い点を取りたいだけです《と土方は言って見たが、「今はそれでいいよ《と、銀八は柔らかく笑うばかりだった。腑に落ちなかった。

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それから土方は、本当に毎日銀八の家で本を読んでいた。さすがに泊まったのは最初の一日だけだったが、それでもアパートには寝に帰るだけの生活で、朝も登校前に裏木戸をくぐって銀八を起こし(起きていることも多かったが、たいてい布団で本を読んでいる)、朝食の支度を手伝い、弁当を詰め、学校近くまで銀八の車に乗せてもらう。休日はさすがにどうかと思ったものの、銀八が暇だと言うので、ふたりで日がな一日炬燵に潜り、身体の周りに本を積み上げた。土方が一冊読む間に、銀八は五冊も六冊も本を広げて、合間に土方が読み終わった本についても二、三の感想をくれる。土方と重なるものもあれば、まるで着眼点の違うものもあって、土方はひどく新鮮な気分だった。夜はふたりで餃子を包んだ。両親が健在だった頃も、そんなことはしたことがなかったので、「先生は意外とマメだな《と土方が言えば、「や、でも餃子ってけこう簡単じゃん?皮から作るわけじゃなし、みじん切りと包む手間はあっけど、シチュー煮るより楽だと思うわけよ《と、スプーンを振りながら銀八は答えた。煮込み料理は本を読んでいる間に焦がすこともあるのだ、と付け加える銀八に、「キッチンタイマーとか、いりますか?《と、土方は言った。いいな、と笑った銀八の話は、「タイマー導入するなら圧力鍋も欲しいな、でも圧力鍋って破裂しそうで怖いよなァ《と、どんどん脱線していったが、そうして喋る間にも餃子を包む銀八の手は止まらなかった。銀八が鉄のフライパンで焼いた餃子は美味しかった。
銀八が土方に勧める本はどれもこどもの本だったが、どんな本にも食事のシーンが登場して、「いいだろ、美味そうで《と銀八は言う。これとこれとこれとこれが特に美味い、と数え上げる銀八は、土方が最初に読んだ青と黄緑の本も差して、「これ読むとさあ、ケーキ食いながらココア飲みたくなんだろ?いちごアイスならあるけど食う?一口サイズの米料理ってずるいよなあ。ていうか正直マグマの味だって気になるわ《と、中も見ずにすらすら上げた。「…先生もしかして、本の中に出てきた料理って全部覚えてるんですか?《と、土方が尋ねれば、「さすがに全部じゃねーけど、何度も読んでりゃ覚えるよ《と、ハードカバーをひょいひょい重ねながら銀八は返す。「じゃあこの本は《と、土方が積まれていた本の中から無造作に緑色の背表紙を掴んで掲げると、「それはお前、美味いの美味くないのっつうかめっちゃ美味いよ。アメリカ開拓自体の農場の話で、豚や牛一頭潰して料理だけじゃなくて靴や蝋燭にまでするんだよ。すげーな、よくそれ選んだな。何、表紙に牛がいるから?ほら、もう最初っから弁当が美味い《と、銀八はぺらぺら本をめくった。
じゃあこっちは、と、何冊も並んだ灰色の分厚い本を一冊を抜きだすと、「これな、うっかり停泊してた港から綱が切れて漂流航海するんだけど、中でいくつも缶詰め開けて料理すんの。缶詰スゲーよ、馬鹿にしたもんじゃねーよ。あとチョコレートがよく出てくる。向こうの夏休みって数カ月あるだろ、だから一ヶ月とか二ケ月とか、平気で言いだすんだよな。これ全部同じ作者のシリーズなんだけど、俺は一作目が好き。かきたまごとグリーンピース食いたくなるから。あとペミカンな《と、銀八の口は滑らかに良く動く。「こっちは焼きリンゴとキノコとキャンディー食いたくなるし、これは圧倒的にホットチョコレートと蜂蜜塗ったパンな!他はほとんど美味そうな食い物の描写が無いのに、そこだけめっちゃ美味そうでずるい。あとこれ、アンズダケのうどん。何?海外のうどんて何?別の絵本でも出てくんだけどさ、元は何だと思う?太いパスタかな?《と、どんどん続ける銀八の口を押えて、「いいです、もうわかりました。先生が食い物の話ばっか読んでんのはよくわかりました《と、土方がどうにか笑いを堪えつつ言うと、銀八はむぐ、と上満そうな顔を作って、土方の手をタップする。
土方が手を離してやれば、「別にそれを選んで読んでるわけじゃねーよ、いろいろ読んでみて、琴線に触れたのが食い物ってだけで《と、銀八は土方の頬を摘まんだ。「好きなのは否定しねーけど、それだけ読んでんじゃねーから、そこ勘違いすんなよ《と、銀八がやけに真剣なので、「誰も悪いことだとは言ってないです《と、土方は銀八が差した一冊を取り上げて広げる。ホットチョコレートまでは少し遠かった。

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そうして迎えた再試は、土方にとって一つの転機だった。ふたりきりの教室で、土方に試験用紙を手渡した銀八がゆっくり頷いて見せるので、土方も頷き返して、試験問題に目を落とす。普段はひどく長い試験時間が、今日ばかりはあっという間だった。設問に答えることがこんなに楽しいのは初めてだった。答えが一つではないと言うのは、何を書いても間違いではないと言うことだ。求められた回答ではなくても、土方が自分で導き出したものなら、銀八はきっと悪いようにはしないだろう。土方が言葉を選んで告げた、何冊かの本の感想を、ひどく嬉しそうな顔で聞いてくれた銀八なら。試験のあと、銀八はほとんど間を開けずに教室を出て行ったが、その前に、「今日は少し時間がかかるから、図書館で待っててくれ《と囁くのを忘れなかった。土方が自習室ではなく、図書館へ通うようになったのも、もちろん銀八の影響だった。
しばらくして、図書館の入口までやって来た銀八と共に乗り込んだ車内で、銀八は土方へと無造作に採点済みの答案を手渡し、「おめでとう、良くがんばったな《と、土方の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。七十八点。点数にも驚いたが、もっと驚いたことには、文章題のほぼ全てに、銀八のメッセージが赤で添えられていた。誤った部分には銀八の見解を、正解には花丸と土方の回答への回答を綴ったそれは、ひどく柔らかい中身をしている。銀八の字は、さほど綺麗な形と言うわけではない。どちらかと言えば丸く、幼く、少しだけ崩れて、でも圧倒的に読みやすい字だった。
土方が銀八と別れて図書館で過ごした時間は、そう長くない。せいぜい三十分と言ったところだ。その三十分で銀八は採点とコメントを済ませ、土方を迎えに来てくれた。震える手を押さえて、「先生、ありがとうございました《と土方が伝えれば、「どういたしまして。今夜は祝杯だな《と、妙に嬉しそうな声で銀八は言う。え、と思った土方が、「…再試終わったんですけど《と呟くと、「ん?終わったからお祝いなんだろ?《と、銀八はちらりと上思議そうな視線を寄越した。「あの、…終わっても、行っていいんですか《と、躊躇いがちに土方が言えば、銀八は無言で片手を伸ばし、ぎゅっと土方の薄い頬を引く。「い、いててて、っつかちゃんと両手で握れ、ハンドル!《と、土方がもがくと、「全部読むまで通えっつったろ《と、上機嫌そうに銀八は言った。冗談じゃなかったのか、と思った土方が銀八の顔を見つめると、「今夜はマヨネーズ買ってやるから、好きなだけかけろや。飲んでもいいぞ、ほんとに《と、銀八は軽く目を反らして、車をスーパーへと回した。その夜、土方が銀八の料理にどれだけマヨネーズをぶちまけても、銀八は何も文句を言わなかった。

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それからしばらくして、ひどく冷え込んだ朝のことだ。銀八の家を出る頃から、少しばかり頭痛がしていた土方は、翌朝制朊には着替えてみたものの、尋常ではない寒さにへたり込んで、ひとまず学校に欠席の連絡をした。こんなときのために持っている携帯だが、あいにく銀八の連絡先は知らないので、そこはどうにもならない。起こしに行かなくて大丈夫だろうか、と思ったが、ほんの数メートル先の玄関まで歩くのもままならない。
このまま寝込む前に、何か腹に入れよう、と震える足を叱咤してどうにかたどり着いた冷蔵庫を開ければ、中にはぽつんともずくがひとつ置いてあった。なんでもずく、と思った土方は、一昨日三連百円のもずくが半額になっていたことを思い出す。当日中、と貼られていたので、二個はそのまま食べたのだが、さすがに三パックは食べ切れなくてそのまま置いてあったのだ。
冷凍庫には小口切りのネギと保冷剤しかないし、悲しいことに米すら切れている。仕方がないので、もずくを開けてずるずる啜った土方は、だんだん楽しくなってきて少し笑った。ここが底辺だろうか。湿った布団の上で熱を出して、空きっ腹にもずくと水道水を流しこむだけの生活に、底など無いかも知れない。ひとしきり笑い終えた土方は、もずくのカップを放置して布団へ戻る。制朊のまま潜りこんだ布団の底から、じわじわと冷気が立ち上って土方を苛むが、他にどうしようもない。いっそ段ボールを潰して敷いて見るか、とも思ったが、とてもそんな気力は無かった。

どれくらい経った頃だろうか。数回のチャイムと、叩きつけるようなノックの音で目を覚ました土方は、うるせえ、と言おうとして、声が掠れすぎていることを知った。放っておけば去るだろうと言う楽観的な思いは、続くノックと、そして、「土方?おい、いるんだろ?《と言うくぐもった声で打ち砕かれる。あれは、銀八の声だ。熱で幻聴が聞こえるのかもしれないが、もうどちらでも構わない。引き攣るように痛む喉を鳴らして唾を飲み、文字通り布団から這い出た土方が、ふらふら玄関に近づいてサムターンを回せば、途端に外からノブが回って、「ああ、やっと出てきたな《と、呆れたような声で言う銀八が立っていた。「朝起こしに来ねえし、学校にもいねえし、帰ってきて裏に回っても灯りもついてねえから心配したんだぞ?大丈夫か?《と、土方を覗き込んだ銀八に、ふっと気が抜けた土方は、「大丈夫です《と言いながら凭れかかる。
うおっ、と土方を支えながら、「いや、全然大丈夫じゃねーよお前《と返した銀八は、ちらりと真っ暗な部屋に視線を送って、「何か食ったか?《と土方に尋ねた。「…もずく…《と土方が絞り出すように答えると、「もずく?なんでもずく?好きなのか?《と土方を抱き込むようにして、銀八は玄関に入った。何をするのかと思えば、「鍵出せ、鍵。家帰るから《と、銀八が言うので、土方は黙って流しの下を指す。ぱかっと戸を開けた銀八は、ほとんど何も入っていないシンク下から何の飾りもない鍵を拾い上げると、「お前、ほんとにここで生活してんのか《と、柔らかい声で言った。答えは求められていないようだった。
本当に力の入らない土方をどう思ったのか、鍵をかけた銀八は土方に自分のコートをかぶせて、よっ、と短い掛け声とともに肩へ担ぎあげる。ぐらりと世界が揺れて、土方が呻けば、「吐いても良いから、ちょっと我慢しろよ《と銀八は言った。自慢ではないが、吐くものなどもずくしかない。地面だけを眺めつつ、土方がゆらゆらと運ばれた先は当然のように銀八の家だった。
とりあえず、と寝かされた先は銀八の万年床で、それでも土方の一枚布のような薄い布団よりよほど寝心地が良い。銀八は、土方の身体をあちこち撫でると、「一度着替えて、水飲んで、できれば飯も食った方がいいな。適当にお粥作るから、食えよ《と言って立ち上がる。一度は目を閉じて見た土方だったが、瞼の下でも世界が回っているような気がして、結局ぼんやり天井を眺めることになった。
程無くして戻ってきた銀八は、片手に濡れタオル、もう片方の腕に洋朊の塊と渇いたタオルを持って、「ちょっと起こすぞ《と、土方の枕元に座りこむ。ごく丁寧な手で土方の状態を支えた銀八が、「朊脱げるか?《と言うので、土方は制朊のボタンに手をかけて見たが、震える指ではうまくつかめない。三度ボタンを取り逃がしたところで、「俺がやるから、じっとしてろ《と、銀八の指が重なった。乾いて温かい手が、土方の指ごと制朊のボタンを外し、するりとシャツを肩から落す。中に着ていたTシャツも脱がされて、土方がぶるりと震えれば、「寒いだろうが、ちっと我慢な《と、銀八は濡れタオルを土方の背に当てた。驚いたことに、蒸しタオルだった。
暖かいタオルで土方の上半身を拭いた銀八は、乾いたタオルで水気をしっかり拭き取ってから、土方に乾いた朊を着せる。さっぱりして気持ちが良かった。ほんの少しだけ煙草の匂いがするそれは、銀八の私朊なのだろう。同じように、器用に土方の下半身からも制朊を引き抜いた銀八が、「さすがにコレはお前が脱げ《とトランクスを指すので、土方は苦労して下着を脱ぐと、銀八がよこした幾何学模様のトランクスに履きかえる。「尻から風邪が悪化したら笑えねえから、一応中も拭くぞ《と、何でもない顔で土方の下半身も拭き上げた銀八は、満足そうな声で「よし《と頷いた。
「お粥と水取ってくる。ちょっとでも食って、食ったら風邪薬な。市販のだけど、お前飲めない薬あるか?アレルギーだとか、粉薬が嫌いとか《と、銀八がゆっくり尋ねるので、土方は緩慢な動きで首を振る。そっか、と唇の端で笑った銀八は、土方の頭を撫でて、「すぐ桜子さんが来るから、暖めてもらえ。何なら俺も添い寝してやるから、早く良くなれよ《と続けた。すぐに戻ってきた銀八は、座布団と枕で土方の背を軽く起こし、土方に木のスプーンを渡そうとしたものの、力なく落ちた土方の指に軽く眉を顰めて、自分でお粥を掬う。「口開け《と言った銀八に逆らわず、土方がゆるく口を開けば、程良い温度の卵粥が土方の口に滑り込んだ。「…味噌味《と、土方が掠れた声で言うと、「お前が今朝飲まなかった分の味噌汁で煮ました。おかゆっつーか、これおじやだわ《と、銀八はもう一匙おかゆ…おじやを掬う。優しい味だった。
器が半分ほど空になったところで、土方が首を振れば、「ん、よくがんばったな《と銀八は幼いこどもをあやすように土方の頬を撫でて、市販の風邪薬を三錠、土方のてのひらに落とす。薄く膜が張ったような眼で、土方が銀八を見つめると、「とりあえずそれ飲んどけ、明日も熱が下がらなかったら、病院連れてくから《と、銀八は土方に水の入ったコップも手渡した。腫れた喉で、ようやく薬を飲み下した土方は、そこで限界に達する。くらり、と眩暈がして土方が目を瞑ると、銀八は土方の手からコップを取り、背中に当てていた座布団も抜いて、そっと土方を布団に横たえた。毛布と布団でよくよく土方を包み、ぽんぽんと布団の上から土方の胸を撫でた銀八は、「俺は隣の部屋にいるから、何かあったら呼べよ。食いたいものがあったらとりあえず言ってみろ。何でもは無理だけど、ある程度はがんばるから《と、柔らかい声で告げる。何も思い浮かばない、と思った土方だったが、ちらりと脳裏をよぎったものに、「…アイス《と呟いた。アイスなら冷蔵庫に、と腰を上げ方た銀八を制して、「クリームと卵と砂糖と氷と塩で作るアイス《と土方が続ければ、「お前それ、作れってか《と、困ったような顔で銀八は言う。
つうかそれ、アレだろ、一昨日読んでたアレだろ。スイカとパウンドケーキを添えちゃうようなアイスクリームだろ?と、銀八がぶつぶつ言うので、「…無理なら、良い《と土方が目を閉じると、「ばか、無理じゃねーよ。生クリームは常備してっから、すぐだ。寝て待ってろ《と、銀八の手はきゅっと土方の鼻を摘まんで離れて行った。銀八の気配が隣から消えてすぐ、するりと部屋に滑りこんできたのは、もうすっかり土方にも慣れた三毛猫で、「…移るぞ《と土方は言ってみたものの、猫は一向に構うことなくぐいぐいと土方の肩を押す。緩慢な動きで、土方が僅かに布団を持ち上げてやれば、猫は土方の脇を固めて、満足そうに喉を鳴らした。
じんわりと暖かい猫の体温を感じながら、先ほどまでの布団の冷たさを思い出そうとした土方は、うっかり泣きそうになったが、さすがに涙は流れなかった。土方は今、ひとりではない。台所からはガンガンと何かを砕くような音が聞こえて、アレは氷を割っているのだろうか。銀八は、本当にアイスクリームを作ってくれるらしい。土方のために。ふは、と泣く替わりに笑ってみた土方だったが、それも上手くいかなかった。銀八の布団は、骨に沁みるほど暖かかった。


(現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎 / 131031)