天蚕

素裸のまま枕を抱えていた近藤は、不意に足首を掴まれて目を開けた。首だけを持ち上げて見れば、一緒に布団に入っていたはずの土方が、シャツだけを羽織って近藤の足首を膝に乗せて座っている。
「どうした?寝ないのか」と、近藤が声を掛ければ、土方は顔を上げて、「ああ、あんたは寝てていい。足だけ貸してくれ」と、土方は薄く唇を緩めた。
足だけと言われても、と近藤が肘をついて土方の動向を見守っていると、土方はどこから取り出したのか、真っ赤なマニキュアの蓋を開けて、近藤の爪に塗り始める。
「…何してるんだ?」と、近藤が今度こそ戸惑いと呆れを含んだ声で言えば、「あんた
に似合うと思ったから」と、真剣な表情で色を乗せながら、土方は言った。まるで答えになっていない。
 
土方は、閨でときおりこういうことをする。近藤のてのひらを揉み始めたり、髪を梳いてみたり、スキンケアをしたり、この間は「ケツ毛を剃って良いか?」と尋ねられた。
近藤にとって、ケツ毛はお妙とのラブストーリーに欠かせない大切なアイテムなので、近藤も一度は断ったものの、「全部じゃねえよ、整えるだけだ。お妙さんだって、ただの大草原より庭園の方が楽しめると思わねえか?」と、土方に口説かれて了承してしまった。おかげで、今は褌の中でケツ毛が泳がずに済んでいる。
それで、今夜はマニキュアか、と、熱心な土方の手元に目を落とした近藤は、ばふっと布団に背中を落とした。誰に言う話でもないが、近藤の爪は常に土方が整えている。普段は大雑把な土方が、近藤と己の爪だけはごく丁寧にやすりで削っていることを、隊の誰が知っているだろう。総悟にだって教えたことは無い。
爪切りで充分ではないか、と言った近藤に、「あんたの爪が割れたら俺が困るし、あんたを傷付けても困るだろ」と、土方は二人きりの時にだけ見せる蕩けたような笑顔で土方は答えた。土方の長い指が、近藤のどこに触れるかを思い出して、近藤が目を泳がせれば、「あんたはいつになっても初心でいい」と、土方はあやすように近藤を引き寄せて、顔中に唇を滑らせたことを覚えている。

というわけで、近藤の爪はいつも伸びすぎず、また短すぎることも無くそこに在った。マニキュアを塗る土方の指が妙に手馴れていることにも、近藤はたいした疑問を持たない。土方は近藤と違って、よくモテる。それは褥に招き入れる、と言うだけの話でなく、相手に気に入られることが多いと言う意味だ。いつか近藤に施した化粧も、日々の爪の手入れも、そしてこのマニキュアだって、土方は別の誰かに教わってきたのだろう。
やがて、両足の爪を塗り終わったらしい土方は、「ちょっとこのままでいてくれ」と、近藤の足をそっと布団に下ろして、立ち上った。均整の取れた土方の身体は、後姿だけでも十分美しい。後ろの押入れをすらりと開けて、土方が取り出したのは毛布である。
待たせた、とほんの十数秒で戻ってきた土方は、近藤の足をまた膝に乗せて、自身は毛布をかぶった。「…寝ないのか?」と、近藤がもう一度尋ねると、「あんたの爪が乾いたら、寝るよ。もう少しかかるから、ちゃんと布団を肩まで掛けて寝てくれ」と、土方は近藤の足を撫でながら言う。
「それで、この爪はどうなるんだ」と、近藤が言えば、「帰ってきたら落とすから、明日と明後日は一日靴下を脱がないでくれ。誰かに見せたいなら構わないが」と、土方は答えた。そう来るか、と掛け布団を握り締めた近藤は、土方が明日の朝から出張に出ることを知っている。二泊三日のそれは、松平の共として京へ赴くもので、土方は江戸を離れることができない近藤の代理だった。
奇妙な沈黙のあと、「そんなことをしても飲んだら脱ぐし、そんなことをしなくてもお前以外とは何も起きないぞ」と、近藤は言ってみたが、「何言ってんだ、あんたがしたいことはなんでもすりゃあいい。後始末は俺の務めだ」と、土方の答えはやはり的を外している。
声の調子を変えて、「京で、あんたの好きそうなものを見つけたら買ってくる。総悟は…何を欲しがるだろうな。俺が向こうで死んできたら喜ぶだろうが」と、土方が言うので、「総悟はお前が欲しいんであって、自分の与り知らぬところで死んだら怒るだろ」と、近藤は返した。
そうだな、とやはりいつも通りの声で頷いた土方は、近藤の脛に指を流し、「あんたは?」と続ける。「あんたは、俺が向こうで死んで帰ってきたらどうする」と、近藤の脛毛を玩びながら土方が言うので、「…爪の色が落とせなくて困るだろうな」と、近藤は答えた。
ふはっ、と笑った土方が、「わかった、じゃあ死なずに帰ってくる」と、冗談めいた声をあげるのに、「そうしてくれ」と必要以上の感情が籠もらないよう努力しながら近藤は言う。
結局、爪が乾くまでは近藤も眠らなかった。

G G G

土方が屯所に帰ってきたのは、それから一か月後のことだった。京の都で無数の攘夷浪士に囲まれ、松平を庇って深手を負った土方は、三週間と少しの入院を余儀なくされた。一時は重体で、武州に残る土方の親族にも飛脚が送られている。命を取り留めた後も、大事を取って江戸への搬送はされず、土方はずっと京で治療を受けていた。
当然のことだが、近藤は行けなかった。沖田も、そして各隊の隊長も、土方の欠けた穴を埋めることに必死で、京まではとても出られなかった。かわりに、と言っては何だが、山崎とともに万事屋を京へ送り出した近藤は、「昏倒させてでもベッドに寝かせておいてくれ」と、銀時に依頼している。定時に連絡を寄越す山崎の談では、土方は四度、銀時に引きずり戻されたらしい。
そして今、隊服ではなく着流し姿の土方は、銀時と山崎に挟まれるようにしてタクシーを降りると、屯所の入口で待ち構えていた近藤に、「世話を掛けた」と深々と腰を折って見せた。
随分痩せた土方の姿に、「馬鹿野郎、そこは迷惑じゃなくて心配をかけた、と言うんだ」と、泣き笑いで近藤が返せば、「いや、こいつ本当に迷惑だったよ、毎日お前の名前読んで魘されるしよ。深夜手当も付けて欲しいくらいだよ」と、土方の肩を抱きながら銀時が言うので、「おう、俺のポケットマネーでなんとかする」と力強く近藤は頷く。
馬鹿言え、なんでテメーに報酬なんざ、と暴れる土方を簡単に押さえつけて、にやっと笑った銀時は、「じゃあまあ、お大事に。あと、ごゆっくり」と意味ありげな言葉を残すと、「おいジミー、ついでだから俺もタクシーで帰るわ。金」と、立ち尽くしていた山崎から車代をむしり取って去って行った。
あの野郎、と息巻く土方に、きっと京でもこれくらい血の気が多かったのだろう、と安堵した近藤は、「俺が頼んだんだ、報酬も俺が決めるさ。トシ、お前の体に障らない範囲で、今夜は宴会だ」と、土方の背を叩く。どれだけ薄くなっても、やはり土方は美しかった。

騒ぎも収まった夜更けに、土方は近藤の足元を眺めて、「ずいぶん伸びたな」と、そっと近藤の爪先を撫でる。ところどころ塗が剥げた近藤の爪は、土方の言葉通り伸び放題だった。
「だから言っただろう、帰ってこないと困ると」と、近藤が言えば、「そうだった」と土方は柔らかく目を伏せて、近藤の爪に除光液を染み込ませた脱脂綿を当てる。
軽い動きで近藤の爪を拭いながら、「あんたが待ってるから、俺は帰って来られたんだ」と、土方が言うので、「いつでも待ってる。いつまでだって待ってる」と、近藤は体を起こして、土方の身体を抱きしめた。たとえ土方が信じなくても、そして本当のことでなくても、近藤にとっては紛れもない真実だった。


( ペディキュアと言う言葉を知らない近藤さん / 土方×近藤 / 131027)