まわるまわる_02

ひじかた、と声をかけられた時、一瞬どこにいるかわからなかった。はっ、と顔を上げれば、向かいにはしまりのない顔をした国語教師が座っていて、土方はますます混乱する。「それ、面白い?」と、手元を指されてようやく、ここが銀八の家で、自分が本を読んでいたのだと言うことを思い出した土方は、「…面白い…です」と、絞り出すような声で言った。とたんに、ほっとしたような顔で笑み崩れた銀八は、「ずっと難しい顔してっからさ、ちょっとドキドキしてたわ」と返して、そっかァ、これが面白いなら大丈夫だろお前は、と独り言のように続ける。
それから、「じゃあやっぱ邪魔して悪ィんだけど、もうすぐ19時」と、銀時は土方の背後を指した。振り返れば、柱に掛かった古めかしい振り子時計が、たしかに7へ掛かろうとしている。「か、帰ります!遅くまで失礼しました」と、腰を浮かせた土方は、しかし残り1/4ほどになった本にちらりと目を落とした。続きが気になる。読みたい。読んでしまいたい。ごく、と唾を飲んでから、「先生、これ借りて行っても…」と土方が尋ねれば、「いいよ、持ってけ持ってけ」と、銀八は気安く答えた。
ぶわっ、と多幸感に包まれた土方をよそに、「気になるよなー、読み切りてェよなー。わかるわかる。お前また来いよ。こんな急じゃなくて、親御さんにも言ってあればいくらでも読んでっていいからな」と、銀八は手を伸ばして土方の肩を叩く。アレ、と思った土方が、「先生、俺のこと知らないんですか」と首を捻ると、「え?土方十四郎…だろ?2年Z組の」と、銀八が間の抜けたことを言うので、「そう言うんじゃなくて、俺親はいないです。今一人暮らしです」と、土方は返した。だから連れてきたのではなかったのか。
一瞬走った沈黙のあと、「…俺、個人情報にあんま興味ねーんだわ」と言った銀八に、「いやテストの点」と土方が突っ込むと、「それはそれだ」と、銀八の答えは軽い。んー、と空中を見上げた銀八が、「なら飯食ってくか?」とやはりごく軽い調子で言うので、「別に食うに困ってるわけじゃないです」と、土方が首を振れば、「誰もそんなことは言ってねーよ。ここからお前んちがどれくらいだか知らねーけど、行って帰ってくる間に数十分はかかんだろ。もう7時なんだし、俺も腹減ったし」と、銀八は面倒くさそうに続けた。
いろいろ言いたいことはあったが、「…先生、送ってくれるつもりだったんですか?」と、土方が一番気になったのはそこである。「いやいやいや、普通だよね?そんなびっくりするようなとこじゃないよね?車で初めて来たような場所から一人で歩いて帰れって、俺どんだけお前に期待されてないの?」と、焦ったような顔をした銀八に、「先生にも人の心があったんですね」と、心の底から土方が言うと、「ちょっ、ひどくね?キャラ変わってませんか土方くん?!」と、銀八はガタガタちゃぶ台を揺らした。
暴れる銀八には構わず、「飯…は、別にいいんで、これ終わるまで読んでっていいですか」と、土方が青い本を指せば、銀時はにやりとわらって、「飯食いながらでも本は読めるだろ」と返す。ちなみに、と悪い顔のまま本の山を探った銀八が、「続きもあるんだな〜」と、黄緑色の表紙を掲げるので、「…読めるだけ読ませて下さい」と、土方は陥落した。
食事を作るなら手伝います、と言った土方を制して、「いいからお前はそのまま本読んでな。気持ちいいだろ、わけわかんないくらい時間飛ぶだろ、それ味わってろ」と、銀八が言うので、「その言い方、麻薬みてーなんですけど」と土方が返せば、「似たようなもんだ」と銀八は笑う。何がそんなに嬉しいのかわからないが、ひどく上機嫌な銀八の後ろ姿を見送った土方は、またぱらり、と本のページをめくった。
文字を追う間も、周りの音が聞こえなくなるわけではない。ただ、それが何一つ自身への刺激にならないだけで、ということを身をもって体験した土方は、今度も、「土方、飯」と銀八に突かれるまで、本に没頭していた。見れば、いつの間にかちゃぶ台からは本がきれいに無くなって、土方の前とその向かいに湯気の立つ食事が並んでいる。ご飯とみそ汁と青椒肉絲、小鉢は茹でキャベツとベーコンのポン酢和え、デザートに、と置かれたのは三連のプッチンプリン。
「あんまり人に食わせたことはねーから味は保証しねーけど、飯とみそ汁はお代わりもあるからな」と言った銀八は、最後にほうじ茶を注いだ湯呑を土方に差し出した。湯呑は土産物屋で見るような、魚偏の漢字がたくさん書かれたものだったので、土方が思わずそう言って笑うと、「鋭いな、コレ俺が高校時代に修学旅行で買った奴」と、銀八は返す。綺麗な湯呑ってこれくらいしか無かったんだよなー、探せばもうちょっとマシなもんもあると思うんだけど、とごく普通の調子で続ける銀八に、「いえ、これでいいです。これがいいです、ありがとうございます」と、土方が言えば、軽く頷いた銀八は、「冷めないうちに食おうぜ」と、土方に向けて箸立てを傾けた。
食事の間は、当然本を置いておくつもりだった土方は、しかし向かいで銀八が当然のように文庫本を読み始めるので、「あの、先生?」と声をかける。すると、銀八が顔も上げずに半球型のガラスを差し出すので、「何ですかコレ」と、土方は青椒肉絲を飲んでから尋ねた。「文鎮」と返した銀八は、「机に本広げて、それでページ押さえりゃ、食いながら読めんだろ」と、やはり当たり前のように言う。「汚れますよ、本」と、土方が戸惑っていれば、ようやく顔を上げた銀八は、「そもそもそんな綺麗な本じゃねーよ。子供の本なんだって、俺がガキの頃からさんざん菓子食ったり飯食ったり風呂入ったりしながら読んでる本なんだから、気にすんなって。他でやったら馬鹿だけどな、今ここに俺しかいねーし、俺がいいっつってんだからいいんだよ」と、銀八は箸を持ったまま味噌汁を啜った。
どう考えても行儀の良い行為ではない。けれども銀八は普通に本を読み続けているし、ガラスの文鎮は綺麗に光るし、続きも気になる。そろり、と本を広げた土方は、温かい食事を味わいつつ、また文章を追い始めた。向かいで銀八が喉を鳴らしたような気がしたが、それも気にならなかった。

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プリンまで食べ終わり、銀八が淹れてくれた二杯目のほうじ茶を飲み干したところで、土方はようやく一冊を読み終えて、ぱたん、と本を閉じる。はー、と思わず息を吐いた土方が目を上げると、また綺麗に片付いたちゃぶ台の上に猫が座っていた。びく、と身体を揺らした土方の前で、綺麗な三毛をした猫は片目を開けて、ちらりと土方を一瞥すると、何事もなかったかのようにまた眼を閉じる。緑の目だった。土方が固まっていると、「あ、お帰り桜子さん」と、洗い物を終えて台所から帰って来たらしい銀八が、土方越しに猫を撫でる。ぱったぱった、と億劫そうに尻尾を揺らした猫は、引き続きそこで眠るようだ。
「先生の猫か?」と、土方が尋ねれば、「俺のっつーか、この家の。桜子さん。『さん』まで名前な」と、銀八は答える。それから、「猫、嫌いか?もしかしてアレルギーとか」と銀八が土方の顔を覗き込むので、「いえ、違います。触ってもいいですか」と、土方は猫から目を反らさずに言った。ふ、とゆるく笑った銀八は、「それは桜子さんに聞けよ。ちなみにそいつ、お前より年上だから、丁重にな」と、土方の頭に手を置く。それこそ、猫を撫でるような動作で。
読み終わった本をそっと脇に流した土方は、なんとなく正座で猫に向き直ると、「触ってもいいですか、桜子さん」と、そっと呼びかけた。こんどこそ両目を開いた三毛猫は、じっと土方の様子を伺ってから、ほんの少しだけちゃぶ台を移動して、土方の手が届く位置に座り直す。「これは」と土方が銀八に向き直ると、「いいってことじゃねーの?」と面白そうに銀八が言うので、「お邪魔します」と宣言した土方は、掠めるように猫の背へと指を伸ばした。触れても逃げない事に気を良くして、土方が頭から背までを何度か撫で下ろすと、三毛猫はまたぱたり、と尻尾を動かす。
土方がしばらく無心で猫と触れ合っていれば、「土方、猫好きなんだな」と、笑みを銀八の含んだ声で落ちて、「こんな近くで、こんな風に触れたのは初めてです」と、土方は返した。それからようやく、「…年上?」と土方が零すと、「うん、桜子さんは俺とほとんど同じ時期にこの家に居付いたから。18歳くらいだな」と、銀八は土方の手を邪魔せずに、猫の耳をするする撫でた。居付いた。土方が手を止めると、猫はゆっくり伸びをして、ちゃぶ台から音もなく飛び降りると、器用に障子を開けて出て行く。土方が無言で猫を見送れば、「戸を開けるうちは大丈夫で、開けた戸を閉めるようになったら猫又だとよ」と、銀八は言った。
「桜子さんに餌はいいんですか」と、土方が尋ねると、「うん、廊下の端にいつもおいてあるから、ここではやんねえの。あと、たぶんあいつ他でも飯食ってる」と、銀八は返す。そこではっ、とした土方が、「そういえば先生、ご馳走様でした。美味かったです」と銀八に告げれば、そりゃ良かった、と銀八は頷いて、「嫌じゃなきゃ、また食いに来いよ。本読むついでに」と、本棚を指した。土方が答えられずにいると、「だからその顔止めろって」と、銀八はむにっと土方の頬を抓む。「どんな顔ですか」と土方が言うと、「さっき言っただろ。警戒心剥き出しの顔してやがる」と、銀八は笑った。
そんな顔はしていない、と土方は首を振ったが、「そうか?」と銀八に見つめ返されて、少しばかり言葉に詰まる。「…飯食わせてくれる人は、先生以外にもたまにいるんですけど、俺本当に食うには困ってないんです」と土方が言えば、「だからそういうんじゃねえって。別にお前が天涯孤独だろうがなんだろうか、たいして気にはしねーよ。俺はただ、俺の好きな本読んでお前が笑ってたのがなんか、ちょっと嬉しかっただけだ」と、ガシガシ土方の髪をかき混ぜた銀八は、「うん、お前また来いよ。便所でも布団でもどこででも、この家の中ならどこで本読んでもいいから」と、勝手に決めて立ち上がった。「さっきは貸してくれるって言ってましたよね?」と土方が返すと、「やっぱ止めた。本貸すと、お前たぶん寝食削るわ。ここでそれ最後まで読んで、すっきりして帰って寝ろ」と、銀八はひらひら手を振る。
手元の黄緑色を見下ろした土方が、「…今から読むと、たぶん11時過ぎると思いますけど」と呟けば、「だろうな。もう泊まってくか?それもいいな、風呂でも本は読めるしな」と、銀八の声は果てしなく軽い。ふっ、と笑った土方に、「なに?」と銀八が驚いたような顔をするので、「先生は本が好きなんだな」と、土方が言うと、「まあ、三度の飯よりは。あーでも、いちご牛乳には劣る…いや、互角だな」と、銀八は真剣に悩んでいるようだ。
ははっ、と今度こそきちんと土方が笑えば、「なんだよ、お前が聞いたんだろ」と、銀八は照れたような顔で、また土方の髪に手を伸ばす。銀八の手をすり抜けた土方が、「今夜は帰ります」と言うと、「そか、また来いよ。つかお前の家どの辺?」と、銀八はやはり何の感慨もなく帰した。土方は無言で立ちあがると、台所へ続く襖をがらりと開けて、その先の掃き出し窓に面した廊下まで進む。土方?と後に続きながら言う銀八をよそに、がらがらと窓を開いて、「そこに、アパートありますよね、三階建ての」と、土方が斜向かいを差せば、「あー、あのボロアパートな。俺が子供の頃も充分古くて、出るんじゃねーかって噂もある…」と、そこまで言って銀八は言葉を切った。
「出るんですか」と、土方がごく冷静に尋ねると、「いや、ガキの噂。別に何があったわけでもねーよ」と銀八はきっぱり首を振って、「お前あそこに住んでんの」と、問い返す。はい、と土方が頷けば、「ずいぶんご近所さんだなァ。なあ、中どうなってんの?俺スゲー気になる」と、銀八はひどく楽しそうに言った。
「どうもこうも…入口の脇にスゲーちっさいガスコンロ付の流しがあって、冷蔵庫置いたらトイレのドアが半分開かなくなって、風呂場にゴキブリが出て、畳でもフローリングでもない四畳半の板の間に布団敷いて寝てます。暖房が無いんで、冬は毛布三枚かけて」と、土方が答えると、「うっわ、スゲーなそれ」と、銀八は本当に何が楽しいのか、げらげら笑いながら土方の肩をバシバシ叩いた。そして、「それって、食うに困ってないって言うか?」と、続けた銀八の目の奥が笑っていないので、「腹いっぱいにはなりますよ、毎日そうめんでも」と、土方は返す。
ふうん、と頷いた銀八は、がらがらと元通り窓を閉めて鍵をかけると、土方の手を引いて台所を横切り、本棚が立ち並ぶ部屋の隣、銀八の布団が敷かれた部屋に土方を連れて行った。「先生?」と言った土方に、「布団、ちょっと寄せて」と押入れを開けながら銀八が言うので、土方が素直に敷きっぱなしの布団を脇へ押しやれば、銀八は空いた畳に敷布団をどさりと落とす。「敷いて」と土方に声を掛けた銀八は、しばらく押入れを探ってからどこかへ行ってしまい、戻ってきた時には箱入りのシーツを手にしていた。
「古いけど、新品は新品だから」と言った銀八が、布団へシーツを広げるのを手伝って、土方がぴんと張ったシーツを布団の四隅へ押し込めば、「お前蕎麦アレルギーとかねーよな?」と、枕を手にしながら銀八は尋ねる。「…あの、徒歩で帰れるっつーか、一分で帰れるんですけど」と、受け取った枕を布団へ置きながら土方が言うと、「だからだよ。いいじゃねーか、何があっても帰れる距離なら帰んなくても。ここゴキブリは出ねえよ?桜子さんがときどきバッタ捕まえてくるけど」と、さらに毛布と掛け布団を引っ張り出しながら銀八は返した。
「っつーか俺、先生のこと何も知らねーし」と、土方が毛布と掛け布団を重ねつつ言い募れば、「なに?俺のこと知りてーの?」と、銀八はきょとん、と首を傾げる。その拍子に銀髪がふわふわ揺れて、「とりあえずその髪が自毛かどうか教えてください」と、土方は言った。ふはっ、と笑った銀八は、土方が敷いた布団の真ん中に座り込んで、「自毛だよ。触ってみっか」と、土方に向かって頭を下げる。「いや、別に触りたいわけでは」と、土方は言ったが、銀八が動かないので、さきほど猫を触った時のようにそっと指を伸ばして銀髪の端を抓んだ。
「…意外と柔らかいんですね」と、土方が感想を述べると、「意外か?わりと柔らかそうに見えるって言われんだけど」と銀八は言う。「色が色だけに、ワイヤーみたいな触感なのかと」と、土方が返せば、「お前結構想像力豊かじゃねーか」と、銀八は土方の指を掴んだ。「で?」と、銀八が布団に正座する土方へと水を向けるので、「朝になったら帰ります」と、土方は答える。うん、と頷いた銀八は、「風呂入れるから、沸くまで読んでな」と、隣の部屋から黄緑色の本を取って、土方に差し出した。
「風呂は自分の家で、」と土方は言いかけたが、「人の家の布団借りるときは、風呂も借りるのが賢明じゃね?」と、銀八は歯牙にもかけない。それはそうだな、と納得した土方が、ともかく本を開けば、「寒くなってきたから、上脱いでこれ着とけ」と、銀八は布団に紺色の半纏を落とした。猫の毛がついていた。

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それからまた時間が飛んで、銀八が風呂に案内してくれる間も意識は文字に向けられていて、風呂には持って入れないからと土方が名残惜しく本を閉じようとすれば、「風呂の蓋半分閉じて、そこに本を立てるといいぞ」と、銀八は当たり前のように風呂でも本を読むらしい。手早く体と頭を洗って、助言通り湯に浸かったまま本を読んでいた土方は、お湯が人肌以下の温度になったあたりで風呂を出た。用意されていたタオルで水気を拭いながら、あらためてぐるりと辺りを見回す。台所もそうだったが、風呂も新しくはない。それでも小石タイルの浴室は清潔だったし、どういうわけかひどく暖かかった。暖房が効いているのかもしれない。シーツに引き続き、タオルも新品だった。ご丁寧に新品の歯ブラシセットまで置かれているので、土方は少しばかり背の低い洗面台でわしゃわしゃ歯を磨く。なんとなく開いてみた歯ブラシ立てには、ピンクの歯ブラシが刺さっていて、土方は思わず笑った。銀八には良く似合うだろう。そう思う自分が可笑しくて、もう少し笑った。
置いてあった寝間着を身に着け、灯りを辿って部屋に戻ると、銀八は土方と似たような服装に着替えて、布団に足を突っ込んだ形で本を読んでいる。土方が布団に膝を突けば、「長かったな」と、銀八が顔を上げるので、「それ、さっきと違う本ですよね」と、土方は銀八の手元を指した。先ほどの本は文庫だったが、今銀八が開いているのは新書である。「さっきのは飯時に読む本で、これは昨日買った新刊」と、答えた銀八が、「ちなみにこの枕元に置いてあんのが寝る前に読む本で、こっちは朝読む本な。学校ではジャンプと、あと学校の本を読む」と、続けるので、「…なんで一冊ずつ読まないんですか?」と、土方が尋ねると、んー、と首を捻った銀八は、「詠み終わっちまうのが寂しい…からかな」と言った。
じゃ俺も風呂入って来るから、お前は布団に入って読めよ、と、銀八がまた違う本を手に風呂へ行ってしまうので、土方は首にかけていたタオルを畳んでから、毛布と布団の隙間に潜りこむ。どこにも暖房の姿はないのに、四畳半の土方の家とは比べ物にならない温かさに、土方はふわあ、と欠伸を一つ落とした。黄緑色の本は半分も読み進めていない。続きが気になるのに、うまく文字が頭に入ってこなくて、土方は何度か目を擦る。開いたままの襖から、柱時計を見上げれば、まだ10時にもなっていなかった。
銀八にそう言った通り、土方が教師に飯を食わせてもらうのは、これが初めてではない。だが、手料理を振舞われるのは初めてだった。そしてそれが苦痛でなかったことも。土方の家庭環境を知った相手は、だいたい皆似たような表情で、土方の肩を叩いてどこかの店へ連れて行くのだ。遠くの方からじわじわと責めるような、ぬるま湯のような同情に浸された食事は、正直何の味もしなかったが、一食浮くのは実際ありがたかったので、感謝はしている。
普段土方は、暗くなりかけるまで学校の自習室で勉強して、自宅へ戻ってからも勉強して、適当に空腹を満たして、また勉強して、12時になったら布団に入って天井を眺めて眠りが訪れるのを待ち、運が良ければ6時まで眠り、悪ければ4時頃起き出してまた勉強して学校へ行くような生活をしている。勉強ばかりだが、正直他にすることも無いのだ。高校入学と同時に住み始めた、収納も無い四畳半には、鍋釜一式と冷蔵庫と中古の洗濯機、教科書や参考書が詰まった段ボールが一箱、その他生活用品が詰まった段ボールと着替えの入った段ボールが二箱ずつ、それと布団が一組しかない。もう少し何とかした方が良いのかもしれないが、そもそも土方しかいない部屋である。土方にとっての家とは、つまりずっと、眠るためにあるものだった。うまく眠れた例も無かったが。
だというのに、この部屋は何だと言うのだろう。初めて来たのに、どこか懐かしいような気がする畳の上で、土方は古い児童書を枕にうとうとしかけている。眠りたくない、と思うのも初めてのことだった。朝になれば、土方は家に帰らなければならない。だったら、やはりこの本は終わらせてしまいたい。でも眠い。土方が枕の上で葛藤していると、「何してんの、お前」と、いつの間にか帰ってきた風呂上りの銀八が、土方の頭に手を置いた。
ぐらぐら揺れる頭で見上げた銀八は、いつもよりしぼんだ銀髪頭で、片手にコップを持っている。土方がじっと銀八の手元を見つめていると、「飲む?」と銀八がコップを差し出すので、土方はなんとなく一口貰って、思わぬ味に目を見開いた。「なに、何飲んでんだ先生」と、何とか飲み込んだ甘い液体に土方が喘げば、「いちご牛乳」と銀八は事も無げに答えて、そのままごくごくコップの中身を飲み干してしまう。
「プリンも食ってたし、甘いの好きかなーって思ったんだけど、違ったかァ」と、笑った銀八に、「嫌いじゃないですけど、どうせ飲むならマヨネーズがいいです」と、土方が返すと、「…んっ?マヨネーズは飲み物じゃ…うん?寝ぼけてる?」と、銀八は土方の前髪をかきあげた。寝惚けてはいない。飲めるものならマヨネーズが飲みたい、と、土方が常々思っているのは本当のことだった。「まー飲みたきゃ今度買ってやるわ、飲めるんなら」と、土方の言葉を流した銀八は、「眠いなら寝なさい」と、土方の手から黄緑色の本を引き抜く。
あ、と声を上げた土方に、「いつでも読みに来られる距離だろ」と、銀八が言うので、「いつでも来ていいんですか」と、土方が言えば、「いいよ」と銀八はごく軽く土方の言葉を肯定した。「…それで、マヨネーズも買ってくれるんですか」と、土方が続けると、「拘るな。マヨ好きなの?いいよ、買ってやる」と、あやすように銀八は土方の髪を撫でて、「毎食そうめんはさすがに可哀想だから、夕飯くらいは家に食いに来いよ。あと畳持ってくか、四畳半分。むしろもう住んでもいいぞ。部屋は余ってんだし」と、言葉を重ねていく。
なんで、と土方が唇の端に乗せれば、「土方が本好きになりそうだから」と、銀八の答えは答えになっていない。「この家にある本、全部読むまでいていいぞ。そしたらきっと、現文も100点になるし、お前は俺のことがわかるようになるし、俺はお前のことがわかるようになるよ」と、銀八が言うので、「その頃には、現代文のテストなんて受けなくても良くなってそうですけど」と、土方は返した。何年かかるだろう。一万冊の本。全部、銀八が読んだ本。
それはそれでいいんじゃね、と言った銀八は、手にしていた黄緑色の本に糸栞を挟んで、土方の枕元に置いた。「だから今日は寝なさい」と、頭を撫でた手が離れて行くので、土方はゆるく目を閉じてから、「もう少し、先生の声が聞きたい」と呟く。他意は無かった。ただ、眠るまでの間、銀八の声が聞こえていたら幸せだろうと思ったのだ。土方はいつも、音のない部屋で眠りを待っている。
低い笑い声が聞こえて、「やっぱり、お前本好きになるわ」と言った銀八が立ち上がる気配を感じた。ほんの少しだけ畳を揺らして、すぐ帰ってきた銀八は、「お前が寝るまで、絵本読んでやるから」と、土方の枕元に座る。俺はガキか、と土方は思ったが、銀八にしてみればその通りだろう。二、三度咳払いして、ごく低い声で銀八が読み始めたのは、月を欲しがるお姫様の話だった。結末は、わからないまま眠ってしまった。


(現代文だけ苦手な土方くんと本好きな銀八先生 / 3Z /坂田銀八と土方十四郎 / 130921)