つめたいよるに

真夜中だった。ふと目を覚ました銀時は、襖越しに灯りが漏れているので、少しばかり首をかしげる。寝巻の裾から手を突っ込んで、ぼりぼり腹をかいた銀時が、枕元に目を落とせば、目覚まし時計の蛍光塗料は午前二時を指していた。丑三つ時だな、と思った銀時が、「どした、神楽、また眠れねえのか」と、襖に手を掛ければ、「開けちゃダメヨ!!」と、鋭い声が飛んで、銀時は手を止める。「…なんだよ、悪さでもしてんのか?」と、銀時が襖越しに声を掛けると、「し、してない…アル…」と、神楽の声はか細くなった。「じゃあこんな時間にどうしたよ。腹減ったんなら下で何かもらってこい」と、銀時はギリギリ営業時間内のスナックお登勢を示したが、「そうじゃないアル」と、神楽の声にはますます覇気がない。
ガリガリ頭をかいた銀時が、「なんだっつーんだよ。俺便所いきてーんだけど」と、嘘ではない股間のホースを握ると、「トイレもダメアル!」と、神楽の声は高くなった。ハァ?と首をひねった銀時が、「おい、テメーの家の便所にも行くなってか?銀さんこの年で漏らせってか?あした新八になんて説明すんだよ」と重ねても、「だっ、ダメなものはダメアル!!銀ちゃんは来ちゃダメ!」と、神楽は聞き分けない。おいおい膀胱限界なんですけど、なんなのあの小娘、と半眼になった銀時は、「何?何がダメなの?銀さんに言ってみな?銀さんが嫌ならババアでも呼んできてやろうか?」と、宥める作戦に出てみる。「ババアよりキャサリンがいいアル…」と、神楽がポツリと呟くので、「キャサリンだな?わかった、じゃあ連れてくっから、ここ開けていいな?」と、銀時は重ねた。
「仕方ないネ、でも絶対ソファの上見るなヨ。あとトイレもダメ」と、ごく小さな声で許可を出した神楽に、「わかった、後ろ向いてくから、ちょっと待ってろよ」と、銀時は告げて、後ろ手に襖を開く。「ほんとに、見ちゃダメヨ」と、ごく近い場所から神楽の声が聞こえるので、「見てねえだろ、んだよ、別に俺ァテメーの裸見たところでなんとも思わねーよ」と、銀時は毒づいたが、神楽の答えはなかった。調子狂うな、と思いつつ、無事神楽のいる応接室を通り抜けた銀時は、後ろ手で襖を閉めた多ところで、ほっと一息つく。廊下の奥にある便所に意識が向いたものの、さすがに向かう気にはならなかった。
仕方ねえから便所も下で借りるか、と欠伸交じりに数歩進んだ銀時は、何の気なしに物入れをちらりと覗いて、瞬間、普段は半分閉じている目をかっと見開く。だっ、と走って、ブーツしかない玄関から裸足で飛び出した銀時は、階段ではなく外廊下から飛び降りると、スナックお登勢の扉をがらりと開いた。都合の良いことに、中にいた客は飲んだくれて管をまく長谷川と源外だけで、銀時はつかつかとカウンターに近寄る。「なんだい銀時、タダ酒なら飲ませないよ。家賃返すまではツケも利かないからね」と、キセルをふかしながら嫌味を言うお登勢の腕をつかんで、「ババア、ちょっと上まで来てくれ」と、銀時は必死の形相で言った。平素とは異なる銀時の態度に、お登勢はさっとキセルを置いて、「何があったんだい」と短く尋ねる。「神楽が」と言った銀時は、長谷川と源外の二人を見下ろして軽く首を振った。
「わかった、行こう」と、カウンターから出てきたお登勢に頭を下げた銀時は、「たま、すまねーがテメーにも頼みがある」と、閉店準備を始めていたたまに声をかける。「なんでしょうか、銀時様」と、近寄ってきたたまを、お登勢ごと店先に追い出した銀時の肩越しに、「キャサリン、店番頼むよ」と、お登勢は言った。「マカテクダサイ、ボッタクッテヤリマース」と、キャサリンは力こぶを作って見せた。
階段の下で、「買ってきてほしいものがある」と頼み込んだ銀時は、いくらかの金をたまに握らせる。暫定的ではあるが、角のコンビニで揃うだろう。お登勢には上の状況を伝えて事務所に行ってもらい、銀時は少し考えて、裸足のまま外廊下に立っていた。やがて戻って来たたまも万事屋の中に押し込んで、銀時はさらに待つ。部屋の中からはくぐもった声が聞こえるが、銀時はあえて耳をすませなかった。空には少し欠けた月が輝き、銀時の影を青く照らし出す。振り返ったかぶき町の町も、ぼうっと青く煙って、銀時は夢の中にいるようだった。
半刻ほど経って、玄関を出てきたお登勢は、何も言わずに階下へと銀時を導く。スナックお登勢の看板はしまわれていたが、中ではキャサリンが湯を沸かして待っていた。たまが淹れてくれた茶を前に、カウンターで息を吐いた銀時は、「合ってたか?」とお登勢に尋ねる。「まあね」と、放り出して行ったキセルに火をつけて一服したお登勢は、「良くわかったじゃないか」と、銀時を面白そうに眺めた。「どういう意味だよ」と、目を逸らした銀時が唇を尖らせれば、「いや、取り乱さなかっただけ偉いと思っただけさね」と、今度こそ声を立てて笑う。
「何が起こっているのかと、対処法については説明してきたよ。何かあったらすぐここへ来いとも言ってある。あんたには何も言うなと言うから、これは聞かなかったことにするんだよ」と、煙を吐いたお登勢に、「言われなくても言えねーよ」と返して、銀時はカウンターに突っ伏した。玄関先で覗いた押入れの端には、微妙に赤黒い血が一滴、落ちていたのだ。
「あしたから微妙に気まずいんだけど、もともとアレだったのにますますヤバいんだけど、PTAの目とかめっちゃ怖いんだけど、もうフワッフワした感じでほんとに嫌なんだけどォォォ!っつーか赤飯とか炊いてやるべきなの?俺がするべきなの?わかるもんなの?!」と、銀時がどんどん混乱していくので、お登勢は銀時の頭を一つ殴って、「赤飯はあたしが炊いてやるから、あんたは何でもない顔をしておいておやり。それが父親の役目だよ」と告げる。「…本物の父親にぶっ殺されるかもしれねー瀬戸際だけどな…」と、乾いた笑みを落とした銀時は、「とりあえず、便所貸してくれる?」と続けて、お登勢にぶっ飛ばされた。「そういう意味じゃねーよ!!普通に小便我慢してただけだよ!!っつーかババア何考えた?!テメー今何考えた!!」と、銀時が叫べば、「ウルッセェェェ何時ダトオモッテヤガル!サッサトクソシテネロヨ!」と、キャサリンは銀時へと雑巾をぶつける。「いや、だから俺のせいじゃ…ないよね?違うよね??だって便所いちゃダメだっていうからよォ…」と、すっかりいじけた銀時は、スナックお登勢の便所を借りた後で、隅のソファへと横になった。
「掛け布団はないよ」と、お登勢が声を掛けるので、「期待してねーよ、ババア」と、銀時は手枕で答える。フン、と鼻を鳴らしたお登勢は、「あたしは小豆を水に浸けて寝るよ。せいぜい夏風邪を引かないようにね、バカ親父」と告げて、店の明かりを落とした。入り口のガラスからは、やはり月の光が差し込んで、水底のようである。あーあ、と息を吐いた銀時は、「…親の知らない内に大人になりやがって」と呟いて、目を閉じた。

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翌朝、顔を合わせた神楽はいつも通りの顔をしていて、銀時は少しばかりほっとした。これで何か訴えられても、銀時にはどうしてやることもできない。銀時よりも先に万事屋の台所に立っていた新八が作る朝食を食べ、いつもどおりならない電話を待って、夕食前にお登勢はやってきた。「はいよ」と、銀時の腕に大きな重箱を乗せたお登勢が、「素知らぬふりをして、ちったあ祝ってやることだね」と唇の端を持ち上げるので、銀時はまたガリガリ頭を掻くと、なけなしのひき肉でハンバーグを作ってやった。赤飯とハンバーグを前に、きゃっほう!と喜んだ神楽をよそに、新八がすこしばかり微妙な顔をしているので、「童貞のくせに」と銀時が囁けば、「関係ないでしょうが!!」と、新八は頬を染めて叫ぶ。それから、「…姉上にはホットケーキを焼きました」と、そっぽを向いた新八が言うので、「やるねえ、新八君」と、銀時は新八の肩を叩いた。それからはもう、いつも通りの騒がしい万事屋の夕食だった。


(万事屋家族 / 坂田銀時と神楽 / 130808)