優しい角が見えない:02 

昼休み、銀時の机の前へと椅子を引いてきた土方は、「飯食おうぜ」と、銀時の机に弁当包みを乗せる。「いーけど、俺飯早いよ」と、銀時が鞄から少しばかりひしゃげたクリームパンといちご牛乳を取り出せば、「それだけか?」と、土方は軽く眉を顰めた。「糖分とっときゃどーにかなるんだよ」と、銀時がばりっとクリームパンの袋を開けると、土方は銀時の手から袋を取って、内側にミニハンバーグを半分と卵焼きを一切れ乗せる。「…くれんの?」と、銀時が尋ねれば、「俺はお前と対等に勝負してーんだよ、腹減ってたから、とか聞かねえからな」と、土方は言った。少し考えて、「え、勝負ってもしかして今日?」と、銀時が問いかけると、「当たり前だろ」と、土方は何でもない顔で、弁当包みからマヨネーズを取り出すと、弁当の上に思い切りぶちまける。何を言おうとしていたか一瞬でとんだ銀時は、「おまっ、お前、それェ、何してんの?!!」と、土方の弁当を指した。「何って、トッピングだ。お前もいるか?」と、土方がもうほとんど中身の残らない容器を銀時のクリームパンに向けるので、「ふざっけんな殺す気か」と、あながち冗談でもなく銀時は答える。「ハァ?マヨネーズで人が殺せるわけねーだろ」と、マヨネーズまみれの白米を口にしながら、呆れたような眼をした土方に、「いや、死ぬよ、今まさにお前が死に向かいつつあるよ」と、銀時は口元を押さえた。「お前も総悟も近藤さんも似たようなことを言いやがって」と、ふて腐れたような顔でマヨネーズを食べていく土方を尻目に、銀時はクリームパンを食べ終わり、いちご牛乳を啜りながら、ビニールの上の卵焼きとハンバーグを見下ろす。「…嫌いだったか?」と、土方が微妙な声を出すので、「や、そーじゃなくて…手で食うのかなーと」と、銀時は軽く頬を掻いた。実際は、どう見ても手作りに見えるハンバーグに、昨日の土方の母親らしき人物を思い出していたからなのだが、土方は納得したらしく、「そうだな」と、ハンバーグを箸でつまむと、銀時の口元に付きだす。「ほら」と、当たり前のような顔をする土方に、銀時も当たり前のような顔でハンバーグを噛んだ。微妙にマヨネーズの味がした気もするが、隠し味にマヨネーズはアリだった。ハンバーグを飲み込んだところで、卵焼きも口に入れられ、出し巻きではなく薄甘い卵焼きであることに機嫌を良くした銀時は、「ご馳走様」と、クリームパンの袋を綺麗に畳む。おう、と頷いた土方はまたせっせとマヨネーズを口に運び、銀時はいちご牛乳を大事に飲み続けた。朝とはまた違った視線が二人へと注がれていることには、欠片も気付かなかった。

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ほとんどが自己紹介とレクリエーションで終わった授業の後、銀時が筆箱すら机に置いて、ジャンプしか入っていない鞄を下げて帰ろうとすると、「ちょっと待て」と、土方が銀時の腕を掴む。「お前部活行かなくていいの?」と、銀時が首を傾げれば、「行くけどよ、お前今普通に帰ろうとしたろ」と、土方は言った。「うん、まあ」と、何の隠し立てもせずに頷いた銀時が、「だって学校の木刀とか一応使用制限あるだろ?今日、いきなりってのは無理じゃん?」と、別に土方の言葉は忘れていない、と言うことをアピールすると、「だから学校でじゃねえよ」と、土方は返す。ますます首を捻る銀時の腕を掴んで、「俺の家、道場だから。今日の部活はミーティングだけだし、三十分くらい待ってろ」と、土方は言った。「待て待て待て、急展開すぎる!お前の家が道場でもいきなり押しかけていいわけねーだろ、なんて説明すんだよ」と、銀時が腕を引けば、土方は肩越しに銀時を振り返って、「ダチ呼ぶのに急も何もねーだろ」と、当たり前のような顔で銀時の腕を握り直す。「…ダチ…」と、銀時が土方の目を見つめると、「友達って意味だ」と、土方は言い直した。「いや、うん、わかるよ」と、頷いた銀時が、「お前んちって近いの?」尋ねれば、「だいたい二分で着く」と、土方は言う。電車で十分なら、車で二十分なのも道理だな、と思った銀時が、「じゃ、昨日と同じとこで待ってるから、早くね」と、銀時が返すと、土方は一瞬不思議なものを見るような顔をして、「お前も道場まで来い」と、ぐいぐい銀時の腕を引いて歩き出した。走るような速度で進みながら、「つーか、お前は帰らなくて平気なのか」と、いまさらのように土方が言うので、「まあ、今日は別に」と、銀時は帰宅が八時過ぎになる、と言っていた松陽の顔を思い返す。そっか、と少しばかりほっとしたような顔をした土方は、銀時を連れて、本当に剣道場まで来てしまった。完全に場違いである。
剣道場は、今朝の瓦屋根の建物で間違いなかった。遠目からもでかい建物だと思ったが、入口をくぐるとさらに広く見える。た。仕切りが何もないからだろうな、と、開け放された障子の先に広がる縁のない畳をぼーっと見つめた銀時に、「これ持って、そこ座ってろ」と、自身の鞄を預けてベンチを指した土方は、スニーカーを下足箱に押し込んで、障子の前で一礼した。中にいた数人は、剣道部の先輩らしく、物々しい挨拶が聞こえる。ちょっと懐かしいな、と、昔松陽に連れられて通っていた道場を思い出す銀時は、ちらほらやってくる剣道部部員に小さく頭を下げて、その場をやり過ごした。やがて始まったミーティングの声は、当然のように銀時にも届いて、俺部外者だけどいいのかな、と、銀時は膝の上に土方と自身の鞄を重ねて、頬杖を突く。暇を潰すことには慣れていた。そういえば、と、ポケットから昨日貰った飴を出した銀時は、一粒を口に放り込む。外には桜が揺れて、そろそろ翳り始めた日差しが気持ち良い。知らずにうとうとし始めた銀時は、「おい、落ちんぞ」と、肩を突かれてハッと目を開けた。
目の前には、もう何度目になるかわからない土方が立っていて、「お前、良く寝るな」と、感心したように言う。「寝る子は育つって言うし?」と、銀時が土方の鞄を付きだすと、土方はそれを受け取って、ついでのように銀時の腕も掴んだ。「なあ、これさっきから何なの?」と、別段抵抗もせず銀時が尋ねれば、「逃げられないように」と、土方は答える。「逃げねえよ」と、今まで待っていてやった銀時が少しだけ語気を強めれば、土方は首を振って、「俺が逃げねえように」と、言い直した。「なにそれ」と、銀時が本格的に怪訝な声を上げると、「お前強いんだろ?」と、土方は振り返らずに言う。「ほんとそれどっから聞いたんだよ」と、うんざりしてきた銀時が尋ねれば、「やっぱ剣道推薦で、お前と同じ中学から来てる先輩から」と、土方は答えた。剣道部と喧嘩などしたことがあっただろうか、と銀時は記憶を手繰り寄せるが、そもそも銀時はあまり過去に拘らない方だ。勝ち戦は常なので、何を思うことも無い。「木刀で喧嘩はしたことねえよ?」と、それでも銀時が言い募ると、「だったらなおさらだな」と、土方は改めて、銀時の腕ではなく手を握り直した。
土方の家は、本当に高校の裏門を出てすぐだった。畑の真ん中を突っ切って行く土方に、「誰かに見られたらどうすんだよ」と銀時は少なからず焦ったのだが、「俺んちの畑だから」と、土方は動じない。え、と思う銀時をよそに、土方は畑と田んぼに囲まれた広い屋敷―としか思えない広さの家―へと銀時を連れ込んだ。屋根付きの門を潜った銀時は、敷地の中に立派ななまこ壁の蔵があるのを見て、「お前、金持ちなの?」と問いかける。「家に金があるだけで、俺にあるわけじゃねーよ」と帰った土方の答えがひどく真っ当なので、なるほど、と納得した銀時は、「でも、俺にいちご牛乳奢ってくれるくらいの金はあるわけね」と、少し笑った。あるところにはあるものだ。羨ましくないと言えば嘘になるが、無いものは無いのだから仕方ない。「お前だって買ってたろ」と、土方が昼のいちご牛乳を指すので、「ああ、あれは俺の保護者がくれた金だから」と、銀時は首を振った。「…保護者?」と、不思議そうな土方の声に、「そう、保護者。父親の従弟の家で厄介になってんの」と、銀時はさらりと答える。隠すようなことでもないし、まあ友達と言うのなら、これくらいは知っておいてほしい。少しばかり間を開けた後で、「その父親ってのは?」と土方が尋ねるので、「俺が生まれる前に死んでる。ちなみに母親は俺が三歳の時に首吊って死んでる」と、銀時は言った。「見かけによらず苦労してるんだな」と、銀時を振り返った土方の目線がどうも高い位置にある気がして、「なあお前今俺の頭見て言った?俺の頭が苦労知らずだっていいてーの?」と銀時は剣呑な声を上げたが、「どうだろうな」と笑った土方の目に嫌味の色が無かったので、赦してやることにした。
その、立派な家の扉をあたりまえだがためらいなく開いた土方は、中に向けて「ただいま帰りました」と、いささか他人行儀な挨拶をする。間を開けずに、「お帰りなさい、十四郎さん」と、柔らかい答えが返って、広い玄関に、昨日の黒髪の女が顔を出した。「そちらの方は?」と、女が土方の後ろで佇んでいた銀時を指すので、「初めまして、坂田銀時と言います。土方君の同級生になりました、よろしくお願いします」と、銀時は言って、深く頭を下げる。まあ、と微笑んだ女は、「土方美津です。十四郎さんの母親です、よろしくお願いします」と、銀時に頭を下げ返した。若い母ちゃんだな、と、銀時が少しばかり不躾な視線で女を眺めていれば、「ちょっ、ねえさん」と、土方は慌てたように声をあげて、「道場を使いたいんですが、空いてますか」と続ける。ねえさん、と呼ばれた事にも動じず、「ええ、あの人は奥にいるから、誰も使っていない筈です。あなたも剣道をするの?」と、最後は銀時に向けて尋ねた。「剣道はしませんが、刀は振ります」と、銀時が答えると、「そうなの」と美津は頷いて、「あとで、道場に冷たいものを運ばせるわね」と、土方に告げる。
美津の姿が見えなくなってから、「美人だね、お前の母ちゃん」と銀時が囁けば、「義理の母だからな」と、土方は返した。スニーカーを脱いで、長い廊下を歩いて、中庭から抜ける渡り廊下で道場に渡ってから、「俺は妾の子で、実の母親は父親と心中して、身寄りが無くなった俺を腹違いの兄貴が引き取ってくれたんだよ。さっきのは兄貴の嫁さんだ」と、土方がさらりと言うので、「スゲー、横溝正史みてー」と、銀時は感嘆の声をあげる。「…横溝正史?」と、怪訝な顔をした土方に、「んっ、知らねぇ?犬神家の一族とか、人間関係がもうぐっちゃぐちゃ」と、銀時が手を広げて見せれば、「お前面白いこと言うな」と、土方は返した。「ついでにもう一つぐちゃぐちゃにすると、俺の母親は兄貴の同級生で、っつーか元は兄貴の彼女で、親父が寝とった挙句俺が生まれて、すったもんだの上二人で海に突っ込んだらしいぞ」と、土方が真顔で言うので、「それもう笑うしかねーじゃん、お前ほぼ初対面の俺にそんな爆弾ぶっこんでくんなよ」と、銀時は苦笑する。「普通は言わねえよ。お前だって似たようなことしたろ」と、土方は板の間に鞄を置いた銀時をちらりと眺め、「それに、登場人物全部地元に根付いてて、この辺の奴らは皆知ってる。妙な形で伝わるのも面倒くせえからな、先に言っときたかっただけだ」と、続けた。ふうん、と相槌を打った銀時が、「まー気持ちはわかるよ。さっき言ったことって俺の爆弾の中だと比較的軽い方だし」と、まぜ返せば、「もうわりとデケーの食らったんだけど」と、土方も笑う。ははははは、とお互い白々しい声を響かせた後で、「いや笑えねーよ」と銀時が突っ込むと、「俺の台詞だっつの」と、土方も返した。
微妙な空気になったが、「…勝負する?」と、銀時が水を向ければ、「そうだな」と土方は壁に近づいて、掛けられていた木刀を二本持ち帰る。学ランを脱いだ土方にならって、Tシャツ一枚にまでなった銀時は、そこではた、と気付いた。畳の上では、靴下を脱がなければならない。裸足になる予定はなかったので、芽の様な小指ももちろんそのままである。土方はさっさとYシャツ一枚と素足になって、すたすたと道場の真ん中まで歩いていく。今さら庭で、とは言いだしづらい雰囲気なので、銀時は自棄のようにさっとスニーカーソックスを脱ぐと、適当にたたんだ学ランの上に放った。極力小指は意識せずに、土方の前に立った銀時は、「いつでもいいよ」と、木刀を片手に告げる。「せめて構えろよ」と、土方は呆れたように言ったが、「試合じゃなくて、勝負なんだろ」と、銀時は飄々と答えた。実際、木刀を握った瞬間ぴんと背筋が伸びるような人間と、試合って勝てるわけがない。銀時にできることは、打つことと薙ぐこと、それだけだった。「ちなみに、どうしたら終わり?何はダメ?」と、銀時が確認すれば、「参った、で終わり。首から上と指は狙わない、くらいで」と、土方は短く答える。なるほど、と言う銀時の応えを合図に、勝負は始まった。

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土方の部屋で、額の傷の手当てを受けながら、「おいテメー、首から上は反則っつただろ」と、銀時が唇を尖らせれば、「うるせーよ、肩を狙って、そこを顔で防がれるとは誰も思わねーよ」と土方はますます目付きを鋭くする。「肩砕かれたらシメーだけど頭割られても闘えるだろーが」と、銀時が胸を張ると、「だったら文句言うんじゃねえ」と、土方は貼り終えたガーゼを上からぺしんと叩いた。結論から言うと、勝敗はつかなかった。銀時は額を少し切っていささか派手に血を流し、土方は土方で見える位置に幾つもの青あざを作ったが、どちらも参ったとは言わなかったのだ。最終的に、様子を見に来た美津が血を見て倒れ、そこで終いになった。土方のタオルで血を押さえながら、土方と二人で土方の兄の説教を受けた銀時は、血が付いた服を洗うから、傷の手当てをして風呂に入りなさい、と言う言葉を無碍にもできず、こうして土方の部屋にこもっている。部屋は洋室だった。パイプベッドとシンプルな木の机と椅子に、ほとんど教科書しか入っていない本棚、クローゼットがない代わりに衣装ダンスが一つと、何が入っているとも知れない引き出しがもう一つ。隅に置かれた竹刀を見るともなく眺めていると、土方が銀時の腕を引いた。「風呂、行くぞ」と言った土方が、タンスから着替えを放って寄越すので、「パンツまで貸してくれんの?」と銀時は首を捻る。「貸して欲しいのか?」と、真顔で返した土方に、「いらないです」と銀時は首を振って、「俺、風呂は家で入りてーな」と、呟いたのだが、「檜風呂だから、入ってけよ」と、土方は銀時の背を叩いた。
そう言う問題なのか、と思いつつ、何度か角を曲って連れてこられた風呂は、本当に総檜で、「…スゲーな」と、銀時は思わず呟く。「はじめて見た時は俺も感動した」と、背後で土方が笑うので、感動とまでは言ってねー、と振り返った銀時は、ぴたりと動きを止めた。ためらいもなくシャツを脱ぎ捨てた土方の背中を、斜めに走る大きな傷がある。袈裟がけ、と言うのが正しいだろうか。どう見ても浅くないその傷は、新しくないが古くもない。皮膚には同化しきれない赤い痕が、土方の背中にあった。「なんだよ?」と、こちらも振り返った土方の顔が笑っているので、「だから、爆弾は小出しにしろって」と銀時は答えて、血の痕が付いたTシャツをばさりと脱ぎ捨てる。土方ほど大きなものはないが、銀時の身体にも、あちこち傷があった。そのどれも、ろくな手当てを受けていないので、土方ほど綺麗な傷跡にはなっていない。「小出しにすると地雷になんだろ」と返した土方は、少し考えてから、「小指、どうしたんだよ」と銀時に問いかける。やっぱりわかっていたのか、と思う銀時は、説教の前に慌てて履いた靴下をもう一度脱いで、「五歳の時、祖父に鋏で」と答えた。「その火傷みてーのは?」と、土方が指す左脇腹の三角形は、「四歳くらいにアイロン」、「腹の引き攣れた後は」「六歳、フライパン」「腰骨の上は」「確かピーラー?」「目の下の線は」「階段だったかな」と、銀時は覚えている限りの答えを返す。目立つ傷が全部終わったところで、「その刀傷みてーなのは?」と銀時が問い返せば、「七歳の誕生日、父親の本妻に」と、土方は言った。「っつーか、良くわかったな。刀傷って」と、土方が背中に手を当てるので、「ハッ?マジで刀なの?えっ、真剣あんの?」と、食い付きながら、この家ならあってもおかしくねーな、と銀時は納得する。口を開きかけた土方が、「まあ、…風呂で」と浴室を指すので、半裸の男子高校生がマジ顔で向かい合っている、と言う現在の状況を一瞬で理解した銀時も、「そうだな」と残りの服を脱いだ。
ざっと汗を流して、なみなみとした湯船につかると、二人の体積の分だけざばりと湯が零れる。「あー、贅沢」と、銀時が大人六人は浸かれそうな湯船の縁に頭を置くと、「オッサンか」と、言いながら土方も隣で腕を置き、そこに顎を乗せた。ちらり、と土方の背中に目を向けた銀時は、右手を伸ばして、無遠慮に背の傷を撫でる。「うわっ」と盛大に飛沫を散らして顔をあげた土方に、「傷跡って粘膜みてーになるよな」と、銀時はにやりと笑う。「テメェ」と目を座らせた土方が、銀時の脇腹の傷に手を伸ばすので、「当たりません〜」と、銀時は土方の手をすり抜けた。が、その拍子に腕の傷を擦られ、「んあっ」と妙な声をあげる。「お前の方が圧倒的に不利だってわかってるか?」と、呆れたような顔をした土方に腹が立ったので、銀時は水鉄砲で土方の顔面に水をぶつけた。それから、湯船の湯が半分ほどになるまで取っ組みあったふたりは、また土方の兄に一喝されて、正座で湯に浸かっている。
ぽつぽつと土方が話すことによれば、そもそも土方の父の本妻は、土方の兄を産んだ後で精神的に不安定になり、ずっとこの屋敷に軟禁状態だったらしい。そうして二十年後、仕事と家庭の両立に疲れた父は、おもわず息子の彼女に癒しを求め、彼女の方もそれに絆され、なし崩しに関係が始まった。もとは小さな歪みだったそれは、土方が生まれたことで大きな軋轢になり、父親は土方の兄に家督を譲り、女の元に走った。公にはできない関係だったが、もちろん周囲には知れ渡っていた。ただし、土方の父親はあくまで人徳家として通っており、土方の兄も、二〇年間不安定な母を支えてきた父親の苦労は知っていたため、あえて波立てることはせず、ときどきは父親と元彼女、そして土方をここへ招いていたと言う。それが悲劇の引き金だった。本妻は、人に危害を加えるわけでは無かったので、軟禁状態とはいえ、何も鍵のかかった部屋にいたわけではないらしい。屋敷の奥で、数人の使用人を相手に静かに暮らしていた。そこへ、たまたま顔を出したのが土方だった。小学校へあがったばかりの土方は、誕生日と広い屋敷と大きな鯉のぼりとに興奮しきり、走り回って遊んでいた。そうして、越えてはいけないと言われていた襖の先を覗いてしまったのだ。鍵のかかる蔵にしまわれていた日本刀が、なぜ本妻の手元にあったのかはわからない。表立っては伝えなかった筈の土方の存在を、本妻がどう理解していたのかも、今はもうわからない。ともかく剣道の心得があった本妻は、危なげない手つきで日本刀を引き抜き、土方の背を袈裟がけに斬り付けると、返す刃で自分の首を刎ねて死んだのだと言う。土方は、背を庇って倒れ込んだせいで、その一部始終を目に焼き付けることになった。「たまに見るだろ、鶏の首を刎ねるとか。まあ同じようなもんだよな。四方八方に血が飛び散って、すごかったわ」と語った土方の顔色は、風呂の中だと言うのに真っ白だった。駆け付けた土方の母親が惨状に腰を抜かし、父親が本妻を抱き起こし、土方の隣には生首が転がったままで、土方の兄は後始末に奔走したらしい。それからどうなったかと言えば、前述の通り、本妻と同じように壊れてしまった土方の母を連れて、土方の父親は車ごと海に飛び込んだ。土方はまだ入院中で、両親の死を知ったのはずっと後のことだった。その頃にはもう妻帯していた兄は、有無を言わせずに土方を自分の養子として本家に迎え入れ、今に至ると言う。
「それでもお前が剣道してるってすげえな」と、聞き終わった銀時が感想を述べると、「竹刀は斬れねーからな」と、土方は言った。「そういうもん?」と、今も鋏がそれほど好きではない銀時が首を捻れば、「そんなもんなんじゃねーの」と、土方は大きく伸びをする。背骨を横断する傷跡が生き物のように動いて、銀時はまた指先でなぞってしまった。「うひっ」と背筋を揺らした土方に、「あ、ゴメン」と告げた銀時は、「ふやけるからあがるぜ」と、もう何も隠さずに湯船を出る。「次は覚えてろよ」と、地を這うような声で土方が言うので、「忘れるまでは覚えてる」と、銀時は返した。土方から借りた服ではなく、銀時自身の制服を身に付けた銀時に、「時間、平気だったら飯食ってけ」と、土方は言う。ちらりと確認した腕時計の針は、十八時半に差し掛かろうとしていた。銀時は少しだけ悩んだが、どうせ今夜の食卓は一人なので、「迷惑じゃねえなら」と答える。土方はどこかほっとしたような顔で、「たぶんもうお前の分も飯作ってるから、迷惑じゃねえよ」と笑った。「そんで、デコは大丈夫か」と、土方がすっかり濡れたガーゼを指すので、銀時はさっき貼ったばかりのテープをぺりぺり剥がせば、「血は止まってるみてーだな」と、土方は鼻先が触れる程の近さまで近寄って呟く。「お前、目悪かったりする?」と、銀時が尋ねると、「両眼1.5あるぞ」と、土方は面倒がりもせずに言った。であればこれは、土方のパーソナルスペースが問題なのだろう。銀時にとってのパーソナルスペースはあってないようなもので、どこまで踏み込まれてもどこにも踏み込ませない自信があるので、気にはならなかった。濡れ髪のまま戻った土方の部屋で、他愛ない話を織り交ぜながら、今度は銀時の話をした。少しずつ削り、特に施設を崩壊させたときのことは話さなかったが、手首の傷のことは隠さなかった。土方が語った過去の対価に見合うかどうかはわからないが、ともかく土方は、「どこも大変なんだな」とあっさり頷いて、それ以上の関心は示さなかった。銀時には、それがとても楽だった。それからずっと、土方の隣にいると、銀時はとても楽に呼吸が出来た。空気か水のようだった。

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豪華な(土方は普通だと言っていたが、銀時にとっては充分豪華な)夕食をふるまわれ、家まで送る、と言う申し出をやんわり断った銀時は、「なら駅まで」と言う土方の言葉には頷いて、土方の家を後にする。乾燥機であっという間に乾いたTシャツは温かく、春の夜にはちょうど良かった。あぜ道を歩きながら、「水泳とかどうしてんの」と銀時が尋ねれば、「まあ、皆知ってっから…知らない奴もすぐいなくなるし」と、土方は何でもない声で言う。ふうん、と頷いた銀時は、「ちなみに俺はこれから三年間靴下脱がねーから、何かあったらフォローよろしくな」と、土方の肩を叩いた。「修学旅行の風呂とかどうすんだよ」と土方が言うので、「足首捻挫して包帯巻いてく」と、銀時は答える。一瞬開けて、「それだと行動に制限がかかんだろ、だったら俺が『坂田君は今日多い日なんです』って内風呂勝ちとってやるわ」と、土方が笑うので、「それ良いな」銀時も大きく笑って、「ちゃんと言えよ、俺もせいぜい腹が痛い顔しとくから」と、土方の肩から背中へと手を滑らせた。銀時は不幸自慢がしたいわけではない。何があっても銀時は銀時だったし、銀時が銀時である以上過去も未来も銀時のものだった。きっと、土方もそうだったのだろう。
学校前の小さな駅には、もうほとんど人がいなかった。最終下校時刻を過ぎてまで、学校の近くにいる人間もそうはいないのだろう。遊ぶためなら、二つ隣の駅前が一番賑わっている。ということを、電車を待つ間に土方から聞かされて、「お前もそこで遊んだりすんの?」と銀時は尋ねた。「俺は部活と道場があるから」と、あっさり首を振った土方は、「お前は…バイトだっけ」と、銀時を見つめる。「うん、まあ。バイク欲しいんだよね、もちろん免許も」と、頷いた銀時に、「ちゃんと貯金しろよ」と土方は笑って、「免許取って、バイクも買える程稼げんのか?」と、首を捻った。「どうだろ。半年あるから、何とかなるといいよな」と肩を竦めた銀時は、「十月」と土方が言うので、「体育の日」と返す。へえ、と軽く感嘆した土方は、「こどもの日」と、どこか張り合うように言った。「誕生日が絶対休み、って良いのか悪いのかわかんねーよな」と銀時が頭を掻けば、「俺の場合連休の中日だから、ほとんど忘れられてる」と、土方は返す。「まあまあ、おめでとうくらいは言ってやるって、休み前に」と、銀時が告げたところで、警報機が鳴りだした。「今日はありがとな、風呂と飯まで。俺こんなぐいぐい来る友達が出来たの初めて」と、銀時が土方に向き直ると、「なあ」と、土方はふいに、ひどく心もとない声をあげる。「うん?」と、特に身構えもせずに銀時が返せば、「お前は、連れて行かれなくてどう思った」と、土方は言った。ホームへと滑り込んでくる電車の風圧で、土方のまっすぐな髪が煽られて、表情は伺えない。こんなときばかり役に立つ天然パーマに泣いていいのか笑えばいいのかわからないが、ともかく銀時は、「製造責任くらいは果たして欲しかった」と答える。それから、「まあでも、お互い良い人に引き取られて、良かったよな」と、銀時がどうにか笑みを作れば、「ああ、そうだな」と、土方も口元だけて笑って見せた。車内は空いていたが、銀時はなんとなく扉の脇に立ったまま、小さくなっていくホームと土方を見つめていた。見えなくなるまで、土方はそこにいた。

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銀時が最寄駅から十二分歩いて自宅に帰り付くと、二十時を回っていた。家の中は暗く、車も無いので、松陽はまだ戻っていないらしい。ねじ式の鍵を回した銀時は、自宅の匂いにほっと息を吐く。土方の家は、明るくて立派な家だった。けれども銀時にはこの古い家こそが何よりの城である。夕食前に土方が貼ってくれたガーゼに触れた銀時は、少しだけ迷ったものの、思い切り良く引き剥がして丸めた。銀時が怪我をするのはいつものことだが、手当てされていることはほとんどないので、この方が良いだろう。土方のことはともかく、木刀で戦ったことは極力伏せたかった。自室で服を脱いだ銀時は、Tシャツから知らない洗剤の香りがするのと、自分の髪からも違うシャンプーの匂いがする事に気付いて、慌てて階段を下りる。銀時に、風呂へ入るほど親しい友人が出来たと聞けば、松陽はきっと喜ぶだろうが、銀時はそんなことで松陽を喜ばせても嬉しくないのだった。Tシャツも風呂場に持ち込んで、ざっと頭と体を流した銀時は、額以外にできた傷を確認する。見える範囲で青くなっている場所は、四カ所あった。風呂上がりの銀時が、台所でプリンを消費していると、駐車場でタイヤの音がする。帰って来たんだな、と時計を見上げれば、二十一時少し前だった。プリンの器を流しに置いて、玄関で待っていると、引き戸をがらりとひらいて、「ただいま、銀時」と松陽が笑う。「おかえりなさい、先生」と笑い返した銀時は、差し出された右手を当然のように握った。灯りの下で銀時を眺めた松陽が、「髪が濡れていますね、今日は一人で?」と尋ねるので、「ちょっと寒かったから」と、銀時は答える。それも、嘘ではなかった。銀時の髪をめくった松陽は、すう、と目を細めて、「勝ちましたか」と問いかける。「引きわけです」と返した銀時は、すでに瘡蓋になりかけた傷を撫でられて、目を閉じた。松陽の指はいつだって優しい。銀時の傷口を抉る時でさえも。

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翌朝、銀時が八時半過ぎに一年B組の扉をくぐると、銀時の席で土方が寝ていた。アレ?とあたりを見回してみるが、誰も気にしていない。知らないうちに席替えでもしたんだろうか、とぼんやり思った銀時は、ともかく土方の隣に立って、完全に落ちている土方を見下ろす。まっすぐな黒髪の根元がうっすら汗ばんでいるので、また朝練だったんだろうな、と銀時はそっと土方の頭を撫でた。もう少し寝かせておいてやりたいが、たぶん土方は望まないだろう。と言うわけで、銀時は学ランの襟からずぼっと手を入れて、シャツ越しに土方の傷を撫でた。「っぅ…!!」と、声にならない声をあげて飛び起きる土方の頭を避けて、「おはよう土方」と銀時が言えば、「…おはよう」と土方は根の国から響くような声で答える。もろともせずに、「で、どしたの?ここお前の席になったの」と銀時が尋ねれば、土方はようやく自分の置かれている状況を思い出したらしく、「これ」と、抱え込んでいたコンビニ袋を銀時に手渡した。「なに?」と覗きこめば、中身は148円の濃厚いちごミルクで、「マジか」と銀時は目が離せなくなる。「いきなり十本渡されても困るだろうから、とりあえず一本な」と言った土方が、普通に椅子を引いて席に戻ろうとするので、銀時はがしっと土方の腕を掴み、「ありがとう土方、この恩は三年くらい忘れない。何かあったら言ってくれ」とキメ顔で告げた。「具体的な期間だな」と、ほんの少しだけ驚いたような顔で言った土方は、「何かあったらな」と、銀時の脇腹を軽くつまむ。「…学ランって生地が厚いよな」と、何も感じなかった銀時が返せば、「夏服になったら覚悟しろ」と言い捨てて、土方は行ってしまった。隣の隣の席に。大事にしまい込んだ濃厚いちごミルクは、ほんのり人肌だった。

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それから二年近く、銀時の高校生活はほとんど土方と共に在った。約束通り十回分いちご牛乳を奢ってくれた土方とは、もう木刀での勝負はしなかったものの、素手での殴り合いは何度か経験した。喧嘩には慣れていたが、仲直りには慣れていなかったので苦労した。だいたい土方がいちご牛乳をくれて、それが謝罪の代わりになった。銀時が悪い時でも。バイト三昧の銀時と、剣道馬鹿な土方の私生活はそうかみ合わなかったものの、四月の終わりにはちゃんとおめでとうと言ったし、業務用マヨネーズも一本くれてやった。随分驚いた顔をするので、銀時の誕生日には三倍返しを要求した。ときどきは土方の家の道場で木刀を振り、ときどきは二人で出かけ、ときどきは土方の交友関係と付き合いを重ねた。一つ年上の近藤と、一つ年下の沖田とは、銀時も馬が合った。結局プールには示し合わせたように入らず、つかの間の夏休みに誘われた海も断って、銀時と土方は山へ行った。何をするわけでもないが、カブトムシを無心で掴まえたのは楽しかった。日帰りだったが、海に負けないくらい真っ黒になって、日焼けの痕を二人きりで見せ合った。
一年時のハイライトは、文化祭で女装カフェを開いたことである。土方をはじめとする半数の男子は反対したが、銀時を中心にした残りの半数と、そして何より女子と担任の熱い思いを受けて、なし崩しに決まってしまった。LHRの後で、べったり机に突っ伏した土方の頭を突いた銀時は、「お前ならわりと似合うと思うよ?」と、土方を慰めたつもりだったのだが、「なわけねーだろ」と返ってきた声は、怒っているというよりむしろ憔悴している。その頃にはもうなんともなくなっていた銀時は、土方の頭をわしわし撫でて、「露出が少ないといいよな、俺たち」と言った。給仕に回る人間はローテーションで、衣装は使いまわすことになっていたので、体系がほぼ変わらない銀時と土方は同じ衣装を着ることになった。スチュワーデスだった。「まあ、露出は…少ねぇな」と、長袖の上着と黒ストッキングを突いた土方は、宣言通り本当に女装が似合わなかった。顔の造りはいいのだが、どうあっても男顔なので、化粧をすればするほどケバだつばかりで女には程遠い。ガッカリしたのは銀時ばかりではなかったが、とりあえず銀時はまた土方を慰めておいた。逆に、銀時は意外と似合っていた。顔の形よりもウィッグの付け方が良かったのかもしれない。ともかく、一重か二重かもはっきりしない瞼に色を付け、睫毛を重たくして見たら予想外の結果に落ち着いたので、銀時はとりあえず学ランの土方とツーショットを取ってもらった。文化祭には、松陽も遊びに来てくれた。銀時の休憩時間に合わせて、二人で文化祭を回った後、最後に一年B組を訪れた時、三つ編みスチュワーデスの土方は「吉田松陽?!本物?!」とひどく動揺していた。後から聞いたところによると、松陽は剣道の世界では有名人らしい。「お前の先生って吉田松陽?!そんでなんでテメーが剣道してねーんだよ!!」と、土方にはずいぶん責められたが、「バイトがあるから」と答えれば脱力して、それ以上は何も言われなかった。松陽は松陽で、「銀時の友人は彼だったのですねえ」と、土方のことを知っていた。聞いたところによると、土方は中学の国体でかなり良いところまで行っているらしい。そんな話は聞いたことが無かったので、「今度の大会も頑張れって言っておきます」とだけ銀時は言った。
銀時の誕生日、土方は当然のように試合でいなかったが(何しろ体育の日だ)、翌日は駄菓子の詰め合わせと生クリームを一パックくれた。嬉しかったが、「これ腐るんじゃね?」と銀時が眉を顰めれば、「家庭科室の冷蔵庫にいれといて、放課後食えば」と、土方が唆すので、バイトまでの時間に生クリームを泡立ててクレープを焼いた。ついでに生クリームをマヨネーズに変えて、剣道場に差し入れてみたら、馬鹿みたいに喜んでいるので、正直照れた。誕生日までには間に合わなかったが、無事金もたまったので、松陽に頼み込んでバイクの免許も取った。中古で買ったバイクの後ろに土方を乗せてやろうと思ったが、「半年は一人で乗ってろ」と全力で拒否された。確かに、松陽を乗せることは銀時の方から断ったので、土方の判断は正しかった。そうやって秋が終わり、冬が開けて、春になった。私立大学への進学を希望した土方と、就職希望の銀時とは、クラスが離れる筈だったのだが、銀時が土壇場で進学へと鞍替えしたので、結局また同じ教室で顔を合わせた。どうせ就職活動も真面目にする気が無かったので、銀時にとってクラス分けなど大した意味を持っていなかったのだが、土方は思いのほか喜んで、たまに勉強を教えてくれた。「お前、読書好きなのにどうして頭悪ィんだ?」と、一度不思議そうに尋ねられたが、ただ読むだけの本で鍛えられるのはせいぜい現国と古典とあやふやな日本史と世界史、英語の長文読解位である。倫理と政経辺りも行ける。地理も微妙な範囲でなら。まあつまり銀時は理数系が壊滅的なのだった。
ともかく土方のおかげで少しは成績が向上した銀時は、GWの終わりに土方を連れてツーリングに出かけた。最初は緊張した面持ちで、銀時の腰を放さなかった土方も、銀時がバイクを走らせるうちに笑顔を見せるようになった。どこへ行くあてもなかったが、「海に行こう」と土方が言うので、地図と標識と勘で海岸を目指した。水はまだ冷たかったが、裾をまくって足を浸ける間に、結局ずぶ濡れになった。誕生日プレゼントはまたマヨネーズだったが、今回はそれに銀時の弁当を付けてみた。普段より気持ちマヨネーズが少なかったのは、銀時の気のせいか、土方の照れ隠しだと思う。笑うことが増えた。家にいる時間が減った。人当たりが良くなった。土方以外との喧嘩をしなくなった。土方のことを考える時間が増えた。タンスの一番下の引き出しはあまり開かなくなった。そうやって少しずつ、光が指す方へ。
夏休みに、銀時はずっと触っていなかった『遺書』を取り出して、新しい便せんを準備する。「吉田松陽様」の下に、「土方十四郎様」を書き加えた銀時は、けれども特に書くことが思いつかなくて、結局「幸せでした。泣かないでください」とだけ書いて終わらせる。幸せでした。銀時は幸福だった。少なくとも、松陽と土方は、銀時が死んだら泣いてくれるだろう。きっと、喜びはしない。そのことがこんなに嬉しいなんて、きっと松陽にはわからない筈だ。が、土方には伝わるような気がした。土方は、初めて銀時を家に招いたあの日、『連れて行かれなくて』と言った。『置いていかれて』とは言わなかったのだ。母が死んだときのことを、銀時は本当に覚えていないのだが、それでも果てしなく続くような飢えと渇きは覚えていて、こんなものは早く無くなればいいと思った。銀時の思う「製造責任」とは、ある程度一人で生きていけるようになるまでの衣食住の保証で、そうなると銀時の両親はまるきり責任能力がなかったわけだが、今はそれも仕方がなかったのだろうと思う。連れて行きたくなかったのだ、銀時の母は。最後に誰にも銀時を託さなかった時点で、それはただの驕りだったかもしれないが、銀時だってたぶん、自分を殺すことは出来ても子どもを殺すことなどできない。責任能力はなかった。でも、情が無かったわけではなかったのだろう。それくらいは信じても良いかと思える程度に、銀時は幸せだった。

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九月の半ばだった。修学旅行を十一月に控え、LHRの教室は妙に色めき立っている。先のバレンタインで、いくつかカップルが成立した、と言うのも大きいかもしれない。修学旅行先で彼女連れと言うのは、まあある種の夢なのだろう。銀時にはあまり理解できない思考だったが。修学旅行先は京都と奈良で、土方と銀時ともう一人男子と、適当な女子三人で編成された六人の班で回ることになる。班長は土方だった。自由行動の行き先を決めて班ごとに旅のしおりを作る、と言うのがテーマなのだが、銀時にはあまり興味がない。ふわあ、と欠伸を落とした銀時の髪を摘まんで、「坂田も少しは参加しろ」と土方が言うので、「っても自由行動って半日じゃん、今出てる寺三つと博物館と昼飯食ったらもう時間ぎりぎりだろ?あとはどこ行くかじゃなくてどうやって移動のロスを減らすかじゃねーの」と、銀時は返す。「そう言うことを言やいいんだよ、充分参考になるだろうが」と、京都の地図を広げた土方は、わりと離れた三つの寺の距離を指で測り始めた。真面目に仕事をする土方に、少しはやる気を出そうか、と思った銀時は、「あのさー、タクシーの貸し切りもできるけど、正直気ィ使うし、六人だとぎゅうぎゅうだし、バスカード使ってその分昼飯豪華にしねえ?」と、女子三人に持ちかける。タクシーは班員全員で割るので、そうたいした値段でもないのだが、一日五百円のバスカードの方が格段に安い。「あと、あんま遠くに行っても、移動だけで時間食うから、縛りの寺三つは近間にして…買い物とかさ、そっちに時間裂こうぜ。どこ行ったって歴史がある場所なんだし、有名どころばっかじゃなくても良いじゃん。なんなら俺由来とか説明するし」と、女子が広げていた観光案内雑誌を覗き込んだ銀時は、行きたい甘味処だの、食べたい料理だの、土産に欲しい菓子だのの話で盛り上がり始めた。呆気にとられたような土方の顔が見えて、銀時は軽く笑いをこらえる。
HRも含めた一時間ちょっとを目いっぱい使って、綿密なコースを練り上げた土方率いる班は、妙な達成感でがっしり握手を交わして別れた。次回のLHRまでに資料を集めて、実際のしおり作りはその時に、と言うことになって、銀時はぐるりと首を回す。四泊五日。中学の二泊三日よりは格段に長いけれども、一週間には届かない期間。長いような短いような、でもやっぱり長いような、ともかくそれだけの時間、銀時は土方と一緒に過ごすのだ。松陽がいないのは残念だが、松陽は松陽で、一足先の十月初旬に修学旅行の引率を控えている。「行き先はともかく、お土産は重ならないようにしますからね」と笑ってくれた松陽は、銀時が作った巡回ルートを楽しそうに眺めた。「甘いものばかりですねえ。銀時と女の子はともかく、土方君は困るのでは」と、松陽がすっかり馴染みになった名前を言の葉に上らせるので、「あいつはマヨさえあれば他はどうでもいいんだよ。何なら、都路里のパフェでもマヨスペシャルに改造してやるし」と、銀時は笑う。それはそれは、と目を丸くした松陽は、「その際はぜひ写真を撮ってきてくださいね」と、意外に乗り気だった。

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そして十月の初めだった。銀時には直接関係がないものの、大きな体育系の大会まであと数日、校内は慌ただしい空気に包まれている。それは土方も同じで、近藤から正式に剣道部の主将を引継いだことで、以前よりもさらに剣道へと情熱を注いでいた。悪いことではない。無いのだが、剣道部の送別会にはなぜか銀時も誘われていて、土方のみならず追い出される側の近藤や伊東、後輩の沖田や山崎まで執拗に銀時を着け狙うので、根負けした銀時は、バイトのシフトを一日ずらしてもらった。なんだかんだで、適当に過ごそうと思っていた高校生活は、なんだかんだ順調に過ぎて、良くも悪くもない成績とそれなりに悪くない内申のおかげで、それこそ適当に書いて出した進路希望もすんなり通ってしまっている。土方は、きっと剣道推薦を受けるのだろう。銀時の成績では足元にも及ばない様な大学の。そもそも銀時は進学はおろか、まともな就職もする気はないので、感傷的になるような話では無かった。漠然とだが、土方とはこの先もずっと友人でいられる自信があって、それはきっと土方の出自と実家を知っていることや、土方が松陽を知っていることや、近藤や沖田や何やかやの外野が銀時と土方を取り巻いているからだと思う。しがらみと言うのだ。嫌な言い方をすると。もっと良い言い方をすれば、これは縁なのだろう。えにし。銀時は良縁に恵まれたのだ。
くだらないことを考えていれば、あっと言う間に時間は過ぎて、昼休みだった。良い天気だったので、銀時と土方は連れだって屋上に向かう。一年前の六月、高校の屋上にわりと夢を持っていた銀時は、「立ち入り禁止じゃねーけどすげー汚れてるってよ」と言う土方からの情報に肩を落とした。それでも、と上って見た屋上の鉄扉の目の前には、どういうわけか鳩の死体が転がっていて、銀時のテンションもだだ下がりである。しかし、銀時はめげなかった。快適な高校生活のために、と勝手に奮起した銀時は、手始めとして校庭の隅に鳩の墓を建ててから、土方を巻き込んで徹底的に屋上を掃除したのだ。文句を言いながらも手伝ってくれた土方のおかげで、夏休み前には昼食をとって昼寝をするくらいの場所になった。鳩の死骸に感謝するべきかもしれない。特に宣伝はしなかったが、誰もいなかった屋上にもぽつぽつ人が訪れるようになった。銀時と土方は最大の功労者なので、晴れた日はだいたい屋上で食事を摂ることにしている。教室にいると、何かとうるさいのだ。人当たりが良い、とまで言われるようになった銀時と、もろもろ公的な役目を押しつけられている土方の周りには、人気が絶えない。それはそれで悪くないのだが、昼休みくらいはゆっくりしたいものだ。マヨネーズの件もあるし。
今日も今日とて一リットルのいちごオレを吸い込む銀時の隣で、土方はせっせと空の弁当箱にマヨネーズを絞り出している。デザートらしい。「血圧上がるぞ、あと十年したらマヨネーズ腹だぞ」と、今は脂肪の欠片もないような土方の腹を見下ろしつつ銀時が言えば、「テメーは十年待たずに糖尿だろ」と、顔を上げることも無く土方は言った。「それな。たまに小便から甘い匂いがすんだけどヤバい?」と、銀時が尋ねると、「舐めて見て甘かったらヤバいんじゃねーの」と、土方は唇の端だけで笑う。「それ甘くても甘くなくてもリスク高すぎるんだけど、俺そこまで人生のハードル上げたくないんだけど」と、くだらないことを言いつつ、ずっ、と吸い上げたストローはただ空気を含ませるばかりで、銀時は空になったいちごオレのパックをコンクリートの床に置いた。ごろりと手枕で横になれば、秋晴れの空が眩しいほど青く、「いい日だねえ」と、銀時は目を細める。マヨネーズのみを箸で食うと言う離れ業をやってのけながら、「寝るなら置いてくぞ」と、土方が辛辣なことを言うので、「蹴飛ばして起きなかったら置いてって」と、銀時は返した。昨夜、特に何をしたわけでもないが、こんな日は昼寝に限るだろう。目を閉じれば、瞼越しにひかりが透けて、ひどく心地良かった。しばらくすると、土方が弁当箱に蓋をする音が聞こえる。もう食べ…飲み…うん、摂取し終えたのだろうか。そのまま吸うのはあんまりだぞ、と抗議した銀時の意向を、土方が妙な方向に受け止めた結果が、箸でのマヨネーズ食いである。「そのまま」ってそういうことじゃねーよ!!それもあるけどよ!と、殴り合いにまで発展したが、結局好きなものは好きだから仕方がないというところに落ち着いた。銀時だって、一日一リットルのいちご牛乳の為にバイトをしているのだ。と言う話をしたら土方に「悲しい人生だな」と憐みを込めた目で肩を叩かれて、殴り合いは第二ラウンドに突入している。判定で引き分けだった。
昼寝、といいつつ横になるだけのつもりだった銀時は、なんかほんと眠いな、とゆるく息を吐く。隣には確かに土方の気配がして、陽の光が温かくて、腕の枕は固くてちょっと痛いが、全体的に気持ちが良い。うとうとしかけた銀時の髪を、土方がそっと撫でる。お互い良くあることだった。銀時は土方のサラサラストレートな黒髪が羨ましいを通り越してもはや大好きだし、土方も銀時の天パが嫌いではないらしい。お前が触るなら俺も触る、と薄目すら開けられない銀時が手を伸ばせば、何を勘違いしたのか、土方は銀時の手をぎゅっと握った。しかしこれも良くあることなので、銀時は土方の乾いたてのひらを握り返す。「お前さ」と、土方が声をかけるので、「うん」と銀時が応えれば、「修学旅行、意外と楽しみにしてたんだな」と、土方は言った。「まあ、お前いるし」と返した銀時に、「なんだそりゃ」と軽く笑った土方は、「俺も大浴場には入らねーから」と、脈絡のないことを口にする。銀時はただ、「そっか」とだけ口にした。それきり土方が何も言わないので、銀時はゆっくりと眠りに引きずり込まれていく。依頼通り、土方が銀時を蹴飛ばして言ったことにも気付かずに。


(現代パロディ過去編 / 坂田銀時×土方十四郎 / 130808)