さよならをおしえて:01

高校一年の夏休みだった。登校日を終えた銀八は、最近かけ始めた眼鏡を取って、目の下にたまった汗を拭う。ついでに眼鏡も拭って(放っておくと塩を吹くのだ)、銀八が500ml紙パックのいちご牛乳を空にしたところで、「帰らねえのか」と、後ろから肩を叩かれて振り返った。このクソ暑いのに頑なに半そでを拒んで長袖を肘の上まで捲りあげた高杉と、このクソ暑い最中に真っ黒な長髪を肩甲骨まで垂らしてボタンを一番上まで留めた桂と、このクソ暑いのに鳥の巣のような頭をしてシャツを全開にした坂本(中のTシャツには『男の子の日』と書かれている)を見上げた銀八は、「お前らこそ」と面倒くさそうに返す。
「どこへ行くか相談している最中でな。お前はどうしたい」と桂が尋ねるので、「どこも行かねーよ、帰って洗濯だよ」と銀八は答えた。「洗濯はいつでもできるが、俺たちとは今日しか会えないぞ?携帯にも出てくれないし」と、恨みがましい顔をした桂に、「休みが終われば嫌でも顔を合わせるだろ」と、銀八は軽く手を振る。それから、ちょいちょいと桂を手招いて、机の中に入っていた髪ゴムでポニーテールを結ってやった銀八は、高杉に塩飴を渡して、「じゃ、またな」と腰をあげた。
当たり前のようについてくる三人へ、「つーかお前ら課題は?ちゃんと終わってんの?」と銀八が言えば、三人はそれぞれ明後日の方を向いて、「提出日に仕上がれば問題ないろー」、「最初の授業に間に合えば良いんだよ」、「謝り倒せば何とかなるものだ」と言ってのける。「さっさと帰って勉強しろ馬鹿ども」とひらひら手を振った銀八の肩に、「だったらお前が教えてくれよ」と、言いながら高杉は腕をかけた。「家でケーキでもパフェでもいくらでも食わせてやるぜ?」と囁かれて、少しばかりぐらついた銀八だったが、「朝水ようかん冷やしてきたからいい」と、高杉の頭を押し戻す。「そういえば、昨日あんみつの詰め合わせが届いたな。食うか?」と言った桂と、「洋菓子のカタログギフトはいらんか」と続けた坂本に、「欲しいけどお前らからはいらん」と返した銀八は、「そもそも全部お前らの金じゃねえだろうが」とガシガシ髪を掻いた。三馬鹿はぼんぼんなのだ。戦前からの弁護士と、幕末から続く医者と、江戸時代から続く貿易会社の息子たちは、そろって顔を見合わせて、「「「その内俺らの金になるからいいだろ?」」」と異口同音で言った。
うわー腹立つなー、といっそ冷静な目で三人を見回した銀八は、「とにかくお前らの家にはいかねえし、お前らの課題を見る気もねーから」と、きっぱり首を振る。何しろ、三馬鹿どもは本質的に性格がアレなだけで、成績が悪いわけではないのだ。好き放題している割に教師からの受けも悪くはないし、もちろん他の生徒からの評判も良い。金もコネも調子も良い奴らなのだった。銀八の家はそれほど貧しいわけでもないが、どうしたって庶民の域を出るものではない。かなり贅沢なこの私立校に通うため、銀八は必至で奨学生待遇をもぎ取ったのだ。三年間の学費とそれに付随するほぼすべての費用が無料になるかわりに、銀八は学年5位以内の成績とある程度以上の国立大学への進学が義務付けられている。もちろん、素行は優良でなくてはならない。

だというのに、入学早々この三馬鹿どもに気に入られてしまった銀八は、三人からのあらゆる誘いを振りきるのに必死だった。どうして会って一月経たない人間を海外の別荘へ誘うのだろうか、とGWを前にして頭を抱えた銀八は、「パスポートが無いから」と無難にそれを断ったつもりだったのだが、翌翌日に笑顔でパスポートを差し出されて冗談ではなく吐きそうになったものだ。金とコネで、と坂本は笑ったが、笑いごとではない。本人の意思が無い時点で公文書偽造だ。そのあたりで、銀八は三馬鹿に気を使うのを止めた。住む世界が違うからだ。身の丈に合わない誘いは断るし、もちろんそれ以外の誘いも気が乗らなければ断る。前述の携帯に至っては、無理やり押し付けてこようとする三馬鹿を振りきるために、少ない小遣いで購入したものだった。メールと通話以外の機能がないそれに、三馬鹿と自宅以外のアドレスはいまだに登録されていない。そして今日も不携帯だった。
高杉と桂の文句を聞き流しつつ靴を履いたところで、「だったら、金八の家に行ってみちゅう」と坂本が言うので、「物語の根幹に関わるから止めてくんない?銀な、銀八だから」と、銀八は飽きるほど繰り返した言葉をぶつけたが、坂本は一向に堪える様子もない。「そりゃ良いな」とまず高杉が食い付き、「この辺で親御さんにも挨拶をしたいところだな」と、桂も頷いた。ハァ?と眉をひそめて、「なんでお前ら連れて帰んなきゃなんねーの、つうか飯とかどうする気なの」と銀八が言えば、「ピザでも取るがか」と、坂本は高杉と桂に振っている。「馬鹿者、ここは銀八の手料理を食べるチャンスではないか」と返した桂に、「今日はいきなりだからむしろこっちが準備して帰った方がポイント高ェだろ。で、ピザはナシだ、昨日食った」と高杉は言って、「じゃったら寿司にするかの」と坂本も頷いた。「誰も良いなんて言ってねえんだけど、何勝手に話進めてんの?人の話聞いてる?」と銀八は重ねたが、「表の和菓子屋で好きなもん買ってやる。お前が気にするなら、お年玉で」と高杉は言い、「そうだな、預金の利子で」と桂が便乗し、「昨日ちいっとばかし株で儲けたぜよ」と坂本も親指を立てる。
なんなのこの団結力、何なのこの面倒くさい三人、と銀八の目からますます生気が失われていく間に、「…どうしても家に入れたくないという理由があるなら、お前用のマンションでも用意するか?」と、桂がとんでもないことを言いだすので、「だからそういう話はしてねーっつうんだよ!いいよ、来いよ、冷やし中華と麦茶くらいなら出してやるよ、庶民馬鹿にすんなよ!」と、銀八は啖呵を切った。イエーイ、と手を打ち合わせる三馬鹿を見ながらため息をついた銀八は、けれどもそれほど悪い気分ではない。そもそもこの三人は、銀八にパスポートを渡すような相手なのだ。住所を知っているはずなのに押しかけてこない。自宅に電話もかけない。強引なように見えて、あくまで銀八の意見を尊重する姿勢は、銀八にとっても悪くないものだ。だからこそ、どれだけ突拍子もないことを言われようと、三馬鹿と友人でいられるのだった。

意気揚々とついてくる三人に、「言っとくけど、ただの古い家だから。古くて…何もねーし。庭も狭い」と、銀八が念を押すように言えば、「おんしがいりゃ充分じゃ」と、坂本はかなり高い位置から銀八の頭をぐりぐり撫でる。向かいの高級和菓子屋で水ようかん以外の生菓子を買ってもらった銀八は、「お家の方も甘いものは平気か?」と桂に尋ねられて、「病的に好きだよ」と自分を棚上げに頷いた。なるほど、と頷いた桂が箱入りの餅菓子と最中を買う姿を眺めながら、家にいるんだから家の人だよな、と、言い訳のように銀時は呟いた。

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高校から徒歩25分ほどの住宅街の外れに、その家はあった。腰高の生け垣に小さな木の門が付き、もう白いとはいえなくなってしまった壁と、今は開け放たれた木の雨戸とその向こうの障子、ところどころ欠けた瓦屋根にはぼうぼうと草が生えている。猫の額ほどの庭には、それでも梅と百日紅と楓と椿が並んでいた。おお、と妙な声をあげた高杉に、「帰るなら今のうちだぞ」と告げた銀八は、ネジ式の鍵を回して、がらりと引き戸を開く。日当たりだけは良い家の中には人の気配もなく、銀八の影が小さく落ちた。「おじゃまします」と玄関をくぐった三人が、物珍しそうにきょろきょろしているので、「俺の部屋二階だから、そっちのぼれ」と、三人が脱ぎ散らした靴を揃えながら銀八は言う。
振り返った桂が、どことなくニヤニヤしているので、「なんだよ」と一応返してやれば、「良いお宅じゃないか。俺は好きだぞ、メイちゃんの家みたいで」と、桂は目を輝かせた。「お前それお化け屋敷っつってる?途切れずに人が住んでんだから一緒にすんな」と言った銀八は、軽く桂のポニーテールを引いて、「後がつかえてんだからさっさと行けって」と、残りの二人を促す。木の段に足をかけて、「この階段大丈夫か、抜けそう」と苦笑交じりで言った高杉に、「ああ、冗談じゃなくこの間ぶち抜いて補修したから、気を付けろよ」と銀八は頷いた。「マジか。おいバカ本、お前俺の前を歩け。いや、一番後ろがいいか?」と、ごちゃごちゃ言いながら階段を上った一行に、「ここ、俺の部屋」と、銀八は向かって右の襖を開く。六畳の和室には、ちゃぶ台が一つと座布団が一枚、それと今週のジャンプが一冊転がっていた。
一瞬間を開けて、「…おい銀八、お前の部屋ってここの他にもあんのか?」と高杉が言うので、「ねえよ、お前らと一緒にすんな」と銀八は返す。「と言っても、これは」と言葉を切った桂は、「布団はどうしているんだ。教科書は?服は」と銀八の顔を眺めて尋ねた。「何のための押し入れだよ」と、銀八が一間ある押し入れを開いて、右の上段に洋服かけ、下段に布団と衣装ケース、左の上段に細々とした日用品一式、そして下段にケース式の本棚がそれぞれ収まっている様を見せた。時計とカレンダーすら、押入れの奥に掛かっている。「どうよ、この収納力」と、銀八はいくぶん誇らしげに胸を張って見たが、三人は頭を突き合わせて、しばらくひそひそと呟きあってから、「お前、頭はいいけど馬鹿なんだな」と、憐みをこめた眼で言った。「テメーらにだけは言われたくねえよ」と、心の底から言った銀八は、「座布団と麦茶取ってくるから、ちょっと待ってろ」と、鞄だけ置いて部屋を出る。

とんとんぴょんとん、と軋む階段の危険な個所を飛び越えて降りた銀八は、台所に続くガラス戸を開き、良く言えばクラシカルな食器棚から不揃いなコップを取り出した。何度か連れて行かれた三人の家では、毎回名がつく食器で物を食わされて味も良く分からなかったものだが、三人はコンビニ飯も普通に食べるので、100パック128円の水で出す麦茶もきっと飲めるだろう。一応気を使って氷を入れた銀八は、バットで固めただけの水ようかんを切り、少し考えて、庭先から楓の葉を取って添えた。これは、銀八の同居人がしてくれることだった。
「待たせたな」と、大きなお盆と三枚の座布団を抱えて戻った銀八は、三人が思い思いに押し入れをあさっている姿を目にして、「何してんの、お前ら」と半眼になる。びっくう、と背中を揺らした三人は、「お、早かったのう」と何もなかったような顔でちゃぶ台に戻った。「いやいやいや、何もごまかせてないからね。っつうかずいぶんきれいに掻きまわしてくれたなオイ!どーしてくれんだ、せっかくグラデーションにしたのに」と、銀八が押し入れの本を指せば、「巻数や作者で並べるもんじゃねえのか、普通」と、並べ替えた張本人らしい高杉はのんびり耳をほじっている。あのなァ、と突っ込みかけた銀八の手から、麦茶と水ようかんの乗った盆を取った桂は、「ほら、銀八の手料理だぞ」と、坂本に一皿渡し、自身も一切れ口にした。「…思ったほど甘くないな」と意外そうな顔をする桂に、「規定量以外の砂糖は入れてもうまくねえんだよ」と、銀八は返す。何事も適量が肝心だ。

なるほど、と言う顔でおとなしく水ようかんを食べ始めた面々に、「おい、何も終わってねーよ?何探してた。何するつもりだった」と、銀八が告げれば、アッハッハッハ、と癇に障る声で笑いながら、「金八の性的嗜好が気んなってのう、エロ本探しちょった」と坂本はあけすけに言った。そんなことだろうとは思ったが、だからと言って開き直られても腹が立つわけで、「ようかん返せ、もう全部俺が食う!」と、銀八はいきり立つ。「まあ待て、もう食ってしまった物は仕方ないだろう、お前はあれを食え」と、和菓子屋から下げてきた包みを指す桂のポニーテールが揺れて、「悪くはねえが、やっぱり甘いな。冷やし中華食おうぜ」とコンビニの袋を掲げる高杉と、「原形を止めとらんくてもいいがや?」と喉に指を突っ込もうとする坂本に、いい加減一言くれてやろうと銀八が大きく息を吸ったところで、「お前らうるせ―よ、近所迷惑だぞ。つうか銀さん迷惑だ」と、開け放したままの襖の向こうからダルそうな声がして、息が詰まった。
「銀八がおともだち連れてくるとか初めてだからそれはいいんだけどよ、でも人んちではもうちょっと静かにしなさい。あとエロ本は衣装ケースの二段目のセーターの中な」と続いた言葉に、「ぎ、銀さん?!仕事じゃなかった?」と銀八が尋ねれば、「午前中で終わり。飯食おうか迷ったけど、お前いると思ったから」と、銀時は銀八と同じ色の髪を揺らして答える。純粋に嬉しかった銀八を突いて、「お父さんか?」と囁いた高杉を押しのけ、「はじめまして、桂と言います。銀八君とは入学当初から仲良くさせていただいてます。これ、お土産です」とはきはき挨拶した桂から、「ご丁寧にどうも」と餅菓子を受け取った銀時は、「坂田銀時です、銀八とは…あー…何?どういう関係になるの?」と、銀八に振った。「さかた?吉田じゃないがか」と銀八の肩に手を掛けた坂本を振り払って、銀時に並んだ銀八は、「俺の又従兄弟で、いろいろあって俺の保護者をしてくれてる人だよ」と、少しばかり緊張しながら銀時を示す。へえ、と頷いた高杉が、「そっくりなのに、遠縁なんだな」と呟くので、どきりとした銀八をよそに、「俺たちのひいばあさんがこんな頭でな、どうも隔世遺伝したらしいわ」と、銀時はすでに三馬鹿と打ち解け始めていた。「で、餅は嬉しいけどお前ら飯は?」と、銀八に顔を向けた銀時に、「冷やし中華作るけど、銀さんも食う?」と銀八が尋ねれば、「いいな、手伝うわ」と、銀時は手にしていたでかい鞄を向かいの襖に放り込んだ。「そこが銀時さんの部屋ですか」と不躾な桂に、「そうだけど、もう名前呼び?」と銀時は返して、「っつうかその髪なに、サラッサラじゃん」と嫌そうな顔をしている。
「いいから、お前ら部屋でおとなしくしとけ!エロ本はセーターから移動してマフラーに包んであるから!」と、桂を含めた三馬鹿を部屋に閉じ込めた銀八は、「悪ィ、どうしてもって聞かなくて」と銀時に謝罪した。「いいって」と軽く手を振った銀時は、「急に連れてくんのは俺の十八番だし、何よりお前が友達連れてくるってことは、ここをちゃんとお前の家だって思ってるってことだろ。俺ァそれがちょっと嬉しい」と、相変わらずやる気の無さそうな顔で似合わない台詞を吐く。ぎゅう、と胸が締め付けられるような気がした銀八は、銀時のTシャツを引いて、「ここは銀さんの家だけど、俺の返ってくる場所だってここだけだ」と宣言した。片頬だけで笑った銀時は、銀八の頭をくしゃりとなでて、とんとんとんぴょんとん、とリズミカルに階段を下りていく。銀八と同じ音だった。

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銀八が銀時と初めて顔を合わせたのは、父親の通夜だった。真冬だった。吉田松陽、と言う銀八の父は、銀八が6歳の時に事故で死んでいる。事故、と言うのが交通事故のたぐいではないことは、言葉の端々からなんとなく理解したが、ではいったい何なのか、と言うことを、ほぼ10年経った今でも銀八は知らない。ただ、そぼ降る雨の中、傘も差さずにやってきた若い男が、白木の棺の隣にぺたりと座って静かに泣いていたことは覚えている。銀八の父は高校教師で、母は父の教え子だった。母が高校を卒業してすぐ父の子を身ごもり、父と結婚した。子どもは産まれる前に流れてしまったが、生きていたら銀八の兄か姉になったのだろう。そうしてまた一年後に母は妊娠し、銀八が生まれた。父の葬儀に、母はほとんど参加していなかった。ただ、家の隅で母の両親に囲まれ、さめざめと泣いていた。だから、父を送ったのはほとんど銀八と、そして泣き止んだ銀時だった。
銀時は、銀八の父の従兄弟の子だった。従兄弟夫妻が相次いで亡くなったあと、松陽に引き取られて暮らしていたという。松陽が結婚した、高校三年生の3月まで。棺のそばでじっとしていた銀八を、「なんでお前そんなに俺そっくりなの」と抱き寄せた銀時の体温は今でも忘れられない。温かくて、少し湿って、でも広い胸だった。それまで涙の一つも零さなかった銀八が、とたんにしゃくりあげたのは、父にも母にもほとんど触れることを許されなかった二日ほどの時間が報われたような気がしたからだ。銀時の手と、棺に横たわった父の手の温度差は、死の概念すら曖昧だった銀八にも、二度と父に会えないのだということを理解させるのに十分な役割を果たした。通夜には着の身着のまま駆けつけた銀時も、翌日の葬儀にはきちんと正装で現われ、祖父母に肩を抱かれた母の代わりに銀八の手を引いてくれた。そして、そのまま銀八をこの古い家に連れ帰ってくれたのだ。
葬式の後、母と祖父母と銀時の間にどんなやり取りがあったのか、銀八は漠然としか知らない。襖越しに聞こえる声は、ほとんど押し殺されていたからだ。ただ、まだ25だった母は、銀八の目から見ても子どものような人で、その両親である祖父母が銀八のことを好いていなかったことは知っていた。父と母の年の差は21で、それはつまり銀八と母よりも離れているのだ。しかるべき施設に、と言った言葉の後で、何か物音が聞こえ、すぐに開いた襖の前にはネクタイを解いた銀時が立っている。片腕にしっかりと父の遺影と位牌を抱えた銀時は、「帰るぞ」と、当たり前のように銀八へと右手を差し出した。銀八は一瞬だけ母を探したが、両親の胸に顔を埋めた母の背中に、迷わず銀時の手を握った。温かくて乾いた、大きな掌だった。

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それから10年、銀八は銀時と暮らしている。この古い家は、もともと銀時と銀八の曾祖母にあたる女性の持ち物で、それからずっと一族に引き継がれてきたらしい。銀時の前は銀八の父の持ち物で、それこそ銀八が生まれる前は、父もずっとこの家で暮らしていたのだという。1階の奥座敷に置かれた小さな仏壇には父の位牌が置かれ、鴨居では父が微笑んでいる。笑い顔しか見たことのない父だった。ときおり、懐かしそうな顔で鈴を鳴らす銀時に、父との思い出を訪ねたことはない。ぽつぽつと語る銀時の昔話に、父の影はほとんど見えなかった。そもそも来客の多い家だった。銀時が連れてくる友人は皆個性的で、銀八のこともごく簡単に受け入れ、そして銀時ごと可愛がってくれた。高校まで、ほとんど友人らしい友人がいなかったことを、銀時がごく深い場所で心配していてくれたことを知っているが、銀八には本当にそんなものは必要なかった。兄のような、父のような、友のような銀時がいてくれたからだ。
一度だけ会いに来た母は、銀八の頭を撫でてはくれたものの、手を引いて帰ってはくれなかった。結婚するのだ、と幸せそうに笑った母を、銀八は責めなかったが、かわりに銀時がぬるい茶を掛けて叩きだした。春だったが、肌寒い日だったので、銀八はタオルを持って母を追いかけたが、家のすぐそばで母が知らない男の車に乗って去って行く姿に、ようやくショックを受けた。銀八は結局、誰かの感情を突き付けられない限り自分のことすら理解できないのだ、とぼろぼろ涙を流しながら思った。もちろん銀八の外出に気づいていた銀時は、8歳になっていた銀八を片手で担ぎ上げて、泣き疲れて眠るまで隣にいてくれた。それからは、銀時を母とも思うようになった。

そうした感情の中に不純なものを見つけたのは、ほんの1年ほど前だ。自室の窓辺でジャンプを読んでいた銀八は、千鳥足で帰ってくる銀時と誰かを認めた。それほど遅い時間でもなかったので、二階から声をかけようとした瞬間、銀時の襟をぐいと引いて、その誰かが銀時に唇を合わせた。誰かの顔は影になって見えなかったが、確かに男で、そして確かに唇が重なった。「おかえり」の「お」で止まった口のまま、銀八が見下ろしているとも知らず、銀時は思い切りその男を殴りつけると、ごしごし唇を拭って、そのまま男を引きずって行ってしまった。15分ほどで、今度こそ帰宅した銀時は、今で正座していた銀八の膝に寿司の折詰を落として、「電気くらいつけろよ」と笑った。頷いた銀八は、銀時が風呂から上がるまでに茶を入れて、箸を二膳用意して、銀時とふたりで寿司を抓んだ。

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あれから、銀八は銀時の唇が気になってしかたがない。それがどういうことなのかは大筋で理解できるが、認めたくないのも確かだった。冷やし中華のために大なべで湯を沸かし、銀八がキュウリとハムを刻む間に、銀時は甘い錦糸卵を焼いている。少し伸びた髪を耳に掛ける仕草にいちいちどきりとしながら、銀八は何度か指を切りそうになったが、なんとか持ちこたえた。銀八の血入りでも、三馬鹿は喜んでしまいそうなのが怖いのだった。やが茹で上がった冷やし中華を皿に盛り、付属のタレを掛けてからトッピングを載せた銀八が、4つの冷やし中華をどう運ぼうか思案する間に、銀時はさっさと今の10人掛けのちゃぶ台に冷やし中華を並べてしまった。「うるさくなるから、上で食うよ」と銀八は言ったのだが、「あの部屋に4人でいんのはキツイわ。っつーかアレだろ、ヅラとバカ本と根暗なんだろ?俺にもちゃんと紹介しろって」と、銀時はにやりと笑う。そんなにわかるほどアイツらのことを話していただろうか、と急に恥ずかしくなった銀八だったが、三馬鹿は呼ぶ前に降りてきて、勝手に銀時にも銀八にも絡み始めた。甘い錦糸卵に顔をしかめた高杉の口に紅ショウガを押し込み、タレに咽た坂本に台拭きを投げつけ、皿に落ちそうな桂の前髪は銀時が結んでやっている。いつもの、坂田家の食卓だった。今日も騒がしい一日だった。銀時の友人と、何も変わらない遣り取りだった。


(現代パロディ / 坂田銀時←吉田銀八 / 130729)