song4U / DEAD END  

瓦礫の山で目を開けた厭魅は、ゆるりと首をもたげて、壁の大穴から外界を眺めた。半分がた崩れ落ちたとはいえ、衰退した江戸の町で今なお圧倒的な存在感を放つターミナル跡地からは、興廃した歌舞伎町が一瞥できる。錫杖を抱え、日がな一日世界を見つめることしかできない厭魅は、ひどく渇いていた。すでに飲食を必要としなくなった体も、その心も。

白詛と名がついたウイルスに侵され、自身の意思では身動きが取れなくなった頃、宇宙から天導衆がやってきた。俺を連れて行くのか、と尋ねた厭魅に、天導衆は低く笑って、「いずれ人類が死に絶えたら迎えに来てやる」と言った。邪魔な人類が消えうせてから、ゆっくりと地球を天人の好む星へと造り返るのだと。厭魅が正しく厭魅となったことを確認しに来ただけだ、と続けた天導衆は、「お前が殺した先代はな、自身の星が尽きるまで十五年待った。この星は何年もつだろうな」と、厭魅の鼻先に呪印の刻まれた包帯を投げ出した。厭魅が身に着ける死に装束だ。厭魅としての機能に抗うことはできず、ゆっくりとすべてを身にまとった厭魅に、「良く似合う」と天導衆は笑って、踵を返した。「星で一番の強者が、星に仇なす存在となる。皮肉な話だな」と他人事のような天導衆に、厭魅は何一つ問いただすこともできなかった。

あれからもう五年の歳月が流れた。厭魅が厭魅となる前に蒔いた最後の種は、無事根を張ることができただろうか。厭魅の体は、何一つ厭魅の自由にはならない。ただ、厭魅としての役割、星を滅ぼすための行為以外を受け付けることはない。何もしないということは、崩落を待つということに他ならなかった。厭魅の体から広がった毒は世界中を侵して、このままではあと何年も待たずに地球は伽藍堂だ。ときおり、その方が幸せなのか、という思いすら脳裏にちらついた。救いが現れぬ限り、厭魅は滅亡を待つしかない。長引けば長引くほど、厭魅の孤独は続くのだ。胸どころか、体中に穴が開いているようだった。いっそ奈落の底に叩きつけられたなら、厭魅にとっては楽だっただろう。体を縛るのなら、なぜ心も共に封じてはくれなかったのか。これが【寂しい】のだということを、厭魅は痛いほど知ってしまった。

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厭魅がどうにか自我を保っていた頃の話だ。その夜、厭魅はとある色町の門戸を叩いた。おんなに用があるわけではない、そこで客引きをする男に声をかけたのだ。変装とも仮装ともつかない姿で、得体の知れないペンギンおばけと声を張り上げていたかつての学友であり、戦友であり、今となっては腐りきってぼろぼろの縁を保つ桂に、「抜けられるか?」と厭魅は尋ねた。「急用ならすぐにでも」と言った桂に、「そんなたいそうな話じゃねえよ」と厭魅は手を振った。「久しぶりにテメェと呑んだくれるのも悪くねえかなと」と、厭魅が続ければ、「珍しいこともあるものだ。明日は槍が降るぞ」と、真顔で桂が言うので、「いますぐテメーの真上に降らせてやろうか」と、厭魅は返した。冗談だ、と肩をすくめた桂は、エリザベスに二言、三言告げると、ふざけた装束をばさりと解いて、いつもの着流し姿になった。「さて、どこへ行く?」と並んだ桂に、「お前ェの奢りだから、どこでも」と厭魅は答えた。「そんなに持ち合わせはないぞ。バイト代は明後日入るのでな」と桂が薄い財布を振るので、「情けねえな、攘夷浪士って奴ァ」と、厭魅は耳を掻いた。「羽振りが良いのは過激派ばかりでな。こちらは素寒貧だ」と、それほど気にした様子もなく桂は腕を組んで、一件の暖簾をくぐった。「いらっしゃい」と顔を上げたオヤジは、どうやら桂を正しく桂と認めているらしい。上へ、と通された二階の座敷は踏み込み付きで、裏通りに面した窓がついている。
「それで」と窓際に腰を下ろした桂が厭魅を促すので、「それで?」と、厭魅は酢の物に箸を付けながら首を捻った。「本当に何の用もなく来たのか?俺のところへ?」と、桂が傾けるビール瓶をコップを受けた厭魅は、「俺だってたまにはテメェと呑みてー時もあるさ」と、何でもない声で言った。「どういう風の吹きまわしか知らんが、そう言う話なら」と桂は膝を崩して、鍋の蓋を取った。「この季節によせ鍋かよ」と、厭魅は笑ったが、「今はカラクリで充分涼しいだろう」と、桂は厭魅の小鉢に春菊と白菜とネギと人参とシイタケとしらたきを取った。「おい、肉を寄こせ」と厭魅が要求すれば、「お前は甘味でカロリーを摂っているだろう」と、桂はすげなく言った。「そういう問題じゃねーよ、これじゃただの野菜鍋だろーが」と返した厭魅は、土鍋にざっくり箸を入れて、程良く煮えた牛肉と、ついでにタラの切り身を摘まみあげた。「あっ、貴様取り箸を使え!唾液が混ざる」と、桂は咎めたが、「今さらだろうが、俺は気にしねえよ」と、厭魅はひらひら手を振った。俺が気にするんだ、と桂は渋い顔をしたが、攘夷時代はもちろんその前も、桂と厭魅は同じ器どころか同じ箸で食事をとったことさえあるのだった。
「つうか、鍋にはビールより酒だろ」と、厭魅が手まねで杯を傾けると、「うるさい奴だな」と返して、桂は立ち上がった。「俺は熱い方がすきだ」と厭魅が黒髪の後ろ姿に声をかければ、「知っている」と振り返りもせずに桂は言った。そうだろうな、と頷いた厭魅は、3センチほど残っていたビール瓶を空にして、空き瓶を座敷の外へ出しておいた。厭魅は基本的に何もかも他人に押し付けて酔い潰れる側の人間だったが、それは桂も同じだったので、できる限り共倒れは避けたかったのだ。戻ってきた桂は、火鉢に薬缶を乗せて酒に燗をしていく。「お前は温燗派だろうが」と厭魅が徳利を引き上げようとすれば、桂は厭魅を鼻で笑って、「冷めれば同じことだ」と言った。他愛のないことを口にしながら、鍋をあらかた突き終える頃には、厭魅も桂もだいぶ酒がまわっていた。
「だいたい貴様には昔から志と言うものが欠けている」と文句を付けた桂に、「そうでもねえだろ、俺はちゃんと飯を食う為に先生と暮らして、それからもまともな飯を食ってる」と、厭魅は胸を張った。とたんに、桂がぽかんと口を開けるので、厭魅はその口にぽい、と焼き鳥を一本放りこんだ。ぐふっ、と妙な音で呻いた桂に、「先生と俺のことを忘れたのか?」と厭魅が素知らぬ顔で尋ねれば、「忘れるわけがないだろう」と、鳥皮を噛んだまま桂は答えた。「そうだな、忘れたふりしてたのは俺の方だ」と、厭魅が砂肝を取って齧れば、「お前、本当に何もないのか?」と、桂は竹串を引き抜いて厭魅に近寄った。「何があるって言うんだよ」と、厭魅がゆるく笑うと、「まるで今際のような口調だったぞ」と、桂は眉をひそめた。桂の言葉に、厭魅はいっそ何もかもぶちまけてしまおうかとも思ったが、今はその時では無かった。知ればきっと、桂は厭魅を死なせてはくれないだろう。それは厭魅も同じことだった。砂肝と一緒にある程度の感傷を呑み下した厭魅は、「俺たちはいつだって崖っぷちを歩いてきただろうが」と、今度こそ大きく笑った。
汁だけになった鍋を見下ろして、「〆はうどんとそばのどっちが良い」と桂が言うので、「雑炊」と厭魅は答えた。「お前は麺だろう」と怪訝な顔をした桂に、「久しぶりにお前の作る雑炊が食いたい」と厭魅が返せば、「…俺の飯はまずいんじゃないのか」と、桂は言った。「大丈夫だ、ここ数年で犬の餌も食えるようになったから」と厭魅が手を振ると、「『まずい』を訂正せんか!!」と桂は厭魅を殴り飛ばした。頬を擦りながら、「仕方ねーだろ、まずいもんはまずいんだよ」と開き直った厭魅に、「だったら貴様が作れ」と、桂はどこからともなく取り出した卵と冷や飯とネギとを手渡した。「数こなさねーとできるもんもできねーぞ」と言いながら鍋に屈みこんだ厭魅が、「晋助ほどじゃねーけど」と付け加えれば、「あんな毒物と一緒にするな」と桂は言った。「とんでもねー味の汁粉、覚えてるか」と、いくぶん顔を青くした厭魅に、「忘れられん、色が似ているだけ泥水の方がマシだったぞ。少なくとも口がかぶれることはないだろうしな」と、桂も口元を押さえた。「先生はなかなか楽しそうに食べていたが」と、続けた桂に、「馬鹿野郎あれは先生の努力の賜物なんだよ!」と反論した厭魅は、「お前らが帰った後、厠から帰ってこなくなる先生に何度怯えたことか」と頭を抱えた。「先生…」と目頭に涙を浮かべた桂が、「それでもあの頃のあいつは好意の塊だったからな、俺もお前も先生も、邪険には出来なかった」と言うので、「まあな、完全な悪意で未元物質作る女よりはいくらかマシだ」と厭魅は頷いた。少なくとも、高杉の作るモノは人体以外に有害な物質では無かった。食べ物とは言い難かったが。
「何にせよ、お前の作る食事が一番うまいのは確かだ」と頷いた桂は、さっそく小鉢と箸を手に銀時の雑炊を待っている。「てめーと晋助がそうやって煽るから、戦時中ほとんど俺が飯を作るはめになったんだろうが!!」と、お玉を振り上げた厭魅に、「適材適所と言うやつだな」と桂が頷いた。「ふざけんなよ、一番武勲をあげたやつが帰宅してからも厨房で戦い続けるってどういう理屈?全盛期は何人分作らされたと思ってんだ、今からでも謝罪と賠償を要求する。現金でな!」と叫びながら、桂の取り皿に卵雑炊を盛り付けた厭魅は、自分でも一口雑炊を啜って、「まあまあだな」と言った。「お前はもうなんでも屋など辞めて、小料理屋でも出した方がいいんじゃないか?」とと、まんざら冗談でもない顔で言った桂に、「んなもんテメーと晋助しか食いに来ねーだろうが」と、厭魅はうんざりした顔で言った。「…晋助が来ることは決定項なんだな」と、桂が呟くので、「あいつはすぐ妬くから、俺とお前が一緒にいればそのうち来るだろ」と、厭魅は答えた。「全部終わったら、そういう未来も悪くないかもな」と続けた厭魅に、「何が終わると言うんだ」と桂は尋ねた。厭魅はただ笑って、「全部だよ」と杯を空にすると、木刀を突いて立ち上がった。「もう行くのか?大福のひとつも買ってこさせるが」と腰を浮かせかけた桂に、「いいよ、充分食って飲んだ。ご馳走様」と、厭魅はひらひら手を振って答えた。「あんまり遅くなるとガキ共が心配するしな」と厭魅が付け加えれば、「しかし、このところ帰っていないのだろう」と桂は言った。「…新八か?」と尋ねた厭魅に、「知らせてくれたのはリーダーだ。だが、彼も心配していたぞ」と桂は答えて、「今夜は帰るんだな?」と重ねた。しばらく黙り込んでいた厭魅は、ふと振り返って、桂に左手を差し出した。訝しげな顔をした桂に、「小太郎、またあした」と、厭魅は言った。「銀時、お前」と桂は大きく目を見開いたが、厭魅がなおも手を伸ばせば、桂は厭魅の手のひらをぎゅっと握って、「またあした」と返した。それから、「あしたじゃなくてもいい、あさってでもその先でも構わんから、必ずまた来いよ」と桂が念を押すので、「そのときはもっとうまい酒用意しとけよ」と、厭魅は桂の手を一度だけ握り返した。硬くて暖かい手のひらだった。

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包帯に覆われた両腕を見下ろした厭魅は、ゆるく目を閉じて両手で顔を覆った。飲食も睡眠も必要としなくなった身体は、この呪いに生かされている。こんなものを生と呼びたくはなかった。愛するものが少しずつ手のひらから零れ落ちていく感覚を、いつまで味わい続ければ良いのだろう。なぜ、皆逃げてくれないのだ。こんな星も、厭魅と化してしまった厭魅自身も捨てて、どこか遠いところで生きていてくれたら、それ以上何も望みはしないのに。いまだかぶき町にしがみつく彼らを、どうにかして救いたかった。血反吐を吐いても、手足が千切れても、はらわたが捩れても構わない、ただ一度でも彼らと顔を合わせて、そう告げることができたなら。けれども、それは何もかも厭魅が招いたことだった。厭魅が厭魅であるとさらけ出すことを恐れ、ただひとり、のうのうとあの世へ逃げ出そうとした厭魅自身の、これは咎であり罰だった。
またあした。明日を信じて疑わなかった20年前が、今はもうこんなに遠い。厭魅はどこで間違えてしまったのだろう。5年前、白詛が広まる前に厭魅自身を殺せていたら。15年前、戦で死んでいたら。20年前、松陽とともに死んでいたら。そもそも生まれてなどこなければ。どれかひとつでも叶っていたら、こんなに苦しむことはなかった。涸れ果てた両目からは一滴の涙も零れず、自由にならない喉からは一音の声すら漏れることはない。それでも厭魅は、全身で慟哭していた。己を、世界を、そして愛した者達を呪うように。15年前に厭魅が斬った厭魅は、世界の崩壊まで15年耐えたと言う。世界が終わる前に正気を失うことはできただろうか。愛する何もかもが消え失せる前に自我を壊すことはできただろうか。そうあればいい、と今はただそう願う。何より厭魅が、先代厭魅の救いであればいい。いっそ気が触れてしまえば、厭魅も幸せだろう。けれども、厭魅は厭魅自身の希望のために、まだ狂うわけにはいかないのだった。
つめたい両腕を抱いた厭魅は、最後に触れた桂の体温を思う。最初から最後まで、温かい手をしていた。戦の最中ですら、桂はいつも銀時の手を引いてくれた。死ぬ時ですら一緒だと言ってくれた桂に、銀時はいまだ何も返していない。果たせなかった約束の意味を、桂は理解してくれただろうか。たとえあしたが永遠にやってこないとしても、その思いだけは真実だと、桂にだけは知っていてほしかった。最後に触れた松陽の手の温度は覚えていない。松陽はいつだって厭魅に生きる道を示し、そして今も厭魅を本当の意味で死に至らしめることを良しとしてはくれない。最期の最後に残る矜持は、すべて松陽から受け継いだ。最後に抱きしめた神楽の身体と、最後に握った新八の手と、最後に撫でた定春の毛皮と、厭魅には忘れられないものがいくらでもあった。厭魅を繋ぎとめるすべては、厭魅を苛むすべてでもある。

新八、神楽、定春、ババア、お妙、長谷川さん、キャサリン、卵、ゴリラ、土方、沖田、猿飛、月詠、九兵衛、辰馬、晋助、小太郎、松陽先生、そして、

「…坂田銀時」

絞り出すように呟いた名は、厭魅が焦がれて止まないものだった。松陽が与え、厭魅が捨てた名だ。その名を呼ぶ瞬間を渇望し、そして同じだけその名を呼びたくなくて慟哭する。二度と呼ばれることも叶わないが、失くしたかったわけではなかった。厭魅は死ぬまで坂田銀時で在りたかった。そのための希望であり、そして絶望だった。坂田銀時が現れれば、厭魅の未来は消える。ともすれば、坂田銀時の過去も消える。失われつつある未来のために、それは厭魅の本望だった。が、しかし千切れるほどの痛みをもたらすものでもあった。できることならもう一度、あと一度で構わないから、温かい手に触れたかった。人の温もりを感じて死にたかった。坂田銀時の血は、他のそれと同じように温かいだろうか。厭魅にはわからなかった。その時が来るまで、わかりはしないのだった。

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厭魅に永遠の安息が訪れる、数日前のはなしだった。


(別れの話 / 坂田銀時と厭魅 / 130725)