song4U.03  

松陽の家に居候ができて半月程が過ぎた。
最初の一週間はほとんど姿を見なかったが、それ以降は村塾の隅で刀を抱えていた。机と教本は用意されていたものの手をつける様子もなく、日がな一日うとうとするか空を眺めるばかりの居候は、まだ仮名文字も読めないらしい。と言うことを高杉に告げたのは、居候相手に対して妙に親しげな桂だった。何があったか知らないが、松陽が銀時を紹介した翌日から、皆が遠巻きにする中で桂だけは居候に話しかけ、居候も桂とはぽつぽつ言葉を交わしていた。そこに松陽が混ざることもあった。高杉は、一目見たときから居候を鬼だなどと思いはしなかったし、桂などいなくても、高杉の周りには大勢の取り巻きがいたが、高杉が友人だと思っているのは桂だけなので(本当の意味で話が通じるのも桂だけだ)、居候のせいで桂と過ごす時間が減ったのは純粋に面白くなかった。
今日も今日とて、川へ行こう、という高杉の誘いを断った桂は、「銀時と草を摘みにいくのでな」と言い置いて行ってしまった。医家の桂は、野生の薬草の類に明るく、高杉もときおり草摘みを手伝うことがあった。居候を誘うくらいなら俺を誘え、という言葉をぐっと堪えた高杉は、不機嫌そうに取り巻きを蹴散らして、ひとりで大川へ行くことにした。夏には、松陽が塾生を水浴びへ連れて行ってくれる川だ。子どもだけで近づくな、と言い含められているものの、今は春で水の流れも穏やかだった。足手まといになる人間がいなければ、高杉ひとりでどうとでもなると思ったのだ。鼻息も荒く小川の縁を歩く途中で、土手にしゃがみこむ桂と居候を見かけた。桂はともかく、居候の白髪は新緑にまぎれることもできず、ふわふわと風に靡いている。高杉は声をかけず、川に背を向けていた桂は高杉に気づかなかったが、居候だけはちらりと高杉を一瞥したことも気に食わなかった。

四半刻ほどかけて、川の本流に到着した高杉は、草履と足袋を脱いで、澄んだ水に足を漬けた。水はまだ冷たかったが、疲れた足にはそれが心地良かった。春の陽はやわらかく降り注ぎ、穏やかな風の吹く午後だったが、高杉の心は晴れなかった。何に苛立つのかもわからないままばしゃばしゃと水を蹴って、水面にいくつもの波紋を浮かべた高杉は、不意に聞こえた物音に、びくりと肩を震わせた。振り返れば、木立の向こうから明らかに人相の悪い男が三人、高杉の様子を伺っている。
川から足を抜いて、高杉が草履に足を入れたところで、「よう坊ちゃん、いい所であったな」と、ひとりがねっとりした声で高杉に言った。それなりに良家の子息である高杉は、一度ならず物取りや人攫いに遭ったこともあるが、それはいつも父親について上る都でのことだった。こんな鄙びた里の近くまで、と歯噛みした高杉は、手近にあった石と木の枝を掴んだ。そういえば、ここはもう戦場に近いのだ。里があまりに平和すぎて忘れかけていたが、いつ火の手が上がってもおかしくない程度に。松陽先生が日帰りで居候を連れ戻った時点で思い出すべきだった、と思う高杉は、ゆっくり近づくごろつきの足元に石を投げると、一目散で走り出した。下流へ。あまり人が通らない岸辺は足元が悪く、高杉は小石や木の根に足をとられた。それはごろつきも同じだろうが、大人と子どもの差だ。見る間に追いついて、高杉を捕らえた男は、「殺しはしねえよ、毛艶の良いガキは金になるからな」と、まるで安心できないことを言った。せめて誘拐ならば、両親や松陽先生がどうにでもしてくれるだろうが、このまま浚われてしまえば高杉の存在は大洋に零れた水滴も同じだろう。ぞわ、と総毛だった高杉は身を捩じらせて、男の腕に思い切り噛み付いた。ぎゃあ、と叫んで高杉を放り出した男が、地面に転がった高杉を蹴り飛ばそうとするので、高杉は必死で体を丸めて、這うように逃げた。振り返った高杉に男の指が迫った時、誰か、と叫びかけた高杉の眼前で、赤い花が咲いた。
びしゃ、と顔に降りかかった生暖かいものが何かを理解する前に、男はばたりと倒れて動かなくなった。息もできない高杉をよそに、いつの間にか男と高杉の間に割り込んだ居候は、軽く刀を振って血を掃う。「て、テメェ、」と、一瞬の驚愕の後に男の仲間が挙げた声を皮切りに、居候は体を屈めて、残りの二人をいとも容易く切り捨ててしまった。何のためらいもない動きだった。しん、と静まり返った川辺で、高杉が居候から目を話せずにいれば、「あまり先へ行くな銀時、そっちには深い川が…晋助?」と、幼馴染で友人の桂の声が聞こえた。本格的に腰が立たなくなった高杉を抱き起こして、「どうした、何があった」と問いかけた桂の顔を見た高杉は、こらえ切れずに桂の胸に顔を埋めると、大声で泣き出した。おろおろしながら、高杉の顔の血を拭った桂は、高杉の背を撫でて、「もう大丈夫だ」と言った。高杉は、なおさら泣けて仕方がなかった。

ひとしきり泣いて、恐怖と安堵より恥ずかしさが先に立つ頃、「歩けるか?」と桂にたずねられた高杉は、桂を支えに立ち上がろうとしてへたり込んでしまった。腰が抜けている。よし、と頷いた桂は、高杉を背負って歩こうとしたが、三歩も持たずに崩れ落ちた。そもそも、桂は高杉より小さいのだ。「人を呼んでもらおう、銀時、頼めるか?」と、桂が高杉の肩越しに居候へと声を掛けたところで、「俺が」と、居候は高杉の手を掴んだ。びく、と震えた高杉にはかまわず、返り血のひとつも浴びていない居候は、何の気負いもなく高杉を背負った。「コタロウ、草」と言った居候に、桂は「ちゃんと持ってきた」と、脇に放っていた笊を拾い上げた。うん、と頷いた居候は、高杉の重さなどまるで感じないような足取りで、里へ向けて歩き出す。ちらりと振り返れば、居候が切った男たちは川の脇にきれいに並べられ、木の枝がかけられていた。桂が尋ねて、居候がぽつぽつ答える言葉によれば、居候は不意に川上へと走り出し、桂は見失わないように追いかけるのが精一杯だったらしい。「どうしてわかったんだ」と言う桂に、「においと、…音と声がした」と、銀時は言った。桂にはもちろん、高杉にもわからなかったものが居候にはわかるという。尻の下に宛がわれた刀の鞘が妙に暖かくて、高杉は身じろぎもできなかった。

里に帰った高杉と桂と居候は、まず松陽の元へ赴いた。ごろつきとはいえ、人が死んでいるのだ。桂はともかく、高杉の着物には血が飛んでいるし、居候の刀は血で曇っていた。居候に背負われた高杉をひょいと抱き上げた松陽は、三人の話を掻い摘んで聞くと、「晋助のお家まで使いをやりますから、まずは着替えましょう。小太郎は、お父上を呼んできていただけますか」と言った。ふらりと松陽の家に入ろうとした居候を呼び止めて、「銀時も一緒ですよ」と、松陽は薄く笑った。顔と手を洗ってもらって、こざっぱりとした着物に着替えた高杉は、松陽と居候が井戸端で刀を洗う様を縁側から眺めていた。文字通り駆けつけた桂の父親は、高杉に擦り傷しかないことを知って安堵の表情を浮かべた。それから、「君もおいで」と、井戸端の居候を手招いた桂の父親に、居候は胡乱な目を向けた。松陽に背を押されて、洗ったばかりの刀を鞘に収めて近づいた居候に、「…どこも怪我はないんだね」と、医師は大きく息を吐いた。何もなくてよかった、と苦い声で言った医師に、「何もなくはありませんが、この子達に怪我がなくて何よりです」と、松陽は返した。やがて訪れた高杉家の面々に、松陽はごく丁寧な説明をした。おそらくは戦場を荒らすことを生業とした浪士崩れが野党となり、高杉を襲ったこと。男たちの言葉から、高杉家を狙ったのではなく子どもなら誰でも良かったと思われるため、さらわれた場合金で購うことは難しかっただろうということ。松陽の養い子は人を斬ったが、あくまでそれは高杉を守るためだったということ。皆無傷だが、養い子がいなければ高杉は帰らなかっただろうということ。そうしたことを、ごく丁寧に、けれども有無を言わせぬ調子で告げた松陽は、「君が一人でなくて良かった」と、軽く笑んで見せた。俺は一人で淵に、と言いかけた高杉の声は、喉の奥で張り付いてしまった。結局、誰も何も咎めずにその場は終わり、高杉の両親は松陽と、形ばかり居候にも頭を下げた。

家人に伴われて帰る前に、居候を連れて寄ってきた桂は、「晋助」と高杉に声をかけて、居候を突いた。どこかぼんやりした顔の居候は、「着物は洗って返す」と言った。着物。血が飛んだ高杉の着物を。てめえ、と思った高杉は、けれどもやはり上手く喋れない。顔を真っ赤にした高杉に、居候は困ったように首を捻って、桂を見つめた。「着物はそのまま返していいぞ」と、表面的な答えを返した桂は、高杉と居候の手をぎゅっと握って、「そうではなくて、俺は銀時に礼を言いたかったんだ。俺の親友を助けてくれてありがとう」と、深く頭を下げた。やはり不思議そうな目をした居候が、「しんゆう」と口にすれば、「とても親しい友人のことだ。高杉とは、ほとんど生まれた頃から一緒にいるからな」と、桂は高杉の手をひときわ強く握った。ぶわっ、と何かがこみ上げた高杉は、桂の手を握り返し、それから刀ごと居候の手を掴んで、「…ありがとう。お前のおかげで、帰ってこられた」と、言った。居候は何事か考えて、「刀が」と言った。きょとん、とした高杉に、「俺は刀があったからできた。なかったらできなかった」と、居候は続けた。それはそうだろうが、と思った高杉に、「銀時は、お前も刀があればどうにかできただろう、と言っているんだ。つまり、あまり気にするなということだ」と、桂はごく軽く言ってのけた。とたんに、居候はほっとした顔で頷いた。そんなことはない。高杉に刀を振るう力はないし、何より人を切るだけの覚悟もなかった。躊躇いもなく人を斬った居候に、高杉は何をした覚えもない。桂ならまだしも、高杉を守るために、どうして。うつむいた高杉をどう思ったのか、居候は慌てた顔で、「草、いるか?食えるって、コタロウが。キイチゴもある。あまい」と言った。首を振った高杉が、居候の手を離せば、「今日は帰ろう。俺も着いていくから。銀時、また明日な」と、高杉の背を抱いて桂は言った。「あした」と返した居候は、刀をさげて立っていた。
高杉の手を握ったまま帰る途中、桂は一度も高杉の顔を見ようとせず、高杉と桂は他愛のない話をした。里の外れの村塾から、真ん中の高杉家まではそれなりに距離があって、桂は途中で自分の手ぬぐいを高杉に貸してくれた。高杉の手ぬぐいがびしょ濡れになったからだ。「銀時は、いい奴だろう」と言った桂に、高杉は頷くことしかできなかった。

翌日、高杉は熱を出して塾を休み、翌々日は塾自体が休みだった。父親に連れられて顔を出した桂に、居候の好物を聞いた高杉は、家人を使いに出して、山ほどの甘味を松陽宅に届けてもらった。キイチゴより、ずっと甘いはずだ。もう一日空けて、三日ぶりに塾へ出た高杉は、桂を証人に、初めて居候を「銀時」と呼んだ。用件は高杉に刀を教えてほしい、というものだったが、居候はぼんやりと、「拾って振れば斬れる」としか答えなかった。居候は、坂田銀時は、確かにそうやって刀を覚えたのだろう。銀時が抱える刀は、三日前とは別のものになっていた。いつから聞いていたのか、「晋助、真剣を扱うのであれば、まず体力をつけないと」と、松陽が割り込み、「俺は先生に教わりたいです!」と桂が手を上げ、銀時は眠そうに欠伸をした。ふへ、と笑った高杉は、銀時の肩に腕をかけて、「だったら、刀はもういいから今度甘いもん食いに行こうぜ。四人で」と言った。指を折って、高杉と桂と松陽を数えた銀時がそこで指を止めるので、「坂田銀時」と、高杉は四本目の指をそっと重ねた。わずかに目を見開いた銀時の周りで、桂と松陽はにやにやしていた。
「友人が増えて良かったですね」と、銀時の頭を撫でた松陽は、「四つ辻の甘味屋で、新しい水菓子を出すそうですよ」と、ひどく嬉しそうに言った。「先生はそういうことに詳しいですね」と感心したような声を出した桂は、さっそく塾の日程と松陽の予定を確認し始めた。「…俺も?」と、完全に置いてきぼりになった銀時が呟くので、「お前が中心だよ」と、高杉は答えた。こんなことで何が返せるわけでもない。命の対価は、いつか命で支払うべきだろう。だからこれは、ただの遊びの誘いなのだ。二人目の友人の手を握った高杉は、「桂と一緒に、俺も字を教えてやるな」と、銀時に告げた。銀時はあまりありがたくもなさそうだったが、「よろしくお願いします」ときれいに頭を下げた。銀時の教本は、今日も閉じたままだった。

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高杉と桂を見送っていた銀時は、「銀時」と名を呼ばれて振り返った。銀時を見下ろした松陽は、「夕食の前に、君が殺したもののところへ案内してください」と言った。常とは違い、大小を差した松陽の表情は険しく、銀時は黙って頷いた。松陽が送れずについてくることを確認しながら、里を通る渓流をどんどん遡って、松陽を三人の屍骸まで導いた。銀時を脇に置いて、死体を検めた松陽は、軽く手を合わせてから流水で手を洗った。そうして、「この木の枝は?」と銀時に尋ねるので、「土が固くて、雪もない」と、銀時は答えた。「できるものなら埋めたかったのですか?」と重ねた松陽に、銀時は頷いた。「埋めれば、そこで朽ちる。埋めないと、荒れる」と、昔山で聞いたことを伝えれば、松陽はようやく表情を和らげて、「君には、死者を弔う気概があるのですね」と呟いた。銀時が首を捻ると、「おいおいわかるようになりますよ。今は、これで十分です」と、松陽は首を振って、「私がいても、大の男三人を埋めるのは難しいですね。明日にでも、人を頼みましょう」と言った。冷たくて固い躯になった男たちは、ものも言わずにここで夜を明かすのだろう。夜も昼もわからないまま。
帰りましょうか、と松陽が差し出した手を、ぎこちなく握った銀時に、「銀時、君はひとりでも、あの三人を殺しましたか」と松陽は尋ねた。少し考えた銀時は、「ひとりは殺した。ふたりからは逃げた」と言った。三人すべてを斬ったのは、桂と高杉がいたからだ。銀時ひとりであれば、ひとりの指を切り落とした時点で終わらせていたかもしれない。走っても、川に飛び込んでも逃げられただろう。だが、あのふたりは違う。錆びた刀を恐れた高杉を背負って、桂の手を引いて、無傷で逃げられるほどの力は銀時にはない。ぎゅっ、と刀を抱き抱えた銀時に、「君は守ることの意味を良く知っている」と、松陽は言った。「君には一角の剣士になれるだけの才があります。いずれ殺さずとも守れるようになる。そうなるための協力を、私は惜しみません」と言った松陽に、「コタロウと…シンスケが生きてて良かった」と銀時は返した。ええ、と頷いた松陽は、「君も傷つかなくて良かった」と、銀時をぎゅっと引き寄せた。歩きづらい、と思った銀時に、「そういえば、君は晋助の名を知っているのですね」と面白そうな顔で松陽が言うので、「コタロウが話す。怒りっぽくてボウジャクブジンでボンボンでブキヨウでツンデレでゆうじんでしんゆう」と、銀時は桂から聞いた言葉をそのまま並べた。あはっ、と笑った松陽は、「そのまま伝えるとふたりの友情にひびが入るかもしれませんから、そのことは私と銀時と小太郎の秘密です」と言った。ひみつ、というのはかくしごとのことだ。
神妙に頷いた銀時が、しばらくして「…しんゆう」と呟けば、「羨ましいですか」と松陽は尋ねた。銀時が松陽を見上げれば、「小太郎と晋助を見て、思うことはありませんでしたか?寂しいですとか、悔しいですとか」と、松陽は重ねた。どちらもわからなかったが、刀の柄で胸を指して、「ここのところが、すうすうするような」と銀時が言えば、「それが『寂しい』という感情です。悪いものではありませんが、そうですね、たぶん晋助もしばらくそんな感じだったのだと思いますよ。君に小太郎を取られて」と、松陽はひょいと銀時を抱き上げた。「俺のじゃないし、歩ける」と、銀時が言えば、「君は晋助を負ぶって帰ってきましたからね、少しだけ」と、松陽は銀時の背をやわらかく撫でた。それから、「小太郎は君だけのものではありませんが、君と彼が友人である限り、君のものでもあります。もちろん、君も少しは小太郎のものですよ。それが友人です」と、松陽が言うので、「…先生は」と、銀時は松陽の鎖骨を眺めながら尋ねた。少し驚いたような声で、「銀時も私も、少しずつお互いのものです。私は君が好きですからね」と、答えた松陽に、「すき」と銀時が返せば、「温かい食事のようなものです」と、松陽は言った。少し考えて、「幸せ?」と銀時が言うと、「よく似ています」と松陽は頷いた。その日の夕食には、銀時が積んで帰った春菜の味噌汁と、食後にキイチゴが供された。甘酸っぱいキイチゴに、松陽は顔を綻ばせ、銀時は胸の辺りが暖かくなった。きっと、それが『すき』だった。


(出会う話 / 坂田銀時と高杉晋助 / 130720)