未 完 成 の あ  し あ と



ふああ、と城之内はひとつあくびを零した。目の前には海馬がいて、無表情で城之内を眺めている。すきにすりゃあいいとは言ったが、どうしてこうなっているのかはよくわからない。屋上でどう考えても無駄な話をしたあの日から、海馬はときおり城之内の前に姿を見せるようになった。どうやって嗅ぎつけるのかは知らないが、必ず城之内が一人でいる時だ。懐かれてしまったのか、とあくびをしながら城之内は思う。それはそれで、悪い気はしなかった。海馬はともかく、城之内は別に海馬が嫌いなわけではないのだ。胡乱な眼を向けられれば腹が立つし、蔑むような言葉にはきっちりと返礼するが、そうではない海馬、つまり海馬自身に悪い感情はない。むしろついこの間、同情しかけてしまったことが一番悪いことだと城之内は思っている。城之内自身からしてみれば同情されるのは結構なことだし、侮られるのも楽でいいが、誰かにそれをするのは良くないことだ。

ということはつまり「楽だ」と言いながら、城之内にとってもそれが一番嫌なことだと自覚している、わけだということも城之内は知っている。気づかないふりをしている。どうして自分に言い訳する必要があるんだと思うこともあるが、誰かに言い訳するよりはいいと城之内は思っている。傷ついたことを誰かに気づかれるくらいなら自分でも気づかないほうがいい。「傷つかなかった」と思いこむことができれば、誰かにそれを気取られることもない。だから城之内は、遊戯との会話がたまに苦痛だったりする。

「大丈夫?」
「大丈夫だよ。」

このやり取りが、城之内は苦手だった。大丈夫じゃなくなったらそう言う。でも、大丈夫かと聞かれて大丈夫じゃないと答えられる人間がいるだろうか。少なくとも城之内には無理だった。だからいつだって、大丈夫じゃないところまで進んでしまう。そうしたいのは自分だから遊戯が悪いわけではないわけだが、それでも、大丈夫かと聞かれなければもう無理だと訴えることができた、かもしれない。しかし選ぶ前に選ばれたのだから仕方がない。諦めるより単純な理屈で、城之内は遊戯がすきだった。全てはそれだけで片がつく。城之内は、城之内自身より遊戯のほうが大切だった。まあそれは城之内にかかわる人間すべてに言えることだったが。

でもこいつはどうだろう、と、まだまだ城之内を眺めている海馬に目を向ける。城之内は海馬が大事だろうか。そんなことはなかった。傷つけたくないと思ったのは、確かだ。でもそれは、海馬を傷つけて城之内が傷つくことが面倒だっただけだ。城之内は弱い人間だった。弱いことを知っているだけ、強さを装って弱さが増す、悪循環で生きている人間だった。海馬はそれを知らなかった。弱いまま生きていける遊戯とも、強さを誇示することなく生きている遊戯とも違う。たぶん教えてやったって理解はしないんだろうなあ、と城之内は思う。

城之内には、全然大丈夫じゃない、と言いたくなることがままある。それは全く下準備をせずに迎えてしまった試験日だったり、電気ガスに続いて水道が止められた日だったり、デュエルで死にかけた日だったりする。規模の大小はあるにせよ、城之内の悲壮感はいつだって似たようなものだ。生死にかかわることでもかかわらないことでも、努力すればどうにかなることでもどうにもならないことでも、その時そうなってしまった事実に変わりはないので、城之内は悲観に暮れる代わりに自分を誤魔化して生きることにしている。何が起きたって大丈夫だという自己暗示と、いざとなったらどうなってもいいと思っている、という暗示だ。本当はそうじゃないと思っている、ことを知っている、ことすら欺瞞だと知っている。わかっていないから誤魔化すんだ。
で、海馬はと言えば、自分が大丈夫じゃないということにも気づいていないように見える。どう考えたってあの高笑いはヒステリー一歩手前だ。いろんなものがギリギリアウトな気がする。弟はどうにかこっちに帰ってきたようだが、海馬自身はまだまだ、崖の向こうに半歩体を乗り出したような状態なんだろう。突き落としてやったら楽になるんじゃねーのかな、と思わないこともない。何も分からないことは幸せなことだと、城之内は思う。事実、海馬が捕らわれていた数日はとてつもなく平和だった。けれどもそれを望んでいる人間が、城之内のまわりにはいないのだ。遊戯も、モクバも、海馬の部下も、皆海馬のことがすきなのだ。海馬一人壊れて終わる話ではない。
じゃあしかたねえよなあ、と城之内は思う。海馬より遊戯が大事だ。海馬が壊れて遊戯が悲しむ姿を見たくない城之内には、ここにいる海馬を半歩先から半歩中まで引き戻してやる、理由がある。何より一度触ってしまった。最後まで、城之内が付き合えるところまでは連れて行ってやるだけの、それはまるで義務のような行為だった。城之内の、城之内による、城之内のための、海馬真人間養成コース。ちょっと違うか。

と、愚にもつかないことを考えてにやつきかけた口元を歪めて、おそらくこんなことを考えているとは思いもよらないだろう海馬を、もう何度目になるか分からない目で眺める。何ひとつ城之内には期待していないだろう海馬に、何を言ったら城之内が伝わるだろうか。海馬が望む城之内は、城之内の本質とはかけ離れている。けれども、海馬が見たい城之内を作ることも、城之内には簡単なことだった。少しだけさらけ出して、遊戯には見せない部分だと告げて、海馬の中身に触れて、引きずり出すだけ引きずり出して、傷つけることもなく乾かしてやればいいのだ。

そうして城之内に刻まれるものが何もなくても、抱きしめて抱きしめられたあのときの、あの感触をぬぐい去れない城之内にはそれしか傷つかない方法がない。放り出してしまう後味の悪さと、抱え込む腕の重さは比べるまでもないのだ。結局城之内は少しだけ屈折したモラリストで、笑顔で人を傷つけるような世界にどうにか反発したくて、それでも「正しさ」ということの圧倒的なまでの強さを知って、もがくことを諦めている。城之内にとって正しいことや善いことというのは大した意味を持たない。あまりにも的確すぎるそれらは、城之内の中にうまく届かないのだ。殺されかけても海馬を嫌いにならない城之内は、だからもしかすると誰のことも好きではないのかもしれなかった。嫌いなことも好きなことも、それ以上ということでは同じものだと城之内は思う。つまるところ、城之内には何もかもが面倒なのだ。どれだけ語ってみたところで城之内の原点はそれだ。ただ、面倒の判断基準が人と少しだけずれているからわかりにくい、らしい。やることの面倒さと、やらないことで生まれる面倒さを秤にかけて、どちらかを選ぶ。城之内の全ては、そういうことだった。


じゃあもういっそ海馬をあいしてしまおうか、と、陰り始めた太陽と同じだけの唐突さで城之内は思った。あいしていたら、海馬のために生きることが城之内の望みになる。面倒だと思いながら手を伸ばすより、愛しいから手を伸ばすほうが効率はいいだろう。嫌いではない人間を好きになるのは簡単だ。好きになった人間を、愛するのはもっと簡単だろう。自己暗示は得意なので。海馬に愛される必要はなかった。愛を愛で返す必要はないと、城之内は思っている。一度だけ城之内は城之内に尋ねた。海馬は男で、嫌な奴で、友達でもない。それでも手を伸ばす必要があるのか。
あるわけがない、という答えが一瞬で帰ってきて、今度こそ城之内は笑った。当たり前だった。だからこそ城之内はそれをするのだ。どうでもいいことだけで生きている城之内は、意味のないことにこそ意味を求めていた。それを、海馬には告げてしまった。


冷たい風が吹き始めた屋上で、前触れなく城之内は立ちあがる。海馬が城之内を追う、視線を背中に感じながらすたすたと海馬の前を横切った。ことさらゆっくりと歩いて、出入り口の鉄扉に手をかけたところで初めて海馬を振り返る。相変わらず無表情な海馬は、それでも体を捻って城之内を見上げている。その、海馬に向かって、黙って手を伸ばした。掌を上に向けて。

城之内の掌に海馬の掌が重なるまで、さほど時間はかからなかった。


( ノーコメントで / 祈れ祈れ〜、続編 / 海城 / 遊戯王 / 20091007 )