今 、 透 明 か : 2



季節はゆるやかに夏へと向かっていた。間に一度席替えがあった。どうでもいい、と思う海馬と城之内は隣同士で、遊戯はまた遠かった。ふたりだけずるい、と口を尖らせる遊戯に、おもわず城之内と顔を見合わせた。授業が始まった後で、アイス奢ったら機嫌よくなるかな、と城之内が呟く。いい考えだと思ったので、休み時に購買へ向かった。散々悩んで、パピコと雪見大福、遊戯には両方、城之内と海馬は片方ずつ。ふたりで袋を差し出したら、遊戯は一瞬ぽかんとして、それから。

「別にいいのに」

と言った遊戯が、それでも花のように笑うので、海馬は満足だった。雪見大福を齧る海馬の横で、城之内がパピコを啜っている。どちらから食べようか迷っている遊戯に、早く食べないと溶けるぞ、と城之内も笑う。その光景が、眩しい光のように見えて海馬は目を眇めた。
次の数学は自習だった。教師の都合。それがどうした、と海馬は思うけれど、がたがたと椅子を引きずってくる遊戯の顔を見たら自習も悪くないと思った。しかし、配られた藁半紙にはびっしりと式が詰まっていて、難易度よりも過程が面倒だと海馬は内心溜息をつく。遊戯はかちかちとシャーペンを繰り出して、プリンス飛べてに丁寧に名前を書くところから始めている。隣の城之内はといえば、ものすごいスピードで全ての式を途中まで埋めている。海馬が何気なく眺めていると、城之内は手を止めて、単純計算がすきなんだ、と言った。海馬が面倒だと思う、その過程がすきだという。どうして?と、海馬も疑問に思ったことを、遊戯がつなげてくれる。城之内は少し考えて言った。

「理由を聞かれると、ちょっと難しい」
「そうだよね、すきなことだもんね…じゃあ、例えばどんなふうに?」
「そうだなあ…ずっと同じ計算を続ける機械って、あるだろ?」
「うーん?」
「例えば円周率をずっと計算し続けたり、素数に果てがあるのか確かめたりする、ああいうの」
「ああ、うん。あるね」
「俺はああいう機械みたいなことを、してみたかった」

今はもう必要ない計算が、必要な時代に生まれていたら。ただひたすら、数字の世界に囲まれて生きる道もあったかもしれないと、城之内は遊戯に言った。遊戯は、うん、と頷いて、「素敵だね、そういうの」と返した。今からでもなればいいのにと、遊戯は言わなかった。なれない理由があるんだろうと海馬は思った。遊戯は、そういう人間だった。



中間テストの間、城之内は毎日登校している。去年はいなかったよね、と当たり前のように隣にいる遊戯が城之内に話しかけている。はずせない仕事があってさ、と城之内は苦笑しながら返した。ふたりの前には教科書が広げられていたけれど、どちらも目を通すことはしない。随分余裕だな、と思う海馬の前には、ノートの一冊も置かれてはいないのだけれど。答えがある以上難しいものではない、と海馬は思う。そしておそらく、このふたりも同じだった。遊戯に押されるように、貼り出された試験結果を見に行って、そう確信した。城之内克也、と書かれた下には、500点と書かれている。遊戯は城之内の腕を掴んで歓声を上げた。

「すごいね、一位だね」
「おー、これで静香に自慢できるな」
「海馬君も、20位以内だよ」

18位だった。462点。すごいね、と頬を上気させる遊戯にしたって、貼り出された50以内にいるのだ。43/320、420点。何も恥じることはない。そう告げると、でも、やっぱりふたりともすごいから、と遊戯は海馬の手を取った。暖かくてやわらかい、遊戯そのもののような手だった。


6月になって、ようやく重苦しい学生服を脱ぐことが出来た。城之内は夏服も真新しいままで、喉元まで止めたボタンを遊戯に外されている。苦しくないの?と問いかけられて、実は少し、と白状した城之内の首元から、黒いTシャツが覗いている。日に当たらない鎖骨は白く、金髪と青い眼がそれを縁取っている。
あまりにも日差しが強くて、窓際の海馬の席では昼食を取るのが辛くなってきたので、3人で涼しい場所を探すことにした。屋上はいっぱいだし、空き教室はどれも埃だらけだった。そうして海馬が見つけた場所は、中庭の桜の下だった。城之内と、最初に会った場所だった。海馬は今も、それを遊戯に告げていない。それは城之内も同じのようで、けれども涼しい風が通り抜けるそこを遊戯はとりわけ喜んでくれた。教室から拝借したゴミ袋を敷いて腰を下ろすと、ただのお昼ごはんなのにピクニックみたいだね、とペットボトルに手を伸ばしながら遊戯は言った。

「今日のご飯はなに?」
「今日はサンドイッチ。遊戯も食うか?」
「え、じゃあ唐揚げと交換ね。何がはさんであるの?」
「ハムとチーズ、レタスとキュウリとサーモン、卵、チョコレートと杏のジャム」
「あんず?」
「そうそう。杏にするか?」
「うん」

弾んだ声でサンドイッチを手に取る遊戯の頭の上で城之内を見ると、城之内は海馬に向かって片頬をあげて見せた。仕込だった。教室へ戻る途中、杏が入ってたら喜ぶかなと思ってさ、と先を歩く遊戯には聞こえないように城之内が言った。喜ばれて良かったな、と返せば、遊戯の後姿を追ったままそうだな、と城之内は溜息のように呟いた。やさしい声だった。


週に一度の美術の時間、それまでのビデオ鑑賞に区切りをつけて、人物デッサンをすることになった。探した遊戯は既に別の人間と組んでいて、大きな目を瞬かせて「城之内君と組むんじゃないの?」と海馬に言った。今日はいない城之内の名前。書くのは来週からだって言うし、城之内君のことは先生も知ってるから大丈夫だよね、と遊戯は小首をかしげた。頷く以外の選択肢が海馬には残されていなかった。翌週、目の前には金髪の城之内が座っている。たまにいなくて悪いな、と苦笑する城之内に、とにかく書くしかないだろうと促した。いないときがあるなら、いる間に少しでも書くほうが早い。淡い色のクロッキー帳に目を伏せた城之内の顔をなぞる。ふ、と顔を上げた城之内が、少し笑っていった。

「お前整ってるから書きやすいな」
「お前もな」
「そうか?ありがとう」

4週(城之内は一度いなかったので3週)かけて出来上がったふたりの絵を見て、遊戯は「上手だね」と手を叩いた。可も付加もないない海馬の絵、少し幼い城之内の絵。どちらも目を伏せているので、他の絵と比べると目立つのは確かだった。城之内は、「こんな風に見えるか?」と笑って海馬の書いた城之内をつついている。うん、よく似てるよ、と笑う遊戯の頬もつついて、お前の絵も良く特長掴んでるよな、と城之内は言った。そうかな?と首をかしげる遊戯に、海馬も黙って頷いた。城之内の言うとおりだ。遊戯はありがとう、と少し笑って、でも、と口を開いた。

「だけど、ふたりとも何でもできるんだね」

すごいね、と嘆息する遊戯の前で、海馬はいつかのように城之内と顔を見合わせた。海馬は城之内のことを何も知らない。けれども、できること以上に、何も出来ないことを知っていた。遊戯のほうがずっとすごい、と口には出せないことを思った。



その日、数日振りに登校した城之内は、朝から顔色が悪かった。大丈夫?と何度も遊戯が尋ねて、その度に大丈夫だと返すことさえ辛そうな城之内の様子に、海馬も少し顔を潜めた。三時間目、移動教室の中に、城之内の姿がなかった。一緒に教室を出て、途中までは確かにいたはずの。探しにいく、という遊戯を制して(遊戯が日直だったからだ)、海馬が教室まで戻った。がらんとした教室には誰の姿もない。教室から移動教室までの短い距離を何度か往復して、裏階段踊り場で蹲っている城之内を見つけた。授業はとうに始まっている。顔色はいよいよ青白く、けれども城之内がいいというので、保健室には行かずに、今はもう使われていない、古い理科室に滑り込んだ。かび臭い空気に眉を潜めて窓を開けると、並べた椅子の上に寝かせた城之内が掠れた声をあげた。

「…悪い」
「いや。でもどうした」
「ただの、寝不足で…貧血だ」
「そうか」
「しばらく休んだから、遊戯と静香につつかれて、さ…」
「それで心配させたら元も子もなかろう」
「はは…そうだな」

悪い、ありがとう。という城之内の靴を脱がせて、やはり一番上まで止められたボタンを外す。少し考えて、古い蛇口を捻って濡らした手を城之内の額に当てると、城之内が深く呼吸するのが分かった。薄い胸が上下に動くのを見ている。眠れるか、と尋ねると、頭に疲れが上って眠れない、と正直に返された。わからなくもないので、無理に眠れとは言わずに、少し考えて海馬は口を開いた。

「お前の、両親は」
「いない」
「祖父とやらは」
「一年前に他界した」
「身内は妹だけか」
「ああ。…お前は」
「遊戯から聞かなかったか」
「お前が言わないことを、遊戯は言わないさ」
「聞いてみただけだ。…そうだな、父親は生きている。随分前に分かれたきりだが」
「兄弟は」
「弟がひとり、父と一緒にいる」
「そうか」

何の当たり障りもない会話だった。両親がない理由を尋ねるつもりもなかったし、母親がいない理由を話すつもりもなかった。けれども、城之内の青い眼がどこを見るわけでもなく中を見据えているのを見て、それだけではないことを、知った。どことも変わらない時計の針は、規則正しく時を刻んでいく。息が詰まるような沈黙の中で、それでも呼吸を続けていく。強く風が吹いたことをきっかけに、海馬はまた口を開いた。開いたことに、自分で驚いていた。

「もっと聞きたいか」
「放してくれるなら。俺の話は」
「喋りたければ言え」
「そうだな」

そうだな、と言った城之内は、どちらともつかない顔で緩く目を閉じた。おれの、といいかけた唇が途中で閉じる。もう一度開いた唇は、音を紡がずにゆっくりと噛み締められてしまう。海馬は城之内の話が聞きたいわけではなかった。城之内に海馬のことを話したいわけでもなかった。けれども。

「俺の、両親は駆け落ちだった」
「かけおち」
「そうだ。よくある話だが、母の実家が名家でな」
「そうじゃない男と、手に手を取って…ってやつか」
「そういうことだ」

母の実家は、名家ではあったが、祖父は成りあがりだった。権力と財力に溺れる人間だった。母は芯の強い人間だったが、祖父の重圧に耐え切れずに父と逃げた。俺が生まれて、モクバが-弟が-生まれた。10歳まで、金はなかったが幸せだった。10歳のある日、祖父がやってきて、父から母を攫っていった。俺も一緒に。一年後、眠るように母が死んだ。その頃にはほとんど心を病んでいたから、おそらくそれが幸せだったんだろう。父は葬儀にも出られなかった。さらに一年後に祖父が死んだ。身体中にびっしりと病巣が根付いていたというが、同情する気にはならなかった。ほとんど他人のようなものだった。今度こそ葬列に並んだ父が俺を引き取ろうとしたけれど、俺はそれを拒んだ。父が再婚を決めていたからだ。母に良く似た、でも儚げな女性だった。モクバが懐いているならそれでいいとおもったが、でも俺にとって母は一人きりだった。祖父の遺産は莫大で、モクバと俺で2等分することになった。成人するまでは凍結されているが、母の保険金で生きることには困らない。弟にはたまに会いに行く。新しい母は優しいという。

「モクバが幸せなら、いいと思う」

最期の言葉は、海馬自身にも宙に浮いたように聞こえた。誰かに話すのは初めてだったが、隠すようなことでもなかった。海馬にとってどれだけ重いことでも、言葉にしてしまえば薄くなる。同情も憐憫もどうでもよかった。海馬は、…本当は海馬ではなかった。それは母の苗字だ。城之内はしばらく何も言わなかった。海馬もそれで構わなかった。城之内が眠るまでの時間、ここにいればいい。けれども。宙を彷徨っていた城之内の視線が、海馬の顔に向けられる。静かな顔をしていた。城之内は、そのままゆるりと口を開いた。

「…俺の家は8歳まで普通だった」

両親がいて、俺がいて、静香がいた。父は小さな会社を持っていて、そこまで裕福ではなかったが金に困ることもなかった。8歳の夏、静香が高熱を出して目を患った。放っておけば失明するという。手術には金が必要だった。家を売った。必死に金を集めて、どうにか静香の目は治してやれた。すぐ後に、父の会社が倒産した。間が悪いとしか言いようがなかった。借金ばかりが残って、父は荒れた。酒びたりになって、母を殴った。静香を詰ることもあった。俺が10歳の夏、母は静香を連れて逃げようとした。俺も一緒に行こうといわれた。でも俺は、断った。母と静香が幸せならそれでよかった。父も好きだった。だけど、いつもは帰ってこない父が、なぜかその日だけ早く帰ってきた。荷物をまとめて、静かの手を引いた母を見て、父は激昂した。母の白い顔が紫色になっていくところを見ていた。父が眠ってしまった後で、母はもう出て行こうとはせずに、なんだかとても静かな顔をしていた。俺と静香の髪を丁寧に撫でた。次の日、父と母は目を覚まさなかった。俺たちは孤児院に入った。12歳までそこで過ごした。12歳の三月に、祖父が現れた。父の遠い親戚だといった。

「そうして、俺たちは『城之内』になった」

窓の外で7月のまばゆい光が弾けている。城之内と海馬は、本当は『城之内』でも『海馬』でもないふたりは、話の中身には触れずに黙ってお互いの顔を見ていた。城之内の青い眼がゆっくりと瞬いて、それから少し笑ったようだった。海馬は、城之内に対して特に何も思わなかった。海馬に対しても、城之内が何も思わなければいいと思った。城之内の顔を見下ろしたまま、海馬はまた口を開いた。

「遊戯はどこまで知っている」
「両親がいないことと、祖父と血が繋がっていないことまでだな」
「俺に、話していいのか」
「お前はいいのか?」
「構わない」

そうか、と頷いた城之内は、視線を窓の向こうに送って、それから言った。

「『城之内』のじーさんは…俺たちがふたりになっても生きていけるように、たくさんのことを教えてくれた」

会社の経営はそのうちのひとつなんだと城之内は言った。だから大事にしたいのだ、とも。おそらく自分の身体よりも、祖父の残したものや妹のほうが大事なのだろう。それは推量でも仮定でもなく確信だった。海馬がそうであるように、城之内の全ては妹に集約できるのだろう。これは仮定だった。

「静香には怒られるけどな」
「自己満足か。酷い兄だな」
「俺もそう思う」
「側にいない俺より増しだがな」

無表情に言った海馬を、城之内は否定しなかった。そうだな、と頷いて、けれどもそれがいいとも悪いとも言わなかった。その代わりに、弟は大事か?と、海馬の目を見上げて城之内は言った。海馬は黙って頷いた。一緒に暮らした記憶は遠いが、それでも。唯一、母が残したものだ。海馬の顔を見て、城之内はふ、と笑みを零した。

「そうか」
「ああ」
「…すこし、眠くなってきた」
「昼前に起こしてやる」
「お前は」
「ここにいる」
「サボるなよ」
「お前が椅子から落ちないように見ていてやるんだ」
「はは。そっか」

ありがとう、と呼吸するような自然さで城之内は笑う。青白い顔に変わりはなかったが、呼吸は落ち着いている。もう一度手を濡らして、次は城之内の首筋に当ててやる。気持ちいな、と城之内は目を細めて、それからすぐに寝息を立て始めた。海馬はゆっくりと呼吸して、城之内の首筋から手を引き抜いた。城之内の体温が残るそれを瞼に当てて、目を閉じる。モクバに会いたかった。



次に目を明けると昼前だった。城之内はいなかった。窓がもう一枚開いていた。シャツのボタンが二つ目まで外されていた。足音に振り返ると、遊戯と城之内が弁当を抱えて立っていた。おはよう、と笑う遊戯に軽く頷くと、海馬君おでこ赤くなってるよ、と遊戯の指が海馬に触れた。城之内は何も言わずに笑っていた。顔色はもう普段どおりだった。


( ふたりの過去はこういう感じで。 / 海城 / 遊戯王 / 20090705 )