孤 独 の 対 義 語



三年ぶりに会うモクバは、さすがに飛びつきはしなかったものの海馬に駆け寄って手を握った。三年前までは肩に届かなかった身長が、今は海馬の喉元を越えている。長かった髪はばっさり切られて、健康的に焼けたモクバの首筋が覗く。海馬はしばらくモクバの全身を見つめていた。モクバはずっと海馬の手を握っていた。

「…大きくなったな」
「うん。おかえり兄様」
「学校には行っているか」
「兄様よりたくさん通ってるよ」
「そうか」
「うん。おかえり兄様」
「ああ」
「おかえりなさい、兄様」
「…ただいま」
「うん」

『おかえり』を3回繰り返したモクバは、海馬の『ただいま』でようやく笑ってくれた。
微笑んだモクバは、海馬に何を言う隙も与えなかった。モクバは完全に海馬を赦していた。最初から何も恨んでいなかった。モクバは海馬よりずっと大人で、ずっと強い人間だった。手を取り合ったままのモクバと海馬の後ろで、城之内が号泣していた。相変わらず兄弟に弱い城之内だった。モクバがハンカチを投げつけて「邪魔するなよ!!」と叫ぶまで城之内の泣き声は止まらなかった。モクバのハンカチを盛大に濡らした城之内は、蜂蜜色の瞳を潤ませたまま涙声で「だってよぉ」と言った。

「だって、嬉しいだろ。こんなの」

海馬はやはり何も言えなかったが、モクバはゆっくりと頷いた。
こんなものを手放して生きていけると思っていた海馬を、海馬自信が信じられなかった。



海馬のいない三年間はKCの体質を大きく変えていた。先代から続く強引な取引はすっかり鳴りを潜めて、優秀なだけでなく優良な企業へと成長していた。モクバの性格によるものだと海馬は思う。幼い頃は随分海馬が引きずってしまったが、元来モクバは公明で盛大な人間だった。海馬よりよほど器が広い。「俺はずっと代理だったから」とあっさり社長の椅子を返上したモクバに、将来はここを託そうと海馬は思う。正直なところ、海馬はトップに立つより裏で動くほうが得意なのだった。好き嫌いは別にして。ともあれモクバは副社長に戻り、海馬をサポートしながら高校に通っている。城之内はずっとそばにいる。何でも聞けと言ったモクバの言葉通り、城之内は秘書として優秀だった。何より、海馬にはっきりものをいえる人間が貴重だった。「おはようからおやすみまで」も伊達ではなかった。海馬の知らない製品や工場について、人脈について、オフィスについて、今日着るスーツについて。仕事と城之内を秤にかける必要もなくなった。めまぐるしく変わる海馬を連れて、季節は冬から春へと移っていった。


ちなみに、海馬の卒業式は三月の初めだった。宣言どおり海馬についてきた(むしろ海馬が連れて行かれた)城之内とモクバは、なけなしの友人に囲まれた海馬を遠くから眺めている。友人達にマンションを引き払った理由と携帯が繋がらなかった理由をやんわりと説明して、卒業証書を受け取って、大学とこの町での海馬の生活は終わった。正門で三人で写真を撮った。海馬を真ん中にして、モクバと城之内が笑っていた。



桜が完全に散った4月の終わり、仕事中の海馬はふっと城之内の言葉を思い出した。ノートパソコンを広げた海馬の視線の先で、城之内は客用ソファに座って書類の整理をしている。SPと同じ黒いスーツを着た城之内の横顔はいつだって穏やかだ。海馬がキーボード打つ手を止めると、城之内も顔を上げて海馬を振り仰いだ。

「休憩か?コーヒーでも淹れるか」
「ああ、頼む」
「了解」

ざっと書類をまとめた城之内は、社長室の脇に拵えた給湯室に消えた。ミルこそないものの、挽きたてを買って城之内が淹れるコーヒーはなかなかだった。海馬はノートパソコンの蓋を閉じて、客用ソファのもう一脚に移動した。海馬は仕事が趣味で、公で私だったから、プライベートが混ざったところで何の支障もなかった。

「はい社長、お疲れ様」

音も立てずに置かれたソーサーには、ミルクがひとつとクッキーが二枚添えられている。糖分は重要なんだぜ、と城之内は笑う。自分のカップに砂糖とミルクをひとつずつ落としながら、城之内は海馬の隣に腰を下ろした。クッキーをコーヒーで流し込んで、海馬は城之内を横目で見ながら言った。

「社長はやめろ」
「だって『海馬』じゃモクバと混ざるだろ」
「モクバなら、瀬人だろう」
「そうか、じゃあ瀬人」
「…」
「赤くなるなよ。無表情で」

済ました顔でコーヒーを啜り込んだ城之内は、「あちっ」呟いてカップを置いた。猫舌だということをいつまでたっても認めようとしない城之内は、毎回のようにこうして舌を火傷している。海馬は、あー、と舌を摘んだ城之内の指先を掴んで引き寄せた。仰向けで海馬の膝に倒れこんだ城之内は、舌を出したまま海馬の顔を見上げている。

「見せてみろ」
「見えるだろ」
「白くなってる」
「ちょっと痛い」
「そうか」
「ん」

海馬はゆっくり上半身を落として、眼を閉じない城之内の舌を丁寧に舐めた。海馬の舌が触れた瞬間に火傷が染みたのか、反射的に身体を引こうとした城之内の身体を押さえ込んで。二分ほどそうして、唇が離れる頃には城之内の腕が海馬の首に回っていた。そのままの姿勢で城之内が口を開く。

「なあ」
「なんだ」
「毎回思うんだけど、火傷って舐めるんじゃなくて冷やさないと治らねーんじゃねーかな」
「冷たいだろう。お前より」
「それはそうなんだけど。でも人肌だし、粘膜だし」
「あとで薬も塗ってやるから今は俺で我慢しろ」
「や、海馬がいいんなら俺はいーんだけどさ。気持ちいし」
「それならいい」
「うん」

ちゅ、と音を立てて触れるだけのキスをした城之内は、腕を解いて海馬の膝から起き上がった。腹筋の要領で。ゆったりとした三人掛けのソファの上に靴を脱いだ足を投げ出して、城之内は海馬の肩に背を預けている。さすがにコーヒーはテーブルの上だった。冷ましているのだろう。もう一口飲んだ海馬は、城之内の首筋を見ながら口を開いた。

「城之内」
「なんだ瀬人」
「…それはやめろ…」
「自分で言ったんじゃねーか」
「俺が悪かったからやめろ」

海馬は城之内を名前で呼んだことがなかった。おそらくこれからも、海馬は城之内とかしか呼べないだろう。照れる以上にどうしていいかわからなかった。海馬を名前で呼ぶ人間は、海馬になってから剛三郎しかいなかった。大切なもののように扱われることになれていなかった。海馬は城之内の、克也を大切にしたかった。珍しく謝罪した海馬を海馬を、城之内はふふんと笑って言った。

「で、何?」
「お前が、いつか言ったアレなんだが」
「どれ?」
「秘書がどうとか、眼鏡だとか、タイトスカーとに網タイツとかいうアレだ」
「ああ、そのアレか。それがどうした」
「いつやる気だ」
「見たいか?」
「見たくないこともない」
「おお…ふーん…」
「なんだ」
「お前も一応人並みの感覚があったんだなあって」
「…お前は俺をなんだと思ってるんだ?」
「いやあ…だってさあ」

なんか縛ったり剥いだり引っくり返したり詰めたりそんなんばっかりだから大丈夫かと思ってたんだけど、と城之内は笑えないことを笑いながら言った。やった海馬も海馬だが、その全てを笑って受け入れた城之内だって大概どうにかしている、と海馬は思う。しかし確かに、精神的な部分での行為はほとんどなかったことも事実だった。眼鏡にタイトスカートに網タイツ。おそらくハイヒールで、おそらくは開襟シャツに上着は、あってもなくてもいい。悪くないと思う。城之内が着てどうなるかは甚だ疑問が残るのだが。城之内はこれはこれでしっかりとした成人男性なのだ。高校生だった頃のように危うい細さもなくした城之内がどうなるのか、海馬にだって興味はあった。無言で城之内の背中を押し返すと、城之内は笑って手を挙げた。

「悪かった、見たいならスーツ買ってくるわ」
「…お前が買いに行くのか?」
「行くだろ?」

当然のように返されて、海馬の方が首を傾げてしまった。女物の話をしていたのではないのか。普通に買いにいけるのか。オーダーメイドで作ってやったって良かったのに。タイトスカート?海馬の想像する『秘書』と城之内の考える『秘書』…?眉間に皺を寄せて考え込む海馬の横で、城之内は冷めかけたコーヒーにすら舌を焼かれていた。治療と称して始めた口付けがそれ以上になって、結局海馬と城之内の話はそこで終わってしまった。


だから海馬は、金曜日の夜に城之内が持ち帰った紙袋を見て少し驚いたのだった。海馬が会社帰りに、普段は一緒に帰る城之内と別れたのが3時間前。必要最低限のものしか持たない城之内が衣料品の袋を山ほど抱えていることもそうだったが、さらにそれが明らかにレディースだとしたら海馬が眉を潜めても無理はない。と思って欲しい。城之内の妹の誕生日はまだ先だったはずだ。一瞬海馬は脳内であらぬ想像をしかけたが、ただいまと笑った城之内がばりっと袋の口を止めていたシールを剥がしたので、誰かへのプレゼントという線は消えた。海馬は、なんか袋多くて面倒だな、と呟く城之内の後姿に声をかけた。

「…おい」
「ん?」

振り返った城之内は眼鏡をかけていた。赤いセルフレームで華奢なデザインのそれは、城之内のアンバーを酷く鮮やかに彩っている。そこでようやく思い出した。海馬と城之内でうやむやにした(なった)秘書の話だった。得心した海馬の前で、城之内がにやっと笑った。レンズの奥で蜂蜜色がゆるく弾けた。

「買ってきたぞ、スーツ」
「見せてみろ」
「おー。ほらほら、こんな感じじゃね?美人秘書」

城之内がいそいそと箱から取り出したのは、シンプルなデザインの黒に近いグレーのスーツだった。細いストライプが入っている。あと靴と、タイツ?ストッキング?とシャツと、と城之内が次々に取り出す衣装で海馬のベッドはあっという間に埋まってしまった。女性物は小物が多いな、と海馬も思った。城之内はスカートを手に取って、ファスナーを開けている。

「入るのか?」
「入るよ」
「良くサイズがわかったな」
「ん、測ってもらったから」

あ、布挟まった、と膝の上でスカートと格闘している城之内の背中を、今度こそ海馬は得体の知れないものを見る目で眺めた。測った。測ってもらった。海馬はそれを何度か反芻して、納得しようとして、できなかったので結局城之内に尋ねることになった。

「…それは店の人間にか?」
「おー、きっちりしたお姉さんだった。パンツスーツで足首すげえ細い」
「それはどうでもいいが、なんと言ったんだ」
「会社の余興だっつって領収書切ってもらった」

KCって書いちまったけどごめんな?と城之内は言った。それはどうでもいい、と海馬は思う。女装癖のある人間だと思われなかったならそれでいい。城之内にそれはない、はずだ。あってもいいが。なんでもいいこととどうでもいいことは良く似ている、と海馬はひとつ頷いて、城之内の前に左手を差し出した。ん?と首をかしげる城之内に海馬は言う。

「出せ」
「何?」
「領収証だ。切ったんだろう」
「え?いいよ別に、嘘なんだし」
「俺が見たいんだ。俺が払うのが道理だろう」

なおも渋るので、KCじゃなくて俺のポケットマネーで払ってやると言ったらようやく城之内は数枚の領収書を差し出した。普段の城之内からは考えられないくらい高い(海馬にとっては普通の)数字が並んでいた。こんなことのために、と思う傍らで、こんなことだからだろうかと海馬は思う。意味のないことが、海馬と城之内には必要だった。さらけ出しすぎたせいで踏み込めない領域があることに気付いていた。とりあえず、と海馬は口を開く。

「一度、着てみないか」
「今?」
「今」
「いいけど…あ、でも今思ったんだけどこれ下どうすんの」
「下着か?」
「そうそれ。さすがにそれは買ってねえよ」
「いつものものでいいだろう」
「んー…スカートの下にトランクスか…」

萎えるな、と呟いた城之内の前で、お前がお前に欲情してどうすると海馬は思った。ごそごそと服を脱ぐ城之内を眺めるともなしに眺めていると、えっちー、と城之内は笑った。裸なんて何度も見ているというのに。海馬の冷たい視線に気づいたのか、城之内は黙って着替えだした。下着姿になったところで、あ、と城之内が言った。

「やっぱダメな気がする」
「何がだ」
「トランクスだとストッキング?網タイツ?履けない」
「…ああ…」

買ってきたストッキングを前に考え込む城之内の前で、確かにと海馬も頷いた。履いてはけないことはないだろうが、どう考えても妙だった。色気以前の問題だった。ボクサーならいけるだろうか。ブリーフはダメだろう。城之内が嫌がるに決まっている。ビキニも却下。いっそ履かないという手もあるが、見た目はともかく中身を想像するともうダメだった。却下。ガーターにするか?と真剣な顔で呟いた城之内に、もっと簡単な方法があると海馬は思いついた。

「どうせなら生足で行ったらどうだ」
「いやそれはさすがに駄目だろ。脛毛は晒して歩けないだろ」
「網タイツから毛が覗くのはいいのか?」
「え?えー…と、」
「いいのか?」
「…それは…剃れっ…てことか」
「いや、お前がいいというのなら俺は構わんがな」
「なんだよそれ…」
「中途半端は辛いぞ、笑いを取るにしても」

城之内の脛毛は金だったから城之内の肌の上ではそう目立たないが、黒タイツとなれば話は変ってくるだろう。網タイツならばなおさらだ。そんな妙な模様が入った『美人秘書』をどう思う。と海馬が真顔で言い募ると、城之内の顔色が変わった。負けず嫌いなのだ。城之内は意外と優柔不断で流されやすい人間だった。特に、気を赦した人間に対してはほとんど従順とさえいえるほどだ。命令したら嫌がらないだろうに、選ばせようとすると怒り出す城之内が愛しかった。意識的に薄笑いを浮かべながら海馬が見ていると、蜂蜜色の瞳がきゅっと釣りあがって、叫ぶように城之内は行った。

「わかったよ!剃ってきゃいいんだろ!!T字剃刀貸せよ?!」
「剃刀負けを作るなよ」
「なんでそんなとこから出て来るんだよ…?」

弾みをつけて立ち上がった城之内に、サイドテーブルの引き出しから取り出した剃刀を渡す。思わず、という風情で受け取った城之内は、海馬の顔と剃刀を交互に眺めている。何でも出てくるんだ、と海馬は言った。ふうん、と子供のような顔で頷いた城之内が下着のままバスルームに向かうので、海馬も後を追った。

「なんで入ってくんの」
「駄目か」
「別に駄目じゃないけど。水かかるぜ?」
「どうせ着替える」
「いいけど…なあ、足って塗らして石鹸つけて剃ればいいんだよな?」
「たぶんな」
「…髭剃りと同じだよな?」
「たぶんな。だが気をつけろよ」

おー、と気のない返事を返した城之内は、浴槽の縁に腰掛けて蛇口を捻った。白くも柔らかくもないが細い手足が、暖色の照明に淡く照らされている。ぬるま湯で左足をあわ立てて剃刀を当てた城之内は、二往復もさせないうちに「あ」と声を上げた。手を止めた剃刀の下で、白い泡が少しだけ赤く染まっている。早速やったらしい。

「…痛い」
「言ったばかりだろうが…」
「だって剃ったことなんてねーしよ…」
「あったらあったで俺も困るがな」

海馬が手を伸ばして城之内の左足に触れると、薄く削いだらしい傷口に当たった。安全剃刀だというのに。こんなんでいろんなとこ剃ってる女ってすげーな、と嘆息したように言う城之内には慣れだろうと返しておいた。そもそも手付きが危なっかしいのだ。浴槽に腰をかけた体勢も悪いだろう。まっすぐ進まない剃刀は、その後も二度ほど城之内の足に傷をつけたので、血吸いの剃刀ということになった。三つ目の傷が出来たところで、海馬は城之内に言った。

「剃ってやろうか」
「はあ?」
「これ以上血だらけのバスルームにされても困る。足もな」
「んなに言うほど出てねーだろ、濯いだらわかんねーって」
「それは薄く切れているからで…見ろ、割と深い」
「うわー…」
「剃刀で切ると縫えないのは知っているだろう」
「ああ、何本もつけると縫う時に傷が引っ張られて開くんだよなあ」

でもあれって安全じゃない剃刀の話だよな?と首を傾げる城之内を制して剃刀を取り上げた。本気ではない抵抗を交わして城之内の足元に跪く。なんか悪いことしてるみたいだなあ、と城之内が笑うので、まだ乾いたままの右足の甲に口付けておいた。城之内は照れたような、うんざりしたような、途方に暮れたような顔で海馬を見下ろしている。

「…そういうのやめろよ…なんか、似合うから」
「似合うならいいだろう。剃るぞ」
「いいんだけど、っていきなりか、…ぁ」
「は?」

海馬がするりと剃刀を当てると、城之内の口から妙な声が漏れた。海馬が手を止めて顔を上げると、城之内は驚いたような顔で口に手を当てて、蜂蜜色の眼を見開いている。なんでもない、と首を振るので、海馬はまたするりと剃刀を滑らせる。ぅあ、と今度こそ強制が聞こえて、海馬はなんだかぞくりとした。

「うっ、わ…ちょ、海馬、ちょっと待て」
「なんだ」
「なんかこれ、やなんだけど」
「嫌とは」
「ぞわっとする…う、ちょっ、擦るなよ、って」

海馬が指の腹で剃り跡をなぞると、城之内は身を捩って逃げようとする。弾みで浴槽に転げ落ちそうになるのを、壁と海馬がようやく支えた。顔を赤くした城之内は、もういいと言った。

「やっぱ自分でやるからそれ返せ」
「どうした」
「や…なんか…くすぐったいっていうか、変」
「…気持ちいいのか?」
「よくわかんねーけど、鳥肌立つ」
「ほう」

城之内の腕を支えたまま海馬が頷くと、しまったという顔で城之内は身体を強張らせた。それでますます興味が湧いた。半分ほど剃りあがった左足をするりと撫でる。びくりと城之内の体が揺れる。ふうん、と海馬は思った。海馬の肩に腕を置いた城之内は、赤い顔で剃刀に手を伸ばした。海馬が腕を引くと、怨めしそうな眼で城之内が海馬を見ている。

「返せって」
「それでまた血を滲ませるのか」
「次は気をつける」
「無理だな」
「なんでだよ」
「いいから、眼でも閉じてそういうプレイなんだと思っておけ」
「はあ?」
「むしろそうするか」

意図的に色を滲ませた声を、城之内の耳元で囁いてやると、城之内の体が面白いほど跳ねた。もちろん冗談だったが、本気にしてしまっても海馬は良かった。海馬と城之内では照れる基準が違いすぎて、何を受け入れて何が駄目なのか分からなかった。それでも、何をしても空しかった三年前よりよほど満ち足りていた。海馬は城之内が好きだった。城之内は海馬が好きだった。それだけの違いで。そろそろと身体を引きかける城之内の腕を取って、もう一度浴槽にきちんと座らせる。

「海馬」
「すぐ終わらせる」
「…ん」

海馬の名を呼ぶ城之内の声は頼りなかった。城之内の足を泡立てながら、だから海馬は笑わないことにした。明らかな嬌声が聞こえても、剃刀を滑らせるたびに城之内の足が強張っても。城之内は海馬が好きだという。好きだから何をされても、何をしてもいいのだという。それでも海馬は、それだけではないことをもう知っていた。あっという間に剃りあげて、ぬるま湯をかけて、剃り残しがないことを確かめて、タオルで拭いてやった。城之内はおとなしくしていた。海馬はそんな城之内が好きだった。何も堪えないような顔よりも、何かを堪えた顔が好きだった。網タイツにタイトスカートに眼鏡、ほんの戯れだったはずの言葉を、海馬の為に実行してくれる城之内が好きだった。海馬を連れて行かなかったのだから、おそらく城之内にとってそれはたのしいことではなかった筈だ。スーツを手に取ることも、装飾品を選ぶことも、試着も支払いも全て海馬のためだった。胸が痛かった。幸せだった。城之内が好きだった。
すっかり乾いた両足を擦って、城之内はゆるく首を捻った。

「変な感じ」
「そうなのか」
「ん、なんかすげえ空気に触れてる気がする」
「なんだそれは」
「わかんねえけどそんなかんじなんだよ」

笑うなよ、と城之内は自分で笑いながら言った。精一杯真面目な顔を取り繕いながら、そんなものなのかもしれないと海馬は思った。三年前の感慨と、三年間の喪失は、脛の剃り跡くらいの違和感かもしれない。脛毛があっという間に生えてくるように、きっとこの違和感にもすぐ慣れるのだ。非日常は日常に埋没して風化していく。三年前も三年間も、いつか思い出に変わる。そのときに城之内が隣にいたらいいと海馬は思う。城之内がいれば何もいらなかった。けれども手放してしまった。手放すことが出来た。出来ないことは、ないことだと知った。だから絶対がないことを海馬はもう知っている。それでも。

「おい海馬、ストッキングってすげえ履きづらいぞ?」

寝室には、トランクスのままとりあえずストッキングに足を入れてみたらしい城之内がいる。これ引っ張っていいのか?敗れないのか?つうかこの肌に張り付く感触がものすごく気持ち悪い!!締め付けも含めて!!と、目の前で騒ぎ立てる城之内を生暖かい眼で見つめながら海馬は思う。これを、海馬の方から手放したりはしない。もう二度と。ストッキングに両足を入れて転びそうになった城之内をベッドに座らせて、太股まで黒い布を引き上げてやりながら海馬は少し笑った。

「これだけ見るとすげえ間抜けだよなあ」

見当違いなことを言って城之内も笑った。素肌に白いドレスシャツを羽織って、スカートを引き上げて、止められないホックを海馬が止めて、上着を羽織って、ハイヒールをに足を入れて、なれないヒールに躓きそうになりながら最後にするりと眼鏡を掛けた。よろめきつつも海馬から少し離れた城之内は、腕を組んで「どうだ」と言った。あえて誇らしそうだった。笑える仕上がりになる予定だったのだろう。海馬も城之内もそのつもりだった。けれども、上から下まで三往復ほど城之内を眺めた海馬は、何度か瞬きして言った。

「悪くは、ないぞ」
「おお…?」

歯切れの悪い海馬の言葉に、城之内も首をかしげた。黒に近いグレーのスーツは華奢なデザインで、城之内の細い腰をさらに際立たせている。膝丈より少し短いスカートから覗く足は、細かい網目のストッキングに包まれて、足首をストラップで固定したハイヒールまですんなりと伸びている。女性的ではないが整った城之内の顔に赤い細いセルフレームが似合うことは先述の通りであるし、つまりは。

「意外と似合う」
「マジで??!」

声を荒げた城之内に、マジだ、と海馬は頷いた。方向性は違うかもしれないが、惚れた欲目かもしれないが、美人で秘書だというならこれはまさしく『美人秘書』だった。4月の最終金曜日の真夜中、発覚した新事実だった。
悪くなかった。


( いわゆるひとつの剃毛プレイ…? / 海城連作 / 番外篇 / 遊戯王 / 20090426 )