舌 足 ら ず の 君 が 言 う 「 死 ぬ 」 は



兄様がおかしくなったのはもうひとりの遊戯がいなくなった頃だ。結局見送りにいかなかった俺たちに残されたのは数か月分の記憶だけで、それすらも淡いものだと知ってる俺は、兄様がおかしいのはそのせいだと思っていた。多分それもあったんだろう。だけど、もっと兄様が大事にしていて、そして兄様をダメにしたのは別の人間だった。兄様が少し持ち直して、それからどんどんダメになるまでの数年間を知っている。



真夜中だった。一段落ちた明かりの下を歩いていた。台所まで。日付が変わるまで本を読んでいたらお腹が空いたのだ。兄様に見つかったら叱られるから電気はつけない。暗がりの中を進んでいると少し恐くなった。誰もいないと知っていることと、何かいるかもしれないと思うことはまったく別物だった。

台所には明かりがついていた。誰かの消し忘れだろうか、と思った俺の耳に飛び込んだのは水音だった。蛇口の閉め忘れ、だろうか。でもその音はすぐに止んで、陶器のぶつかる音がする。どんどん動悸が早くなる。兄様。兄様だ。そうに違いない。兄様だって自分で紅茶くらい入れるだろう。兄様の部屋にもキッチンはついているんだけど。ごくり、と唾を飲み込んで、弾みをつけて台所に飛び込んだ。眩しさに眼を眇めて、それから。

「…なんで…お前がいるんだよ」

台所にいたのは城之内だった。ぶかぶかのシャツを着て、ジャージの裾をまくって、きょとんとした顔で包丁を握っている。まな板の上にはいちごが乗っている。生クリームを泡立てている。素足の城之内はバツが悪そうな顔で言った。

「いや、お前の兄貴に連れてこられてさ…」

バイト帰りに、ほぼ拉致だぜ拉致。何もないからいいんだけど。そんで夕飯食ってなくて、海馬に聞いたらここ勝手に使っていいって言うからさ。お前も食うか?城之内はテーブルの上を指した。きっちりと並んだサンドイッチに、おもわずグウとお腹が鳴った。城之内は笑って言った。

「なー、夜って腹減るよな」

今フルーツサンドも作ってるから、それ食って待ってな。頷いた俺は椅子に座ってサンドイッチに齧りついた。ツナとキュウリが入っていた。おいしかった。ツナサンドと、ハムサンドと、卵サンドに手を伸ばしたところで城之内がもう一枚皿を置いて俺の前に腰掛けた。切り口から生クリームとイチゴとキウイが覗いている。俺の前に紅茶のカップを押しやった城之内は、自分もサンドイッチを手に取った。

「こんなにたくさん一人で食べる気だったのか?」
「や、海馬も食うかなって思ってた。まあ多分食わないんだろうけど、ひとりより二人で食うほうがうまいだろ?」

無駄にならなくてよかったよ、と城之内は笑った。兄様のところに帰らなくていいのか、と聞くと、あとで紅茶入れてやるからいいんだと城之内は言った。真夜中の台所で、俺たちはなんだか共犯者みたいだった。俺はこの年上なのに子供めいた奴がけっこう好きだったから、兄様と城之内が仲良くなったなら嬉しかった。仲良くなりすぎたことは、まだ知らなかった。


それからちょくちょく家の中で城之内を見かけるようになった。何をしているのかはすぐに知れた。城之内があっさり口にしたのだ。俺、お前の兄貴の恋人。愛人かもしれないけど。え、と思わず絶句した俺の前で、やっぱおかしいよなあ、と城之内は言った。おかしいとかおかしくないとかそんなことじゃなかった。だって男同士だった。世の中にそういう人たちがいることは知ってる。だけど、俺の回りにいるとは思わなかった。

「気持ち悪いか?」

静かな顔で、でも笑いながら城之内は言った。俺にはよくわからなかったけど、でもその先もよくわからなかったから首を横に振った。そっか、と言う城之内の表情は少しも変わらなくて、たぶん俺が気持ち悪くてもそうじゃなくても城之内は何も変わらないんだろうと思った。それでもなんで、とは聞いた。

「なんで愛人なんだ?」
「だって好きだって言うんだぜ、あいつが。俺に」

あの傲岸不遜な海馬がさあ。俺なんかを、と城之内は言った。まぶしいくらいきれいに笑っていた。だけど俺はなんだかそれがとても怖かった。だって城之内は、最近傷だらけなのだ。兄様の部屋で何が起きているのかわからない。だけど、兄様がつけているに違いない、無数の傷。そのひとつひとつを、城之内は愛おしそうに撫でている。きらきらしている城之内と対照的なのは兄様だ。城之内に傷か増えれば増えるほど、兄様の様子はどんどんおかしくなっていく。

一度だけ、城之内のいない夜に兄様の部屋を訪れた。兄様は眠っていなかった。重厚な書き物机の前から、城之内が居ないソファを見つめていた。俺が入ってきたことにも気付かないような兄様に、声をかけた。

「兄様」
「城之内と分かれたほうがいいんじゃないの」
「だって兄様ぜんぜん幸せそうじゃない」

兄様は何も言わなかった。でも、それを言ったのが俺じゃなかったら兄様は相手を殺していたかもしれない。恐い顔をしていた。それ以上に悲しそうだった。だって兄様は知っていた。自分が幸せじゃないことを、知っていた。俺にはどうしようもなかった。それがわかっただけだった。


城之内の傷はどんどん見える所に広がっていた。擦り切れたような手首の傷を見たときは小さく悲鳴を上げてしまった。城之内は傷の手当をしていた。巻きにくそうな利き手の包帯を押さえてやると、助かる、と言って俺の頭をぽんぽんと撫でた。傷に響くんじゃないか、と聞いたら、痛み止め飲んでるから感じない、と言った。ほとんど空に近い鎮痛剤の瓶を振って、また買い足さないとなあ、と呟いている。

「城之内はしあわせなの?それ、兄様がつけたんじゃないの」

そうだよ、と城之内は当たり前の声で言った。これは、兄様がつけたんじゃないの、に対する答えだろうか。それともしあわせなの?に対する答えだろうか。多分どちらもそうなんだろう。そんなにはっきり言い切っていいの。痛くないの。苦しくないの。辛くないの。

「だって俺愛されてるもん」

捩れてるよな、あいつの愛って。海馬がストレートに愛情注げるのはお前だけだよ、モクバ。大丈夫、こういうのは全部愛情の裏返しって知ってる。落ち着いたらとまるだろうし、まあ止まらなくても、それがあいつの性癖だっていうなら俺は全然構わないよ。だって俺もそうしてやりたいくらいだし。どんどん深くなる城之内の笑みを見上げながら、俺は突き落とされたのか引き上げられたのかわからなかった。駄目だった。もう駄目だった。手遅れだった。兄様だけじゃなかった。

「お前、おかしいよ」
「今頃気づいたのか?」

最初からおかしかったのは俺の方だよ、と城之内は言った。兄様、ねえ兄様、兄様の気遣いは全部無駄だよ。城之内は大丈夫だ。絶対大丈夫だから、そんなに自分を追い詰めないで。城之内は兄様を見捨てたりしない。だってこいつおかしいんだ、兄様を好きすぎてもうすごく、おかしいんだ。だけど、なんで嬉しいんだろう俺。兄様に、そんな奴ができるなんて、俺全然思ってなかった。兄様を愛してくれる人なんてもう誰もいないと思ってた。俺は愛されることしか出来なかった。俺じゃ足りなかった。多分俺もおかしいんだ。城之内が兄様を愛していることが、嬉しい。こらえきれなくなった涙が流れた。目頭からも目尻からも溢れて止まらなかった。手の甲で押さえて、すぐに足りなくなってシャツの裾で拭った。止まらなかった。包帯が巻きつく城之内の腕が俺の両手を取った。

「そんなに擦るなよ。痕になるぞ」

こっちにしとけ、と城之内は傷だらけの腕で俺を抱いた。兄様より暖かくてずっと固い体だった。お前は海馬に似なくて良かったなあ、と城之内は言った。泣きながら頷いた。兄様みたいにはなりたくなかった。兄様みたいになれるわけがなかった。だって俺には城之内がいない。こんなに愛されることなんてきっとない。それが俺にとって不幸ではないのだということもわかっていた。俺は城之内が欲しくなかった。でも、兄様には城之内が必要だった。



しばらくして、兄様と城之内は帰ってこなくなった。ふたりきりで暮らすのだという。城之内とはほとんど会わなくなった。毎日のように顔を合わせる兄様はどんどん憔悴していくのがわかった。それでも城之内がすきなのだと、言わなくてもわかっていた。兄様は城之内がすきだった。兄様にはもうそれしかなかった。俺の言葉もどんどん届かなくなっていく。兄様は知らなかった。どうしようもないくらい知らなかった。一言も城之内は伝えなかった。俺が、言っても仕方がなかった。俺はずっと兄様を見ていた。城之内と一緒にいる兄様を見ていた。


だから、一年後に城之内がやっぱり傷だらけで尋ねてきたとき、終わりを一番先に知ったのは俺だった。城之内は変わらない笑顔でこれ俺の引越し先、海馬が帰ってきたら伝えて、と言った。黙って受け取った。受け取って、今日はここに泊まって行かないか、と言った。縋るような思いだった。でも城之内はまた今度な、と手を振って行ってしまった。重い音を立てて閉じる扉があまりに遠かった。 久しぶりに家に帰ってきた兄様は、城之内が残していったメモを見て『悲嘆にくれて』いた。悲しいとか、辛いとか、そういう感情全てを込めたような顔だった。ほとんど無表情に近かった。すぐ電話を掛けるか城之内を迎えにいってくれたら、と俺は思った。息を詰めて兄様を見ていた。けれども結局兄様はどちらもせずに俺の頭をそっと撫でて家を出て行った。行き先はわかりすぎるくらいわかっていた。俺はそこに行けなかった。俺がここでふたりを歪ませてももう何も変わらないと思った。城之内が死んだら俺は悲しいけれど、兄様はもっと悲しいだろう。どうなっても俺は兄様が好きだった。城之内をすきな、城之内がすきな兄様が大好きだった。大好きだった。大好きなんだ。


幸か不幸か城之内は死ななかった。兄様は城之内も兄様自身も壊さなかった。兄様はあっという間にここからいなくなっただけだった。兄様は全部置いていった。会社も、屋敷も、私物も、俺も、城之内も、皆。兄様には城之内以外何も意味がないんだろうとわかっていた。でも悲しかった。どうでもいいものなら連れて行って欲しかった。だけど俺が城之内を欲しくないように、俺の城之内は兄様じゃないからそれはできなかった。兄様が居ない日常は、兄様が残していったものでスムーズに回っていた。俺ひとりでも大丈夫なように兄様はたくさんのことを創ってくれていた。俺より気にかけなくちゃいけないものがあるだろうに、それはできない兄様が哀しかった。哀しい兄様が大好きだった。

いなくなってしまった兄様と城之内を思って、時折少し泣いた。
俺を抱いてくれる傷だらけの腕はもうどこにもなかった。


( モクバ視点の三年前 / 海城連作 / 番外篇 / 遊戯王 / 20090412 )