永遠の遠国

no,018(TQ!!)                          永遠の遠国

こちらに来てから、ふとした拍子に嶋本を思うようになった。
それは激しいスコールのあとだったり、明け方の光の中だったり、凪いだ水平線の向こうに目をやったときだったり、様々なのだが。思うに俺は、そうしたものを嶋本と一緒に見たいのではないのだろうか。自分では自分で感じることしかできないあらゆるものを、嶋本の言葉やしぐさで感じたいのかもしれなかった。

思い出す必要などないくらいいつだって嶋本の顔は見ているようなものなのだけれど。
それでも、彼と彼女の造形が似ていればいるほど違いは目立つものだ。言動のひとつひとつ、あらゆる差異から目が離せなくなって困る。つまるところは嶋本が見たいのだ。顔を見て、声を聞いて、体に触れたい。勿論叶わないことは百も承知なのでそんなことを気取られたりはしないが、自律心の強さは時に邪魔なものだと思わないこともない。それくらいには自分も人間なのだ。

だから、これくらいは許されると思ったのだ。声を聞く。少しだけでも声を聞く。聞きたいと思う。
そうしたことを(俺が人間らしいことをすることを)嶋本は喜んでくれたから。
あらゆる理由で塗り固めて安心して、そうしてまたそうでもしなければ実行に移すことができない自分を少し笑ってから受話器を手に取った。忘れるはずのない嶋本の家の電話番号。仕事中かもしれない、寝ているかもしれない、外出中かもしれない。だから、数度目のコールのあとで。

『…はい、嶋本です』

普段より少し落ち着いた、よそいきの声。それでも嶋本の声だった。
しばらくその音を噛み締めていると、向こう側で訝しげなもしもし?が聞こえてきたので急いで名を名乗る。真田、と。

『たっ…いちょう?!』

瞬間、上がった声は随分と上擦っていて、嶋本は相変わらず感情の起伏が豊かだと思う。
えっ、ちょお、待って、悪戯とかそういうんとちゃいますよね、ちゃんと隊長?え?インドネシア??から???混乱したような声にひとつひとつ返事を返す。
そうだよ、もう隊長ではないけれど真田で、インドネシアからだ。

『えっ…えー、ど、したんですか』
「声が聞きたくなった」

嶋本の。

『…』
「どうした」

電波が悪いか、と呟くとそれは平気ですけどいきなりそゆこといわれると俺の理性のほうが保ちそうにありませんという返事が返ってきて少し笑う。いつだってストレートなのは嶋本のほうなのに。そうして改めて嶋本の声を聞く。嶋本の声を、聞く。

『あの…久しぶり、ですけど、お元気でしたか』
「ああ、充実はしている。困惑することも多いんだが」
『隊…真田さんみたいな人がおったらそのうち全部良くなりますよ』
「そうだろうか」
『そうですって、こっちも大変だったんすよ。隊長がおらんと覇気がなくて…今はまあ、なんとかやっとりますけど』
「嶋本がいるからな」
『俺なんかは、…まあ俺もぼちぼちってとこですけど』

けど、と珍しく歯切れの悪い調子で言葉を切る。けど、何だ?先を促すと。

『けど…やっぱりたいちょ…真田さんがおらんと三隊って感じがせえへん』

くすぐったそうな声でそんな言葉が聞こえて、素直に嬉しいと思った。
スキルがないと思っているわけではない、嶋本なら確実にそれができると思ったから隊長に推した、それは本当だ。おそらく、自分にはできないようなコミュニケーションを駆使してきれいにまとめあげていくのだろう。けれども、必要とされているということが疎ましいかといわれたらそれもまた別の話で。
だからそう、告げようと思ったのだ。俺にできる限りの精一杯の感情で。
けれども、そう思ったーーーーー次の瞬間、かすかに聞こえたのは。

(真田さん?!!)

…誰だ?
誰か、そこにいるのか?

『(ああん?そうやけど、お前に関係ないやろ)ええと、だから(うっさい騒ぐな!)』

受話器を反らしながら叫んでいるのだろう、端々に誰かと嶋本の怒声が交じり合ってよくわからない。だから、なんなのだろう、続きを聞きたいのに。

(さーなーだーさーんー!こんにちわ!お久しぶりです!!神林兵悟です!!)

「神林…、そこにいるのか?」
『はあ、まあ…ちょっ、すいません』

うんざりしたような声で告げて、そうしてまたくぐもったようなふたりの声。

(うるっさいわ!ちょお黙っとけ、聞こえんやろ!)
(嶋本さん、かわってください!お願いします!)
(はあ?!なんでや、俺んちの電話で俺にかかってきたんやぞ、誰が譲るか)
(だって俺だって真田さんと話したいです!)
(どっかいけ)
(しーまーもーとーさーーんーー!!)
(あーーもーーー、うっさいな、わかったから!!あとでしてやるから静かにせえ)
(絶対ですよ!ね?!)
(隊長に聞いてからやけどな。とりあえずあっちいっとけ、あとで呼んでやるから)
(はい!)

それはもう清清しいくらいの喧騒のあとで、かすかに足音が聞こえて恐らく神林が退室したのだろう、ドアが閉じる音が聞こえた。そうして、恐縮したような嶋本の声。

『すんません、騒がしくて』
「ああ、…俺は別に構わないぞ」
『…聞こえてましたか。ほんとにちょびっとでええんで、すんません』
「気にするな。それはそうと、何故そこに神林がいるんだ」
『あー、最近出動続きでろくな生活しとらんようなんで、飯食わせてやろうかと』

レスキューの間に倒れられても困りますしね、たまにはエサやっとかんと。
心底呆れたようね、けれども暖かくて乾いた優しい声で言う。俺と対峙するときとはやはり違う声だ。お前が育てなくてはいけないヒヨコ時代はもう終わったのだといいそうになったが、何故それを思ったのかが分からなくて結局口には出さなかった。ヒヨコでなくとも同じ隊の新人なのだ、隊長が育てるのは当たり前のことだ。それが、自分にとって初めてのそれなら、尚更。俺にだって経験はある。だから。

「軍曹ぶりは本隊に帰っても変わらないか」
『まだまだヘタレですからねー、1年はきっちりしごいていきますわ』

まあ、思ったよりは割と使えるんですけどね。あ、これ神林には内緒ですよ付け上がりますから。
そうして、新しい隊の事や最近のレスキューのこと、こちらでのレスキューのこと、近しい人たち、嶋本のこと、真田のこと、いろいろなことを話した。もっと早く声を聞きたいと思えばよかった、こんなに近く聞こえるなら。声だけなら。嶋本の声はくるくると良く色を変えて、おそらく同じように表情も変わっているのだろう。笑んでいるであろうその顔を思って少しだけ悲しくなった。…悲しくなった?
何故。

神林が、神林の声がしたから。受話器の向こう、俺のいない場所に神林はいるから。
非番の日、嶋本の部屋にいるのは自分だったのだ。あるいは、嶋本がいるのは俺の部屋だった。どうしてそこに神林が。俺と入れ替わるように、嶋本と一緒にいる。危ういほど眩しいと思ったのは本当だ、だから嶋本が、もっと光るようにしてくれればと。そう願ったのは俺なのに。
何故。

『…隊長?聞いてはります?』
「ああ、聞こえる」
『なんか、…隊長、どうか、したんですか?』
「どうか、とは」
『俺の声が聞きたいとか、急に電話掛けてきてくれたりとか、なんか、どうか』
「どうもしない、けれど」

何も、もう何もないんだ。最初は大変だったけれど、今はもう何も。
それが、問題なのだ。

「こっちにはお前がいないんだ」
『当たり、前やないですか』
「ああ、分かっていたはずなんだが。隣にいるのも当たり前だったからな」
『当たり前でしたか』
「当たり前ではないということも忘れるくらい、そうだった」
『…へへ。喜ぶとこと、違いますかね』
「どう、だろうな」
『1年ですよ。1年、です』

1年たったら、隊長はまたここに帰ってきて。
もうバディじゃないけど、でも、真田さんは、隊長で。隊長だから。
穏やかな声で、これは多分諭されているのだろう。1年を長いと感じているのは俺だけなのだろうか。嶋本は、1年ならば平気なのだろうか。声を、姿を、見なくとも、触れなくとも?
それは、

「…神林がいるからか?」
『なんでそこに神林がでてくるんです?』

訝しげな声。ああそうだ、俺だって今始めて思った。神林、神林兵悟。
なぜそこにいるのだ。そこは俺の場所だ。譲りたくない。

「俺がそこにいなくなってから、隣にいるのは神林じゃないかと思った」
『なんですか、それ』

嶋本の声が硬くなったのが分かる。当たり前だ、俺は酷いことを言って。
同じ隊の新人と呑みに行く、食べに行く、それは普通だと思う。けれども、家に招いて飯を食わせる、それは普通だろうか。傷つけている自覚はある、大人気ない行為だということも分かっている。そんな風に動揺させて何がしたいのか、自分でもよく分からないのだ。だがその動揺は後ろめたいことがあるからではないかと疑う要因にもなる。そう、思ってしまう。
受話器を握る手がいつの間にか白くなっていて、ああ俺も動揺しているんだなとちらりと思った。

『それって、つまり、俺が神林に乗り換えたとか そんなことを言っとるんですか』
「そこまでは言っていないが」
『ちょっとは思ったって、ことやないですか…変な事言わんといてください』

それきり、しばらく沈黙が続いた。ああ、離れているというのは本当は、本当に大変なことだったんだな。1年だと思っていた。たかが1年、もう二度と会えなくなるわけでもないと、思っていた自分が悔やまれてならない。こんなふうに傷つけたいわけではないのに。会いたい、と思った。顔を見て、体に触れて、そうしたら何かがわかるような気がした。何かが変わるような気がした。
けれどもそれは適わないから。

「でもそこに神林はいるじゃないか」
『たいちょ…』
「俺はここにいるのに」

俺は、ここにいなければいけないのに。
お前がここにいてくれればいいのに。
吐き出してしまった。一気に。こちらに来てから初めて気付いたのだ、その存在の大きさに。自分自身にそんな感情があることに気付くことなく生きていた。気付かなくとも生きていられた。隣に、いたから。なくなってから気付くなんて、陳腐すぎていっそ笑える。
最後は吐き捨てるように行った俺の声を受けて、嶋本はそれを黙って受けて、そうして穏やかに穏やかに息を吐いた。溜息のような、囁きのような、柔らかい音。
そうして、歌うように言ったのだ。

『だって隊長は行ってしまったやないですか。寂しいとか苦しいとか、俺が言ったって隊長は…行ってしまったやないですか』

俺は、ちゃんと言ったやないですか。1年て長いなあ、寂しいなあ、でも、隊長が認められるのは嬉しいし、頑張ってきてくれたら嬉しいし、だから。連れてって欲しいとか、行かないでほしいとか、そんなこと言っても詮無いと思いましたから言わなかったですけど、俺はずっと ほんとうはずっと そう思ってましたよ。分からなかったのは隊長の方や。なのに、今になってそんなの。そんなの。

そんなのずるい。うれしい。と、溢れるように呟いた。
うれしい。なんて。どうして。

『俺は、すごく 寂しですよ』
「嶋本」
『隊長がおらんくて、俺がここにおって、でもそれでもいろんなことはすぎてって』
「…しま」
『ここは隊長の痕跡でいっぱいです。でも隊長がおらんかったら、そんなんはなんにもならん。寂しいだけ』

寂しい、さびしい、さびしいと繰り返す。
だから。

『隊長も、少しくらい寂しくなったって罰は当たらん』

だってすきだから。離れてなんかいたくないから。
でも言わなかったのは、すきだけど、すきなだけじゃないから。
もっとずっと深い感情だって、あったから。

ぽつぽつと紡がれる言葉に、どこかずっと奥のほうで何かが動いた、気がした。俺にはそれが何なのかが分からない。嶋本なら分かるのだ。そうしてきっと、俺にも分かる形で言葉に出きる。けれども、今俺はそれが分からないと嶋本にいってはいけないのだと思った。分からなくてはいけない。ひとりで分かるようにならなければならないのだ。1年の間に。

「しまもと」
『はい』
「…寂しい」
『はい』
「ひとりは、寂しいんだな」
『はい』
「半年くらいにしてもらえばよかった」
『それでも、長いですけどねえ。たまには帰ってこられるように、なりませんかね』
「ならないだろうな」
『チッ、どっかから予算もってこれへんかな…なんかこう、基地長の給料とか棒引きして』
「無茶を言うな」

やっぱ駄目ですかねえ。なんて本当に残念そうな声で、笑う。茶化してくれたのだ。いつものように、俺にはできないことを少しずつ修正して修復して、何もなかったようにしてしまう。嶋本、嶋本、しまもと。ここにいてほしい。でなければどこにもいなければいいのに。なんて。

『あ、っじゃあ、そろそろちょっと…あいつとかわってもええですか』
「ああ、神林か」
『ええ、なんかさっきから…ガラス戸のむこうでうろちょろしてんのが見えるので』

視線の端にちらちら移って、ゴキブリみたいな。うっといなーあいつ…。
辛らつな声が聞こえて、ようやく俺も笑った。その姿が容易に想像できる。神林はそういう奴だ。もういいから呼んでやれ、というと歯切れの良い返事か返ってきた。

(おーい、聞こえるやろ、返事せえ)
(も、もういいですか?)
(もうええから入って来い)
(失礼します!!)
(室内で失礼も何も…ああ、はよ来い、国際電話なんやぞ急げ)
(ええっ、その割に嶋本さんは長く、った!!)
(俺とお前を一緒にすんな!ほら、1分以内な)
(うええっ、そんな)
(ほれ数えるぞ、いーち、にーい、)
(ちょっ、せめて受話器渡してからにしてくださいよ!)
(知るか、さーん、しーい)
(ああああ!)

『すっ、すいませんこんにちは!』
「ああ、…殴られたのか?」
『へっ?』
「今、痛いといっていただろう」
『き、聞こえてたんですか…』
「筒抜けだ」
『えっ、えー…情けな…』
「相変わらずしごかれているようで何よりだ」
『しごきっていうか、ええと、そんな意地悪されてるわけじゃないのは分かるんですけどね…ってああ、そんなことより』
「そうか、一分しかないんだったな」
『そうですよー!』
「だいたいのこちらでの様子は嶋本に話したから後で聞けばいい」
『ありがとうございます、うん、ええと、じゃあ、その、ええと…げ、元気でしたか』
「息災だが、何をそんなに照れているんだ」
『だって真田さんだからー、ああもう俺帰ったら盤君と星野君に自慢しますよ!』

絶対羨ましがられますよ、ていうか俺が今超嬉しいですし!
恐らく、いつもどおりの大きな目を輝かせながら受話器に齧りついているのだろう。
素直に好ましいと思った。嶋本より、さらに感情的な人間だ。俺とは対極にあるような。

『で、ええとあの…って(ええ?!もうおしまいですか)一分て短いですね、(ちょっあと一言!)ええと、俺頑張って、頑張って、もっと頑張って上を目指してます、から!』
「ああ、そうだろうと思っている」
『1年後に、真田さんに選ばれるくらい頑張ります!』
「……ああ。期待、している」
『っとじゃあ、お元気で、風邪とか引かないで、真田さんも頑張ってください!さよな、』

(長いんじゃボケ!つうかきっしょいわ、何をそんな田舎のおかんみたいなことを)
(えええ、だって他に何言っていいかわかんなくて)
(もうええから、そのへんでで蹲ってろ)
(ええ?なんで、普通にここにいたらいけないんですか)
(すきにせえ、ただ静かにしてろよ!)
(わー、かりましたよ!)
(うるっさいわ、わめくな。あーもう…)

「…終わったか?」
『へっ、あ、はい、追い払って…なんかすんません、でかい口ばっかり叩きよる』
「いや、いっそ気持ちが良いな。目標を設定することは良いことだ」
『到達するだけを目安にしてもらっちゃ困るんですけどねー…ま、ええですあいつのことなんてどうでも』
「ああ、そうだな…そろそろ終わりにしよう」
『へっ?…あ、ああ電話を?』
「なんだと思ったんだ」
『いいえー。常に最悪を想定するのが特殊救難隊ですから…』

なんかさっきまでの話の流れだと、愛想つかされても仕方がないような…いやっ、俺別にそんな、うん、まあ、ええと、すんません寝言です忘れてください。なんてごちゃごちゃとした呟きは胸の奥にしまっておくことにする。別れることなんて考えたこともなかった。なかった、ことが問題なのかもしれない。嶋本は考えているのだろうか。多分いるのだろう。

「それじゃあ、いつになるかは分からないがまた電話くらいはかける」
『うれしいです、いつでも…いないときも、あるとおもいますけど』
「ああ。では、また。元気でな』
『はい、隊長もお元気で』

ほんまに、元気で。
はやくかえってきて。
あまやかな声と言葉が聞こえて、その奥で神林の声も聞こえて、俺はきっと笑えばよかったのだろう、笑うべきだった。けれどもそれはどうしてもできなくて、静かにまた、とだけ言って電話を切った。そうしなければいけないと思った。俺は、そこには行けないから。
嶋本と、神林。ふたりで、そうだきっとあのふたりなら、笑って。俺がどうあがいても紡ぎ出せないような言葉を重ねて重ねて、笑っていられるのだろう。それはとても眩しくて手が出せない。
おろした受話器の向こう側を思ってしばらく目を閉じていた。


そうして切れた、回線の向こう。嶋本の話。

「びびびび、びびったあ……」

さよなら、といって電話が切れた。その途端一気に気が抜けて、ついでに力も抜けて、受話器を握り締めたままずるずるとしゃがみこむ。
笑ってなんか、いなかった。ずっと笑ってなんかいなかった。電話の向こうで、真田が珍しく感情豊かに話すのを聞きながら、上滑りしないように細心の注意を払っていた。否定もできず、かといって肯定するわけにもいかない。けっきょく隊長の罪悪感を刺激して煙に巻くなんて、卑怯なことをしてしまった。最低だ、あんな切り返しは最低だ。付け込むようなことを。すきだから、すきなのに、すきなことに、あまえて。
なんでインドネシアから俺なんかに直接、すきとか言われた覚えはあるし恋人だった自覚もあるけどそういうことする人と違うやろ、違うとおもってた、しかもなんで俺が非番のその上神林がいるときに、タイミング良すぎ…っつうか俺自然だったか大丈夫か、…大丈夫、か?

「嶋本さーん、今日何食べます?俺久しぶりに餃子が…って、あの」

ぐるぐると(走馬灯のように)考えをかけめぐらせていると、後ろから能天気な声が聞こえて脱力した。お前が、お前が俺にすきだって言ったんやろ。そんで、隊長と俺が付き合ってるかもとか思ってたんやろ、なのに、なんで、そんなふうにいられるんや。そりゃあはぐらかしたから、後ろめたい気なんて持たれないほうが言いに決まってはいるのだけど。それにしたって、とこめかみを摩りながら。

「空気読めや、少しは」
「え、えーと…どうかしましたっけ、え?あっ、そーだ、真田さん元気そうで良かったですね!俺今日ここに来てよかったです!!」
「…お前は…」
「え?」

何が悪いのかという以前に自分が悪いのだという自覚もないのだろう。ああそうだ、別に神林のせいではないのだ。ここにいたことも、真田の名を聞いて騒ぎ立てることも、そうして嬉しそうに笑うことも、すべて俺の不注意だった。ほんとうに隠しておきたいなら気を抜いてはいけなかったのに。
真田さん。うん確かに良かった、元気で、しかもその上嫉妬までしてくれた、嬉しい、とてつもなく嬉しいのだけれど。頭を抱えたまま真っ黒いばかりの神林の瞳を見上げる。
(無駄にキラキラした目だ、いつまでも真田隊長ばかりを追って)
(それは俺も一緒だけれど)
何も考えずにどちらもすきだといえる神林はずるい。けれども、どちらも選んでいる分どちらも選べずにいる俺よりはずっと誠実だと思った。ここからここまでが真田で、ここからここまでが俺、と。感情に線引きをしている。どうして、俺には、それが。
どちらもすきなのだ。最初に嫌というほど反復確認したとおりそれは本当。だがいまのようにふたりともを同時に感じるともういけない。わからなくなってしまうのだ、俺が何をしたいのか。

1年、そう1年だ。真田隊長とは1年後に、また会える。遠い約束だ。
神林とは1年後に別れる。そう約束した。1年は、あまりにも短いと思う。
本当は分かっているのだ。分かっているはずなのだ。分からなくてはいけないのだ。
どちらも手に入れることができないならどちらも手放すべきなのだ。

ああもう、言い訳ばかりだ。
そうではない。
認めてしまえ。
そうだ、もう、そうとしか考えられない。

同じ空の下に真田がいることを忘れたかったのだと、認めざるを得なかった。

俺はあの日、どんな顔をして1年、を聞いたのだろう。思い出せない、思い出したくない。
どこかでほっとしてはいなかっただろうか。これで、これでやっと真田さんから。
解放されるなんておこがましいことはいわない、解放されてほしいと思ったのだ。俺なんて、そんな、薄汚いものにさえぎられていてはいけない。もっとずっと上のほうで輝いているべきだ。俺は、それを見ているだけで幸せになれるから。誇らしいから。愛されたりなんて、しなくていいから。

「なんで俺やのん…」
「何がですか?」
「お前に言ったんと違うわ」
「ほんとに、どうしたんですか?お腹でも痛いとか?」

あったかいもの、何か入れます?ココアとか紅茶とか、それくらいなら俺でも。
お前にいったんと、ちがう。そうだ、神林にもそれは思うけれど、でも神林は俺がほしがった。手に入るなんて思わなかったのは同じだけれど、手に入れたのは俺のほう、そこが違う。汚してはいけないものなのは当然だけれど、神林なら、俺が大事にできる。大きな違いだ。優しくてあまいこの手を、手放すことができる。持っているほうが苦しくなったら。神林が苦しくなったら、いつでも解放できる。それはしあわせなのだ。
そう思ったら、気が抜けて。

「…ん。したら、ココア」
「わかりました、お湯沸かしてきます!」

いまは、神林のやさしさにあまえることにした。
急いで駆けてゆく、そんなに広い部屋でもないのに駆けてゆく後姿をじっと見つめる。
しあわせ。神林といると、別離がしあわせにおもえる。しあわせに手放したい。
隊長は、俺をはなしてくれそうにない。だから、別離はふしあわせ。
ああもう、なんて。違いすぎる。だから、…だから、もういいのだ。

1年、もうスタートラインは切ったのだから、それだけ守って生きていればいい。
もうそれだけでいい。
ほしいものは、もう全部貰った、だからもういいんだ。

そうして押し込めた全ての感情を、胸の痛みが裏切っていた。

END

(永遠の遠くに、あるいは永遠のとっくに)

本格的にさなしまと(嶋)兵嶋をリンクさせようと思ったら、なんだか暗く…なりました。
間男してるのは兵悟なのに、自覚がないから最悪の行動をする、というなんだか救いようのない人間に…まあ一番悪いのは束縛してる真田隊長なんだけど。
…や、どうかな、別に誰も悪くないのかな?
とりあえず1年後にどうなるかは本誌自体ということで。今回は(も?)後味悪く引きです。


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