おそうしき

no,008/TQ!!                            おそうしき


それをはじめてみたのは母方の祖父のとき、だったと思う。その日、母はずっと泣いていた。母だけでなく、いつも明るかった祖母も若い叔母たちもそうだった。まだ頑是無い子供だった自分はその光景に困惑して、奥で眠っている祖父を起こしに行ったのだ。だが祖父は一向に目を覚まさず、途方にくれた自分を誰かが止めた。もう祖父が目を覚ますことはないのだと。どうして、と尋ねるとこれから良いところへ行くからだと、そう言われた。もう帰って来たくなくなるくらい良いところへ。一緒に行く、行きたいと自分はそういったのだろうか。その誰かは微笑んでいつか、といった。

『いつか、向こうへ』

そこまで見たところで自然に目が開いた。またか。何度も何度も繰り返し見る総の葬式の夢。うなされることも怖いこともないから悪夢ではないのだと思う。それはただただ繰り返すばかりの。

それが祖父の死を意味するのだということを知ったのは、随分後になってからだった。あれがそうだったんだと突然悟った日。向こうという言葉はそれまで自分の中で大きな意味を持っていた。向こう側へはまだいけそうにないが、祖父が横たわった場所は妙に暗くて、そして明るかったことを覚えている。その空間になぜか焦がれたことも 今でも覚えている。
自分にとって、祖父の死はそんなに大きなものだったのだろうか。確かにすきだったらしい、事はおぼろげに覚えているがいかんせん本当に幼いときなのだ。誰かの顔は思い出せないのに。

ゆっくりと息を吐く。サイドボードの時計を見ると5時前だった。二度寝をしても十分起きられる時間だったが、今日は止めておく。この夢の後はなぜだか起きられなくなるのだ。まるでもう二度と目覚めなくても良いような気になるくらい 引き込まれる。手持ち無沙汰のままとりあえず起き上がって冷蔵庫まで進む。ミネラルウォーターの瓶を取り出してコップに注ぐ。瓶に直接口をつけるのはあまりすきではない。というよりは、たぶんコップの感触がすきなのだ。透明なものに透明なものを注ぐ。その清浄さが。

そういえば、と思い返す。
一度だけ祖父の顔が別人に見えたことがある。神林の、横に寝ているときだ。

泣いている母親と親戚までは同じ。横たわっているはずの祖父の顔からが違った。そこにいたのは神林の父親だった。名前も顔も、何も知らないはずなのになぜかそうだと直感した。そのことを夢の中の自分は不思議に思うことも泣く。ただいつもよりも長くその顔を見つめていた。しばらくして、やってきた誰か。それは神林だった。どうして、と聞く自分に向かっていいところと笑った神林の顔。いつもと同じ笑顔だった。
それが怖くて、目が覚めた。初めての経験だった。

目を開いたその瞬間に飛び込んだのが、じっとこちらを覗きこんでいる神林の顔。驚いて飛び起きると当然のように額に顎がぶつかった。こちらも相当のダメージだったが、向こうはそれ以上だったようで、蹲ったまましばらく顔を上げなかった。さすがに心配になっておい?と声をかけるとはい、と涙目になった顔を見せた。その情けない声と情けない声に思わず声を立てて笑う、と不服そうにしながらもよかった、といった。何が?

「魘されてたので」
「…俺が?」
「他に誰がいるんですか」

誰もいないのはたしかだ。それにしても魘されている人間を起こしもせずに覗き込んでいるとはなかなかいい趣味やな。そういってやると、起こしたら殴られるんじゃないかとでも今起こそうとしたところで、と必死で言い訳する姿がやっぱり情けなくてまた少し笑った。

「なあ、お前」
「はい?」
「父親を、待ってたとか言ったな」

帰ってこない、とかどうとか。

「はい」
「その、父親の」
「はい?」
「葬式とかは…出したのか?」
「え?しませんよ」
「なんでや」
「だって、まだ帰ってくるかもしれないじゃないですか」

どうしてそんなことを聞くんですか、とさえ言いたげな口調で。それは否定などといった重いものではなく、当たり前のことを尋ねられて困惑しているといったようなごく軽い返答。
ああそうだ。その通りだと思う。どちらだって同じだけの可能性があるとしたら(結果が分からない以上はそういうことなのだ)たとえ神林以外の誰が諦めたとしても神林だけは諦めないだろう。だからここまできて、これからもここにいる。

こんな仕事をしていれば、人の生死に関わることはあまりにも多い。引き上げたところで死体になるものもいれば助けられずに死体になるものも―いるとある、どちらを使うべきかはいつも迷うのだけれどそれでも確かにーいる。救助自体が間に合わなくても、救助要請が間に合えば死体は引き上げられる。
だが、それすらできずに終わったものはどうなるのだろうか。沈んだまま、あるいは沈まないままだれもしらないものは。祖父の枕元で感じた静謐さ。あの明るくて暗い場所を経ることなく、消えてしまうのだろうか。だからどうしたといわれてしまえばそれまでなのだが。

「何でいきなり」
「そういう夢をみてたから」
「夢?」
「葬式 の」

ぽつりと告げると、神妙な顔でおそうしきですか、と呟いた。
いつものようには笑わない。ああそうだ、今ここで笑われたら俺の立場がない。

「なあ」
「はい」
「たとえばの話やけど、俺は何が凄く大事なものをもっとる。で、その大事なものを俺はどうしても誰にも見せることが出来ないし渡すことも出来ない。その大事なものを持っていることが俺は辛くて、捨てようとおもうんやけど それでも大事なものだから捨てたあとに葬式を挙げてやろうと思う。お前はそれについてどう思う?」
「…ええと、それはほんとに大事なものなんですね?」
「そうや」
「でも隠し持ってるのが辛いから、捨ててお葬式」
「そう」
「…どう、とかそれはよくわからないですけど…」

少し考えるそぶりをした後で、やはり神妙な顔で。

「俺は、辛くても苦しくても捨てません」
「お前のことを聞いとるんと違うやろ」
「うーん…でも、たぶん」

溜めるな溜めるな、何言うても怒らんから。そういうとあからさまにほっとした顔で。

「たぶん嶋本さんも捨てませんよ」
「辛いって言うとるのに?」
「はい。俺は、確かに、何も分からないかもしれないけど、でもそれでも、大事なものはなくしませんよ」

何のために視力良くして待ってたと思ってるんですか。それはもちろん父ちゃんの帰りを待ってたからですけど、それだけじゃなくて次は絶対になくさないようにするためですよ。遠くへいっても見失わずに済むように、後悔しないように。
で、嶋本さんだって同じような気持ちだからこそ レスキューなんてしてるんじゃないですか。

「だから…嶋本さんがそれをしたいなら俺に止める権利はありませんけど、でもたぶん嶋本さんだってそんなことしなくても抱えていられると思いますよ」
「ああ…うん、そやな」

曖昧に答えた俺に笑って見せた。いつもどおりのその笑顔に背筋が冷たくなったのは、ただ俺の負い目だ。酷いことを言ってしまった と思う。眩しいくらい明るい神林の前で口に出してはいけない言葉だった。ごめんな。ごめん。ちゃんと優しくしてやりたいのに、そうできなくてごめん。大事なもの。ほんとは胸の内なんかよりお前の方がずっとそうなのにな。
でも、それでも大切なことだと思うのだ。静謐な決別。暴かれることなく終わってしまったものでも区切らなければならないのだ。終わらなくても、終わらせなければならないのだ。
できることなら神林の前で、この思いをずるりとめくり上げて見せてやりたい。確かに息づくそれが少しずつ動かなくなっていく様を、まっすぐすきだと、そればかり伝えることができるあの眩しいばかりの目の前で、見せ付けてやりたいと思うのだ。それはきっと幸せだった記憶全てと引き換えにしても良いくらい素晴らしい瞬間であるはずだ。

「…嶋本さん?」
「いや。つかお前、そろそろ帰れ」
「え、わ、もうそんな時間ですか?」
「ちゃんと顔洗って着替えて、ああ飯食ってくか」
「あーー、や、もう行きます!」

失礼しました!と、無駄にでかい声で(まあ仕込んだのは俺なわけだが)叫んでから後も見ずに駆け出していく。だから、その姿が見えなくなるまで見送っていることを神林は知らない。勢いを増すその背中に、やはり終わらせなければならないと思った。手放したくないと思う前に、傷つけてもいいと思ってしまう前に。

それならばせめて明るくて暗い空間を経て向こうに送りたい。
それくらいは望んでも許されるだろう。


いつの間にか握り締めていたコップの水を一息に飲み干した。少しだけこぼれた水滴が喉の奥へ滑り込む。からからと乾いた音を響かせながらベランダに通じる戸を開いて、そのまま素足で下に降りた。コンクリートの冷たさが直に伝わる。

明け方近くの暗い空を見上げて、どこかにいるはずの神林とどこにもいない祖父を思った。
焦がれる気持ちに差はなかった。

END

う…うーーん?兵→嶋→兵…?なのかな?とりあえず辛気臭い話ですね。
フロイトの本を読んだこととこういう夢をみたこと、が発端。抑圧された精神、とか自己的に抑圧する精神とか…うーーん。なんか間違ったかなとは自分でも思います。