[ 踏 切 の 向 こ う ]



火曜日の朝、俺は駅までの一本道を歩いていた。普段は人通りの少ない道に、学生とリーマンが溢れている。まー皆さんご苦労なことで。俺もだけど。ふああ、と欠伸した俺の目に飛び込んだのは見覚えのありすぎる背中だった。相変わらず触るもの皆傷つけそうな空気で周りを威圧している。本人はいたって平和なつもりだから始末に終えない。おもしろいからこのまま後ろから眺めてようかナー、と思う。けれどもそれは一瞬のことで、プクク、と含み笑いながら早足でまークンに追いついた。ぽん、と右肩を叩いてすばやく反対方向へ。振り返ったまークンの視界に俺はいなくて、向き直った瞬間を笑おうという作戦だ。案の定まークンは簡単に引っかかってくれて、おれはニンマリ笑うことが出来た。

「おはよー船橋」
「おお…いつの間に」
「今だよー。はよ」
「おはよう」

フフンと笑って、まークンに並んで歩き出す。周囲からの視線は幾分やわらかくなっただろうか。無理かな。まークンと並ぶと俺も相当アレらしいしナ。昨日のお茶の話や、今日の帰りに食って帰りたいアイスの話をしていたら踏み切りだった。警報機が鳴り始めている。立ち止まろうとした俺の腕を引いて、まークンはささっと踏み切りを渡ってしまった。い、いいんだけどよ。遮断機下りてなければ渡っていいんだけどさ、ちょっと怖ェよ。まークンは俺の腕を掴んだまま、振り返らずに言った。

「電車来るぞ。走れ」
「え、一本後でもよくね?」
「俺は朝飯を食うんだ」
「あー、そー」

俺は置いていけよ、というのも冷たいので並んで走った。でも手は離していいんじゃないかな、走りづらくね?いいけど。階段を駆け上って駆け下りて、ちょうどホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。後ろからぎゅうぎゅう人が流れ込んできて、まークンはようやく俺の手を離した。痛かったんだろう。俺は痛かった。通勤快速、だから混んでいて当然なんだけど、それにしてもギュウギュウだ。と・思ったら女性専用車両の隣だった。間違えて駆け込みそうになった男が全員ココに流れ込んでいるらしい。謀ったように男だらけの空間は想像以上にむさくるしい。そして暑苦しい。おいオッサンちょっとその鞄下に下ろせ。そっちの兄ちゃんはあんま足広げんな。必要以上に動くわけにもいかず、さりとて動かずにもいられない。もそもそしていたらまークンがひょい、と俺を見て言った。

「大丈夫か」
「え?平気だけど、ちょっと苦しいよな」
「そうか」

まークンは一つ頷いた。まークンは背ェ高いからいいよなー、俺標準だから電車乗ると埋もれるんだよな。知ってるだろうけど。息苦しい体制でまークンを見上げると、動き出した電車の中でまークンが俺を窓際の角まで押しやってくれた。おまけにまークンの身体を盾にして、オッサンからも兄ちゃんからも隔離されている。随分楽になった。こういうの、おんなのこと一緒だったら俺がやってやるのにな。ちょっと悔しいよな。ちょっとじゃないよな。まークンは過保護だ。俺相手にしたってしょうがないのにな。だけどこういうさりげない優しさを見せられるようになったのは(それが優しさだとわかったのは)部長達と出会ってからだからそれはそれでいいんだよなあ。ウン、と心の中で納得して、何故だか俺をずっと見ているまークンからそっと視線を剥がして、線路沿いを流れる風景を眺める。変わり映えのしない景色だ。学校まで、あと15分。長いなあ。混んでるしナ。空気悪いし。ふああ、と欠伸をしたところで、腹の辺りに何かを感じた。なんだか熱いような。っていうか。

「…は?」

恐る恐る眼を向けると、まークンの、手が、俺の制服の裾を、割っていた。もちろん出しっぱなしの裾とTシャツが一枚、ものすごく無防備だった。まークンはなんでもないような顔で右手を進めている。素肌に、まークンの手が当たっている。なんていうか、一瞬、というかもう少しくらい、俺は固まった。なにをしているんだろうまークン。手が冷たかったんだろうか。俺の腹で暖めたいのか?気持ち悪いな。気持ち悪いよ。ぼーっと見ていると、まークンの手はまるで躊躇わずにするりと背中に回った。さわさわさわ。さわ。ゾワッとした。いや違うよ、コレ違うよ。コレ。

「な、ななな、なにしてんだよ…??!」

ようやく脳に酸素が辿り着いた俺は、小声で叫んでまークンの手を押しのけた。が、120%詰まった電車の中で、しかもまークンにガードされてる無理な体勢ではうまくいかない。もたもたと暴れているうちに、俺の身体はいつの間にかドアに貼り付けられていた。まークンを、背にするように。ブワっと汗が吹き出た。え、ちょっと、これ、俺、何、やばいんじゃ、ないの。こっちのドアは終点まで開かないし、そもそも特別快速しばらく駅に止まらないし!ギリギリ自由の利く左足でまークンの足を探って踏みつけた。けれども、足の間に足を差し入れられて、俺はますます身動きの取れない状況に陥った。片手は腰ごと抱き取られて、片手は鞄を支えている。せめて振り返ろうとしたら、まークンの顎が肩に乗っている。えええええええ。ちょっと。エエエエエエ?!

「静かにしてろよ」

俺の抗議はさらりと流されて、けれどもそう簡単に終わらせるわけにもいかない。だって、まークンの手は俺の腹筋を撫でている。ええ。そんなところに何の用があるんだよ!用があっても困るけどな!!得体の知れない感触に、何枚目かの鳥肌が立つ。あわわわわわわ。もう脳は臨界点を突破した。どうなるの。俺どうなるの。この先何されるの。諦めちゃダメだ、渾身の力で振り切ればなんとか…!!!と、思ったところで、まークンの向こうでオッサンが咳払いした。いきなり冷静になった。暴れたら、逃げられる。でも、どうして暴れたのかが回りに分かったら、どうする。頭に上った血の引く音が聞こえるくらい、一気に冷えた。まークン、まークンは、そんなこと欠片も考えちゃいないんだろうが。俺はこの場面を誰かに見られたら、窓から飛び降りてでも逃げる自信がある。このガラスかてーな。肘で割れるか。やっぱり上段蹴りで?だけど動けないんだって。意識を反らそうとしたけれど、動けない、の瞬間にまークンの手がまた少し動いた。

「…っく、ぁ…」

あ、ってなんだよ!バーカ!!俺のバーカ!!!きつく唇を噛んで目を伏せる。もう何も考えたくない。手が、熱い。まークンの顔が見えない。この手は本当にまークンの手なんだろうか。とても信じられない。だけど他にいない。でも、だって、まークン。俺は怖いよ、まークン。ゆるゆると上半身をなぞっていた手は、やがて境界まで辿り着いた。腰ではいた下着の、さらに、奥まで。ぎゅう、と目を瞑った。どうなるんだろうこれから。違う。そんなことになるわけがない。まークンの手は腰骨をなぞって、足の付け根を伝って、それから。それから。そこまできたところでガクンと電車が揺れて、停車駅を告げるけだるい声が聞こえた。15分。死ぬほど長かった。緩やかなざわめきが車内に広がる。まークンの手は太股を撫でている。俺は短くて荒い息をしている。

「残念だな」

耳元で囁かれて、まークンの手が離れていった。何が残念だ。わからない。助かった、と思った。最悪の事態は免れたけれど、俺のシャツは汗でドロドロだ。せっかくセットした髪だってもつれているに決まってる。ありえない。ありえないにも程がある。まークンは外した俺のボタンをちまちま留めている。窓ガラスに俺の顔と、まークンの腕が映っている。余韻も残さずに止まった電車から、押し出されるようにホームに流れて、そのまま歩いていこうとするまークンの腕を掴んだ。ギリギリと力を込めて、俺の最大限に剣呑な目つきでまークンを睨む。

「テメー、何か言うことはねーのかよ」
「あ?…んー…今日はきつねうどんにしようと思う」
「そんな話してねーだろ!!?お前の脳は塩辛か!!さっきのことだよさっきの!!」
「おお。割と楽しかったな。明日もやろうぜ」
「っんの、バカ野郎が!!!」

腹に一発、回し蹴り。もちろん踵で思いっきり。吹っ飛んだまークンは、隅の自販機にぶつかって落ちた。立ち上がるところまで見ずに走り出す。なんであんなに普通なんだ。後ろめたさはないのか。っていうか気持ち悪かった。ものすごく気持ち悪かった。出来ることなら全部脱いで水でもかぶりたいくらいだ。何、したかわかってるのか。下手したら犯罪だぞ。俺が訴えたら勝てねーんだぞ。しないけど、でも、たとえ俺がただの友達じゃなくて恋人だとしたって(ありえねーけど!)痴漢プレイなんて特殊すぎる。そんなもの脳内か、ギリギリ家の中か、AVの撮影だけでおしまいだ。と思う。少なくとも俺の辞書にそんなシチュエーションは載ってない。階段を駆け下りて、最後の8段くらいは飛び降りた。善良なる市民の皆様、通行の邪魔してごめん。だけどこうでもしないと俺の心のもやもやが。学校まで走ったっていいくらいだったが、冷静になるまでもう少し時間が欲しかった。手の甲で額の汗を拭って、今日も照りつける太陽の下を歩く。考えたくないのに、考えるのはまークンのことだけだ。それでも本当に大事なことに蓋をして、教室であったときはどこに何を入れてやろうかを考えた。腹には入れたから、次は首だろうか。腰だっていい。脛だって痛いだろう。間接を決めてやるのもいいかもしれない。それともこの間テレビで見た技を試してやろうか。

だんだん楽しくなってきてあれもそれもと考えていたら、ぽんと背中に振動を感じて飛び上がった。追いかけてきたのか、まークン。一発のお返しを食らうのか。走って逃げるべきか、でも一瞬の逡巡が命取りになる。ここは一発もらう覚悟で隙を突いて顔面に一発、と意を決して振り返った俺の前にはきょとんとした顔の夏帆ちゃんがいた。はっ。違った。まークンじゃなかった。握り締めていた手をユルユル解いて、落としていた腰をしゃんと伸ばした。焦りすぎだった。だってまークンの一発は、強い。おもいきり気が抜けて、ぎこちない笑みしか作れなかった。

「お、おはよー…」
「オハヨ。何怯えてるの」
「いや、ちょっと…」

夏帆ちゃんのまっすぐな視線が痛くて、わしゃわしゃと頭を掻く。怯えてたかナ。怯えてたなあ。でも怯えるよなあ。夏帆ちゃん痴漢されたことあるかな。こんなにかわいいんだからあるかもしれない。ゆるせねーソイツ。殺す。知り合いにされた俺だって、男の俺だってこんなに気持ち悪いんだから夏帆ちゃんはもっと気持ち悪いだろう。ふと思い立って、「夏帆ちゃんは女性専用車両乗る?」と聞いてみた。「乗らない」ぱっきり。「なんで?」「混んでるから」はっきりしている。夏帆ちゃんの言葉はわかりやすくてとてもいい。ふーん。女性専用車両も混んでるのか。でもおんなのこと女の人しかいないんだったらいいよな。俺は乗りたい。すごく。だだ下がりのテンションを盛り上げるために楽しいことを考える。隣にいた夏帆ちゃんが小さく首をかしげた。

「山田君、なんか変」
「そう?どこが?」
「どこだろ…駅で膝抱えてた毒へ、船橋君と何か関係ある?」
「え、別に関係な、って膝抱えてたァ!!?」
「抱えてたよ。なんだかちんまりしてたわ」
「エエエ…」

それはどういう図なんだろうか。あの自販機の前でちんまりしていたらものすごく邪魔だ。膝を抱えた悪魔なんて笑えない。ただでさえ近づき辛いのに、いろんな意味でアブナイ奴になってしまう。今だって結構アレだけど。人を殴る回数は減ったけどやるときはやってるし、部長の前では顔が緩みっぱなしだし、最近では俺相手にネジが一本飛んでるし。夏だからっていい加減にして欲しい。冷静になれ。ちょっとそこに座れ。二時間正座してよく考えろ。

「それはどうでもいいんだけどさあ、ちょっと聞いていいかな」
「それはいいんだ…なに、質問にもよるけど」
「夏帆ちゃんは、どうでもいい奴からこくはくされたらどうする?」
「断る」
「断ってもしつこい奴だったら?」
「相手が凹むまで断る」
「…そっか、そうだよね、夏帆ちゃんはそうだよねえ」
「なっ、なによそれ。告白でもされたの??」
「いやー、告白なのかなあ。俺は本気だと思いたくないんだよねえ」
「フーン…山田君は女なら誰でもいいのかと思ってたわ」
「エエッ?それはないよ?俺だってちゃんと相手は見て口説くよ?」
「フーン」
「夏帆ちゃーん…」

おんなのこはイイ、と思う。すごくしっくりくる。この子にすかれたらものすごく嬉しいだろうと思う。ソレがたとえ恋愛でもそうじゃなくても、おんなのこにならいくらでも愛を囁けるのに。学校までふたりで歩いて、下駄箱でクラスメイトとあった夏帆ちゃんを見送った。まークンはちゃんと朝飯を食っただろうか。改札を抜ける前に蹴りこんでおいてよかった。車内でのアレコレとまークンが飯を食いっぱぐれるのは別の話だ。ぱこんと下駄箱を開けて、年季の入ったすのこに上履きを落とす。今日の昼飯は何にしようかなあ、と思いながらぺたぺた歩く。少し磨り減った上履きの底が鈍い音を立てている。


( 山田とまークン。それはまた別の話。 / お茶にごす。 / 20090308 )