星 の 銀 貨 / 本 文 サ ン プ ル


月のない水曜の夜だった。雨が降っているのに空はごく美しく晴れ渡って、星が見えている。午前中に二件、午後に一件の引っ越しを終えて、ついでにしばらく溜めていた勤務表をどうにか作り上げて(職場のPCは古いのだ)提出したエースが考えるのは今日の夕飯のことなのだが、あれこれ献立を決める前に、ああもうそんなに悩むこともねえんだな、と静かに息を吐いた。エースの料理を食べることを至上の幸福としていたような人間は、もうエースの傍にいないのである。

エースの弟のルフィが、兄弟ふたりで暮らす家を出て行ったのは、五月の半ばだった。ちょうど今日と同じように細い雨が降り続いていた。早めの夕食後、洗濯物を片手にぼんやりしていたエースの前に、スポーツバッグを肩に下げたルフィが現れて、「おれ今日からコイビトと暮らすから」とごくあっさり手を振って、汚れたスニーカーを履いて、ビニール傘を広げて、宵闇に消えて行く姿を見送った記憶も新しい。コイビト、が『恋人』に変換されたのはエースが二階のサンルームに洗濯物を干し終えてからで、だからたっぷり三〇分、エースは放心していたのだろう。マジかよ、と嘘だろ、のどちらを口に出せばいいかわからないまま、エースはとりあえず洗濯かごをそのままにして、エースの部屋の向かいにあるルフィの部屋を覗いた。ベッドと机しかないようなエースの部屋と違い、細かいものやゴミやガラクタまでいっしょくたにされていたはずのルフィの部屋は、まるで入る部屋を間違えたように整然として、いつもなら開け放されている筈の閉じたクローゼットの扉を引けば、中身は半分ほど空になっている。いくらなんでもスポーツバッグひとつに収まる量ではなかったから、きっとルフィは少しずつこの家を出る準備をしていたのだろう。全く気付かなかったエースは、「なるほど」と意味もなく呟いて、ルフィのベッドにぼすんと座り込んだ。固いマットではしばらく誰も寝た形跡がなく、それはその通りで、だってルフィは昨日までエースと一緒にエースのベッドで寝ていたのだ。エースが強要するわけでもなく、ルフィが強請るわけでもなく、それはごく自然な行為で、エースの両親が海外に移住してから十年、ふたりはずっとそうして生きていた。ただ手を繋いで眠るだけだった関係が少しばかり変わったのはエースが高校を卒業してからだったが、そればかりがルフィと一緒にいた理由と言うわけでもない。恋人。確かにそんなものは、大学時代のエースにだっていたのだ。けれどもエースはごく自然にルフィとずっと一緒にいるのだと思っていたので、今こうしてルフィのいないベッドに腰掛けている状況がいまいち飲み込めないのだった。

それからひと月余り経過して、今は六月の終わりである。ルフィからは何通かメールが届いてはいたが、電話や来訪はなく、またエースの方からも特に行動は起こさなかったので、エースの生活はごく静かに続いていた。学生時代にはじめたバイト先の運送会社にそのまま就職したエースは、四勤二休のシフト制で働いているので、土日が休みのルフィとはもともとすれ違うことが多く、だからこそ寝る時間をルフィと過ごす時間に当てていたのだが、それも今はもう遠い話になりかけている。
ルフィのいない家はがらんとして静かだったが、両親がいなくなった日に比べれば耐えられないほどではなく、また縋る相手がいない分だけ淡々と過ごせるような気すらして、つまりエースはルフィの喪失をあまり重く受け止めてはいないのだった。よくよく考えてみれば、エースはともかくルフィにはエースとずっと一緒にいる理由などないので、この十年間は「離れる理由がなかった」だけだったのだろう。そう気付いてしまえば、それだけの話だった。そのうち笑って会える日も来るのだろう、と実はあまりよく思い出せないルフィの笑顔を思い浮かべながらビルを出たエースが、傘を広げながら顔を上げて振り返ったのはただの偶然だったのだが、雨の向こう側、隣のビルの屋上に人影が見えて軽く首を捻る。

エースが勤める七階建ての運送会社の隣はそれほど大きくもない六階建ての出版社で、社長の趣味で芝生と小さな神社が置かれたこちらの建物とは対照的に何も無いので、人がいるような場所ではない。細くても途切れずに雨が落ちる夜であればなおさらだった。見間違いか、と思って目を凝らしても、腰高の柵の向こうには黒い人影がぼうっと浮かんで見えて、エースはしばらく悩んだのだが、結局開いた傘をきちんと閉じて、社内に戻る。エレベータは使用中だったので、きゅうきゅうと濡れた靴で音を鳴らしながら階段を上って、七階を通り越して屋上に続く鉄扉を開けば、一際強く吹いた風がまともに雨粒を押し当てて、エースは軽く髪をかき上げた。ビニール傘を指し直して、さくさくと芝生に踏み出したエースが、鉄柵から身を乗り出して隣のビルを見下ろすと、やはりそこには人が立っている。金髪に黒い服を着た、痩せ形で背の高い男だった。エースに横顔を向ける形で手摺りに手を付く姿は、贔屓目に見てもびしょ濡れ、としか言いようがなく、いつからそこにいたのだろうとエースは軽く首を傾げた。それから、「なあ、そこの人」と風に滑らせるように声をかけたのだが、一度目は何も反応がなく、「なあ、おーい、聞こえるか?」と、傘を持たない右手をぶんぶん振ってようやく、暗い人影はゆらりとエースを振り返る。

思ったよりもまっすぐな視線に射抜かれてエースは少しばかり焦ったのだが、その人は辺りを見渡した後で、「もしかして君は、俺に話しかけてるのかよい」と不思議そうな声色で言った。低く、乾いて落ち着いた声をしている。ああ、と頷いたエースが、「聞こえてて良かった」と軽く笑うと、「何か用かい?」とエースよりだいぶ年上だろうに、ごく丁寧にその人が問いかけるので、「俺が用って言うか、あんたはこんな日に屋上で何してるのかと思って」とエースは答えた。少し目を反らした後で、「特には、何も」とやはり生真面目に答える姿に、エースはまたゆるく笑みを零して、「何もしていないなら、せめて中に入った方がいいんじゃねえ?濡れて寒そうだし」とシャツ一枚の姿を指せば、「…ああ、でも、傘はあるんだよい」と、先ほどまで凭れていた手すりに掛けられていた黒い傘をばさりと広げる。その拍子に、中に溜まっていたらしい雨水がまた男の足を濡らしたのだが、壮年の男は気にもせずに傘の柄を肩に掛けてエースを見上げていた。エースはますます可笑しくなって、「今から差してもあんま意味ないだろ」と、そのエースが持つビニール傘よりよほど上等な傘を見下ろしたのだが、「そうかもな」と頷かれてしまっては会話が続かない。

どうしようか、とくるりと傘を回したエースの心を読んだように、少しずつ雨が強くなり始めた空をちらりと仰いでから、「それで君は、用もないのにそんなところで何をしているんだよい」と男が尋ねるので、「ここに用はねえけど、下から見えたあんたがなんとなく気になってさ」と正直に答えれば、僅かに目を眇めた後で、「別に飛び降りたりはしねえよい」と簡単に確信を付くので、エースはやっぱり笑えてくるのだった。「あんたおもしろい人だな」とエースが告げると、男は僅かに目を瞠った後で、「そんなことを言われたのは初めてだよい」と返す。それから、「君の勘違いじゃねえかい」と男が続けたので、そんな事ねえと思うけどな、と口には出さないエースは、また傘を回して手摺りから下を覗きこむ。水溜りが川のように広がって、あまり美しくはなかった。さく、と芝生を踏みしめたエースが、「なあ、俺もそっちに行っていいか」と尋ねたら、男は「別に俺の場所でもねえし、いいんじゃねえかい」とたいして気に掛けた様子もなく答えるので、「そっか」と頷いたエースは、まずビニール傘を閉じて、隣のビルへとまっすぐ放り投げた。コンビニで買った五〇〇円のビニール傘(六五センチ)はほとんど表情を変えない男の頭上を越えて、コンクリートの真ん中に落ちて軋む。そしてエース自身も手摺りに足をかけて、一息に飛び降りた。

と、次の瞬間、なぜかエースはそれなりに遠くにいた筈の男を下敷きにしていて、「はっ?」と思わず声を上げてから、なぜかも何も無く、エースを受け止めるために男が駆け寄ってきたことを知る。エースがいた7階建てのビルと、男のいる6階建てのビルは二mほど高低差があって、ついでにその間は一mほど空いているのだが(ちなみに地上は柵区切られている)、エースからしてみればほんの一跨ぎのように見えた。下から上に行くのは辛いだろうが、上から下に飛ぶのは、まあ簡単である。というわけでエースは造作もなく着地できるはずだったのだが、いやそれは確かに着地する時少しは痛かったかもしれないが、上から落ちてくる成人男性一人を受け止めるほどの衝撃はなかったはずだ。「いやいやいやいや、何してんのあんた、危ないだろ」と、エースが焦りながら男の上から降りると、「怪我はねえかよい」と至極真面目に男が尋ねるので、「俺はねえけど、あんたが大丈夫かよ?腰とかイってねえ?」と、座りこむ男に手を貸しながらエースは問い返す。「そこまで柔じゃねえよい」と、肩をすくめて立ち上る男は答えて、「すげえな」とほとんど嘆息するようにエースは言った。並んで見れば、男とエースの身長はほとんど同じくらいで、厚みはどう見てもエースの方が上である。エースには、自分よりでかい男を受け止めて無傷でいる保障はあっても、どこも痛めないほどの自信はなかった。隅に転がった黒い傘を拾いながら、「…というか、普通飛び降りて来ねえだろい」と今さらのように男が呟くので、「こっちに来てもいいって言ったのはあんただろ」と、エースもずいぶん遠くまで飛んだビニール傘を拾い上げて差し直す。ぱたぱたぱた、と途切れることなく雨粒は傘を叩いている。とは言え、その頃にはエースも男と同じくらいびしょ濡れだった。「このまま電車乗ったら嫌がられるだろうなあ」とエースが感想を述べれば、「そんなに遠くまで帰るのかい」といつの間にか後ろにいた男が言うので、「や、二駅くらい」と、やっぱり上等だった男の傘を見上げながらエースは返す。「だから歩いても帰れるよ」と続けたら、「そりゃ良かった」となぜかここで男が破顔するので、笑い皺の広がる顔を眺めながら「やっぱり、あんたおもしろいって」とエースもゆるく笑った。男も、今度は否定しなかった。

それで、と並んで手摺りに凭れたところで男が切り出したのを、「うん」とエースが受ければ、「君はここに何かをしに来たのかい」と肘を付いて男が尋ねるので、「いや別に、何もしてないあんたの視界に何があるのか見たかっただけだ」とエースは正直に言った。少しだけ考えるような素振りをしてから、「何かいいものが見えるかい」と男がまた問いかけるのに、ぐるりと辺りを見渡してから「俺にとって良いものは特に見えねえかな」と告げて、「あんたにとっては知らねえけど」と、エースは付け加える。しばらく男は何も言わず、ふたり分の傘の上にぱたぱたと雨粒の落ちる音だけが響いた。それから不意に、「あそこが俺の住んでるマンションだよい」と男がまっすぐ前を指差して、それが六階や七階や十階建では利かない大きさの建物だったので、「うっわ、でっか」とエースは素直に声を上げる。エレベータがあろうが無かろうが最上階から引っ越す奴の荷物は運びたくねえなあ、と思いながら、「アレが、あんたにとっての良いものか?」とエースが尋ねれば、「どうだろうな」と男は返して、ゆるりと目を眇めた。それで終わりかと思ったエースの隣で、「…あそこに帰りたくなくてここにいるんだよい」と男がほとんど独り言のように呟くので、「だったらもっと遠くに行ったらいいんじゃねえかな」とエースが提案すれば、男はまた少しばかり考えて、「他に行くところがねえよい」と困ったような顔で笑う。

寄る辺ないような顔をする男はそれでも正気で、だから一晩中ここにいるようなことはぜずにあのマンションに帰るのだろうと言うことはエースにもわかったのだが、家に帰りたくない気持ちも痛いほど良くわかるので、「それなら家に来いよ」とごく軽く告げたのは、男のためではなくむしろエースのためだった。ほとんど衝動的なものだったが、ああそれはいいな、とエースは思う。家に誰かがいるのはいいことだろう、それが誰であれ。「…何を言ってるんだよい」と呆れたように男は言って、「本気でもないのにそう言うことを言うもんじゃねえよい」と溜息のような息を吐くので、「あんたが良いなら、俺はわりと本気だけどな」とエースは男の顔を覗き込んで、表情の硬い男の顔をまじまじと眺めたところで、あれ?と何かが引っかかったのだが、それが何なのかは思い出せなかった。「学校で教わらなかったかい、知らねえ人にはついて行くなってよい」と半眼で言う男に、「ああ、でも知らねえ奴を連れて帰るなとは言われてねえよ」とエースは返す。それから、「俺はエース、隣の運送会社で働いてる。あんたは?」と男に問いかければ、「…マルコ、翻訳したりなんだりで生計を立ててるよい」と、男―マルコは答えた。「うん、じゃあこれでもう知らねえ同士じゃねえな」と上機嫌でエースは言って、傘を持ちかえて右手を差し出すと、マルコは胡乱な眼でエースの右手とエースの顔を眺めてから、諦めたようにエースの手を取って握った。雨に濡れていた割には、ひどく暖かい手をしていた。

( 現代パラレル / 妙な出会い方をするエースとマルコ / ONEPIECE )