04.Adversa virtute repello.  

柔らかい背凭れに体を預けて息を吐いたワトソンに向かって、「疲れたか?」とホームズが問いかけるので、「君ほどではないよ」とワトソンは答えた。調査旅行の帰り道である。それほど大きな捕り物ではなかったが、失せ物は見つかったし、ホームズの推理は相変わらず見事だった。薄い手帳を開いて、事件のあらましを書き連ねながら、「今回の依頼人は金払いが良かったな。帰りの列車まで一等客車だ」とワトソンが笑うと、ホームズは軽く肩をすくめて、「私も霞を食べて生きていくわけにはいかないからな」と返す。
布張りの肘掛に腕を置いたホームズは、悠々と足を伸ばして、胸ポケットから時計を取り出した。「2時間半でロンドンだ」と告げるホームズに、「少し眠ったらどうだ?しばらく張り込みが続いただろう」とワトソンは告げる。「君こそ、そんな紙切れと向かい合っていないで目を閉じるべきだ」とホームズがワトソンの顔を指すので、ワトソンはやんわりとホームズの指を握って、「だが、今書いておかないと細部が分からなくなってしまう」と首を振った。「私が覚えているよ」とホームズは言うのだが、「君の言葉は事実だけを語るから、私の感じたことも書いておかなければ」とワトソンはホームズの指を握ったまま、また手帳に目を落とす。ホームズならば、きっとワトソンの行動すらすべて覚えているのだろうが、ホームズの見るワトソンはワトソンが見るワトソンとは別物なのだ。ホームズが語るホームズの謎解きと、ワトソンが公表するホームズの謎解きの間に差があるように。
ホームズは軽く頷いて、ワトソンの左手からそっと指を抜くと、両手を組んで膝に置いた。「君がそうやって私を宣伝してくれるから、今ではすっかり私も英雄扱いだ」と、皮肉めいた口調でホームズが言うので、「君が嫌だというのなら、発表はしない」と、顔を上げずにワトソンは答える。「…そこは書かない、と言うものではないかな?」とホームズは尋ねた。ちらりと眺めたホームズの表情が、幾分寂しそうなので、「君は私の書くものがあまり好きではないものな」と、ワトソンがわざとホームズの言葉を肯定すれば、「そんなことはないさ」と、ホームズは組んだ指を持ち上げて唇に触れる。「そうだろう、いつも批判ばかりする」とワトソンが大げさに首を振れば、「それは君が、君自身をまるで私の引き立て役のように記述するから、」と言いかけたホームズは、ばつの悪そうな顔で口を閉じた。

ワトソンはしばらく、じっとホームズの目を眺めていたが、やがてゆるく微笑んで手帳をしまうと、「少し詰めてくれ」と言って、ホームズの隣に席を移す。「なんだ」と、戸惑ったようにホームズが問いかけるので、「いや、君が珍しく優しいから、肩か膝でも借りようかと」と、上着を脱ぎながらワトソンは返した。「事件は?」とホームズが指摘すると、「本当は、あらかた宿で書いておいた」と、澄ました顔でワトソンは答える。腕を組んで、ホームズに体を預けたワトソンを横目で眺めながら、「君は時々底意地が悪いな」とホームズが漏らせば、「そうだな、君と一緒にいるから」とワトソンは言った。それではまるで私の性格が悪いみたいじゃないか、と抗議しようとしたホームズは、おそらく肯定されるだろうということが目に見えていたので、結局口を開くことを止めてパイプを咥える。火を点けて一度深く吸うと、脇から手が伸びてパイプが浚われるので、「おい」とホームズはワトソンの耳を軽く引いたのだが、「いいだろう、君だってよく私のものを取っていく」と、ワトソンはまるで悪びれる様子もない。ホームズは軽く目を伏せたが、ワトソンがいつになく寛いでいるので、諦めて窓の外に視線を送った。

今回の依頼は、実のところワトソンのために引き受けたのである。つい先日ホームズのせいで、というより、しばらく自堕落な生活を送っていたホームズにかかりきりだったせいで女性にふられたワトソンは、目に見えて気落ちしていた。ホームズはと言えば、実際ワトソンがいなければいないでなんとか生きていくのだろうし、そもそもコカインもモルヒネもただの暇潰しでしかないのだが、だからといってワトソンに何をしてもいいと思っているわけではない。ホームズのために心を砕くワトソンを見ていることは、ホームズにとってそれなりに幸せなことだったが、ホームズのためにワトソンが不幸になることはホームズの意図するところではないのだ。ホームズの手前、部屋に引きこもることこそしなかったものの、目に見えて酒量が増えたワトソンを眺めて、ホームズは久しぶりに依頼を受けることにした。どんなものでも構わなかったが、条件は依頼人の居住地がロンドンから離れていること、そして報酬が多い事である。ホームズ自身はあまり金に執着が無かったし、生きていく上で必要になる程度の蓄えは既にあったのだが、ワトソンは別だった。ホームズに付き合ってくれるワトソンは、時として医者としての定収すら秤にかけてホームズを取ってしまう。それはありがたいことだったし、ホームズとしてはいくらでもワトソンの酒代を持ってやりたいのだが、それはワトソンのプライドが許さないだろう。だからこそ、助手としてのワトソンが必要なのだった。ホームズは、ワトソンが同行してくれた事件の報酬のうち、おおよそ1/3をワトソンに渡している。最初の内は「多すぎる」と固辞していたが、ホームズが何度も事件に連れ出す間に、やがて渋々受け寄るようになっていった。それと比例するように、ワトソンのホームズに対する執着も強くなっていったが、それは別に構わなかった。ホームズは、ワトソンと同居を始めてすぐに、ワトソンを得難い存在だと感じたのだ。そもそも、ホームズが自己紹介のように推理を披露して、素直に驚いて喜んでくれる人物が稀だった。おおかたの人間は、驚いた後でホームズを訝しみ、ある時などホームズが事前に自分を付け回していたのだ、などと根も葉もない言葉をぶつけて去って行ったこともある。ホームズにとって、それらはすでに生活の一部だったが、だからといって何も思わないかと言えばそうでもなかったのだと、ワトソンと出会って知った。だからホームズは、ワトソンを最大限に評価している。誰かを称賛できる人間は、それだけで賞賛に値するのだった。

元気になったのなら良かった、と声には出さず呟いたホームズが実際に口にしたのは、「眠り込む前にパイプは返してくれよ」だったが、ワトソンはごく軽く、「落ちる前に君が受け止めてくれ」と返す。「火のついたパイプをか?無茶を言う」とホームズが流石にワトソンの顔に視線を向ければ、ホームズを見上げる海色の瞳と目が合ってしまった。「どうかしたか?」とホームズが尋ねれば、「どうもしないさ」と、ワトソンは目を逸らさずに首を振る。それから、ホームズの膝に手を置いて、「君が何を考えているか知らないが、私は君とこうして出かけることが純粋に好きなんだ」とワトソンが言うので、「ああ、私も君がいてくれると楽しい」とホームズは頷いた。ワトソンの掌はあたたかく、ホームズはなんとなく居心地が悪かったのだが、逃げ出したいわけでもない。何かを言わなければ、と思ったホームズに向かって、「目を閉じてくれないか」とワトソンが言うので、「なぜ」とホームズは問い返す。「キスの前には目を閉じるべきだろう」と、当たり前のようにワトソンが告げれば、「君とキスはしない」とホームズは頭を振った。「…君はそう言うだろうな」と、柔らかく呟いたワトソンが、ホームズの膝から手を放して目を閉じるので、「君が提案しなければ、私も言わなくてすむんだ」と、責めるわけでもなくホームズは返す。「それでも、言わなければ始まらない」と、ワトソンがどこまでも律儀なので、ホームズは少しばかりかなしくなった。

こんなことを言うのはお門違いかも知れないが、言わなければいいのだ。ワトソンが黙って手を伸ばしたのなら、ホームズはそれを跳ね除けたりしないだろう。ベーカー街の居間で、ホームズが眠るベッドの脇で、隣り合わせに座るソファの端で、向かい合った朝食のテーブルで、グラッドストンを挟んで歩く大通りで、害鳥に視線を送る真昼の広場で、誰もいない夜の往来の片隅で、ふたりきりの一等客車で、ワトソンがホームズをどう思っているかなど、ホームズには痛いほどよくわかる。ワトソンがホームズに答えを求めなければ、おそらくとっくにホームズはワトソンのものだっただろう。しかし、それも仮定の話だった。ワトソンがそうした人間ではないからこそ、ホームズはワトソンを愛していた。恋ではないかもしれないが、確かに。そして、ワトソンもおよそ正確にホームズのことを理解していた。ホームズが拒まなければ、ワトソンはきっとまた傷つくのだろう。こんな風に、穏やかに目を閉じることもない。もっと欲しがってくれないか、と口に出せないことが歯痒かった。

溜息のような息を吐いたホームズは、ワトソンの唇からパイプを抜き取って灰を落とし、上着の内ポケットに仕舞いこむ。それから、「目を閉じていてくれ」と告げて、ホームズはワトソンの頬を両手で挟んだ。ワトソンは軽く瞼を震わせたが、ホームズの言葉通り目を開けることはない。端正なワトソンの顔を見下ろしながら、「君はもっと幸せになって良いのにな」とホームズが呟けば、「私は十分幸せだ」とワトソンは答える。そんなことはないよ、と言えないホームズは、ワトソンの髭を撫でてから、瞼の上に唇を落とした。五秒間、息を止めてワトソンに触れたホームズが、身体を起こして「もういいよ」と告げれば、「…君はどうして、私に期待を持たせるんだろう」と、目を閉じたままワトソンは言う。「そんなことは、君が一番よくわかっているだろう」と肩をすくめて、背の高い座椅子に頭を付けたホームズは、「あと二時間でロンドンだ」と時計を引き出すこともなく告げて目を閉じた。

ワトソンが凭れ掛かる左半身はやけに熱かったが、それがホームズのせいなのか、ワトソンのせいなのかは、結局列車を降りるまでわからなかった。


(逆境を跳ね除けるための勇気 / ホームズとワトソン / 120523 )