03.Amor odit inertes.   

ある秋の夕刻、ワトソンがステッキと帽子を手に寝室を出ると、ちょうど帰宅したらしいホームズとホールで鉢合わせた。息を切らした様子から、随分急いでいたことがわかる。衝突寸前で足を止めたホームズが、「やあ、久しぶりだなワトソン君」と白々しく両手を広げるので、「ああ、君が私を放って2週間も調査に出かけたからな」と突き放すような口調でワトソンは答える。気まずそうに胸元を押さえたホームズは、冷ややかなワトソンに対して、「患者が立て込んでいるといっただろう」と責めるような声を出した。
「君が私の目を見て依頼してくれたら、私は喜んで患者を手放しただろうよ」
「それは願っても無いことだが、今回は本当に大した事件ではなかったんだ」
歯切れの悪いホームズは、首から外した襟巻きを指先で弄びながら、「君が医者として正当な評価を受けることは、私としても喜ばしい話だしね」と付け加える。ワトソンは黙ってホームズを見下ろしたが、ホームズが珍しく殊勝な態度を取ったことでどうにか折り合いをつけて、「次回からは私も連れて行くことだな、…君が、私を不要だと言うのなら話は別だが」と不機嫌を装った声で返した。ホームズはあからさまにほっとした顔で、「いや、もちろんそんなことはないさ」と笑いかけ、ワトソンも微笑を返す。そうこうしている間に階下の掛け時計が7時を打って、ようやく今日の本題を思い出したワトソンは、「それでは夕食の約束があるので、失礼する」とホームズに向かって片手を上げた。途端に、ホームズがばつの悪そうな顔を作るので、ワトソンは一瞬約束を反故にしてホームズと共に過ごそうかとも思ったのだが、さすがに女性を放っておくわけにもいかない。しかも、たかがホームズのために。目を逸らして、ホームズの脇をすり抜けようとしたワトソンは、けれどもホームズの言葉でぴたりと足を止めた。

「フレデリカ・マクレーン嬢ならば、今日は都合が悪いだろうと思うよ」

待ち合わせの相手の名を、ワトソンはホームズに告げた覚えがない。そもそもホームズは、ワトソンが何をしようとそうそう気に掛けたりはしないのだ。ホームズはいつでもワトソンを尊重し、ワトソン自身にそれを求めることもなく、あるべきことをあるべきようにと日々事件と音楽とコカインに現を抜かしている。だというのに、振り返ったワトソンの前でホームズはいかにも気の毒そうな顔を作って、「そもそも彼女は、アドニス・マーティン夫人だったのだ」 と、彼が2週間かけて追い詰めた紳士の名を上げた。何を、と言いかけたワトソンの唇は思うように言葉を紡ぐことができず、足音も立てずに近づいたホームズの抱擁を呆然と受け入れることしかできない。
「君には先に話しておくべきか、私も随分迷ったんだがね。確証を得るまでは、君の交際に口をはさむわけにもいかないし、それに―彼女が君を本当に愛しているのなら、私にも別の考えがあって」
「ホームズ、もういい」
「いや、ここからが重要な話なのだ。私がマーティン氏を糾弾したとき、マーティン夫人は彼のすぐ近くにいたのだ。私は彼女に、もしあなたが氏と別れて君との生活を望むのならば、と持ちかけたのだが、答えはNOだった。彼女は君よりも、罪を犯した氏を選んだのだよ。実に残念なことだ」
「ホームズ!」
「ワトソン、君には心から同情する。次こそは君を心から愛する女性を選ぶといい」
なに、君にはもっと良い女性が幾らでも見つかるさ。友人を代表して、私が保証しよう。だからそんな顔をしないでくれないか。
耳元で囁くように告げられたホームズの声は夢の中のように曖昧で、「ああ、そうかもしれないな」とワトソンは頷く。ひとつ背中を叩いて離れて行くホームズの体温が名残惜しくて、ワトソンがホームズの袖を引けば、「心配しなくても、私はどこにも行かない。君がどこに行ってもね」とホームズは軽く笑った。ワトソンが取り落としたステッキを拾い上げるホームズは、旅行着のせいかいかにも紳士然としていて、これはいったい誰なのだろう、とワトソンは思う。ワトソンの知るホームズは、いつだってもっとずっと人を食ったような顔をしていた。誰よりも高い位置から地上を眺めて、ときおり気が向いたときにだけ駒を幾つか操作し、その場を支配してしまう。そんなホームズが、ワトソンひとりのために尽力するなどと、まるで正気の沙汰ではない。けれども、こんな偶然があるとも思えなかった。ホームズ、と紡いだワトソンの唇は震えてはいなかったものの、その声は十分動揺していて、ホームズは幾分楽しげにワトソンをふり仰ぐ。
「君はいつから、私と彼女の関係を知り、そして彼女の素性を調べたんだ」
「そうだな、ちょうど…3か月前、と言うところだろうか。君が彼女と始めた会った日から、私は彼女のことを知っていたよ」
「…なぜ、」
「おっと、その質問は無粋だな。君は、君の愛する女性よりも、私の言葉を信じるような男なのか?」
感情のままに吐き出そうとしたワトソンの声は、振り下ろす前にホームズの言葉に堰き止められてしまった。2週間前ならともかく、3か月前にはただの行きずりの人間だった女性と、もう数年も同居している友人とを比べた時に、ワトソンがどちらを取るかは明白だったが、ホームズの言葉には嫌味の欠片も含まれてはいない。おそらくホームズには、ワトソンがフレデリカ・マクレーン嬢を-実際はフレデリカ・マーティン婦人を-愛するようになるということが手に取るように分かっていたのだろう。ワトソンがそれを知るずっと前から。

それ以上何も言えなくなったワトソンに、何の細工もないステッキを手渡して、「気を悪くしないでくれ。私は、君と彼女の仲を応援したいと思っていたんだ」とホームズは告げる。ああそうだろう、ホームズの行動原理にいつだって無駄なことは存在しない。純然たる好意しかないホームズの視線から目を逸らして、「そんなことを言って、それこそ私が君を信じなければどうしたというんだ」とワトソンは言った。ホームズの言葉には、絶対的な証拠が欠けている。もしかしなくても、ホームズの言葉は何の得にもならない嘘で、馬車を飛ばして店に向かえば、明るいブラウンの瞳を輝かせた彼女が笑いかけるのかもしれない。それこそ、愛した女性の言葉を信じるならばだ。
けれどもホームズは、ひどく驚いたような顔でこう言った。
「まさか、君は私の言葉を信じないかもしれないが、私の推理を疑うことはないだろう?」
ワトソンはしばらくホームズの顔を眺めていたが、ホームズが目を逸らすことも表情を変えることもなかったので、「完敗だよ」と両手を上げる。それだけは疑う余地もなく、またホームズにとってはそれが全てだった。「君が友人で本当に良かった、裏切られる前に失恋できたのだから」と、ワトソンがいっそ清々しい気分で笑いかければ、「本来ならば、君が傷つく前に片を付けたかったのだがね。私一人では2週間もかかってしまった」とホームズは眦を下げる。それから、「やはり、探偵には助手が必要なようですな?」とホームズがワトソンに意味ありげな視線を送るので、「君ほどの探偵が最初からそこに気付かないとは、まったくもって不思議な話だった」とワトソンはため息交じりに答えた。

さてこれからどうしようか、と手持無沙汰にステッキを玩んだところで、「ところでワトソン、今夜の予定は?」と白々しくホームズが問いかけるので、「君のおかげで一人きりのディナーとなりそうだよ」とワトソンは予約を書いた名刺を振る。「それはいけないな、第一君はそこのワインがあまり好きではなかっただろう」と、たった一度行ったきりのレストランの名前を見て取ったホームズは眉をしかめた。ホームズの言う通り、今夜の店はワトソンではなくフレデリカ・マクレーン嬢の希望で訪れることに訪れることになっていたのだが、だからと言ってどうしようもない。口元を曲げたワトソンに構うこともなく、「何より既に予約時間まで数分もないと来ている。君にしては珍しいことだな」と、何でもない仕草でワトソンのポケットから懐中時計を取り出したホームズは呟く。「ああ、それも君とここで会話をしてしまったからだな」と、話の終点が見えないワトソンがかすかに苛立ちを滲ませれば、「なるほど、すべての原因は私にあるというわけか。であれば―お詫びに、今夜は私と食事するというのは?」と、時計の蓋を閉じながらホームズは言った。いつの間にか崩していたタイを結び直す探偵の表情からは期待も不安も伺えず、ワトソンは無意識にホームズの襟を直してやってから、「ちなみにどこへ」と問いかける。「シンプソンズに、8時の予定だ。下に馬車を待たせているから、あとは君の気分次第だな」と返すホームズは、ワトソンを急かすことも答えを強要することもない。ホームズはいつでもワトソンの意思を尊重する。だからこそワトソンは、ホームズの信頼に応えようとすることしかできないのだということを、ホームズは知っているのだろうか。だとすれば性質の悪い話だ、とありもしない幻想を噛み締めたワトソンは、「今回の雇い主は随分金払いが良かったようだな」とだけ告げて、階段に足を向ける。「ああ、だから今夜は好きなだけ飲むと良い」と、歩調を合わせたホームズがワトソンの肩を叩くので、「後悔しても知らないぞ」と、帽子をかぶりながらワトソンはホームズの掌に右手を重ねた。「ご婦人方はどうだか知らないが、私は今更君の酒癖になど驚きはしないよ」と何でもないような声でホームズは言い、ワトソンの手をそっと振り払って扉を開く。頭上のベルが鳴り、「さあ、ワトソン?」と、どこか楽しそうにホームズが手招くので、「エスコートは君に任せるよ」とワトソンは返した。

その晩、ワトソンが予告通り酔い潰れるまで飲んでも、ホームズは一言も苦言を呈さなかった。


(愛は迅速さを好む / ホームズとワトソン / 120408 )