02.Fit via vi.  

金曜日の夜だった。2日ほど前から体調を崩していたワトソンは、夕食もそこそこに寝室へと戻り、自分で調合した薬を飲んで床に就いていた。医者の不養生と言ってしまえばそれまでだが、そもそもワトソンの身体はもう何年も前から万全ではない。だましだまし使っていくためには、完全に壊れてしまう前にメンテナンスが必要なのだった。ホームズがいればまた話は違ったのだろうが、ワトソンの気難しい同居人は、そのさらに数日前からほとんど自室から出ない生活を送っている。食事も睡眠も忘れて何かに没頭するホームズの生活習慣に、すっかり慣れてしまったワトソンは特にホームズの行動を気に止めることもなく、時折聞こえるバイオリンの唸り声に苦笑する程度だった。ホームズのバイオリンの腕前は相当のものだったが、ワトソンに聞かせるつもりではない時はひどく風変りな音色を爪弾く。弓と弦を何の技巧もなく合わせるだけの、旋律とも呼べない奇妙な音は、それでも不思議と不愉快ではなかった。誰にとってもそうであるかはわからなかったが。妙に耳に残る音を反芻しながら息を吐いたワトソンは、夜更けに熱が上がるだろう、と漠然とした予測を浮かべながら眠りに落ちた。

そして深夜のことである。ドアを叩く音で目を覚ましたワトソンは、布団をはねのけようとして、自身の体がずいぶん重いことに気付いた。予想通りと言えば聞こえは良いが、触れた額は自分でもそれとわかるほど熱く、骨を折ってベッドから立ち上がったワトソンは、室内履きを履いてガウンを羽織りながら「どうした、ホームズ」と扉の外に声をかける。こんな時間に、控えめともいえない音でワトソンの部屋を訪れる人間など、一人しかいなかった。返事がないことを訝しがりつつ、緩慢な動きでワトソンが内開きのドアノブを引けば、ひどく重い何かが音もなくワトソンに凭れかかる。何かは問うまでもなくホームズで、体重を支えきれずに床へと倒れこんだワトソンは、苦労してホームズの下から這い出すと、まずは苦しげに息を吐くホームズの気道を確保した。浅く速い呼吸をしている。不整脈のようだった。廊下から差し込む僅かな蝋燭の炎だけを頼りに動脈が開いていないことを確認した後、不自然な鼓動に眉を潜めたワトソンは、ホームズの足元にベッドから引きずりおろした枕を押しこんで、「ホームズ」と耳元で呼びかける。荒い呼吸を繰り返すホームズの首筋に手を当ててそっと頚動脈洞を摩れば、少しずつホームズの呼吸は安定して行って、最終的に大きく息を吐くと、「ああ、すまないワトソン」と掠れた声でワトソンの腕に手をかけた。安堵すると同時に、大きく咳き込んだワトソンは、一旦ホームズから顔を背けて呼吸を落ち着かせてから、断定的に尋ねる。
「今夜は何を試したんだ」
「ジギタリスだ、中毒になるまでの正確な時間を計りたくてね」
大真面目に答えるホームズは、まだ震える指で手帳を取り出して幾つか数字を書きつけると、「これで十分だ」と満足そうに目を閉じた。ホームズが自身を実験台に使うことは、今ではもう珍しくもなくなっていたが、今日ばかりは途方に暮れて、ワトソンは額に掌を押し当てる。比喩ではなく眩暈がして、「悪いがホームズ、自分でベッドに戻れるか?私のベッドで構わない」とワトソンが告げれば、ホームズは途端に大きく目を見開いて、「…君もどこか悪いようだな」と驚いたように言った。ワトソンは頷くこともせずに、ワトソンの顔に手を伸ばそうとしたホームズから身を引いて、「私はソファで休ませてもらうから、君はここで大人しくしていろ」と断定的に言い放つ。実際頭痛がし始めていたし、これ以上ホームズと一緒にいては風邪を移してしまうかもしれない。ワトソンの部屋にいる以上、もうそれは避けられないのかもしれないが、おそらくパイプの煙と薬品の匂いが充満するホームズの部屋に置くよりはマシなはずだった。不整脈はそうたいしたものでもなかったし、枕元には水差しも乗っている。ワトソン自身が看病できないことは申し訳なかったが、仕方がないだろう。

ワトソンが自身のベッドから枕をひとつと毛布を1枚剥がしたところで、力なく立ち上がったホームズは「ここは君の寝室だろう」と部屋を出ようとしたが、「だが君は私の患者だ、今はもう」とワトソンは返した。すっかり冷たくなったホームズの腕を取ってベッドに押しやったワトソンは、「ともかく水を何杯か飲んで、まだ気分が悪いようなら遠慮なく吐くと良い。洗面器の場所は分かるだろう?明日の朝には良くなっているはずだ」と振るえそうになる声を押さえて言い含める。黙ってワトソンの言葉を聞いていたホームズは、しかし大人しく羽根布団を被ることもなく、「顔色が悪いぞ、ワトソン」となおもワトソンの顔に指を伸ばした。そのまま触れられるわけにもいかないワトソンは、頬に触れる前の指をそっと握って、「次からは私の体調が良い時に死にかけることだな」とどうにか引き攣った笑みを浮かべる。「ああ、そうしよう」と素直に頷いたホームズは、しばらく考えるようなそぶりをした後で、「私もそうだが、君も今は君の患者なんだろう?いっそ一緒に寝たらどうだ」と何でもない声でそれなりに大きなワトソンの寝台を指した。無表情にホームズの顔を見下ろしたワトソンは、関心を失ったようにホームズの指から手を離して、「いや、遠慮しておこう。君に蹴落とされるのは御免蒙るよ」と首を振る。そうか、と几帳面に返事をしたホームズが、今度こそシーツとシーツの間に潜りこむところを確認してから、ワトソンは「それでは、おやすみホームズ」と声を落として、薄明かりの燈る中廊下に踏み出した。
「おやすみ、ワトソン君。良い夢を」
追いかけるホームズの声を遮るように後ろ手で扉を閉めたワトソンは、居間までの短い距離を進みながら、2度ほど溜息を吐いた。熱のせいだけではなく熱くなった頬を摩りながら、横たわるホームズの姿を脳内から消そうとするワトソンは、たまにホームズをどうして良いかわからなくなる。一緒に寝たら、などと、ワトソンには冗談でも口にできはしないというのに、ホームズは躊躇いもなくそれを実行に移そうとするのだ。いっそ何もかもわかっているのではないか、と思うこともある。あれだけの洞察力を持つホームズが、ワトソンの取り繕ったような表情の差に気付かないはずがないとも。けれども、それはあまりにもひどい話だった。なるほど、ホームズはワトソンを友人としてこれ以上ないほど愛している。ワトソンからの惜しみない賞賛には、見合うだけの対価を与えてもくれた。しかし、それだけだった。ホームズにとって、ワトソンは友人であり、それ以上でもそれ以下でもあり得ないのだ。ワトソンにとってのホームズがそうではないのとは対照的に。ホームズの愛情とワトソンの感情とは比べようもないものだが、どちらも苦しいことに変わりはなかった。不要なはずの駆け引きを、毛の一筋ほどの精度で続けているようなものだ。ホームズが踏み出さないものを、ワトソンが踏み外すわけにはいかなかった。

暗い居間の隅まで歩を進めて、うまく動かない両腕でどうにかカウチソファに毛布と枕を広げたワトソンは、いつになく感傷的な気分で目を閉じる。暖炉に熾火が残る居間は十分暖かかったが、それでも歯列が合わなくて、ワトソンは毛布を頬まで引き上げた。燃えるように熱く、ただし体の芯は凍えるようである。それでもワトソンには、毒を呷ったホームズをソファで寝かせることはもちろん、不衛生なホームズの部屋で寝かせることも、自身がホームズの部屋で眠ることも、ホームズの隣で眠ることもできないのだった。穏やかな微睡が訪れるまで長い時間がかかったような気がしたが、あるいは一瞬だったのかもしれない。ともかくワトソンは夢も見ずに眠った。途中で、何か暖かな重みが足元にのしかかって、グラッドストン、と愛犬の名前を口にしたような気もしたが、それも定かではなかった。

翌朝、眩いばかりの差し込む朝日で目を覚ましたワトソンは、頭痛と発熱がほとんど収まっていることに安堵してから、カウチソファの足元に視線を送って、静かに絶句する。どうも熱い、と思ったワトソンの上には毛布が3枚と羽根布団が被せられ、おまけに毛布をかぶったホームズがワトソンの脛を枕に胡坐をかいていた。寝癖のついたホームズの髪を眺めて、ひとまずぐるりと居間を見渡せば、愛犬は新緑色の肘掛椅子に悠々と寝そべって、ワトソンをじっと見つめ返す。ワトソンが手招くと、グラッドストンは短い脚をいっぱいに伸ばして椅子から飛び降り、ぱたぱたと枕元まで駆けてきた。「お前の方がずっと聞き分けが良いな」と、ワトソンがグラッドストンの耳の後ろを掻きながら呟けば、「聞き捨てならないな、君は私に居間で寝てはいけない、とは言わなかったはずだぞ」と目を閉じたままホームズは言う。ホームズが目を覚ましていることは、瞼の舌で眼球が動いていたことから良くわかっていたワトソンは何の気負いもなく返す。
「患者はベッドで寝ろ、と命じはしたな」
「ああ、だが君が実行しないことを、私だけがするのは理不尽だ」
ホームズの言葉はどこまでも生真面目で、またその顔が昨晩のボイラーのごとく暗い表情とは別人のようだったので、ワトソンは納得はしないまでもどうにか折り合いをつけて、「せめてもう一枚布団をかけるべきだった」と言いながら自身の羽根布団を剥がしてホームズの上半身を覆った。くぐもった声で、「それも君が言えたことではないな」と不養生な探偵がわめくので、「ああ、次からは気を付けることにしよう」とワトソンは返した。ホームズがそれきり何の反応もしなくなったので、ワトソンは羽根布団越しに見えないキスを落としてから、「眠るのならベッドに行け」とホームズの肩を叩く。「朝食の後に」と答えるホームズの声に満足したワトソンは、「君が物を食べたくなるというのは良い兆候だ」と頷いて、ホームズの頭の下から足を引き抜いた。

ソファに埋もれたホームズが、「君の足は枕に向かないが、寝心地は悪くなかった」と感想を述べるので、「それはそれは、お気に召していただいて何よりだよ」とワトソンは肩を竦める。ホームズが、ワトソンの左足に一切負担を掛けなかったことはワトソンにもホームズにも当然のことだったので、議題に上ることもなかった。


(己の力で道を切り開け / ホームズとワトソン / 120403 )