01.Nihil sub sole novum.  

ある冬の日のことだった。昼食にはまだ間があるが、朝食は消化されてしまった頃である。窓の外では濃い霧雨が街中を覆っていたものの、小奇麗に整頓された居間は暖かく、気持ちが良かった。隅に置いた大きなカウチソファから不意に立ち上がったホームズは、暖炉の脇に腰かけたワトソンが広げる新聞を真正面から覗き込んで首を捻る。
「以前から思っていたが、君の推理力の無さには目を見張るものがあるな」
僅かに身じろいで膝の上の愛犬を無造作に撫でたワトソンは、同居人の傍若無人な振る舞いにはすっかり慣れていたし、ホームズの声音に嫌味や呆れが欠片も交じっていないこともわかっていたので、記事から顔を上げることもなく、「今更どうしたというんだ」とごくあっさり返した。そんなことはホームズに言われるまでもなく、ホームズの隣に立つワトソン自身が一番よく理解していた。けれども、ホームズがワトソンの顔を見つめることを止めないので、ワトソンは結局新聞を4つ折りにして足台に放ると、幾分の高揚を含んだ声で問いかける。
「そもそも、私が何かを推理していたなどと、どうして君にわかるんだ?」
予定調和に他ならないワトソンの声にすっかり気を良くしたホームズは、「簡単な推理だよ、ワトソン君。まず君が見ていたその記事だが、」と、ワトソンが目を通していたロンドン=クロニクル紙を指してひとしきり高説を述べ、ワトソンが掛け時計の針を気にした回数と窓の外に思考を飛ばした時間、ホームズを伺った仕草などを並べ上げて、「以上の点から、君がここ1カ月の間ロンドン郊外で起きている窃盗事件に思いを馳せていたことは明確だと言わざるを得ない」と締めくくった。幾分大仰に手を叩いたワトソンが、「その通りだよホームズ、君にはとてもかなわない」と両手を広げて称賛すれば、ホームズは真面目くさった双眸をゆるく細めて、独り言のように呟く。

「君はいつも私の欲しい言葉をくれる」
当然だろう、君のためにしていることだ。
声にすることもなく頷いたワトソンは、もちろん何の意味もなくできもしない推理で暇を潰していたわけではない。暇を持て余した探偵がコカインに逃げないように、人間観察を得意とするホームズに観察対象を与えてやったのだ。不器用にでもホームズの軌跡を辿ろうとするワトソンの様は、ホームズにとって滑稽に映っただろうが、それ以上にホームズの歪な虚栄心を満たすものでもあっただろう。何しろホームズは、この軍隊上がりで病み上がりのしがない町医者を、こどものような無邪気さでひどく好いていたからだ。知人が多い代わりに友人の少ない―むしろ欲しくなどない、と切り捨てる―ホームズが、唯一と言っていい程度に「友人」と冠するワトソンは、ホームズの友人であるためにそれなりの努力を重ねていた。ホームズの曖昧な自己顕示欲と尊大な自己解釈、他者への本質的な無関心さとあらゆる事件に対する偏執的とも言える熱意、午前3時のバイオリンと限度をはるかに超えたコカイン、そのすべてを許容して余りあるだけの惜しみない賛辞を、ワトソンはもう何年もホームズへと送り続けている。適度な尊敬と過度の信愛、それがホームズと深く付き合うために必要な要素だった。ホームズ自身はワトソンを変えがたい存在だと感じているようだったが、ワトソンからしてみればそんなものはホームズの錯覚である。ホームズが望みさえすれば、ワトソンなどよりずっと高尚な相手からも喜んで手を伸べられるだろう。ただし、それが一番の問題だった。
ホームズは望まないのだ。ホームズとの数年間を経て、ワトソンはホームズの心境を多少なりとも慮ることに成功した。ホームズは自ら何かを望むことがない。ワトソンとの同居ですら、その意思がない誰かの手によって偶然齎されたものであるし、ワトソンが現れなければホームズはこの居心地のいいベーカー街に居を構えることを容易く放棄したに違いない。欲しがりはしても、与えられるまで求めはしない。それは彼が依頼を受けるまで事件を解決しようとしない、と言う性質からもわかるだろう。もちろん目に入るだけの情報で謎を解いてしまうこともあるが、そんなものはホームズにとって推理でもなんでもなく、ただの事実である。
つまるところホームズは、常人にはどうしても計り知れない何らかの法則で動いており、ワトソンは法則にのっとった回答だけをいくつか見つけることができた、と言うことなのだろう。そしてまたそれは、ホームズにとっても快いものだったというだけだ。

やがて満足したように嘆息したホームズは、ワトソンの隣に腰かけると、「グラッドストンは少し太ったようだな」とワトソンの膝に目を落とすこともなく告げる。足台から新聞を拾い上げながら、そうだな、とワトソンが応えれば、ホームズは何度か意味もなく瞬いた後で、「君の足がいつもより強張っているから」と付け加えた。無言で左足に視線を向けたワトソンは、ようやくホームズの意図に気付いて、ああ、と軽い声を上げる。
「確かに重くなったかもしれない。少し痺れたよ。君の膝に移動させても?」
「もちろん構わない」
鷹揚に頷いたホームズはワトソンの膝からそっとグラッドストンを抱き上げて、緩慢な動きでホームズを見上げた犬の耳を2度ほど擦ってから、またそっと自身の膝に下ろした。ワトソンはと言えば、グラッドストンの重みなど何でもなかったが、雨の日に古傷が疼くことも確かで、何よりワトソン自身が慣れた痛みをホームズが気遣った、と言うことに改めて驚きを禁じ得ない。思えば、ホームズにとって不必要なことはすぐに忘れてしまうホームズが、ワトソンの遍歴を一字一句誤らずに暗唱できるということが、ワトソンにはいっそ最大の褒章だった。落ち着きのない様子でパイプに火をつけたホームズに向かい、いっそ何でもないような口調で「ホームズ」とワトソンが声を掛ければ、「なんだろう」とホームズは膝の上のグラッドストンに問いかける。その様子を軽く笑い飛ばしてから、「一日中炉の傍にいるだけでは芸がないだろう、今夜は観劇と行かないか」とワトソンが持ちかけると、「ロイヤル・オペラ・ハウスでファウストがかかっていたな」とホームズは即座に答えた。ホームズの視線は犬の背中から動かなかったが、ワトソンは声の調子からホームズがワトソンの申し出を好ましく思っていることを聞きとって、内心大きく笑み崩れる。何らかの理由がなければ文字通り一歩も部屋の外へ出ようとしないホームズを、連れ出すきっかけを作れることがある種ワトソンの誇りだった。ようやく何の憚りもなくホームズの横顔を見つめることに成功したワトソンが、「出かける前に君の髭は何とかした方がいいな」と率直な意見を述べれば、「では君が剃ったらいい、君の良いように」と、こんな時ばかりは真っ直ぐワトソンを見返してホームズは言う。ひどく強いホームズの視線を、「まさか」とどうにか笑い飛ばしたワトソンは、意味もなく一つの記事に目を奪われたようなふりをしてホームズをやり過ごそうとしたが、そんなことで誤魔化せるものでもない。
「ワトソン」
「わかっているだろう、私は君の髭を剃らないし、君にシャツを着せることもない。君が私の髭に触れず、私に君のシャツを脱がせようとしないからだ」
声を荒げることはせずに断言したワトソンを、「些末なことだ」とホームズは切り捨てたが、「君にとってはな」とこればかりはワトソンも譲らなかった。ずいぶん長いことグラッドストンの腹を撫でていたホームズが、「タイくらいは解いてもいい」と苦々しい口調で譲歩するので、「であれば、タイくらいは結んでやる」とワトソンはいっそ明るいと言っていい顔でホームズに笑いかける。

口を開こうとするホームズの声を遮るように、垂れ込める霧雨の向こうからひどく重い汽笛が鳴り響いたが、それと同時に昼食を告げる鐘も聞こえたので、ワトソンは先ほどよりずっと手際よくクロニクル紙を畳んでしまうと、「食事の前には手を洗うものだろう?」とこどもを宥めるような声でホームズに言った。その通りだ、と素直に頷いたホームズは、グラッドストンを暖炉から十分離れた丸椅子の上に置いてから寝室に向かう。ホームズにしかわからない秩序で創られた寝室は、ワトソンですら手の施しようのないものだったが、もちろんそんなことは何でもないことだった。真っ黒な目で主人を見上げるグラッドストンの顎を一撫でして自身も寝室へと足を運んだワトソンは、小さな洗面台で手と顔を洗いながら、見た目よりずっと柔らかいホームズの髭に触れる瞬間を夢想しつつ、その瞬間が訪れることなどないことを知っていた。

昼食のチキンは、素知らぬ顔でナイフを取ったホームズの好意で、ワトソンの皿の方が胸肉の割合が多かった。


(太陽の下に新しいものは何ひとつない / ホームズとワトソン / 120403 )