あ る か も し れ な い が 自 分 に は 手 に 入 ら な い と 思 っ て い る



横たわる彼の頬にそっと触れる。皺のよる白い顔は、でもとても安らかで、いつ目を覚ましてもおかしくないというのが医者の見解だった。50年前から一度も変わることの無い言葉が、だからまるで信憑性にかけることを知っている。けれども、久島は彼の目覚めを疑ったことは一度も無い。海で死ななかった彼が、こんな風に終わるはずは無い。だから久島は待ち続ける。幾度も身体を乗り換えて、いつ顔を合わせても彼が久島を久島と認識してくれるように。

彼の髪に白いものが混じり始めたのは20年前のことで、完全に白く変わったのは10年前のことだ。彼の眠る場所を、日本の病院から人工島へ、そしてアイランドへと移し変えたのも同じ遍歴だ。久島は彼を、手の届くところにおいておきたかった。できることなら、海に沈む電理研の、久島の自室にでも繋ぎとめておきたいくらいだ。けれども、久島の地位がそれを赦さない。久島の地位と財力があって初めて、彼の生存が確約されるというのに、それも不自由な話だ。けれども構わなかった。電理研からアイランドまで、V-TOLならば一飛びで辿り付ける。それくらいの職権乱用は赦されるだろう。何より、久島にとっては彼が職そのものだった。50年前も50年間も、久島が追い求める答えはおそらく、彼の中にあるのだから。

緩やかに呼吸し続ける彼を眺めながら、いっそ海水につけてやったらすぐさま意識を取り戻すのではないだろうか、と久島は考えている。久島はメタルを海として作り上げた。彼の意識が海中を漂っているとしたら、生半な手法で目を覚ますはずが無い。彼は海を愛していた。呼吸の必要もないような素振りで、止めなければいくらでも潜り続けていそうな彼を、海から引き上げる方法など海以外に考え付かなかった。久島が作り上げた仮想の海と、この世界に横たわるリアルの海を比較して、彼自身に理解して欲しかった。彼のいるべき世界は、こちらなのだ。しかし、意識の無い人間を、日に当てるならともかく海に放り込むなどと言う荒業を、現在の倫理観が赦すわけもない。あまり騒ぎ過ぎなければよかったな、と今になって久島は考えている。現代医療は確かに進歩した。けれども、そうしたものの一歩先を見据えて、彼と久島は地球律を研究していたのではなかったか。いつか本当に予断を赦さない事態に陥ったら、彼を攫って付け込んでやろうと久島は思う。しかしそれはもうしばらく先の話だ。そうあってほしいと願うだけでなく、そうあるための努力は欠かせない。

人工島ではなくアイランドにまで連れてきたのはそのためだ。この海は自然の海だった。人工島建設が島だけでなく海すら変えてしまったことを、久島は後悔せずとも無念には思っている。彼が目を覚ましたらもっとストレートに述べることだろう、「残念だ」と。今でもありありと思い出せる彼の口調に、思わず軽い笑みがこぼれる。義体の性能は進化続ける。感情に左右されることの無い身体など必要としていない。久島は非効率を嫌ってはいたが、久島にとってこの身体は彼が久島を認識するためのものだ。50年前との誤差は縮められるだけ縮めたい。だから、久島は久島が今まで換装した義体をすべて保存してある。機能が低下するたびに乗り換え続けてきたそれらが、しかし久島の生脳だけでは足りない情報を今も伝えてくれる。海洋学者として若くして大成したおかげで、久島の写真や映像は人より多く残されている。しかし立体に勝るものはない。さらには、久島本来の身体も、頭部だけではあるが残している。劣化することが無いよう合成樹脂で固めた、生脳を取り出した傷跡も封じないようなその顔は既に物質としか言いようが無いが、多くの情報を与えてくれる。冷静になれば狂気めいたその行動も、しかしもう50年続けてしまった。研究の一環といえば誰もが納得する、それだけの成果を久島は残していた。

久島の生身が、僅かも欠けることなくそこにあるのなら、久島も少しは躊躇っただろう。有機体を使用しても、それは久島自身を構成する物質ではないからだ。全身整形とアンチエイジングを施して、騙し騙し使っていくことも、彼と共に老いていくことも視野に入れたかもしれない。けれども、50年前のあの日、久島の左腕は完全に機能を止め、残された右腕からもいくつかパーツが失われた。だから欠片も躊躇うことなく乗り換えたのだ。少しでも変わってしまったなら、それ以上何も変わらないように。何より久島には左腕を失ったという事実を隠す必要があった。彼に落ち度は何もない。けれども、彼を引きとめたことで腕が弾けたことは事実だ。そこだけを取り替えてしまえば、何も言わなくても聡い彼はきっと何かに気付いてしまう。だから、全身を、捨てることにした。

彼の身体も変えてしまいたかったのは久島のエゴで、そして結局変えられなかったのは久島の我侭だ。彼の生身に、どうしても決別できなかった。目を覚ましたときに肉体がなくなっているのと老いているのと、どちらがマシだろうか。いくら考えても結論は出なかった。だから待つことにした。彼の選択肢を残しておくに越したことはない。そして、目覚めた彼が最初にながる光景が自然の海であれば良いと、久島はそれを願っている。彼がロスとした場所に今も彼がいるとしたら尚更だ。人工島のほうが物理的に近い。しかし、アイランドのほうがきっと、ずっと、惹きつけられる。

あと少し、と久島は思う。久島は待つことが出来る。義体の性能ならば、脳が萎縮しきるまで、生身よりは長く生きられるだろう。しかし彼は違う。刻一刻と、リミットは近づいている。彼より年下だった彼女も、先年この世界を去ってしまった。今頃彼と彼女は、どこかで語り合っているのだろうか。いや、と首を振る。きっと、彼女はそれを望まない。正規の手段で出会えなかった彼らは、彼の最期までそのままだ。彼にはそれを知る義務がある。目覚める義務がある。何しろ、彼は久島との約束をまだ果たしていないのだ。

「いくら液体窒素につけていても、劣化は免れないのだからな?」

歳相応の皺を重ねた彼の顔を覗き込み、悪戯っぽい笑みを浮かべて久島は囁いた。彼が目を覚ました後、もちろん地球律を求めることも重要だが、何より50年越しのアルコール飲料がどうなっているか、それを確かめるのが久島の最大の楽しみだった。相変わらず安らかな顔で呼吸し続ける彼の頬をもう一度撫でて、久島はゆるりと立ち上がった。気配を消して隣室に控えていた介助用アンドロイドに電通を送り、彼の傍らを譲る。24時間ここにいられるアンドロイドを、久島は少しばかり羨望の眼差しで見つめて、「何か?」とにこやかに尋ねられて、ようやくその場を後にする気になった。最後に、「また来る」と短く声をかけて、真白な部屋を抜けた。

広がるのは真っ青な水の連なりだ。海と、一言で表せるこの風景を、彼がその目に出来ないなどと、とても赦せることではない。この深い青は彼の瞳にこそ相応しい。早く目を覚ませ、と海に向けて呟いた。同じように、メタリアルに向けても。もう充分だろう。彼の体がそれをやめているのならば、久島も諦めた。けれど、彼は今も生き続けている。それが証明だった。彼は生きるのだ。生きる以上。目覚めなくてはならない。潜らなくてはならない。聞かなくてはならない。それはすでに、彼の理由だった。

「そうだろう、…波留」

零れ出た彼の名は、風に乗って海へと滑り落ちた。







彼が目を覚ます、二週間前のことだった。


( 風を起こしたのは久島さんだといい / 久島(と波留) / RD / 20090808 )