I t ' s   a   f i n e   V a l e n t i n e 's   D a y /  月 曜 日 の 逡 巡 と 休 憩 所 で の 邂 逅


がたん、と滑り落ちたコーヒーを取り出してプルタブを引きあげながら、マルコは先ほど見た光景について考えている。口を付けたコーヒーは微糖で、妙に泡立つ精神状態を少しばかり宥めてくれはするものの、根本的な解決にはとても至らない。120円の缶コーヒーにそこまで求めるのが無体なのだろう、と頭の端で冷静なマルコが呟くものの、マルコはほとんど上の空で、人気のない休憩所のベンチにどさりと腰を降ろす。この感情はなんだろうか。錨ではないし、苛立ち、というのも少し違う。憧憬には少し近いような気がしたが、嫉妬と言うほどのものでもない。焦燥、というのが一番しっくりくるような気がした。

2時間ほど遡って午後5時過ぎ、出勤前のエースを廊下で見かけたのはまあ、いつものことだった。エースがなぜか人事課のサッチに掴まっているのも、それなりに見慣れた光景ではある。どちらとも気安いマルコは、随分遠いふたりにすたすたと近寄りかけて、しかし不意に足を止める。エースが、斜めにかけた鞄から何やら小さな袋を出して、笑いながらサッチに渡したからだ。何だろう、と思ったマルコは、朝から何度もそんな光景を見たような気がして、次の瞬間あんぐりと口を開いた。いやまさか、そんな。しかしサッチが手にした光沢のある袋はマルコですら目にしたことがあるチョコレートショップのもので、だから当然中身はチョコレートなのだろう。何だかとてつもない衝撃を受けて、何が衝撃だったのか良く分からないマルコはとりあえず黙ってデスクに引き返した。ちらり、とデスク脇に目を落とせば、そこには職場の女性から、とまとめて渡されたいくつかの包みが置かれていて、マルコは詰めていた息を吐く。まさかエースが、とか、あれはどういう、だとか、そんなことをぐるぐる考えていたら「お疲れ様です」とごく普通の顔でエースが現れたので、動揺したマルコは「ああ」だの「うん」だの適当なことを言って、ろくにエースの顔も見ていない。それからすぐエースは倉庫に籠っているので、デスクで仕事をしているマルコにも身が入ることはなかった。かちかち、とたいして意味もない文章を打つためにPCのキーボードを叩きながら、ぼうっとするマルコの思考は結局エースとサッチと、チョコレートに行き着いて、かたん、と椅子を鳴らしたマルコはセキュリティカードを抜いて席を立った。

190mlのコーヒーが空になる頃にはマルコもだいぶ落ち着いて、別に、と思えるようになっている。別にエースがサッチにチョコレートを渡そうが、エースが誰かからチョコレートを受け取ろうが、マルコがとやかく言う問題ではない。そもそも何がそんなに気に障ったんだ?と思いながら、缶を捨てるために立ち上ったマルコは、不意に聞こえた足音に何気なく振り返る。と、そこには驚いたような顔をしたエースが鞄を持って立ちすくんでいて、マルコはマルコで顔には出さないものの軽く息を飲んだ。もうすっかり暗くなった空と、煌々と灯る蛍光灯と、窓に映る光とマルコとエースの上で、壁に掛けられた時計の分針がかちり、とひとつ時を刻む。

それを合図にしたように、「あの」とエースが口を開くので、マルコは「なんだよい」とびっくりするくらい普通の声で返して、するとエースは少しばかり目を反らして、「主任は、その、甘いのとか平気ですか」と尋ねた。は、と思ったマルコは、エースの鞄を僅かに凝視してしまって、それからひとつ咳払いをして、缶コーヒーの「微糖」がエースに見えるようにわざとらしく持ち上げてから、「別に嫌いじゃねえよい」と素っ気なく告げる。まさか、という思いと、たぶん、という予想が入り混じって、マルコの胸は年甲斐もなく高鳴っていた。おいおい、と心の中で突っ込みを入れるマルコの前で、エースは見ている方がおかしくなるくらいあからさまにほっとして、鞄から袋入りの包みを取り出す。その袋が、先ほど見たサッチのものとは少し違うので、おや?とマルコは首を傾げたが、「これ、良かったら」とエースが包みを差し出したので、「ご丁寧に」とわけのわからない返事をしてマルコはそれを丁重に受け取った。片手に収まりそうな包みをしばらく無言で見下ろしていると、「あー、あのですね、サボが、世話になってる人にはチョコをやるもんだと言うので、それで、」とエースがしどろもどろで説明を始めるので、マルコはなんだかとてつもなく安堵するとともに微妙にがっかりして、でもやっぱり嬉しかったので「そりゃあ、…ありがとよい」と何かいろいろ言おうとした口を閉じて礼を言う。「いえ」と短く切ったエースはどことなく不安そうで、マルコは場の空気を和らげるために「だからサッチにも渡してたのかよい」と少しだけ穏やかな声で尋ねた。が、返ってきたのが「あれは俺じゃなくてサボからなんですけどね」と苦笑交じりのエースの声だったので、マルコは虚をつかれて一瞬声を無くす。え?と言う表情を隠しもせずに、「なんであいつがサッチに」と呟いて、エースから、「最寄駅が同じになってから、たまに会うみたいで」と言う説明を受けても、マルコにはあまりよく意味が分からなった。手にしたチョコレートを眺めて、エースを眺めて、今は階下にいる筈のサッチを思って、「それで、サッチは何か言ってたかよい」と、とりあえず尋ねれば「驚いてましたけど、今度礼を言うって言ってました」と特に何も思うところはないらしいエースはきっちりと返事をする。

へえ、と頷いて、もう一度「へえ」と今度は口に出したマルコは、「こういうの流行ってんのかい」とチョコレートを掲げてエースを指して、するとエースは「いや」と言葉を濁しつつ、「サボが買いに行くぞって引っ張ってかれただけなんで良く分かりません」と目を反らしながら言った。「言ったってどこへ」と重ねたマルコに、エースはすぐ近くのデパートの名を上げて、「そんなところで買ったのかよい」とマルコは思わず声を上げてしまった。「俺もないな、とは思ったんですけど」と頬をかくエースの耳は赤い。しかしマルコにはエースを馬鹿にする気持などさらさらなく、「素直にすごいと思うよい」とさらりと言えば「それはサボに言ってやってください」と、ほんの少しだけ目元を緩めてエースは言った。それでもマルコは首を振って、「お前が俺にこれをくれようとした、って言うのが、もうすごいことだと俺は思う」と言って、言ってしまってからそれはどういう意味なんだよい、と自分自身に問いかけたのだが、エースにはそのままの意味で伝わったらしく、「…ありがとうございます…」と目を伏せてエースは返した。
やっぱり耳は赤かった。

で、よくよく話を聞けば、エースは今朝通学途中でマルコを見かけたらしく、その時にも手渡そうとしたらしいのだが電車の中は人ゴミだらけだし、電車を降りた後は改札で見失うし、先ほど出勤した時は人目があったし、というわけで、エースはずっとマルコとふたりきりになる時間を計っていたらしい。「帰りにくれたらよかったんじゃねえかい」と、エース用にココアを買いながらマルコが言えば、「なんか、…その、早い内の方がいいのかなあとか」と、おずおずと温かいココアを受け取りながら言うエースの言葉がどことなく照れ照れとしているので、「ああ、…そうかい」とマルコももじもじと返して、何だこの空気、と思いながらしばらくふたりでベンチに腰かけている。帰り際にチョコを買ってやったら、エースは何と言うだろうか、とマルコは思った。

そして、そこからまた2時間ほど経った業後のことである。エース以外から受け取ったチョコレートをひとまず机の引き出しに収めて、身軽なまま立ち上ったマルコが1階まで降りると、当然のようにエースが待っていてくれて、マルコは小走りでエースに近寄った。「遅くなったよい」と告げれば、「俺も今来たところですし」と携帯に目を落としていたエースは顔を上げて、笑って頭を振る。何か食べて帰るか、と尋ねれば、「今日は豚汁作ってあるんで帰ります」とすげなく断られて、マルコは何となく当てが外れたような気がしたのだが、しばらくの空白の後で「良かったら食べに来ますか」とエースが言うので、「俺の分もあるのかよい」と割と本気でマルコは言ってしまった。「寸胴で作ってるんで」と真面目な顔で答えるエースと、こんな風に当たり前に大学生の手料理を食べる日があるとは思わなかった自分自身の変化がおかしくて、マルコは少しばかり頬を緩める。マルコの交友関係はそれなりに広かったが、今まで付き合ってきた人間は年上が多かったので、エースのような人間との交流はマルコの幅を広げるような気がしている。エースはそれなりに料理が上手なので、豚汁も純粋に楽しみだった。

「じゃあ、早く帰りましょうか」と、エースはぱちんと携帯を閉じる。シンプルな黒の携帯につけられたストラップが、エースの弟(よりずっと遠い関係らしいのだが、エースもその弟も兄弟にしか見えないのでマルコはそれを弟、と認識している)と例のサボとお揃いだと言うことをマルコは知っていて、そしてそれはエースとサボが上京してからずっと同じものなのだと言うことも思い出して、意図せずにふうん、と鼻を鳴らした。バレンタインにチョコレートをもらったのだから、ホワイトデーに何かを返しても罰は当たらないだろう。食い物は散々奢っても委縮しなくなってきたので、次は何か形に残るものを送りたい。そしてそれは、どうせならそのストラップのようにいつもエースが身に着けられるものであればいい、というところまで考えて、マルコはなんとなく、それは違うような気がしたのだが、何が違うのかはよく分からなかった。「あ、電車来ましたよ」と言ってホームまでの長い階段を駆け降りるエースの後に続きながら、マルコはゆるりと唇を持ち上げる。こうして一緒に帰る日々が少しでも長く続けばいい、と願うマルコ自身に驚きながら、じゃあやっぱりサッチには勧誘を頑張ってもらわなくてはいけない、と、まだ内定中のエースの処遇に思いを馳せた。

(何も起こらないバレンタイン / 大学生エースと会社員マルコ / 現代パラレル / ONEPIECE )