ハ ロ ー 、 水 の 空 / 7 
 

7月最後の日曜日の午後、エースはマルコの家の椅子に腰を降ろしてガチガチに固まっていた。いや、別に特定の一部分の話ではなく。週の初めに偶然会ったマルコに誘われて、ふたりでガーデニング用品を買って帰ってきた、場所が問題である。いやもちろん、マルコの家の庭に(マンションの一階、少しばかり床が高くなっていて、前庭に降りる階段が付いている)グリーンカーテンを作る、というのだからマルコの家に来なければどうしようもないのだが、エースはできればこの部屋中を丁寧に撫で擦って回りたいという衝動を抑えるだけで精いっぱいである。我慢しきれずに、テーブルと椅子は少しだけ擦っておいた。目の前に置かれた麦茶に手を付けていいのか、これもしかしたらマルコさんも使ってるのかもしれないから千載一遇のチャンス間接の、でも客用だったら、いやどっちにしろ俺が飲んだ物をマルコさんが触るんだからいろんな意味で間接、とエースが真剣に悩んでいる間に、ちりん、と吹きこんだ風が開け放たれた玄関に掛けられた風鈴を揺らす。武骨な釣鐘型の鉄の風鈴は、でもとても住んだ音をしていた。まるでマルコさんみたいな、と溜息をつくエースは、それなりに現実的なのに夢を見ているようである。マルコと会ってからずっと。

さて、エースに麦茶を出してしまったマルコは、しばらくエースの前に座っていたのだが、やがて腰を上げてホームセンターの袋から今日買った物を取り出し始めた。がさがさと吐き出し窓の前でビニール袋を揺するマルコは、後頭部からうなじに掛けて薄く汗を掻いていて、うん舐めたいな、とごく真顔で頷いたエースも、マルコに並んで纏められた支柱の留め具を外す。「あとは俺一人でもできるよい」とマルコは言ったのだが、「や、でもふたりの方が楽だと思いますよ」とエースは軽く笑って(人当たりの良さには定評がある)、支柱を固定して窓枠から地面まで網を張り、その根元に30cmほどまで育った夕顔を植えた。ヘチマ、朝顔、キュウリ、とあれこれ並んだ中から、マルコがしばらく首を捻って選んだのが夕顔で、なぜか、とエースが尋ねれば「味噌汁の具が出来るだろい」といっそすがすがしいくらいの合理主義だった。マルコさんは味噌汁を作って飲む、と仮に脳内にメモしながら(あとでノートに写す)、最後に洗面器で水をかけて、「早く実がなるといいですね」とエースがマルコを振り返ると、「よい」とマルコは頷いて、エースにタオルをかけてくれた。「あ、りがとうございます」と言ったエースは、何やらいい匂いのする(ただの洗剤だ)タオルを汚さないようにそっと抑えて、「あの、手はどこで洗ったら良いですか?」と一応尋ねる。一応と言うのは、先ほど玄関からリビングまでやってくる間に微妙に開いた扉からだいたいの間取りを把握しているからである。マルコさんの寝室はたぶんリビング前の和室、と緩みそうになる頬を押さえてエースが待っていれば、「キッチンの隣の扉を開けると洗面所だから、そこで洗えよい」とマルコは言って、「足も洗いたけりゃ風呂場を使えよい」と爆弾発言を残してくれたのだが、さすがにそれは無理だった。マルコさんが毎日裸で入っている場所(服を着て入る趣味かもしれないが)に足を踏み入れたらたぶん血が昇るだけでは済まずになにか出る。上からも下からも。

すたすたと何気なさを装って洗面所の扉を開けたエースは、あれ、結局ここでもマルコさんは脱いでるんじゃねーの?と余計なことを考えそうになったが、大惨事になりそうだったのでぶんぶんと首を振って、押し上げ式の蛇口を上げて手を洗う。ハンドソープではなくだいぶ小さくなった石鹸が用意されていることに少し笑って、せっかくだから、というわけのわからない理由で丁寧に石鹸を付けて爪の先に詰まった泥を流して、きょろきょろと周りを眺めている間に、水音の向こうからマルコの声が聞こえたので、一旦蛇口を降ろして「はい!」とエースが返すと、「一息ついたら飯食いに行かねえかい」とマルコが言うので、エースは、はい喜んで!と思い切り元気よく返そうとしたのだが、その瞬間視界の端にあらぬものが映ってカッ!と目を見開いた。え、とエースは思う。ここはマルコの家の洗面所なので、洗面所にあるべきものがあってもなにひとつ可笑しいことはないのだが、でもこれがここにあるということはエースの心に99999HitのOverKillである。黙り込んでしまったエースをいぶかしんだように、「ポートガス?」とマルコが問いかける声がしたので、エースは無理に声を張り上げて「あ、すいません、今日は帰ります」と言った。「…もしかして用事があったのかよい?」とマルコの声が一段落低くなるので、「いやそうじゃなくて、今日までに使わないとダメな食材がたくさんあるんで、自炊しに帰ります」と苦しい言い訳をしたエースは、せめてもう少し茶でも飲んで行けよい、というマルコを振り切るように頭を下げてマルコの家を後にする。

マンションのエントランスを出て1,2分歩いたエースは、そこでぐしゃっと潰れて歩道の真ん中で膝を抱えてしまった。周囲に誰もいなかったのは不幸中の幸いだろう。それでも、車道から奇異の視線を向けられていることにも気付かず、エースはウワァァァァァァァ、と絞り出すような声にならない声を上げて頭を抱える。だって、マルコさんの家に。ひとりではどうしようもなくなったエースは、手さぐりで携帯を取り出して、着信履歴からローを呼び出すと、『はい』と無機質な声で答えたローに「ピンクの歯ブラシがあったんだけど」と唐突に告げた。『どこに』と返してくるのはさすがローと言ったところで、エースはぶつぶつと「マルコさんの家の洗面所に、青い歯ブラシと並んでピンクの歯ブラシがあったんだよ、お揃いの」と口に出してまたダメージを受けた。お揃いで、色違いの、ピンクの歯ブラシ。「どうしようロー俺今死にたいかも知れない」と医学部の友人(でも外科だ)に縋りついたエースに、『今その辺で死ぬと腐敗がひどいから良く場所を考えて死ねよ』とある意味的確なアドバイスをくれたローは、でもその後で『5時半にいつものところで良いか』と言ってくれるだけ優しいのかもしれない。うんよろしく、と半分涙交じりで頷いたエースは、アラームを17時にセットして、ぱちん、と携帯を閉じてからどうにか立ちあがって、駅までの道をよろよろ歩いて、二駅分の電車に乗って、大学前の道をふらふら歩いて、2階建てアパート2階の簡素な鍵を回してベッドにぱたりと倒れ込む。蝉の声しか聞こえない部屋の中で、俺も風鈴買おうかな、と思うエースはやっぱりマルコのことがすきだった。

17時半、いつもの居酒屋にやってきたエースは、「そりゃ彼女のだろ」と開口一番にキッドに切り捨てられて、力なくテーブルに突っ伏す。「独身男の家に歯ブラシが2本、しかも色違いで2本ときたら、まあそうだろうな」とキッドの家の事を思い出しながらローも追い打ちをかけるので、「しかもピンクの歯ブラシなんだよ…ピンクの…」と呟くエースはまるでうわ言を言っているようである。「お前ほんとに死ぬの」と、運ばれてきたチャーシューとキュウリとパプリカの炒めものに箸を伸ばしながらごく軽くキッドが尋ねるので、「いやさすがに死なねえけど、でも、ピンクの…ピンク…」と呻くエースの顔を覗きこめば、目も口も半開きでほとんど何も移していないので、「うわっキモッ」とローはエースの頭をごろりと半回転させた。せめて目を閉じていればいいのに。キュウリをしゃくしゃく噛み砕きながら、「ローにキモいって言われたらおしまいだって再三言ってるけどな、お前今ほんとに気持ち悪い」とキッドも言って、「いいじゃねえか、彼女がいようが何だろうが彼氏が出来るのは別の話かもしれねえし」と言うキッドの貞操観念には鼻から期待していないエースは、「でもピンクの歯ブラシなんだよ…」とまた泣きそうになっている。これは何を言っても無駄だな、と諦めたローとキッドは、とりあえず夜通し飲み明かすことを決めて、エースの分も酒を追加する。それから、「エースたん気持ち悪いでちゅね〜、ベッポたん慰めてあげてね」とローがベポにキスをしてからエースの上にとんとベポを乗せて、「ちょっと便所」と言って席を離れるので、キッドはしばらく悩んでから「お前は良いよな」と呟いて、ベポを手に取るとそっとローと同じ場所にキスをしてまたエースの上に戻した。すると、何も見えていないようだったエースが「…そっか、お前にとってベポって俺にとってのピンクの歯ブラシとおんなじか…」と、『同病相哀れむ』と言った目でキッドを見上げるので、「いや一緒にすんな」とキッドはエースを切り捨てたのだが、どう違うのかはキッドにもうまく説明できなかった。どちらも無機物だった。

(…エース…/原案:和泉さん/キモいエース×ダサいマルコ(とロキド)/現代パラレル/ONEPIECE)