ハ ロ ー 、 水 の 空 / 6 
 

7月の終わり、お盆近くまで帰省はしないつもりのエース(ちなみに実家は神戸である)は、休み前に出された課題を解くために大学図書館を訪れていた。学費と家賃以外をバイト代で賄っているため、あまり金がないエースのアパートにはキッドからもらった扇風機(サーキュレーターとか言うらしいが)しかないので、節電の影響はあってもそれなりにクーラーの効いた室内は快適である。日が差し込むせいで人が少ない窓際の二人掛けに陣取って、レポート用紙とテキストに向かい合うエースはわりと真面目な学生だった。それはおそらくあまりエースの成績に興味がない両親のおかげで、「結果は努力した分しか得られない」と言うのがエースの持論である。まあだから、マルコに対しても結果が出せるように誠心誠意努力したい、といつの間にか、もう2週間は顔を見ていない相手に意識を飛ばし、ふう、と肩を落として溜息をもらしたエースは、ふと通り過ぎた人物の影の形に見覚えがあって、結構な勢いで椅子ごと振り返った。がたん、と、絨毯が途切れた木の床に同じく木製の椅子の足が擦れた音は、静けさに満ちた館内に驚くほど響いて、その拍子に過ぎて行った人物もくるりと振り返ってエースを認めると、「ああ、ポートガスじゃねえかい」とごく普通の声で言う。それからつかつかとエースの椅子までやって来ると、「久しぶりだよい」とごく普通にエースの前の椅子を引いてすとんと腰を降ろした。あんまり突然だったので、「あ、…はい、ども」と軽く頭を下げたエースの前で、マルコはごく僅かに唇を持ち上げて、「休みの日も勉強かよい、偉いな」とまるで子供にするようにエースの頭をぐしゃ、と撫でたので、エースはぱくぱくと口を開いて、でも何も言わずにぱたん、とテキストを閉じる。この間のTシャツはジップロックに入れて保存しているが、いくらなんでも髪を洗わないわけにはいかない。マルコの手が離れてからようやく、「マルコさんは、何を」とエースが尋ねれば、マルコは小脇に抱えていた本を示して、「市立図書館より近いからよい」と言った。そう言えば思い出すまでもなく食堂でもいつも本を読んでいた、と思ったエースが、「読書が好きなんですね」と告げれば、「それくらいしか趣味がねえんだよい」と文庫本に目を落としてその表紙をそっとなぞるので、エースは(あの本次は絶対俺が借りる)とひそかに決意する。題名は、レポート用紙の端にさくっとメモしておいた。

そうして一息ついたところで、ふい、と壁の大時計に目を向けたマルコが、「お前飯の予定はあるかよい」と11時半を過ぎた時刻を差して尋ねるので、「食堂が閉まってるんで、一度家に帰ろうかと」とエースが答えれば、「じゃあ俺と食いに行かねえかい」とマルコは言う。ぱちり、とエースは瞬きをして、とりあえず思い切り自分の頬をつねった。痛かった。いやいや、と首を振ったエースは、次に自分の頬を思い切り殴ろうとして、「何してんだよい」と呆気にとられたような声で言うマルコに「俺寝てるんじゃねえかなと思いまして、」と答えて、「…暑いから頭でもやられたのかよい」という心配そうなマルコの声に、ようやくこれが現実であることを知る。「飯はやめといた方がいいかい」と呟いたマルコに、「いえちょっと眠かっただけで、大丈夫です、行きたいです飯、奢ります」と、テキストをがさがさと勢い良く閉じながらエースは返した。「いらねえよい」とけだるそうに手を振ったマルコは、エースより先に席を立って本を借りにカウンターへと歩いて行く。その背中をまじまじと眺めてから、エースはぱちん、と携帯を開いて、『後で電話する』と一言だけメールを打った。ローとキッドに。

何が食いたい、と尋ねられて、反射的に「なんでもいいです」と返したエースは、マルコがうん、と首を捻るのを見て、もしかしなくても何か提案した方がよかったんだろうか、とデイパックをぎゅうと握りしめたのだが、「じゃあ、あそこで」とマルコが差す黄色をバックに赤い字が躍るように描かれたファミレスを見て、ふう、と息を吐いた。それくらいならエースの薄っぺらい財布でも足りるだろう。からん、と鈴を鳴らして店に入ったマルコは、笑顔でで現れたウェイトレスに「ふたり」と指を出して、さっさと禁煙席に歩いて行く。たしか煙草を吸う筈なんだけどなあ、と軽く首を傾げたエースが、観葉植物の隣に腰を降ろしながら「喫煙じゃなくて良いんですか」と尋ねれば、マルコはメニューに目を落としながら「ポートガスは吸わねえだろい」と何でもないように告げる。瞬間、心臓を掴まれたような気がしてぎゅう、と胸を抑えたエースは、慌ててもう一冊のメニューを開いて、目に付いたミックスランチに決める。美味い物を食べるのは好きだが、食べる物に文句を言わないのもエースだった。やがて顔を上げたマルコが、「決まったかよい」とエースを伺うので、「はい」とエースは頷いてミックスランチを指す。ん、と頷いたマルコは、手元のベルではなく手を上げてウェイトレスを呼んで、「ミックスランチと、おろしとんかつ定食と、ミニチョコサンデーと、」とそこまで言ってから、「お前も何かデザートを頼めよい」とエースに向き直るので、エエッ?!とエースは思ったのだが、マルコがエースを待っているので、メニューの裏を眺めて、「あ、じゃあキャラメルミルクパンケーキで…」と律儀にエースは言った。「ミックスランチがおひとつ、おろしとんかつ定食がおひとつ、ミニチョコサンデーがおひとつ、キャラメルミルクパンケーキがおひとつ、ご注文は以上でよろしいですか?…では、あちらにお冷とおしぼりがございますのでご自由にお使いください」的なことをてきぱきと言って去って行ったウェイトレスはたぶん同校の学生だと思う。微妙に見覚えがある。水を汲みに行こうとするマルコを制して、氷を2つずつ浮かべたグラスを手に帰ってきたエースは、「マルコさん、…サンデーとかお好きですか」と微妙に躊躇いながら質問したのだが、「甘い物はわりと好きだよい」と水を飲みながら事もなげにマルコが答えるので、エースはいろいろと一杯一杯だった。ああ、そうなんだ。プリンだけじゃないんだ。サンデーも、いや甘い物がって言うなら、和菓子なんかも行けるんだろうか、去年先輩にちょっと教わったけど、くそっ小豆の煮方しか覚えてねーよいや手造りはダメか怪しいか、じゃあデパ地下とか!いや気を遣わせるかもしれないし、なら練習して、とエースがわりと遠くまで入っている間に、マルコはさっさと布袋(としか言いようのない袋である。エコバックかもしれない)から借りたばかりの文庫本を取り出して広げて文字に目を落としている。悶々とするエースはそれでもマルコを見るともなしに眺めて、睫毛が少ないけど長い、と、どうでも良い観察をしていた。

やがて運ばれてきたおろしとんかつ定食をきれいな箸使いで食べるマルコをおかずに、エースもミックスランチをたいらげて、そして問題のミニチョコサンデーとキャラメルミルクパンケーキである。かたん、と置かれた小ぶりのグラスを、マルコはひどく熱心に眺めて、ながいパフェ用のスプーンでまずはクリームを僅かにすくって舐めて、それからぐ、とグラスの底までスプーンを突き立ててチョコレートを味わっている。いかにも楽しそうなその姿に、エースはひたすら心のシャッターを切ったのだが、「食わねえのかよい」というマルコのもっともな言葉に、溶けかけたバニラアイスが載るパンケーキにちらりと視線を落とした。傍らにはメープルシロップの入った小ぶりのピッチャー(でも並々と注がれている)が添えられていて、好きに掛けた良いらしい。たぶんキッドなら自分の好きな量だけ書けるだろうし、ローならむしろ掛けずに食べるのだろうが、エースは貧乏性なので躊躇うことなくざぶん、と全てのメープルシロップをパンケーキに掛けた。バニラアイスを緩く溶かして、ふわふわとしたパンケーキの縁を滑り落ちたメープルシロップは、やはり大分多かったようである。まあでも俺も甘いの平気だしな、とフォークを刺そうとしたところで、意識していなかったマルコが唐突に「いいなそれ、一口くれよい」と三段重ねのパンケーキの端をスプーンで器用に三角に切り取って口に運ぶので、エースはかたん、とフォークを取り落とした。「ん、うまいよい」と言うマルコに、「…そ、ですか、」と辛うじて答えたものの、エースはその、三角形に切り取られたパンケーキにうまく目合わせることが出来ない。そもそも良いと言っていない。食べたければ食べてよいのだが、心の準備が出来ていない。もう食べられてしまった。せめて別の、フォークを使ってくれたらよかったのだが、マルコは何食わぬ顔でまた同じスプーンでミニチョコサンデーに戻っている。だからなにかといえば、だ、…唾液が。子の両側は一番あとまでとっておこう、と気を取り直してフォークも取り直したエースの前に、何を思ったのかマルコが「ああ、お前も食うかい」とサンデーのグラスを差し出すので、エースは今度こそ真っ赤になってぶんぶんと首をふる。できない、そんなことはできない。どうしてもではないがどうしてもできない。無理だ。しあわせが飽和するどころか溢れて死んでしまう。いつまでたっても顔色が元に戻らないエースをたいして不審がる事もなく、「フルーツの方にしときゃよかったかよい」とマルコが呟くので、そう言う意味じゃないです、とエースは小さくパンケーキを切り取りながら項垂れた。エースがチキンなだけだった。バニラアイスは甘く、キャラメルとメープルシロップはほろ苦かった。

結局奢られてしまった(伝票は掴んだのだが、財布を出そうとしている間に金を払われてしまった)エースは、「次は俺が出しますから」とわりと真剣に告げたのだが、「別にいいよい」と本当に何の感情もなくマルコが首を振るので、少しばかり肩を落とす。何の不思議もなくマルコに奢れるようになるには就職してからなのか、でもそれから俺とマルコが飯を食いに行く機会なんてあるのか、このチャンスは千載一遇だったんじゃないのか、このまま終わっていいのか?とエースが悶々と考え続けている内に、エースとマルコは駅まで着いてしまって、「お前は電車には乗らねえだろい」とマルコに先手を打たれてしまったらそれでお終いだった。またしばらく会えないんだろうな、とじっとマルコを眺めていたエースに、「ああそうだ、」とマルコが思い出したように携帯を差し出すので、何かと思えば、「お前週末は開いてるかよい」とマルコは言った。大きく目を見開いて、「全力で暇です」とエースは答えた。ちなみに終日、バイトが入っていた。

さて、こちらはクーラーがガンガンに効いたローの自宅である。当たり前のようにベッドに寝転んで楽譜を目で追っているキッドの隣で、けたたましい音を立てて携帯が鳴るので、隣でベポの浴衣を縫っていた(ちなみに縫合糸で)ローがぱちんと開いて誰かも確認せずに「はい」と応じれば、『どうもエースだけど、この間プール付き合ってくれてサンキュ楽しかったマルコさんにも話す今日は話せなかったけど、あっそうだよさっきメールしたけど、今日マルコさんと偶然!図書館で!あって、デニーズで飯奢ってもらったんだよしかもチョコサンデーとかパンケーキとか食ったんだあのひとすげーかわいいの!かわいいの!な、っ、それで、日曜俺に、いや俺と、グリーンカーテン作るんだって、家の庭に、なあ、すげーと思わねえ家行けるの俺、何か持ってった方がいいかな?!あっ、つかお前ローか、キッド出してキッド、ローん家行く時何か持ってくか聞くから!』とそこまで聞いたところで、ローはぷつっと終話ボタンを押してキッドの横に元通り携帯を放り投げた。「なんだって」と楽譜から目を上げずにキッドが尋ねるので、「病気」とローが答えれば、「お前直してやれよ」と投げやりにキッドは言う。また鳴りだした携帯を放置して、「無茶言うな」とローが小さな浴衣に視線を戻せば、いつの間にかキッドがベポごと枕元に移動させているので、「おい、花火までに間に合わせてえんだよ俺は」とローは少しばかりいらついたのだが、「俺が縫ってやるよ」と妙に手先の器用なキッドが言うので、仕方なく付き合ってやることにする。仰向けに寝転んだキッドのタンクトップの下から手を滑り込ませれば、クーラーで冷えた掌にキッドの体温が心地良かった。鳴りやまない着信音には、蝉の声と同じくらいもう意識が向かなかった。

(さあガンガン行こう/原案:和泉さん/キモいエース×ダサいマルコ(とロキド)/現代パラレル/ONEPIECE)