ハ ロ ー 、 水 の 空 / 1 
 

4月、エースにとって2度目の始業式(形式的なものだが)の2日後だった。昼休みに、折り目のついたシラバスに目を落としながら購買を歩いていたエースがばさばさと紙が落ちる音で顔を上げれば、長机の上から今まさにエースが買おうとした教科書が滑り落ちるところである。うっわ、と、思わず駆け寄って半分ほどは受け止めたものの、4,5冊は床に落ちて、机の向こう側で事務員(恐らく)が本を拾い上げようとしているので、此方側に富んだ分をエースが拾い上げて机に戻す。がさごそと屈んでいた事務員が立ち上ったところで、「大丈夫ですか」と声をかければ、「ああ、ありがとうよい」とずり落ちた眼鏡を直した事務員がにこっと笑って、その顔があんまり無邪気で無防備なのでエースは思わず、キュンとした。してから、エースがあれっ?と首を傾げていると、黒ぶち(で四角くて武骨な)眼鏡に(前と後ろで柄が違う茶色の)ベストを着て両腕に(肘までの)アームカバーを付けた(妙な髪形をした)金髪の事務員が「これ、買うのかよい」と拾い上げた教科書を示すので、「あ、一冊お願いします」とエースが手を出せば、「汚れてはいねえと思うよい」と言いながら事務員は教科書を手渡して、その瞬間微妙に指先が触れあってエースはまたトクン、としたのたが、よく意味がわからなかったので他の教科書と参考書を手にして、会計を済ませて購買を後にする。とりあえず、手と顔はいつまでも熱かった。

放課後、教科書と参考書を抱えてひとまず茶道部の部室までやってきたエースは、扉を背にして(4年生が卒業して3人しかいない)茶道部員のローとキッドが座り込んでいるので、「中入んねえの?」と声をかける。白くまのぬいぐるみ(ベポ)を抱いたローが顔を上げて、「鍵がねえから入れねえ」と面倒くさそうに言って、「もうやめまちゅかね〜、ねえベポたん?」とこれはひどく甘い声でぬいぐるみに話しかけているので、エースはとりあえずローから目を反らした。「部長って鍵持ってなかったか」と一応部長のキッドに視線を移したエースに、「部員が3人しかいねえから、部じゃなくて同好会格下げされて部室も共用になっちまったんだよ」と、死んだ魚のような目でキッドは答える。「え、じゃあ毎回鍵借りに行かねえといけねえのか」とエースが尋ねれば、キッドは頷いて、「もうどっか別の部に入るか?軽音とか人多くて楽そうだろ」と欠伸交じりに言うので、「今さら入っても、ってかお前もともとバンド組んでんじゃん」とエースはローとキッドの横に教科書をどさりと置いた。ばき、と肩を鳴らして、「俺事務室で鍵借りてくるから、それ見てて」と、ローは放ってキッドに頼んで、足で引き寄せようとするローの左足を軽く蹴ってから、「それで2万すんだから止めろよ」と言い置いたエースは、部室塔から足早に徒歩3分の事務棟を目指す。正直あんな鍵くらいローが簡単に開けてくれそうな気もしたが、ローにその気がないのならダメだろう。エースとしても、別に学校で罪を犯したいわけではないし、と言ったことをつらつら考えながら学生課までやってきて、「すいません、部室の鍵を、」と言いかけたエースは、目の前に立った事務員が先ほどの金髪眼鏡だったので、思わずぽかんと口を開けてまじまじと男を眺めてしまった。「何部だよい」と尋ねる男の声に促されて、「えっと、茶道部…同好会です」とエースが答えれば、男はカウンターの袖から小さなプリントとボールペンを出して、「所属と活動時間と理由と、名前と、書いて提出しろよい」とエースに差し出す。はい、と頷いてボールペンを受け取ったエースが、なぜか震える手で紙を書いて男に返せば、眼鏡の奥ですう、と細くなった男の目から目が離せなくなって、エースは少し焦った。その間に、「お前これ、間違ってねえかい」と男がとんとん、と紙をボールペンで指して、慌てて紙を取り返せば活動時間が23時までになっている。うん、茶道部がこんな時間まで大学にいる理由って全くないですよね、と思いつつ、19時に訂正して紙を渡せば、男は奥に引っ込んで、まもなく鍵を手に帰ってきた。「ここは20時までだから、それ以後まで残ることがあればそのポストに鍵を入れて帰れよい」と男が差す指の先ではなく、胸元の名札に全神経を注いだエース(小さな字なのだ、それはもう)は、そこから『マルコ』と言う3文字を読み取ったところで、「はい、わかりました」と軽く会釈して、事務員の-マルコの-体温ですこしばかり温もった鍵をちゃり、と受け取った。それきり、特に顔は上げずにカウンターの後ろの椅子を引いて仕事に戻るマルコの姿をなんとなく舐めるように眺めてしまったエースは、マルコが電話を取ったところではっ、と我に帰って、部室塔までまた走って帰った。

下手したら帰っているんじゃないだろうか、と思ったローとキッドはまだ部室の前にいて、ただその姿勢は壁に背を向けて横になるキッド(エースの教科書は枕元に積んでいる)と、キッドの太股に頭を置いてぬいぐるみを抱くローと言う構図だったので、「お前ら本当に残念だよなあ」と呟いたエースは、ふたりをどかして教科書を抱えて鍵を開けた。1か月ほど無人だった畳の部屋は埃臭く、エースは靴を脱いで窓を開けに行ったのだが、ローとキッドは何も気にせずに押入れから座布団を引っ張り出して寝転がっている。「何しに来たんだよ」と今さらなことを言ってから、エースは手にした鍵を摩って、今はもうエースの体温しか感じないことになんとなく肩を落とした。それから、ひとまず教科書を分けてしまおう、とローの足元に座り込んだエースは、ぱらぱらとめくって行った教科書の中で、先ほどマルコに手渡された物の、表紙から3枚目の紙が軽く折れていることに気付く。うわ、と思ったエースがそおっと手を伸ばしてその皺を撫でていると、いつの間にか身体を起こしたローが、「…お前、何気持ち悪い顔してんの?」とあんまりと言えばあんまりなことを言った。ローの隣で片肘を突いたキッドが、「ローにキモいって言われたらおしまいだぞお前」とひどく気の毒そうな顔でエースを眺めているので、「いやそんな顔してねーよ」とエースは頬に手を当てて、そこでようやくひどくにやけた顔をしていることに気付く。「うっわ、なにこれ」と、ぺたぺた顔を擦るエースを得体の知れない物を見るような目で眺めたローは、「エースたん気持ち悪いでちゅねえ、ベッポたん〜」と猫なで声でぬいぐるみに話しかけて頬ずりしている。そんなローを横目で眺めながら、「お前も十分気持ち悪いんだけどな…」と 呟いたキッドの言葉は、「え、俺どうしたの?何これ?」と焦っているエースにも、「ベッポたんは可愛いでちゅねえ、ね〜?」とぬいぐるみにちゅっちゅっと唇を落としているローにも届くことなく宙に浮いていた。開け放した窓から桜が舞い散る午後のことだった。

(なんだこれ、続く!/ 原案:和泉さん/キモいエース×ダサいマルコ(とロキド)/現代パラレル/ONEPIECE)