今 日 の 月 は い つ も よ り ま ぶ し い な
 

5月も後半にさしかかった土曜日、程良く温もった(窓を開け放しているせいで少しばかり涼しい空気が流れ込んでくるので心地よい)ベッドで惰眠をむさぼっていたマルコは、耳元で聞こえるがさがさした音に気付いてすこしばかり重い瞼を開いた。うつぶせの状態から顔を上げれば、ベッドの真横で脱ぎ散らかした服を身につけているエースと目があったので、「おはよい」と、とりあえずマルコは手を上げておく。「おはよう、夜だけどな」と皺になったTシャツを被りながら答えたエースをしばらくぼうっと眺めて、くぁあと欠伸を落としてから、「どこかに行くのかい」とマルコが尋ねれば、財布と携帯だけ拾い上げるエースが「ん、どっか行ってくる」と答えにならない答えを返すので、マルコはゆるりと首を捻った。「どこへ?」と重ねてみたが、エースは曖昧に笑って「だからどこか」と言うばかりである。そうこうしているうちにポケットに財布と携帯をねじ込んだエースが寝室を出て行こうとするので、マルコはなんとなく焦って引き留めようと身体を起こしたのだが、振り返ったエースが「お前も行くか?」と何でもない顔で言うので、「…行くよい」と、こちらは枕元にあったシャツを引き寄せてボタンを留めて、マルコはエースの後に続いた。出がけにちらりと居間の掛け時計を振り返れば、20時過ぎである。

サンダルを突っかけて、がちゃん、と鍵を回すエースの手元を眺めて、どことなく楽しそうに歩き出すエースの隣を歩く。古いアパートの鉄階段は面白いくらい軋んで、成人男性二人で降りるのは危ないんじゃないか、とマルコはちらりと思ったのだが、18段の階段はあっと言う間に終わって、夕闇に沈む木の陰でエースが軽く伸びをした。「ちょっと歩くけど、明日も休みだし、いいよな」と否定されることなど微塵も考えない声でエースがマルコに声をかけるので、「別に構わねえが、目的もなく歩くのかよい」とマルコが言うと、「たまにはいいだろ」と返すエースが木戸を開いて待っている。小走りで木戸を抜けて、錆びついた掛けがねをふたりでおろしてから、エースは淀みなく左へと歩いて行く。「線路沿いじゃつまんねーし、迷うのもアレだから大通りをずっと行こう」と、エースが指差すのは果てもなく続くような薄暗い道だった。街頭とテールランプと、月明かり。「この道の先に何があるか知ってるか?」と問いかけられたマルコは、少しばかり頭を捻って、「古本屋があったと思うが、その先は知らねえな」と正直に答える。徒歩10分の古本屋にはエースと行ったので、軽く頷いたエースが「俺もそれは知ってる」と返すことに驚きはなく、「まあだったらなおさら好都合だよな」と、やけに長い赤信号が青に変わるまで律儀に待つエースが、何を考えているのかは分からないままだだった。手持無沙汰なマルコが足元へと視線を落とせば、落ちて踏みにじられたサツキの花がやけに赤く見えて、慌てて目を反らす。と、エースが淀みなく横断歩道へと踏み出すので、マルコはその堂々とした背中を目印に、足を動かした。エースとマルコの住むアパートは、駅から続く坂道のちょうど頂点に位置しているので、どこに行くにしてもまずは下り坂が続く。エースは一度自転車で駆け降りて死ぬ思いをした、と言っていたが、マルコはあまりアパート周辺を歩いていないので(駅向こうのスーパーと、先述の古本屋と、小さな図書館がせいぜいである)エースの恐怖はわからないままである。黒髪に黒服に黒いジーンズのエースは揺るぎないのにひどく遠くて、マルコは一瞬その手を掴もうかとも思ったのだが、結局手を伸ばすことも言いだすこともできずに、古本屋を通り過ぎてしまった。一気に暗くなった道路はそれでも歩道が整備されて、1m程距離を開けて進むエースとマルコの影を脈々と車が追い越していく。何をしていいか分からず、エースの背ばかり眺めているマルコとは裏腹に、エースはあちこちに目を向けて、時折見える横顔はやはり楽しそうである。「何か言いものでも見えるかよい」とわりと意を決して話しかけたマルコに、「ん?」と振り返ったエースが足を止めて、「花とか木とか家とか月とか、道とか」と生真面目な顔で何でもないものを一つ一つ指し示すので、「そうかい」と大真面目な顔でマルコも頷いた。「うん」と大きく頷き返したエースがくるりと前に向き直ってまた歩き出すので、マルコは僅かばかり距離を詰めて、エースの左に並ぶ。「どうしたよ」と、ほとんど変わらない目線でエースが言うのを、「俺もお前の視界に入ろうかと思っただけだよい」と受け流したら、一瞬黙り込んだエースが、くっ、と小さく噴き出すので、ああ間違えなかったんだな、とマルコは内心胸を撫で下ろした。エースは今のところマルコが何を言ってもそう機嫌を損ねたりしないが、エースとマルコは他人なので、何が気に触るかは分からないのである。「お前はまあいいものだけど、目に見えるだけじゃなくて触れるのがもっといいよな」と、笑いを含んだエースが言いながらマルコの腕を取るので、びくりと震わせかけた身体をどうにか宥めて、「熱くねえのかい」と、ひどく高いエースの体温を思いながらマルコが尋ねれば、「まあ、暑いな」とあっさり頷いて、でもエースの手はマルコから離れていかなかった。そうしている間に見える景色はまたゆるりと代わって、鬱蒼と木々が立ち並んでいると思えば寺である。マルコはそれなりに寺社仏閣がすきなので、立ち並ぶ石仏にも卒塔婆にもたいして心を揺らしたりしないのだが、隣のエースが僅かに早足で通り抜けた上に視線も送らなかったので、「ああいうの、好きじゃねえのかい」と2つ目の信号で尋ねれば、「夜見て気持ちの良いものでもねえよな」とエースからはあいまいな肯定が返ってくるので、少し意外だった。意外ついでに、「いつだったか、ホラーゲームの話をしてなかったかよい」と掘り下げてみたら、「ゲームと現実は別だろ」と酷く健全に答えられて、なんだか微笑ましくなったマルコは、中途半端に掴まれていた腕をそっと振り払って、右手でエースの左手を握り直す。温かくて、今は少し湿った掌は、マルコより僅かに厚かった。

余り会話もなく、どこかに寄るでもなくただ歩き続けて、それで結局どこまで行ったら終わるのだろう、と思うマルコが、夜が終わらない限りどこまででも付き合う決心をした辺りで、「お」とエースが短く声を上げるので、エースに手を引かれるままぼんやり空を眺めていたマルコが目の前を見れば、わりと大きな橋がかかっている。ぼやける視界で(眼鏡がないとぶれるのだ、見えはするが)道路標識を探すと、ここで市が変わるらしい。なるほど境界線か、とそのまま渡りかけたマルコの、右手を強く引いたエースは、それまでずっと真っ直ぐ進んでいた道を右に折れて、何をするのかと思えば「ちょっと降りてみようぜ」と、繋いだままの左手で河川敷につけられた石段を差した。「夜だぞ」と、一応忠告をしてみるものの、「ちょっと、降りるだけ」と、エースがさっくり手近な柵を乗り越えてしまったので、仕方なくと言うほど嫌々でもなく、マルコも足を踏み入れる。幅の狭い石段を一段ずつ噛み締めるように踏んでいたエースが、最後の3段をまとめて飛び降りたので、マルコは大きくつんのめったのだが、対して慌てる様子もなく繋いだ左手だけでエースがマルコを支えることもわかっていたので、何も言わなかった。しばらく雨のなかった川の水量はそれほど多くもなく、さらさらと心地よい音を上げて流れつつ、時折水底の石に当たって弾ける水しぶきが酷く遠い街の明かりと月明かりを受けて煌めいている。「あそこ」とエースが目線だけで指し示す方向に目を向けると、ちょうどよく並んだ石が対岸まで続いていて、「渡るかい」とマルコが首を捻れば、「滑らないで付いて来いよ」とエースは素手に歩き出している。滑っても支えてくれるんだろうに、と口には出さないマルコは、こんなときでもエースが手を離さないことくらいは知っていた。とん、とん、とエースの後を飛びながら、すぐそこに橋があるのに何をしているんだろうか、とマルコは思ったが、時折振り返るエースの目がひどく優しいので、やはりこれも口には出さずにいる。そう広くもない川渡りはあっという間に終わって、結局滑りも転びもしなかったマルコは、またエースの隣に並んだ。エースはしばらく河川敷に群生している紫花大根を眺めているようだったが、やがてマルコの視線に気づいたように顔を上げて、「そろそろ座るか」と、石段を指す。促されるまま腰を降ろしたマルコに、「ちょっと待ってろよ」と声を駆けたエースが、マルコの手を離して石段を駆けのぼるので、返事もしなかったマルコは内心驚いたのだけれど、2分もしないうちに帰ってきたエースが、「はい」とプルトップを開けながら缶コーヒーを差し出すので、「ありがとよい」と何事もなかったかのようにマルコは缶を受け取って、一口含んだ。僅かに甘く、でもほろ苦い味が喉を湿らせて知らず息を吐いたマルコの隣で、エースはごくごくと喉を鳴らしてアクエリアス(150ml)を飲んでいる。半分ほど空にしてようやく口を離したエースが、「わりといい所についたな」と満足そうに呟いたので、「じゃあここが目的地なのかよい」とマルコが問いかけると、「結果的に、そうだな」とエースは頷いた。さあ、と強く吹いた風が背の高い植物を揺らして、そもそも縺れているエースの髪を撫でていく。そうか、と返してまた一口コーヒーを含んだマルコの隣で、エースは膝に置かれていたマルコの右手を握り直して、「どこでもいいけど、どこかに行きたい時はあるよなあ」と言った。春風のような声だった。

やがてコーヒーとアクエリアスを飲み干したエースとマルコは、どちらともなく立ち上がって、石段を登り、今度は橋を渡って市内に戻る。同じ道を帰るのだな、と思ったマルコが、少し考えて「信号を渡らねえかい」と提案すれば、エースは僅かに目を瞠った上で「いいけど」と言った。寄りたい場所でもあるのか、と、行きに目にした薬局やコンビニや飲食店を上げたエースに、「特にねえよい」とマルコは返す。強いて言えば、こちら側には無いものがあるだけだった。すたすた、と行きよりも気持ち早足で進みながら、「腹が減らねえかい」とマルコが口にすれば、「実はわりと」と正直に告げるエースがおかしくて、「若いってのはいいことだな」としみじみ呟けば、「何言ってんだ、聞くってことはお前も同じなんだろ」とばっさり切り捨てられるので、まあそれはその通りだ、とマルコは口を噤む。強くなってきた風が薄いシャツ越しに肌を煽って、握られた掌ばかりが熱い。「…でも、飯の前に風呂だな」と言ったエースが、マルコの手を握る手に力を込めたので、きっとエースも同じなのだろう。春より深く、夏には間がある夜だった。几帳面に信号を待って、行きがけには気付かなかった博多ラーメンの屋台を冷やかして(入っても良かったのだが、珍しくエースが食い付かなかった)、当然のように緩やかに登る坂を歩いて、古本屋まで行きついたところで、ふう、とエースがゆるく大きな息を吐く。「ん?」とマルコが水を向けると、「ああ、うん」とエースは余り意味のない受け答えをした。何を言う気もないようなので、少し考えて、マルコが「こういう風に歩くのはよくあるのかい」と尋ねれば、「夜は気持ちいいからな」とエースは返すので、「もしよければ、次も一緒に来ていいかよい」とマルコは続けた。一瞬と言うには長い間が空いて、「俺に許可なんかとらなくても、お前が来たければ来ればいいんじゃねえかな」とごくやわらかい声で言ったエースに、「ああ、ただ、俺がいなくてもお前は楽しそうだったからよい」とマルコが告げると、「なんだそりゃ」と軽い音を立ててエースは笑う。ああこれは失敗したかもしれない、と、すり抜けていきそうなエースの右手をぎゅう、と握りしめたマルコは、なんとなく空を見上げて、風に吹き飛ばされた雲が月を掠めていく様を眺めた。いつの間にかエースの足は止まって、マルコの目には僅かに俯くエースのうなじが映っている。良く日に焼けた健康的な首筋で、マルコはそれを見るともなしに見つめているのがわりと好きだった。「なんていうかさ」と、やがて顔を上げて歩き出したエースが口を開くので、うん、と声には出さすにマルコが頷くと、「お前はもっと俺に何かを要求したらいいんじゃねえかとたまに思う」と一息にエースは言う。それから「牛乳と卵がねえから、スーパー寄って帰ろうぜ」と、振り返ったエースは何でもない顔をしていたのだが、マルコはそれに答えずに「言ったら叶えてくれるのかよい」と尋ねた。随分心許ない声が出たことが、マルコ自身にも不思議だった。「俺ができることなら、まあな」と答えたエースの目が酷く真剣だったので、「そうかい」と返したマルコはエースを追い越して、エースの手を引いて歩いて行く。ふたりで住むアパートを通り越して、駅の向こうで牛乳と卵を買ってまたアパートまで歩く間、特に会話はなかったのだが、錆びついた木戸の掛けがねを外しながら、「一緒に風呂に入るってのはお前に出来ることかよい」とマルコが問いかけたら、少し考えて「ものすごく狭いと思うが、できなくはねえな」とエースは言った。

扉を開いてすぐ、目に入った時計が指す時刻は21時半だった。

(同棲はじめました / 23歳エースとバツイチマルコ / 現代パラレル / ONEPIECE )