折 れ て も ひ び 割 れ て も い な い け ど 傷 つ い て る 2 


うえええええ、と新幹線のトイレに突っ伏して胃の中の物を吐き出しながら、どうしてこんなことになったんだろうか、とエースは思う。12月29日、帰省途中の電車で気分が悪くなったのは、まあいい。見た目にも性格にも合わないと言われつつ、エースは昔から乗り物に弱い。自家用車でも10分で口を開かなくなるし、バスとタクシーは乗った瞬間に死ぬ。気分的に死ぬ。事実高校の修学旅行で沖縄に行った時と、大学の卒業旅行で北海道に行った時は車を降りた瞬間に走り出したこともある。もちろん、公衆トイレを探して。どちらも長距離移動のバスの中で、ガラスに映る自分の顔がどんどん青くなっていったことを覚えている。その中で電車だけはそれでも、それなりに乗れる移動手段として重宝していたのだが、今日はエース自身がダメだった。どうしても外せない用事のために車内でのメールと、乗り継ぎの合間に電話を繰り返していたら酔った。それはもう覿面に酔った。帰省用の荷物を抱えて人の多い車内で吊革につかまりながらぐったりしていたら、若い女性に席を譲られるくらい辛かった。流れる風景を眺めながら、(ああ遠く見ようマジ遠く見よう今別のこと考えたら無理ちょっと無理ほんと無理、)と虚ろな目をしているエースに、「おい」と抑揚のない声がかけられたのは新幹線がつく駅まであと一駅、という駅を発車してすぐのことである。こんなところで会う知り合いはいないエースが反応せずにいると、「…おい、大丈夫かお前」と唐突に額に冷たい手が当てられて、「うえっ、…俺?」と口を開いた瞬間吐きそうになったエースが口を押さえてどうにか顔を上げると、目の前には胡散臭い顔をした医者が立っていた。「…えっ?」と言ったエースに、「大丈夫じゃなさそうだよい」とやはり無感動に返す医者のマルコは、とりあえず、という顔で自分の鞄からいろはす(みかん)を取りだして、封を切ってエースに渡す。顔中にクエスチョンマークを浮かべながらも受け取って飲んだエースは、薄く甘い味以外にこみあげてくる物を感じてまた口を押さえた。「駄目だな」とますます平坦に言うマルコの声に重なるように、【大宮】到着を告げる車内放送が響く。降車駅だった。エースの、そしてマルコの。

8月の半ばに階段から転げ落ちてマルコの病院に足を運んだエースは、悲しいことにそれから更に3度、マルコに世話になっている。10月にフットサルで捻挫し、11月に家の中で躓いて腰を打ち、12月に風邪をひいて近所の病院に駆け込もうとしたら休みだった上に凍った地面でまた転んで二重に見てもらった、記憶もまだ新しい。そのたびにそれなりに気まずい思いを抱いているエースとは裏腹に、まるで感情の起伏のない声と顔で迎えるマルコは、エースのことなど対して気にもしていないような気がしていた。だから気が楽だったのだ。笑われても呆れられても心配されても重く感じてしまうエースは、少し違うかもしれないが今まで歯医者に通い切れたことがない。途中まで通って1本か2本治療したところで面倒になってやめてしまうのだ。そういえば親知らずも抜かなきゃいけないんだよなあ、と思いつつ、就職して早3年、まだどこにも通えていないのが現状である。まあそんなわけで、通いやすいいい病院だなあと思っていた、ところではあったのだが。まさか病院の外でも顔を見ることになるとは思っていなかったエースは、ひとまず半分マルコに手をひかれるように電車を降りて、「どこかで休むかよい」と尋ねられたが、10分後に発射する新幹線の指定席を取っているのでゆるく首を振って、その動作にまた俯くエースの姿を見たマルコは「そうかい」と言いはしたが、それでも付き離すわけではなく「どこまで」と行き先を聞かれるので、エースが「長野まで」と改札の向こう側を指せば、「そりゃよかった」と無表情にマルコは言ってエースが指した方向に向かって歩き出す。エースの荷物を持って。えっ何が?と思ったエースが、いっぱいいっぱいでそれでも後をついていくと、「俺もこれから長野に行くんだよい」と振り返ることもなくマルコは新幹線の改札までエースを誘導して、「ほら切符」と手を出してエースを先に通す。何この展開、とわけのわからないエースの持つ切符をちらりと眺めて、「同じ車両だな」と呟くマルコは、エースの背中を押して階段を上り、すでに停車していた新幹線の窓際に座らせて-あれ俺窓際じゃないんですけど、と言ったエースにいいから座っとけよい、とマルコは静かに返して-エースの切符を持ってどこかに消えた。動かない椅子に座って、あ、ちょっと良くなったかも、とガラスに頬を当てるエースが一瞬目を閉じて、次に目を開けると隣にはマルコが座っている。「…あのー…」とおそるおそる尋ねたエースに、「席交換したから、安心して気分悪くなってろよい」と澄ました顔でろくでもないことを医者が答えるので、「そ、こまでしてもらわなくても」とエースはガラスから少しばかり離れたが、とたんに目まいがしてぐったりと肘かけに突っ伏した。口開くの無理、ほんと無理、と思うエースを乗せて新幹線は出発して、これからの1時間半を思ってエースは少し泣きそうになる。が、涙目のエースを一瞥したマルコは「お前一度吐いてこいよい」と冷静かつ非常にエースに言い放って、そりゃまあ楽にはなるかもしれねえけどそれはそれで苦しいだろ、と言いたかったエースの背を蹴飛ばすように通路に押しやった。揺れる車内で立っているだけでも辛かったエースは仕方なくふらふら歩いて、運よく開いていたトイレに滑り込んでしばらく考えたが、しかし吐かずに帰ってもバレそうな気がしたのでしかたがなく床に膝をついて顔を下に向けた、瞬間に、ああもう駄目だな、というのがエース自身に伝わってあっけなく吐いた。それはもうさっき飲んだいろはすから朝食った雑炊から胃液まで。10分ほどトイレにこもったエースは、手洗い場で口を濯いで、うっわ口の中気持ち悪いけど確かに良くなったな、とさっきよりはしっかりとした足取りで、しかし席が分からなくて軽く迷いながらマルコの隣まで帰り着くと、無言でさんぴん茶と酔い止めを渡されて、なんとなくじーんとした。うん、確かに俺いろはず(みかん)拒否ったもんな、甘いの駄目なのわかってくれたんだなあ。ありがとうございます、と言って一口含むと、胃液で荒れた喉にじんわりしみてそれはそれで泣きそうになった。

数十分後にようやく人心地ついたところで、あらためてマルコを眺めて「えー…と、先生はどうして長野に?」とエースが話を振れば、「温泉」と短くマルコは返してちらりとエースに視線を送るので、「俺は実家が長野なんで」と頬を?きながらエースは答える。「へえ」とやはりほとんど意識を向けずにマルコが薄く頷くのを眺めながら、この人の隣で1時間半か、とあらためて思い直したエースの前で、マルコはいろはす(みかん)を飲んでいる。「あ」と声を上げてしまった口を押さえたエースは、いやこの年になって何動揺してんだよ間接ナントカで、とマルコから視線をはがしたが、「おい」とマルコが声をかけるので、「はい?」と幾分上ずった声を返すことになった。「お前も行くかい」とマルコが言うので、「え、…どこへ」と引きこまれるようにエースが問い返せば、「温泉だよい」とさも当然のようにマルコはエースの息で曇ったガラスを一撫でした。「…はい?」と、一瞬意味が分からなくて考えてしまったエースは、意味がわかっても良く意味が分からなくて首をかしげるが、一々端的なマルコとの会話はなかなか進まなくて、結局少ない休みを縫って2泊することになったのはいいけれど、一緒に来る予定だった誰かが仕事で明日まで合流できないから、一泊分お前が使わないか、と言う話らしい。いやいやいやいや、俺帰省するって言いましたよね、家あるんですって、とエースはがんばって説明したのだが、「嫌ならいいよい」とマルコはあくまでドライである。「嫌とかじゃなくて、理由がない…ですよね?」とおそるおそる正論を吐いてみたエースだったが、「お前またどこか怪我してるんだろうが」とマルコに返されて「え、そういうのわかるんですか」と1週間前に右膝の上におもいっきり青あざを作っているエースが真顔で答えると、「やっぱりしてるのかよい」とカマをかけたらしいマルコはうっすらと笑ってもうひとくちいろはす(みかん)を飲んだ。「毎月毎月何してるんだよい」とほとんど無表情と変わらない顔で笑うマルコに、「いや、…ほんとに何してるんですかねえ」としみじみ答えるエースは、「それでどこをどうした」と言うマルコの横でジーンズを捲りあげて「そろそろ黄緑になってきました」と大きな痣を見せた。「まあ…なんだ、気をつけろよい」と先ほどの笑みの気配がみじんも感じられない口調で言ったマルコは、鞄から見慣れた湿布を取りだして、これまた慣れた手つきでぺたりとエースの膝に貼りつける。「ありがとうございます…」と尻すぼみになるエースの声は、それにしても怪我してるからって一緒に温泉に行く理由にはなんねえよなあ、とジーンズを下ろしながらエースは話を戻そうとしたのだが、「野沢温泉は打ち身にも効くが」とまたしても淡々と告げられて、いやうん、この人心配してくれてるんだよなすっげえ分かりづらいけど、とエースは思った。家に帰る、という話はしているが別に今日でなければいけないわけではないし、そもそもルフィはゼミの忘年会でいないらしいのでエースがいなければ父と母-ロジャーとルージュ-はふたりでたのしくやるのだろう。がりがり、と頭をかいたエースの横で、いつのまにか景色は薄く雪化粧をまとっている。もう軽井沢だった。近い近い、長野すげー近い。「えーと、」と言いかけたエースに、「嫌ならいいよい」ともう一度マルコがなんでもない顔を向けるものだから、なんだかものすごく悪いことをしている気分になったエースは「いや別に、嫌じゃないので、…行ってもいいんですけど…」と尻すぼみに答えて、しかし答えた瞬間に、でもだから俺この人と別になんの関係もねえんだよまだ会うの5回目だし、とぐるぐる考え始めてしまって、エースの隣でマルコがぽかんと口を開いていることにはまるで気付かなかった。どうにか脳内で整理をつける頃には上田を過ぎていて、「あと5分だよい」とマルコが言うので慌ててたいして広げてもない荷物にさんぴん茶を突っ込んで、「あ、切符」と呟けば、無言でマルコのものだったらしい席の切符が渡されて、本当は3人席の真ん中だったはずのエースはそれだけで申し訳ない気分になる。「あの、普段こんなに酔うわけじゃないんです」と言い訳のように口にしたエースに、「じゃあまだもう少し移動しても大丈夫かよい」と平然とした顔で尋ねられて、エースは少しばかり黙り込んだ。ああうん、だって野沢温泉て長野駅から何分だっけ。しかも電車では途中までしか行けないから、バスに乗り換えるんじゃなかったっけ。でも俺行くって言ったよな、今。だんだん青ざめていくエースの顔色を眺めて察したらしいマルコが、「またの機会にしとくかい」とやはり抑揚のない声で告げた瞬間新幹線は止まって、じゃあな、とあっさり立ち去ろうとする袖口をつかんだエースは「あの、俺車出すんでもうちょっと近い温泉行きませんか」とあらぬことを口走ってしまった。「止まるのも、もう俺ん家でどうですか、たいした場所じゃないですけど」と、ああだからなんで俺は見ず知らずでもねえけど全然知らねえ人を実家に止めようとしてるんだ、と思いつつ、受けた恩は3倍返しが家訓なので仕方がない。エースはほとんどしなかったが、顔の広いルフィは小学生のころから散々わけのわからない友人を引きこんで食卓を囲んでいたから、いまさらエースの知り合いが一人くらい転がり込んでもなんともないだろう。必死になってしまったエースを見降ろして、「そんなに車酔いが嫌かい」ととても正しくエースの心情を理解したらしいマルコは、「…当日の12時までならキャンセル料が半額で済むらしい」と言ってすたすた歩き出す。これはいいよ、ってことなんだろうか、とそれなりに厚い背中をぼうっと見送ったエースは、「終点ですよ?」と言う訝しげな問いかけに追われるように新幹線を降りて、ぱたんと携帯を閉じたマルコに向き直った。意外と背が高い。白衣を脱いだところは初めて見たし、眼鏡をかけていないと余計に目つきが鋭い。ああうん、今さらだけど俺この人の名字も知らねえんだよなあ、と思って「ところでお名前は」と尋ねたら、「診察券に書いてあるだろい」と至極まっとうな事を言われて「ああ!」と感嘆符を付けてしまった。そりゃあ、そうだよなあ。っていうかネットで調べた時にも見たはずだよ何言ってんだ俺、とひとりで頬を赤くしていれば、「お前は良く良く表情に出るな」と、表情筋が強張っているようなマルコにしみじみと呟かれて、「…そうかもしれませんね」と返したのは、それなりにエースの優しさだった。

それから一度マルコをエースの家まで連れて行って、荷物を置いて、エースの運転で昼食をはさんで温泉を二ヶ所めぐって、また家に帰ってくる間に「すきだ」と言われて事故りそうになったのは、また別の話である。っていうか雪道なんで、雪降ってるんで、ほとんど帰省ドライバーに無茶させないでください。まあ事故っても、ほとんどオールラウンダーのマルコ先生ならなんとかしてくれそうですが。でもあんたが怪我したらどうにもなんないでしょうに、とぐるぐる考え始めたエースは中途半端に「あ、そうですか」としか返事をしなかったので、夜にもう一度真面目に「好きだ」と言われて、酒が入っていた上に流されやすい性格だったことが災いしてどうにかされそうになってしまったのだけれど、痣のある右足で思い切り蹴飛ばしてどうにかなりました。と言うこともまた別の話、にさせてください。とりあえずたった1日の間にいろんな意味で泣きそうになったエースは、それでもなぜか父親とルフィに気に入られたマルコと年越しまで一緒にすることになって、雪の中初詣に出かけたらまた長い階段で蹴躓いて隣にいたマルコに支えられて事なきを得た上に、さらに「俺と一緒にいたら怪我してもすぐ診てやれるよい」と言ったマルコの顔がわずかばかり照れ臭そうだということにまで気付いてしまったあたりで限界に達した。「あのほんとに謝ったら許してくれますかというかどうして俺ですかほとんどあったこともないですよねなにがそんなに気に入ったんですか」と、参拝客でごった返す国宝の境内の前で一息に聞いたエースに、それこそ暖かさも冷たさも感じない無機質な声で、「お前の足首の骨がものすごく好みだったんだよい」と右斜め45度から切りこまれて、今度こそ涙が出たのは仕方がないと思う。「厄年去年で終わったはずなのに…」と鼻声で呟いたエースに、「後厄っつうのもあるから諦めろよい」と無情にマルコは告げて、参拝客にまぎれるように当然のようにエースの手を引いて歩きだすから、鼻を啜りながらエースもマルコの後に続いた。元旦から車まで出して、なんで俺この人と誕生日に一緒にいるんだっけ、とよくよく考えても理由が分からなかったエースは、それでもマルコが差し出した厄除けの札をありがたく受け取った。相手が知らなくても誕生日プレゼントっていうんだろうかこういうものでも、と首を傾げるエースは、マルコの手がずいぶん熱いことにも、マルコがエースの生年月日を知っていることにも気付かないままだった。雪が降っていた。

(急展開 / 勤め人エースと医者マルコ / 現代パラレル / ONEPIECE )